第8話 『あたしが魔女に会うために』
身の上話を聞かされるとき、警戒したことはないだろうか?
私は、ある。その内容が、暗いものであるなら尚更に。
感覚的に理解しているものの、理由を言語化できない人もいるだろう。
そのメカニズムは、いたって単純なものだ。
対峙する人間が、己の過去を吐露する。その内容が暗ければ暗いほど、真剣であればあるほど胡散臭く思える。内容の真贋が問題じゃない。相手がそれを吐露することで、こちらにどんな心理的影響を及ぼそうとしているか、それを肌感覚で理解しているからそう思うのだ。
思うに、この手合いのほぼ全員は同情を買おうとしている。
買った同情を元手に、こちらになにかさせようとしている。
主たる対価は言葉だろう。
困窮する自分を慰める、やさしい言葉を欲していることが多い。
言うなれば、ある種の茶番劇だ。罪は少ないが、付き合わされる身にとって疲れることこの上ない。底抜けのお人好しなら胸襟を開いてもらった喜びを感じるかもしれないが、私の心にそのような機微はない。およそ人の身では経験できぬほど繰り返した日々に摩滅し尽くしている。
ただし今、私が眼の前の娘から感じるのは警戒の念じゃない。
それはまったき疑念であり、疑惑とも呼べるものだ。
――こいつはいったい、私にどうされたい?
散々に脅しを掛けても態度を改めなかったことから、死を恐れていないことはわかる。自分でも言った通り、死ぬことも覚悟の上で結界内に足を踏み入れたのだろう。
ただそれとは別に、私にはこいつの目的が見えなかった。
こいつは、自殺志願者にしてはあまりにも眼が生き生きとし過ぎている。今も闊達な生命力を帯びた瞳で私を見つめている。私の中に、なにか大事なものを探しでもするかのように。
「……どういう意味だ、それは」
「言った通りだよ。あたし、魔女子さんに殺されたかったの」
その言に嘘の線はない。
習った覚えはないが、人の嘘を見抜く程度の読心術なら体得している。
「ええっと、あたしにとってはずっと昔で、でもあなたにとってはついさっきのことかもしれないんだけど……」
「構わんから続けろ」
促したのは、もったいぶられて興味が出てきたからだ。
こいつの人生になにがあったのか知りたい、純粋な知的好奇心。
最初に言ってしまえば、それはどこにでもありふれた退屈な話だった。
とある村に、少女がいた。
村医者の父と看護師の母との間に生まれた、比較的裕福な出の少女だ。
両親から惜しみない愛情を注がれ、珠のように大事に育てられた。その甲斐もあって少女は、いくさが相次ぐ混迷の時代にあっても、飢えや病の苦しみとは無縁に育つことができた。
幸福だったのかもしれない。いや、きっと幸福だったのだろう。
両親は少女の手を離さなかった。他のなによりも、己の命よりも少女のことを大事に思っていたからだ。少女も両親の手を離さなかった。他のなによりも、他の誰よりも深く自分を愛してくれていると幼心に理解していたからだ。
しかし、その手が離れる。
いくさの炎が、引き離す。
約束は、2週間だった。新たな争いが起こり、多くの負傷者が出た。裂けた肉から溢れる血潮に、死の気配が纏わりつく。疫病が流行し、その鎮静のために少女の両親は他村へ駆り出されることになった。
「おじさんの家で、いい子にしてるんだぞ」
「帰ってきたら、一緒にお誕生日を祝いましょうね」
娘が一字一句覚えていた彼らの遺言。
滑稽なものでなかっただけ、救いがあったと言えるだろう。
2週間が過ぎ、1月が過ぎた。
3月が過ぎ、半年が過ぎ、1年が過ぎても少女の両親は戻らなかった。
少女は、孤独になった。叔父の家は彼女の家ほどには裕福でない。転がり込んだ遺産を使い果たせば、働けもしない幼子など厄介者以外の何者でもない。
「そっちに行ったら危ないよ」
