表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時の砂に眠る声―考古学少女の記憶譚―  作者: tomsugar


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/20

参拝者たち、見えざる姿

― 祈りが満ちるその場所で ―


風もなく、蝉の声だけが遠くに響いていた。

陽が高く昇る前の境内には、まだ朝の涼しさがわずかに残っている。

けれど、その空気のどこかに――

確かに、誰かが訪れている気配があった。

祈りのために集う人々のなかに、

この世を去った者たちの姿も、

そっと混じっていたのかもしれない。


8月25日――大法要の初日。


朝の早い時間とはいえ、陽射しはすでに強く、錫華寺しゃっかじの瓦屋根がまぶしく光っていた。

境内には朝から多くの参拝者が集まり、白い日傘や扇子の花がちらほらと揺れている。


人の波がひと段落し、本堂の前には、しんとした静けさが戻りつつあった。

そのとき、遥の視線がふと一人の老婆に留まった。


本堂の石段の脇。


参列の列には加わらず、誰にも気づかれないように、老婆は身じろぎもせず、深く頭を垂れて胸の前で手を合わせていた。

遥はそっと歩み寄り、小声で声をかけた。


「中、入れますよ。今なら席も……」


ちょうどそのとき、横から永慧が現れた。


「あ、遥さん。どうかされましたか?」


遥が振り返って老婆のいた場所を見やると、そこには――何もいなかった。

石段の脇には人影ひとつなく、ただ風が草をそよがせていた。


「え……今……」


遥がつぶやくと、永慧えいせいが首をかしげる。


「……もしかして、なにか見えたんですか?」


「そこの石段の脇に、おばあさんが……お参りに来てはりました」


「えっ、どこに?」


永慧は周囲をきょろきょろと見回す。

その姿に、遥は思わず微笑みそうになった。


誰にも気づかれず、ただ祈るためにだけやって来た魂――

この日、この場所に、呼ばれるようにして現れたのだろう。

遥は老婆が居た場所に、一礼してから、本堂の中にいる由里の元へと向かった。


外の光が遠ざかるにつれ、静寂と香の気配が身体を包み込んでいく。

堂内では、すでに僧たちの低く澄んだ読経の声が響いていた。

その響きは、底から湧き上がるように、そこに集ったすべての人をつつみこんでいった。


8月26日――大法要の二日目。


早朝。

境内はまだ朝靄に包まれ、空には灰色の雲が広がっていた。

日差しはやわらいでいたが、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくようだった。


本堂の脇門から、美和と久賀の二人が現れる。

久賀の手には、黒い布表紙に紐で綴じられた一冊の冊子があった。

綴じ目の丁寧さ、布の手触りからも、そこに注がれた時間と労苦が伝わってくる。


本堂の縁側で、久賀がその冊子をそっと差し出す。

住職・秀靖は両手で受け取り、黙って表紙に目を落とした。


「名簿 一五二三名」


簡素な毛筆の文字が、その重みを静かに伝えていた。

冊子には、名前だけでなく、没年月日、そして分かる限りの人となりが一人ひとり記されていた。

断片的な証言、古い記録、かすれた手紙の走り書き。

美和と久賀、そして中村は、それらをかき集め、名もなき人生の灯をひとつずつ掬い上げてきたのだ。


「……これは、たいへんなご労苦をおかけしましたな」


住職は冊子を胸元に抱き、深々と頭を下げた。


「おひとりおひとり、大切に、心を込めて御供養させていただきます」


美和と久賀も静かに頭を下げる。


「どうか、よろしくお願いいたします」


この冊子に綴られているのは、ただの名前ではない。

歴史の隙間に埋もれかけた声、忘れられた命、そして祈りの結晶だった。


この日、本堂では僧たちが交代で読経を続けていた。

朝から日が暮れるまで、祈りの声はひとときも止むことなく、名もなき霊たちを包み続けた。


午後。

一般の参拝者が続々と訪れ、境内はにわかに賑わいを見せ始めていた。

遥、由里、美和、そして久賀は遠慮して、本堂脇の中庭に設けられた白いテントに身を寄せていた。

日除けの布が揺れるたび、涼やかな風が通り抜けていく。

本堂のすぐ前からは、今もなお続く僧たちの読経が、低く澄んだ声で届いてくる。

そのときだった。

山門の方から、親子の姿が見えた。

男の子が境内を駆け回り、つまずいて転んだ。

あとを追って、母親があわてて駆け寄る。


「これ、待ちなさい、弥一!」


――弥一。


その名前が、遥の心に鋭く突き刺さった。

はっとして立ち上がり、少年と母親の姿を追う。

母親がふとこちらを振り返り、遥と目が合った。


そして静かに、深々と頭を下げた。


次の瞬間、その姿は風のなかに溶けるように、ふっと消えていった。

遥は言葉も出せず、その場に立ち尽くした。

何が起きたのかもわからぬまま、ただ読経の声だけが、変わらぬ調べで境内を包んでいた。


「遥、どうしたん?」


由里の声が隣から聞こえた。


「……弥一くん。お母さんと一緒に来てた」


遥の言葉に、しばし沈黙が落ちる。

やがて、美和がそっとうなずいた。


「そう……みなさん、来てくれてるのかもしれないわね」


その声には、確かな実感と、深い祈りが滲んでいた。

ふと横を見ると、久賀が椅子にもたれかかり、目を閉じていた。

呼びかけても返事はなく、肩を軽く揺すっても反応がない。


「……え? 久賀さん……?」


由里がそっと声をひそめる。


「……気を失ってる?」


驚きと戸惑いが交じった空気の中、遥と美和が顔を見合わせ、ふっと小さく笑った。

張りつめていた空気がやわらぎ、三人の間に静かな笑いが広がった。

それでも、本堂からの読経は途切れることなく続いていた。

夜の帳が落ちても、祈りの声は止むことはない。

僧たちが交代で続けているとはいえ、それは気の遠くなるような労苦だった。

やがて、仕事を終えた中村が境内に姿を現した。

テントに並ぶ四人の姿を見つけ、こちらへと歩み寄る。


「……久賀くん、撃沈してるな」


中村は苦笑しながら、久賀の隣に腰を下ろした。

遥は何も言わなかった。

だが、この日一日、境内をゆっくりと横切っていく、この世ならざる参拝者たちの姿を、ずっと見続けていた。


誰にも気づかれず、名も告げず、ただ静かに祈りに来る者たち。

それは、遥にとって“あたりまえ”の、静かな現実だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