Chapter.11 ーLies & Truthー
本文の中に、実際に起きた悲痛な事件名が出てきます。ご注意ください。
葵の歌が終わり、ピアノ伴奏の締めくくりに入ったところで、雨が降り始めた。ゲリラ豪雨というほどではなかったが、優しくはないそこそこの雨だった。野外で雨に濡れるというのに、いつまでも余韻に浸っていたい観客たちは静かにステージを見つめている。曲が終わり雨の降りしきる音だけが会場を包む中で、次の曲に移る直前で事件は起きた。
舞台袖で目を閉じ聴き入っていた俺は、ふと異変を感じて目を開けた。反対側の舞台袖に不審な男が駆け込んできたのが見える。でも男の顔がよく見えないーーいや、だがあれは日本人だ。何かを言っている。怒っているように見えるーー愛してたのに。そう、愛してたのに!と言って怒って男は銃を向けたのだ。愛憎ってやつか。いや待てーー葵に向かってそれを言っているのか?そんなことはどうでもいい、早く葵を守るために不審者を撃たなければ。不審者がトリガーを引くよりも前に俺はサイレンサー付きの銃を抜き発砲した。それに呼応するかのように不審者も発砲した。不審者に向けて俺の銃弾がスローモーションのようにゆっくり進んでいく。不審者の弾もこちらに向かってゆっくり進んでくる。どこを狙っているんだ?その軌道じゃ葵には当たらないーーどういうことだ?葵を狙っていたんじゃない?その軌道の先ーー俺だ。不審者は俺を狙っていた。葵がゆっくりと動き出す。待ってくれーー今動いたら俺の弾がーー
「ああああああああああああっ!!!」
悪夢である。不審者が銃を構えた瞬間に彼女は気付いたのだ。狙いは自分ではなく、彼なのだと。彼女は彼を守るために銃弾の軌道上まで動いた。しかし、不幸なことに彼女を守ろうとサイレンサーから放たれた彼の銃弾には気付いていなかった。人を殺すプロであるが故に、それが裏目に出てしまった。不審者の弾に被弾するよりも先に、彼女は嵐の銃弾を背後から受けてしまった。
顔面蒼白で目覚めた嵐は当時の状況に基づく夢で、記憶が溢れてくるように様々なことを思い出した。
「はあはあ…そうだ。あの時、犯人は俺を狙ってやがった。葵……どうして今までこんなことを見落としてたんだ!!」
自分が愛する人を撃ってしまったというショックと、それが原因で死亡させたという罪の意識。何も考えられなくなり、思い出さないように無意識に
脳が記憶を閉じ込めていた。
「待てよ…日本人…そう、襲ってきたのは日本人だった!!いや…でも、逮捕されたのって東南アジア系の男だったような…え?待て待て、わからねぇ…どういうことなんだよ…」
冷静に当時の現場を思い返せば、不審な点がいくつかあることに嵐は気が付いた。だがそれもねじ曲がって出来た偽りの記憶なのかもしれない。何が本当で何が嘘なのかーー嵐は頭を抱えて苦しんでいた。
「ちょ、ちょっと!大丈夫?!なんかすごい叫び声聞こえてきたんだけど!?」
悪夢にうなされて飛び起きた時の嵐の声に、よほど驚いたのか時代葵は濡れた髪と裸にバスタオル1枚のみの姿で部屋に駆け込んできた。
「わ、わりぃ…イヤな夢見ちまって…ていうか、男の前でその格好はマズイんじゃないかと…」
「……目噛んで死ね!!」
顔を紅潮させたかと思えばドアを思い切り叩きつけるように閉めて去って行ってしまった。目を噛んで死ぬとは一体。見ちゃいけないものを見たから目をつぶして、その責任をとって舌を噛んで死ね!の略だろうか。そんなくだらないことを少し考えもしたがーー嵐は沈痛な面持ちをしていた。
(化粧落とした顔とか…もう、ガチじゃねぇかよ…)
時代葵にもらった薬のおかげで、痛みをだいぶ抑えられることが出来た嵐は起き上がって時計を見た。19時40分ーー朝、朱雀に襲われてからのことを考えるとだいぶ時間が経過していた。ノックをする音がしてドアが開いた。
「アンタ…さっき見たもの全部忘れなさいよ。じゃないと傷口にフォーク刺すから」
怒り方が可愛いーー嵐は少し萌えっとしながら笑って頷いた。風呂から上がって髪も乾かしてきたようだ。白いTシャツにショートパンツというラフな部屋着で現れた時代葵はノーメイクだった。
