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誘惑(1)


 今が何時なのかも、ここがどこなのかもよく分からない。けれどとにかく、外に出たい気分だった。ベッドから降りて床に足をつける。裸足に冷たい床が触れることで、少しだけ意識がはっきりとした。


 ふらふらと安定しない足を動かしながら扉に向かい、僅かに力を込める。すると、驚くほどあっさりと扉は開いた。肌寒い空気が頬を撫で、ここを出ていいのかと一瞬だけためらう。セシリオ様に、怒られないだろうか。

 

 ……それでも外に出たいという誘惑に抗うことができず、一歩部屋の外に出た。


 部屋の中は常に人工的な光で照らされていてわからなかったが、外に出ると今が夜であるということを初めて知った。薄暗く、静寂で満ちている。足音は床に吸い込まれ、長く伸びる廊下の先には何があるのかもわからない。漠然とした不安が胸で膨らむが、わたしの足は何かに引き寄せられるかのように動いている。


 ぴたりと、わたしはある扉の前で止まった。細やかな彫刻が施されていて、重厚な扉。気が付いたらわたしの手は扉に触れていて、触れた瞬間に扉がひとりでに動き出した。びっくりして手を引っ込めたが、扉は音を立ててゆっくりと開いた。


 恐る恐る、中に入る。一歩踏み入れた時、空気は冷たいものの温かい風が通り過ぎたような気がした。そっと足を動かして中を見渡すと、壮大で、月光によって淡く輝く神像が目に入ってきた。


 女神様だろうか。その顔は見る者すべてを包み込むような慈愛に満ちているが、どこか遠くを見つめるような幻想的な雰囲気を醸し出している。わたしはしばらくその神像を見上げ、何も考えることもできずにただその場に立っていた。


「おや、これは。珍しいお客様ですね」


 深く、穏やかな声が聞こえた。わたしは思わずびくりと身体を揺らし、声が聞こえた方に目を向ける。


 神像の前には、一人の男性が立っていた。純白の法衣を着ていて、その目は閉じられている。その落ち着いた雰囲気はまるで、波一つ立たない静かな水面のように思われた。


「ご、ごめんなさい」


 やっぱりここは入ってはいけない場所だったのだと思い、頭を下げてすぐにそこを離れようとした。しかし、彼はわたしに手を差し伸べるかのように手を出して、閉じている目をわたしに向けた。


「歓迎しますよ、愛姫。折角ですので、神のお声を聴いて行かれますか?」


 わたしは戸惑いながら彼の手を見つめる。彼はわたしのことを知っているのだろうか。不思議に思ったが、すぐにどうでもよくなってくる。それよりも、彼が後に言ったことの方が気になった。


「神様のお声、ですか?」

「ええ。貴女様であれば、すぐに聴くことができますよ」


 彼の言葉を聞いて、わたしは神像をじっと見つめる。神像が手に持っている水晶が輝やいていて、とても綺麗だ。月の光が神像を照らしているのも相まって幻想的で、この神像だけは別の世界にいるのではないかという気分になってくる。


「もう少し近づいてみてはいかがですか?」


 彼が手を差し伸べてくれたので、その手に自分の手を重ね、一歩神像に近づいた。近づいただけで、空気が張り詰めたかのような、逆に温かくなったかのような、奇妙な感覚が襲ってくる。


 神像の正面に立つ。その瞬間、わたしの身体は勝手に動いていた。片膝を床につけ、指を組んで胸の前で合わせ、頭を下げる。わたしの意志とは無関係に、わたしの口からは言葉が出てきた。


「——大いなる御方よ。全てを照らす生命の源よ。あなたの御前に拝謁いたします。願わくば、この世界があなたの描く最も美しい物語のままにあらんことを」


 分からない。どうしてわたしがこんなことを言っているのか、分からない。どうして祝詞を知っているのかも、分からない。


 しかし、とにかくわたしは神に祈りを捧げなくてはいけないような気がしたのだ。

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