第4話 『蟻との邂逅』
蟻を潰すことに葛藤する人間はいない。
私の生きた人生からすれば、その子どもの人生の長さなど、蟻の寿命にも等しい。
だから、対処を遅らせたのは怖気づいたからじゃない。殊更に急ぐ必要がなかっただけの話だ。
魔王軍の進軍により、魔族領に程近い街がいくつか陥落した。
事態は既に、ガルドラ王国内における人間の生存圏を懸けたものとなっている。となれば、たとえ私の身上がバレたところで、こんな辺境の村に人員を割けるような状況ではないだろう。
あれから、子どもは幾度となく私の姿を見つけた。結界の縁まで歩み出ると、決まってどこからともなく姿を現し、崖下から私の姿を見上げてくる。
手持ちに、視力補正の魔法などというものはない。
ゆえに私も、子ども側の詳しい状況は掴めていない。
「見に回るしかないか……」
想像としては、興味本位が主。崖上の雑木林の縁に時折、若い女が立っている。自分の眼にだけ見えて、他の何者にも見えない女。片田舎の民間伝承的に解釈して、その正体がどうなるかは薄々予測できる。
程なく、村にある種の噂が流布し始める。
崖の上の雑木林に、魔女が住んでいるというものだ。
発生源は例の子どもだ。
根拠は、それ以外あり得ないということ。
それまで人気のなかった雑木林に、ランタンを持った大人の姿を見るようになった。剣呑な表現をすれば魔女狩りということになるだろうが、元より子どもの言うこともあって半信半疑だろう。
「それに、ただの人間如きが私を捉えようなんて、1000年早い」
念入りに点検した結界に綻びはなく、私の心に油断もない。
程なく、棲み処周辺をうろつく連中の姿は見えなくなった。
崖下の景色から、子どもの姿も消え去った。デタラメを吹聴したかどで大人に叱られたか、加齢で能力を失ったのかはわからない。判明していることは、私の生活に平穏が戻ったということだ。
1年経ち、2年が経った。私にとっては誤差のような時間だ。しかし情勢は日々悪くなる。とうとう辺境領内の強固な城塞都市すら陥落を始め、魔王軍の脅威は着実に、王国内を蝕んでゆく。
私は館の改装を行った。魔導書の蔵書数が膨れ上がって、書斎に置ききれなくなったためだ。その移動先として、館の隣に魔導書専用の建物を作ることに決めた。設計図を描き、それに従いまた材料集めを始める。以前は10年以上かかった工程を、今度は5年と少しで終えることができた。
図書館塔。出来上がった建物を、私はそう名付けた。螺旋階段付きの円塔で、壁に沿う書架が下層から上層までびっしりと続いている。吹き抜けの中央部に読書スペースも確保しており、完成してからはもっぱら、外ではなく塔内で本を読むようになった。
――そんな新生活に馴染んできた頃、事件が起きる。
★★★
その日は年に数度の、街への遠出を予定していた。
化粧と服装で変装した私は、新たな人物になりすます。名前も、経歴も、生きてきた人生すらもすべてが嘘。化粧よりも服装よりもなお濃く厚く、嘘で糊塗された人物であろうとすることは精神的疲労を誘発する。
苦痛の時間を終え、館に返ってきたとき、私はいつも自分が何者であったのかを忘却しそうになる。
メリンダ・サマリー。尋常ならざる半生を送った、それが私の名前。紅茶やワインといった嗜好品に手を伸ばし、穏やかな時間で身を癒すことで、ようやくその認識を回復することができる。
資金を入手し、必要物資を購入。手持ちの荷物は魔導書で修得した収納魔法で片づける。手ぶらになった私は帰路へつき、馬車を乗り継いで我が家へと戻ってきた。
「……疲れた」
溜息を吐き、結界を潜ったその瞬間に気づく。誰かが、いる。
これまで一度も他者に踏み荒らされたことない、その内側に。
即座に脳が覚醒し、臨戦態勢に移行した。随分と気配の消し方がお粗末なようだが、相手がどのような手合いかまだ判断することはできない。私は足音を殺すようにして歩き、やがて見えてくる館の全貌を眼に入れた。
おそらく侵入者は、この中にはいない。
気配は、新築の図書館塔内から漂ってくる。
私は肉体を魔力で強化し、逆に警戒レベルを引き下げた。塔内に潜む侵入者は、私にここまで迫られてなんの動きも見せていない。となれば魔法に関して素人か、それに近しい練度しか持っていないことになる。
「あのときの、蟻か」
もしそうなら、私は判断を誤ったのかもしれない。
危険の種を、先んじて摘んでおけばこんな事態には――。
いや、その観念すらも後の祭りだ。ここにいるのは、十中八九あのときの子どもだろう。崖下から結界を見通し、私の存在を感知した。危険な存在であることは重々承知していた。しかし力か興味かを失ったとてっきり思い込んでいた。要するに、私はしっかり油断していたわけだ。
1階の読書スペースに気配はなかった。となれば自然、侵入者は螺旋階段の続く書架のどこかにいることになる。
立ち並ぶ書架へ注意を配りながら、螺旋階段を上ってゆく。出会い頭に襲われる可能性を念頭に入れつつ、私は右掌に魔力の渦を作り出す。
これから起こることは、戦禍の最中に村人がひとり行方不明になるだけ。大した問題ではないし、すぐに誰からも忘れ去られる。なにより現状、私はこうして攻撃を受けている。益虫でなく害虫であるのなら、潰すことに躊躇いを感じる必要もない。
会敵して、即座に殺処分する。
そのつもりで、私は階段を踏み締めてゆく。
とうとう侵入者の姿を認めたとき、私は毒気を抜かれた。
床に魔導書が散乱するその中央で、そいつは己自身の生み出した魔法に縛られていた。