「なあ…余計なお世話かもしれないけどさ…お前、いつもの派手なメイクよりナチュラルメイクの方がかわいいと思うぞ?」
「はあ?!ほんっとに余計なお世話なんですけど!アンタにかわいいとか思われなくてもいいし!」
そう言いながらも一瞬、かわいいという言葉に狼狽えたようなーー嵐はそんな気がした。ともあれ、朝から何も食べていないことを思い出した嵐は、痛みが抑えられている内に腹ごしらえでもしたいと時代葵に訴えた。厚かましい怪我人だとでも思っているような目で一瞥してからドアを閉めて去って行った。
20分ほどして奥の部屋から声が聴こえた。
「ねー出来たんだけど、こっち来れる?持っていったほうがいーい?」
まるで優しい奥さんだ。嵐は立ち上がって寝室を出ると、14畳ほどのリビングの真ん中にダイニングテーブルと少し離れたところに2人掛け用のソファ、そして壁面にテレビ台とテレビだけが置かれていた。未使用のスペースの何と多いことかーーあまりの殺風景なリビングに、嵐は堪らず質問した。
「な、なあ…またまた余計なお世話かもだけどさ…物、少なすぎね?」
「アンタさ…死にたいの?ほっといてよ!寝に帰ってくるだけの部屋だから、物があっても仕方ないでしょ。ほら、お粥作ったから。それ食べてさっさと元気になって早く出て行ってよね」
「悪かったって。そんな怒んなよ…ありがたく頂きます!」
席に着き、熱々の卵粥をふうふうと冷ましながら口に運ぶと、思いのほか美味しい。部屋は男なのに意外と女子力は高いーーそれを口にしたら、いい加減追い出されるだろうなと思い、嵐は粥と一緒に言葉を飲み込んだ。時代葵も席に着き、焼き鮭、味噌汁、玉子焼きという朝ご飯のようなメニューを食べ始めた。先程からツッコミどころが多すぎて、嵐は何度も言いかけては止めて飲み込んだ。
食事を済ませ、彼女の許可をもらいバルコニーで煙草を吸わせてもらえることになった。
(7階くらいか…あれは東京ドーム?…とすると文京区か?なるほど、ここはさすがにビースツ?とやらでもわかんねーだろうな)
煙草を吸い終えてリビングに戻ると嵐は今一番気になっている事を時代葵に尋ねた。
「あのさ…俺、今日ここに泊めてもらえるのかな…?」
「……ムリ」
「ですよね〜。今からケータイでホテル探すからもう少しだけ居させてくれ!頼む!」
「冗談よ。そんな怪我で追い出す訳にもいかないし。私は近くのソファーで寝るから、アンタはベッドで寝ていいよ」
予想外の答えが返ってきて嵐は面食らった。少しは期待していたが、まさか本当に泊めてくれるとは思っていなかったからだ。だが、彼女をソファーで寝させるというのは、男としてさすがに夢見が悪い。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。
気が付くと嵐は時代葵の手を掴んで抱き寄せていた。
「ちょ、アンタなに盛ってんのよ!?」
「ごめん。ほんとごめん…でも、少しだけこのままで…」
嵐の切実な様子に彼女は何も言い返せなくなった。黙って嵐の抱擁を受け入れ、そしてそのまま彼に身を任せて唇を重ねた。
同時刻ーー中野区、東京警察病院、個室1012号室の扉を開けるとベッドには死んだように眠る京極の姿があった。
「京、貴方って人は……」
「他の女に鼻の下伸ばして撃たれてんじゃないわよ!!」
病室に入ってくるなり京極の頬を思いきり抓った。病院で怪我人にあるまじき行為を働いてしまうほど怒り心頭の彼女は、警視庁捜査一課の鴉 真希警部補である。
「いててててっ!!ちょ、ちょっと!?真希さん!?痛い痛い!!千切れる!頬が千切れるって!!」
京極は起きていた。歌舞伎町の高級ラウンジ"クラブ・パンデモニウム"のキャスト、八坂美鈴のハニートラップに引っ掛かり胸を撃たれた京極であったが、一命を取り留めていた。鴉警部補から受け取ったバタフライモチーフのメモリーケース。被弾箇所が運良くこのケースを介したため、致命傷には至らず京極の命を救ったのだ。
