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「彼」?

 

「ユイナート様」


 世界で最も好ましい声が聞こえる。彼女を抱きよせて、頭を撫でて、口づけて、その身体に触れたい。潤む目で見上げる彼女に優しく微笑みかけると、その目が少し和らぐ。震える身体を抱きしめて優しく触れると、彼女はその身を委ねてくる。


「ユイナート様——」


 彼女の名を呼ぼうと目を開けると、空虚な暗い空間が広がっていた。紅い瞳が左右に動き、そして彼は深く深くため息を吐く。体は自由に動かすことができず、常に重苦しい魔力の圧が彼にのしかかっている。


「夢、か。随分と弱くなったものだ」


 彼は自嘲するように呟いて、再び息を吐く。彼は試しに腕を動かそうとしてみたが、動かそうとした瞬間に食い込むように不可視の糸が彼を強く拘束した。遠隔で操作しているのか、もしくはそのように調整されているのか。どちらにせよ、不快なことこの上ない。


 当然、彼は何の策もなく『神の使徒』に囚われたわけではない。どのような方法であれ敵の本拠地に乗り込むことができたら、なんとでも行動できると考えていた。しかし、一番の誤算は、奴が人間離れした魔法を使用していることであった。彼も本気を出せばこの拘束程度であれば破ることができるが、破れたとて抜け出せるかといわれたら、そう簡単にはいかない。


 どうやらこの空間は、他とは隔絶されているようなのだ。膨大な魔力が邪魔をしているとはいえ彼も魔力を読み取ることは得意であるので、彼女の無事を確認することくらいはできる。そのはずだが、どれだけ魔力を辿っても見つけ出すことができない。そもそも、彼の周りには奴の魔力しかないように感じ取れるのである。


 異次元の空間支配能力。以前奴が彼の前に現れた時、奴は彼の拘束をかいくぐって転移を発動していた。発動の予兆はほとんどなく、まるでその場に存在などしていなかったかのように別の空間に移動する。末恐ろしく、隔絶された力。


 どちらかといえば、彼も人間離れした方の存在である。それでも、奴との間には天と地ほどの差があるようにも見えて……。


「馬鹿らしい。僕があいつに負けるはずもない」


 確かに力の差はある。しかしそれが勝敗に直結するかと問われたら、答えは否だ。どれだけ力が強くとも、それを強く使おうとしない限りは所詮宝の持ち腐れである。


 恐らく、近々異端審問という名の裁判もどきが行われ、彼に刑が言い渡される。その刑とは言わずもがな、結果は分かりきっていることである。


 奴のことであるから、その場に彼女を連れてくるかもしれない。奴の話しぶりから彼女は精神魔法によって記憶が侵されているのだろう。彼女が彼を”知らない者”を見る目で見た時、彼は平静でいられるだろうか。


 ……いられるも何も、彼が彼女を見つけ出して王城に連れてきた時、彼女は彼を”知らない者”を見る目で見ていた。その時と同じことである。平静でいることはできなくても、冷静でいることはできるだろう。


 考えれば考えるほどに彼女に会いたくなり、考えれば考えるほどに奴を殴りたくなる。


 彼は目を瞑って頭を壁に預けながら、ゆっくりと大きな息を吐いた。

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