囚われの日常(1)
ぼんやりと部屋に置かれた鏡を眺める。どうかこの鏡が遠くの世界に繋がってくれないだろうか、と願いを込めながら手を伸ばす。しかし、そんな願いは叶わない。無機質な感触が指先から伝わる。鏡には感情のない瞳をした自分の姿が映っていて、見ていらず鏡から視線を外した。
わたしは今腰が立たないせいでフラフラだ。声も出しすぎて少しがらがらになってしまっている。
窓元へ移動し、窓枠に手を添える。外からは眩しい光が差し込んでくる。眠気が覚めていくような感覚がした。庭を見下ろすと、訓練中の騎士の姿がチラホラ見えた。その中の一人と目が会い、思わず窓から離れる。しかし力が入らなかったので、ふらりと床に座り込んでしまう。
そのままわたしは膝に顔を埋めた。
じゃらり、と足を動かしたら鎖の音が響く。手に付けられた冷たい錠は、常にわたしの体力を奪っていく。
「……シェルミカ様、お食事の時間です」
部屋がノックされ、わたしはほんの少しだけ返事をする。しかしまともな声は出ない。それでも相手には聞こえたらしく、部屋の中に何人かが入ってくる。その中の一人である青髪の騎士——トア様は、わたしの手をとってわたしを立たせ、慣れた手つきで身体を支えながら椅子に座らせる。
机に並べられた食事を食べる気は起こらないが、食べるしか道はないので食事を口に運ぶ。消化にいい食事ばかりなので、食欲がなくてもなんとか食べられる。
食べ終わったら、侍女の方々がわたしの服を取り替える。髪の毛も整えられる。どうせ外に出られないし、誰にも見られないのに。
「何か欲しいものはありますか?」
「……今日の新聞をお願いします」
毎日聞かれる台詞にわたしも毎日同じ台詞を返す。外には出られないけど、外で何が起こっているかくらいは知っておきたい。知ったとしても、何もできないのだけど。
部屋の中は、わたしとトア様だけが残った。彼には、わたしが逃げ出すようなことをしないか見張る役割がある。二日に一日の護衛は彼である。明日は黒髪のカイト様だ。
彼から受け取った新聞を開く。まっさきに目に入ったニュースは、『月華の王子様のお妃様、第一子ご懐妊!』というものだった。
「……ユイナート様にお祝いを申し上げないと」
「お伝えしておきましょうか?」
「直接言います。お気遣いありがとうございます」
わたしは、ユイナート様の『玩具』である。決して『妻』では無い。彼はわたしの顔と声を異様に気に入っている。だからこうやってわたしを閉じ込めて、わたしは彼の発散道具として使われる。
新聞をある程度読んで、そばに置いてある紙に気になったことをメモしていく。これはわたしの習慣だ。
「……トア様、魔導騎士大会は明後日なのですか? 貴方は準備しなくても大丈夫なのですか?」
「ええ、明後日です。私は参加しませんので、大丈夫です。後輩が参加しますが、私は殿下に貴女様を見張るよう言われているのでこちらを優先します」
「……トア様がいたら、絶対に逃げられませんよ」
「だから私がいるんです」
わたしはトア様から目を離して紙に目を戻す。実を言うと、逃亡の作戦は何度も立てた。何度も実行しようとした。しかし、ユイナート様はそれをことごとく見破りことごとく止めた。
最近ではこうやって一日中監視を置かれるようになった。トア様とカイト様はとても強い。そしてユイナート様に忠誠を誓っている。わたしが少しでも怪しい行動をしたら直ぐに拘束されてユイナート様を呼ばれるだろう。そうなったらわたしは〝お仕置〟をされる。
「わたしの監視をしていて、辛くないのですか?」
「平気ですよ。貴女様がよく話しかけてくださるので、私としては楽しい仕事です。囚人の監視等であると、気が滅入りますが」
「……そう、ですか」
もどかしい気持ちになってしまい、気を紛らわせるように紙に言葉を書く。
しばらく無言の時が流れる。酷い時はこのままユイナート様が来るまで無言の時もある。それでもトア様は〝よく〟話しかけてくれる、と言っていたのでこれでもよく話していることになるんだろう。
昨日まで読んでいた本を取りに行こうと立ち上がると、トア様が身体を支えてくれる。
「……ありがとうございます」