「何よ、起きてたのね。まったく…浮気なんてするからこういうことになるのよ。しかも渡した情報もケースも駄目にして。呆れてものも言えないわ」
「申し訳ございません。返す言葉もありません…」
仕事帰りにお見舞いに来たのか、今日の鴉は昨日のようなチャイナドレスではなく、タイトなパンツスーツ姿だった。
「やはり、真希はその格好がよく似合うな。こないだのチャイナドレスも捨てがたいが、俺は今日みたいな姿の君が一番好きだ」
「悪い気はしないけれど、ご機嫌とりなのが見え見えよ。ところで、貴方を撃った女を捕まえて色々吐かせたわ。聞く?」
捜査一課の中でも検挙率No.1と噂される敏腕刑事なだけあって、彼女は仕事が早かった。
話によれば京極が撃たれた夜、あの場には目撃者がおり、容疑者である八坂の逮捕は今朝の出来事だったらしい。それから取調室に連行し、洗いざらい吐かせることに成功したと。一体どんな圧の掛け方をしたのか考えただけでも恐ろしいーー京極はイヤな想像をしながら、話の続きを聞いた。
押収した凶器である拳銃は中国などで簡単に手に入る粗悪品の銃らしい。銃刀法の関係上、日本国内では売られていない為、大元の詳しい入手経路は不明だが、八坂が受け取ったのは闇バイトの話を持ちかけてきた東南アジア系の褐色の肌の男からだったとのこと。飄々とした口調かと思えばいきなり殺気を剥き出しにして脅してきたりと、捉えどころのない男だったという。最初は断ったが、脅され金に目が眩んだ末に引き受けたということだった。京極を殺してほしいという名指しでの依頼。それは明らかに京極に対して殺意を持っている者がいるということ。最後に男はこう名乗っていたそうだ。"ジラフ"と。
「"ジラフ"……麒麟?」
「麒麟ね。まつ毛が異様に長いのかしら。そんな名前は過去に一度も聞いたことないわね」
「まつ毛が長いってだけで麒麟を名乗る奴が本当にいるなら逆に会ってみたいがな…」
京極は自分を狙う人間に思い当たる節がないか考えたーーしかし、麒麟という名前に心当たりはなく、狙われているとしたら、一昨日に襲撃してきた時代葵くらいのものだった。
「犯罪者からの恨みは当然、数えきれないほど買っているとは思うが。わざわざキャバ嬢を使って殺しに来るあたり、正体がバレるのを避けたのか…東南アジア系の男ねぇ。どっかの任務で消した犯罪者の血縁か何かかもな」
「とりあえず、今は仕事のことは一旦忘れてゆっくり休みなさい。警官を警護に付けるから。私はまだ報告書が残っているから、署に戻るわね。何かあったら警官に言って連絡して頂戴。お大事に」
そう言って鴉は病室を出て行った。休めと言われても、こんなモヤモヤしたままでは寝るに寝られない。京極はJACKALに関する過去の記録を思い返した。
"ジラフ"、"麒麟"ーー過去の記録で一つだけ該当する名前がある。米国で起きた911グラウンド・ゼローーイスラム系テロリストが飛行機をハイジャックし、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに対して自爆テロを行なったあまりにも悲惨な事件。その次の標的として選ばれたのが、日本だった。JACKALのあるエージェントがイスラム系テロリストと結託してその手引きを行おうとしていたことがある。それは結果的にJACKALの内部監査部の1人のエージェントによって未然に防がれた。この内部監査部から出動したのが、BEAST'sという戦闘部隊であり、そのエージェントたちは五神の霊獣の名をコードネームとして名乗っている。青龍、玄武、朱雀、白虎ーーそして麒麟である。
(単なる偶然か?いや、20年以上前の事件だ。コードネームが一緒だとしても別人だろ。それに内部監査部のエージェントが俺を狙っている訳ないしな。やましい事なんて……あ、ああ…コードネームはたしか…そう、"紫野"って人妻と寝たくらいか。不倫で殺しには来ないよな…真希じゃあるまいし。……おっと、悪寒が。とにかく、後で嵐にも連絡してみるか)