第7話 『あなたに』
少し、いやかなり不本意な反応だった。
同情しろとも、感動しろとも思わない。私にとってそれは、文字通り過ぎ去った過去のお話だからだ。だがこの反応はなんだ。口の中に無理矢理渋いものを突っ込まれたような、泥沼に落ちて全身ずぶ濡れになったような、なんとも言えない表情は……。
おそらく私は、ジト眼になっていたのだろう。慌てた様子で娘が手を上げ、ブンブンと振ってなにかを打ち消そうとする。
「……いや、あのね、これは違くて」
違うってなにがだ、思わずそう突っ込んでしまいそうになる。
「すべて語ったはずだ。次はお前の番だ」
「ちょ、ちょっと待って!」
睨みつけると、バツが悪そうにして。
「……言うから、待って」
「正直にすべてを話した。この上、お前は私になにを要求するつもりだ?」
厳密には、すべてじゃない。けれど村娘の味わった地獄は紛うことなき本物だ。2度と思い出したくない記憶を掘り返し、語って聞かせたのは最大限の譲歩だと言える。
「あの、語ってくれた魔女子さんの話に不満があるわけじゃないの。ただ、ちょっと引っかかりがあって……」
「引っかかり?」
この期に及んで逡巡する娘に、「言え」と視線で促す。
「なんで魔女子さん、復讐しなかったのかなあって」
「なに?」
「ああ、いや、これも違くて! なんだろ表現が難しいな……別に血が見たいとか皆殺しにしろとか言いたいんじゃないの。ただあなたがされたことを考えたら、少しくらい勇者パーティの人たちにやり返してもよかったんじゃないかと思って」
チラチラとこちらの反応を窺う、娘。
私は溜息をこぼした。その視点は、しばし失念していたものだ。
「やられた分はやり返せ、か」
「……悔しくないの?」
「悔しいさ。いや、悔しかったさ」
言い直してから、続けた。
「なあお前、村娘がどれだけの期間ダンジョンにいたかわかるか」
「えーっと、わからないけど……」
「だろうな。私にもわからない」
ずるっ、と娘が椅子からずり落ちるのが見えた。
「でもこれだけは言える。その時間は、村娘がこれまで生きてきた人生より何倍も何十倍も、いいや何百倍も何千倍も長いものだ」
時間の悠久は、事実の指摘だけでは伝わらないだろう。補足する。
「村娘にとって、朝に眼が覚めて太陽を見るより、命尽きたあと追放者たちの顔を見る回数の方がずっと多かった。日の出や日の入りに文句を言う人間はいない。それは現象だからな。追放者たちも同じだ。あいつらは村娘にとっての現象になってしまったんだ」
出先で雨に降られて、天気を恨む人間がいるだろうか。
今日は運がなかったと諦め、数分後には別のことを考えている。
「村娘にとって、そいつらにやり返すことは意味のないことだった」
「でも、そんなの……」
納得のゆかない顔を見せている。
瞳を動かすと、インテリアの船の模型が眼に入る。
「お前、後ろにある船の模型を見てみろ」
娘が首を巡らせるのを待って、私は口を開く。
「あの船を、村娘自身だと考えてみてくれ。17年前に作られた船だ。それは今はまだ健在に見える。しかし時間が経つにつれ、船を構成する部品は徐々に老朽化してゆく。使えなくなった部品を順次新しいものと取り換えてゆくと、やがては最初の船に使われていた部品がすべて失われ、新しいものと完全に置き換わってしまう」
息を継ぎ、娘が捻った首を戻すのを見てから続けた。
「さて、すべての部品が置き換わったその船は、最初にあった船と同じものと言えるだろうか」
娘は難しい顔で考えを巡らした。
「同じものだとも言えるし、同じじゃないとも言える……決められないよ」
「そうだな。これはパラドキシカルな状況だ」
首を振って、別の表現を用いる。
「お前は、昨日のお前と同じか?」
「え? ……うん、同じだと思うけど」
「じゃあ1月前は」
「今よりちょっと若いかもしれないけど、ほぼ同じじゃない?」
「なら1年、2年前。いや、10年前ならどうだ」
「それは」
「そういうことだよ」
私は自分の足を組み直し、茶菓子を指で摘まんで左右に揺らした。
「ダンジョンにいた私の脳には、常に新しい情報が注ぎ込まれていた。死と、苦痛と、そこから得た新たな学びで更新され続ける記憶だ。死ねば世界は元に戻る。権能によって、私の肉体もセーブポイントに戻される。だけど頭の中身は更新されたままだ。そしてそれは、どこまでも更新され続ける」
ふう、と吐息を吐いて、私は茶菓子を菓子受けに戻した。
「まったく皮肉な話だ。癒しの権能は私を補完しようと肉体を蘇らせ続けているのに、その行為が却って私を違う存在へと変質させていったんだからな。80の老人にとって、0歳の赤子の自分は別人も同然だ。私にとってもそれは同じ。自分の生きた人生の、数百分の1にも満たない頃の自分を、己自身だと到底思えなくなってしまったのさ」
権能がメリンダの恒常性を維持しようとすればするほど、彼女の中身は別人になってゆく。その理屈は、こいつにだって理解できたはずだ。
なのに娘の表情からは、険が抜けていない。
しばし逡巡を見せて、思い切ったように口を開いた。
「それでも、だよ。その子は、あなたにとってもっとも近しい他人でしょ」
「……お前」
狼狽えたのには、理由があった。
こいつ……怒ってる?
「村娘って言い方、ずっとしてたのには理由があったんだね。同じ自分だと思えない。ダンジョンの中で過ごした時間が、あなたを変えてしまったから」
「ああ、だからこの話はここで終わり――」
「終わりじゃないよ」
キッパリとした断言。
自分よりも遥かに長く生きている私に向かってだ。
「あたしは、あたしの知る誰かがいじめられてたらムカつくよ。あなたは違うの?」
「違っていたから、追放者を見逃したはずだ」
「それも違うと思う。だって、あなたはそんな人じゃない」
思わず唇を噛んだ。知った風な口を利く!
「お前が私のなにを知っている」
「そりゃあ……なにも知ってないけどさ……」
俯く。反省しているというよりは、言葉を探している感じで。
「でも、それはあなたも同じでしょ。魔女子さんだって、あたしのことはまだなにも知らない。だからあたしの言うことを、本当に間違いなのか完璧に判断することはできないはずだよ」
本当に、この期に及んで煽りに煽ってくれる。だが逆に冷静になれた。
ここまで大見栄を切ったからには、こいつももう逃げることはできない。
「そうか。なら言ってみるんだな。どうして私の言っていることを、お前が嘘だと断じたのか」
腕を組んで睥睨するように見ると、見下しを跳ね付けるような強い視線と出会った。
「その前にひとつだけ聞いてほしいんだ。あたしは――」
息を止め、吹っ切るようにして。
「あなたに、殺されたかった」