そのまま本棚の本を取ってきて、再び椅子に座る。続きのページをめくり、本の世界に没頭する。本を読むことが、唯一旅に出る方法だ。
読むのが許可されている本は、逃亡に一切触れることの無いものだ。脱出方法が述べられていることはまず無い。本が与えられるだけましなのかもしれない。
それでも、時を忘れて読めるから、わたしはただ本を読む。
「昼食をお持ちしました」
そんな声がノックと共に聞こえてわたしは本から顔を上げる。もうこんな時間なのか。
机に食事が並べられる。わたしはゆっくりと咀嚼する。その時、少し部屋の外がざわついているのに気がついた。
トア様が視線だけをそちらへ向ける。それと同時に部屋のドアが開いた。
「……僕の玩具、元気ですか?」
見慣れた銀色の髪と紅い瞳が見え、思わず椅子から立ち上がる。ふらり、と足を後ろに下げると案の定力が入らなくてへたりと座り込んでしまう。デジャブ。
いつもの笑顔を浮かべたユイナート様がわたしに近づいてきて、わたしの手をとってぐっと引き上げる。そしてそのままわたしを抱き締めた。
「ちゃんとご飯食べて、偉いですね。ご褒美です」
ご褒美と言っているのに全く優しくないキスをされる。食事中だというのに。
「ど、どうして貴方様がこんな時間にこちらへ……」
「ちょっとだけ時間が空いたので、癒しをもらおうと思いまして」
ユイナート様は反対側の椅子に座って頬杖をつく。ニッコリとわたしを見つめながら。動揺と恐怖に染まるわたしの顔を見て楽しんでいるのだと思う。
食事を続けろと言われたので、わたしは一気に食欲が失せてしまったが、彼の言葉に従い食事を再開する。途中、わたしは伝えなくてはいけないことを思い出した。
「……あの、ユイナート様」
「ん? 違うでしょ? 次間違えたらお仕置だよ」
「……っっ、ごめんなさいユイト様!」
頭を下げて必死に謝る。またやってしまった。名前を間違えることを彼はとても嫌う。思わず体が震えだす。ユイナート様はくすくすと笑い声を漏らし、長い人差し指でわたしの額を触った。
「許します。で、何ですか?」
「……サラ様のご懐妊、おめでとうございます」
ユイナート様の目が少し見開かれる。サラ様というのは彼の妻の名だ。ぱちぱちと瞬きをしたユイナート様は、呆然と述べた。
「う、ん。ありがとう……。何故知っているのですか? トアから聞いたとか?」
「新聞に書かれていたので……」
新聞を開いてそのページを見せる。ユイナート様はああ、と声を出す。そして、天を仰いで片手で彼の顔を隠した。何をしているのだろう。
「……貴女はそれを知って、どう思いましたか?」
「どう、ですか? ……おめでたいことだと、素直に思いました。あと——」
「あと?」
ユイナート様が興味を示したようにわたしを見る。しまった、余計なことをしてしまった。
「なんでもありません」
「ん、言って? 言わないとさっきのも許さないよ?」
「……っ、ユイト様のお子様が誕生されたら、貴方様はお子様に夢中になると……思いました……」
段々と声が小さくなってしまう。ユイナート様が少しずつ目を鋭くさせたからだ。ぶるりと身体が震える。ふう、と彼がため息を吐くことでよりわたしの身体はビクリと動く。
「僕には貴女以上に夢中になるものなんてありませんよ。僕の子供など単なる世継ぎにしかすぎません」
ユイナート様から出てくる雰囲気がなんだか禍々しいものになってきた。ぶるぶると震えが止まらなくなる。わたしは恐らく失言してしまった。彼を怒らせるようなことを言ってしまったんだ。
彼の手がわたしの頬に伸びてこようとした時。
「殿下、殿下! 緊急事態です!」
赤髪の騎士——ユイナート様の側近であるアルビー様が慌てた様子で部屋の中に入ってくる。わたしには彼が救世主に思えた。
ユイナート様はそれはそれは不機嫌な様子でアルビー様を笑顔で睨む。なんと器用なことだ。
「緊急事態? なんですかそれは?」
「サラ嬢が倒れられたんです」
ユイナート様は目を伏せる。そして低い声で「すぐ行きます」と言って、立ち上がった。
「続きは今日の夜ですね」
するり、とわたしの頬を撫でながらそう言われて、泣きそうになった。