心配して、いつも手を引いてくれた両親の姿はもうない。叔父の家の中には居場所がなかった。外に出て、暗くなるまでひとり遊びする少女の眼の前には、がらんどうのような自由が広がっていた。
その眼は、いつも探していた。建物の物陰や、船や物資の箱が作り出すちょっとした死角。そんな場所からいつかきっと、父と母が現れるのだと。またいつもみたいに、自分の手を引いてくれるのだと。
「そんな期待、無意味だとわかっていたはずだ」
「そうだね……けど、願わずにはいられなかった」
今や、いくさは日常に溶け込んでいる。別れたきり帰らない大人たちがどうなったのか、少女だって知っていた。しかし理解と受容は別だ。幼く繊細な少女の心が願う万にひとつの奇跡を、誰が咎めることができるというのか。
希望はしかし、日々擦り減る。
時間と生存率との関係を、少女は体感で理解していた。
手入れのされない生家が、徐々に荒れてゆく。
家は、人が住むことによってそのかたちを保つものだ。
叔父の家に厄介になりながら、時折少女は生家を訪れた。雨でくすんだ壁、雑草の伸び放題になった庭。手を入れなかったのは、作法を知らなかったからだけじゃない。それが、叔父が自分の面倒を見る最後の理由だと知っていたからだ。この家はやがて取り壊され、土地は叔父のものとなるだろう。それで得た財が、自分を活かす最後の糧となる。
――もう、どうでもいい。
自分の大切が、干からびてゆく。
思い出が、風に朽ちてゆく。
絶望が、少女の心を席巻した。真綿に水が染むように、日々刻々と希望と置き換わってゆく。その瞳は、新たな希望を見ようとはしなかった。ただもう1度、かつてのように、彼らに手を引いてほしかった。本当に、それだけだった。
少女が私の姿を見たのは、そんな絶望の渦中でのことだった。
★★★
「……最初は、死神だと思ったの」
かつての少女は語る。
それが第一印象だったと。
崖の上に女が立っている。自分以外の、他の誰の眼にも見えない女だ。幽霊か、それとも妖魔の類か。解釈は幼い心に委ねられた。
「あたしを迎えに、死後の世界からお父さんたちが遣わしてくれたんだって」
人の心は、不可解な事象に己の願望を投射する。
両親を喪い、絶望の渦中にいた少女にとって、私の姿は死神に見えた。
時折、崖の上に姿を現しては、崖下の光景を観察する。少女の様子を見にきているからだ。現に女は、少女が姿を見せるとそちらを注視する。様子を窺い、死後の世界に連れてゆくべきか否か、その最終判断を委ねられているはず。
「今思えば、随分と手前勝手な願望だけど」
「そうだな。だが、願望を抱かない人間などいない」
絶望の渦中にあっては、死こそが唯一の希望なこともあるだろう。
かつての私が、ダンジョンの奥底でそう願ったように。
当時の私を見て、少女は願った。両親の元に連れていって欲しいと。
切なる想いはしかし、いつまで経っても成就しない。
業を煮やした少女は、とうとう大人たちに訴えることにした。
崖の上には見知らぬ女がいて、ずっと村を見張っているのだと。
「そしたら、みんな血相を変えちゃって」
「……それで魔女、か」
最初は信じようとしなかった大人たちが信じたのは、世相の変化もあるだろう。国内の情勢不安に加味して、魔王軍の足音がすぐそこまで迫ってきている。村を襲う前段階として放たれた、斥候の可能性もなくはない。
しかし私は、ただの村人程度に尻尾を掴ませはしない。
魔女の捜索は空振りを続け、人心は半信半疑へと振れてゆく。
少女を咎める声が大きくならなかったのは、村人が境遇に同情していたためだろう。まだ母親を恋しがる年齢の子どもが、夢幻を虚空に見たとして、誰に責め立てることができるだろうか。
「嘘じゃないよ! 本当に女の人がいるもん!」
誰も信じない。
大人たちは可哀想な娘を適当にあやして、手打ちにした。
「無理もないさ。私が行使したのは最高峰の結界魔法だ。それを透過して、私の存在を感知したお前こそがおかしいんだ。心当たりはないのか?」
