参拝者たち、見えざる姿
― 祈りが満ちるその場所で ―
風もなく、蝉の声だけが遠くに響いていた。
陽が高く昇る前の境内には、まだ朝の涼しさがわずかに残っている。
けれど、その空気のどこかに――
確かに、誰かが訪れている気配があった。
祈りのために集う人々のなかに、
この世を去った者たちの姿も、
そっと混じっていたのかもしれない。
8月25日――大法要の初日。
朝の早い時間とはいえ、陽射しはすでに強く、錫華寺の瓦屋根がまぶしく光っていた。
境内には朝から多くの参拝者が集まり、白い日傘や扇子の花がちらほらと揺れている。
人の波がひと段落し、本堂の前には、しんとした静けさが戻りつつあった。
そのとき、遥の視線がふと一人の老婆に留まった。
本堂の石段の脇。
参列の列には加わらず、誰にも気づかれないように、老婆は身じろぎもせず、深く頭を垂れて胸の前で手を合わせていた。
遥はそっと歩み寄り、小声で声をかけた。
「中、入れますよ。今なら席も……」
ちょうどそのとき、横から永慧が現れた。
「あ、遥さん。どうかされましたか?」
遥が振り返って老婆のいた場所を見やると、そこには――何もいなかった。
石段の脇には人影ひとつなく、ただ風が草をそよがせていた。
「え……今……」
遥がつぶやくと、永慧が首をかしげる。
「……もしかして、なにか見えたんですか?」
「そこの石段の脇に、おばあさんが……お参りに来てはりました」
「えっ、どこに?」
永慧は周囲をきょろきょろと見回す。
その姿に、遥は思わず微笑みそうになった。
誰にも気づかれず、ただ祈るためにだけやって来た魂――
この日、この場所に、呼ばれるようにして現れたのだろう。
遥は老婆が居た場所に、一礼してから、本堂の中にいる由里の元へと向かった。
外の光が遠ざかるにつれ、静寂と香の気配が身体を包み込んでいく。
堂内では、すでに僧たちの低く澄んだ読経の声が響いていた。
その響きは、底から湧き上がるように、そこに集ったすべての人をつつみこんでいった。
8月26日――大法要の二日目。
早朝。
境内はまだ朝靄に包まれ、空には灰色の雲が広がっていた。
日差しはやわらいでいたが、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくようだった。
本堂の脇門から、美和と久賀の二人が現れる。
久賀の手には、黒い布表紙に紐で綴じられた一冊の冊子があった。
綴じ目の丁寧さ、布の手触りからも、そこに注がれた時間と労苦が伝わってくる。
本堂の縁側で、久賀がその冊子をそっと差し出す。
住職・秀靖は両手で受け取り、黙って表紙に目を落とした。
「名簿 一五二三名」
簡素な毛筆の文字が、その重みを静かに伝えていた。
冊子には、名前だけでなく、没年月日、そして分かる限りの人となりが一人ひとり記されていた。
断片的な証言、古い記録、かすれた手紙の走り書き。
美和と久賀、そして中村は、それらをかき集め、名もなき人生の灯をひとつずつ掬い上げてきたのだ。
「……これは、たいへんなご労苦をおかけしましたな」
住職は冊子を胸元に抱き、深々と頭を下げた。
「おひとりおひとり、大切に、心を込めて御供養させていただきます」
美和と久賀も静かに頭を下げる。
「どうか、よろしくお願いいたします」
この冊子に綴られているのは、ただの名前ではない。
歴史の隙間に埋もれかけた声、忘れられた命、そして祈りの結晶だった。
この日、本堂では僧たちが交代で読経を続けていた。
朝から日が暮れるまで、祈りの声はひとときも止むことなく、名もなき霊たちを包み続けた。
午後。
一般の参拝者が続々と訪れ、境内はにわかに賑わいを見せ始めていた。
遥、由里、美和、そして久賀は遠慮して、本堂脇の中庭に設けられた白いテントに身を寄せていた。
日除けの布が揺れるたび、涼やかな風が通り抜けていく。
本堂のすぐ前からは、今もなお続く僧たちの読経が、低く澄んだ声で届いてくる。
そのときだった。
山門の方から、親子の姿が見えた。
男の子が境内を駆け回り、つまずいて転んだ。
あとを追って、母親があわてて駆け寄る。
「これ、待ちなさい、弥一!」
――弥一。
その名前が、遥の心に鋭く突き刺さった。
はっとして立ち上がり、少年と母親の姿を追う。
母親がふとこちらを振り返り、遥と目が合った。
そして静かに、深々と頭を下げた。
次の瞬間、その姿は風のなかに溶けるように、ふっと消えていった。
遥は言葉も出せず、その場に立ち尽くした。
何が起きたのかもわからぬまま、ただ読経の声だけが、変わらぬ調べで境内を包んでいた。
「遥、どうしたん?」
由里の声が隣から聞こえた。
「……弥一くん。お母さんと一緒に来てた」
遥の言葉に、しばし沈黙が落ちる。
やがて、美和がそっとうなずいた。
「そう……みなさん、来てくれてるのかもしれないわね」
その声には、確かな実感と、深い祈りが滲んでいた。
ふと横を見ると、久賀が椅子にもたれかかり、目を閉じていた。
呼びかけても返事はなく、肩を軽く揺すっても反応がない。
「……え? 久賀さん……?」
由里がそっと声をひそめる。
「……気を失ってる?」
驚きと戸惑いが交じった空気の中、遥と美和が顔を見合わせ、ふっと小さく笑った。
張りつめていた空気がやわらぎ、三人の間に静かな笑いが広がった。
それでも、本堂からの読経は途切れることなく続いていた。
夜の帳が落ちても、祈りの声は止むことはない。
僧たちが交代で続けているとはいえ、それは気の遠くなるような労苦だった。
やがて、仕事を終えた中村が境内に姿を現した。
テントに並ぶ四人の姿を見つけ、こちらへと歩み寄る。
「……久賀くん、撃沈してるな」
中村は苦笑しながら、久賀の隣に腰を下ろした。
遥は何も言わなかった。
だが、この日一日、境内をゆっくりと横切っていく、この世ならざる参拝者たちの姿を、ずっと見続けていた。
誰にも気づかれず、名も告げず、ただ静かに祈りに来る者たち。
それは、遥にとって“あたりまえ”の、静かな現実だった。