「そんなの全然ないよ。本当に、なんでなんだろうね……」
真剣に頭を悩ませかけるものの、話が脇道に逸れている。
私は「構わないから先を続けろ」と、顎を振って打ち消した。
「それで、協力者を得られなかったお前はどうしたんだ?」
「なんとなく想像はついてると思うけど、ひとりで魔女子さんに会いに行こうとしたんだ……」
幼い少女にとって、雑木林に囲まれた崖の上は未知の世界だ。当然、知らなかっただろう。目的の場所に着くまでに危険が待ち構えていることなど。
私が終の棲家にここを選んだ理由。それは故郷に程近いからだけじゃない。この雑木林の周辺は、狂暴な狼の出没地帯だ。私の姿を探すのに、村の大人たちが娘を帯同しなかった理由が、そこにはある。
大人たちが決めた掟を破り、娘は私に会いにいこうとした。
「無茶をしたな」
「そうだね……わかってると思うけど、あなたには会えなかった」
迂回路を通って崖上に到達し、雑木林に分け入る。
わずか数分ほど歩いたところで、幼い娘は狼の鳴き声を聞いた。
ずっと願っていたはずだった。死ぬことを。
死んで、両親の元へいくことを。
だけども娘の中で恐怖が勝った。
今この瞬間にも木々の影から狼が姿を現し、自分を取って食らうかもしれない。肉を裂かれる痛み、内臓を引きずり出される痛み、絶命するまで狼たちに貪られ続ける痛み。そんな数多の痛みへの恐怖が、死への願望を調伏した。
「それが望みのはずだったのにね」
「いや、賢明な判断だ」
自嘲を見せる娘に、真顔でそう言い添える。死に到達するまでの時間が真実の地獄であることを、私は誰より知っている。
「諦めて、お前はどうした。再チャレンジはしたのか」
問うと、娘は首を振って否定する。
「……無謀だって、わかったから」
「そうか」
「その代わり、ずっと考えてたんだ」
「なにをだ?」
「どうしてあたしは、魔女子さんに会いにいこうとしたのかなって」
首を傾げる。おかしな話だ。
死にたいから、両親の元にいきたいから、話をつけにいったのではないのか?
「それもあったと思う。けどたぶん、それだけじゃなかった」
娘は顔を上げて、そして私の顔をじっと見た。
「考えて、考え続けてやっと気づいた。あなたも、あたしに会いたかったんだって。だからあたしは、あなたに会いにいこうとしたんだって」
こいつ、なにを言ってるんだ?
不快感が、胸の中でざわついた。
こいつは今、私の心象を想像した。都合のいい妄想だ。たしかに私は娘を観察していた。だが会いにいこうとしたことはない。脅威だと認識してはいたが、捨て置いても問題ないと判断しただけだ。
「崖の下から見たあなたの瞳が、そう言っている気がしたの」
「お前……」
強い言葉で否定しようとした矢先、娘に先に口を挟まれる。
「あなたが追放者を見逃したのは、人生に絶望したからでしょ」
「それは違う」
「教えて欲しいの。あなたは自由を手に入れたのに、どうして絶望したの。どうしてこんな場所に館を構えて、人眼を憚るように生きているの」
娘は、私の言葉を聞き入れない。
私の嘘を、聞き入れるつもりもない。
確信がある。探偵の瞳が、私の心を穿っている。もう嘘もお為ごかしも通用しない。それは生きてきた人生の長短の問題ではなく、この娘が真実の一端を確実に掴んでいるからだ。
こいつの前で嘘を吐く意味は、もはや私にはなかった。だから――。
「知って、どうする」
「どうもしない。ただ、死ぬ前に答えが欲しくて」
答え、か。
なるほど、それは誰でも欲しい。
私だって、そんなものがあるなら死と引き換えにできる。
しかし唯一無二の答えなどこの世には存在しない。あるのは解釈だけだ。
無限に存在する候補から、自分がこれだと思う解釈を選ぶことだけだ。
「……わかった」
私は、自分なりの解釈を娘に伝えることにした。