第2話 『ダンジョンからの脱出、そして……』
蟻を潰すことに葛藤する人間はいない。
命は重く、奪うことは大罪だ。そう嘯く修道士だって、歩けば蟻を潰すし、蚊が飛んでいたら叩くだろう。理由は単純で、小さい命には、それ相応の価値しかない。
基本的に命の価値は、その物理的大きさとともに重くなる。罪悪感を覚えずに蟻や蚊を潰していた子どもも、初めて鶏を〆るときには躊躇するし、それが飼っているペットの犬ともなれば泣いて嫌がるはずだ。
殺人は、人にとってもっとも忌むべき殺しとなる。
身体の大きさだけではなく、人は自分と同質の存在。殺人を犯すとき、被害者の立場に立って考えない人間はいない。その痛みも、苦しみも、自分ごとに置き換えてありありと想像することができる。
最難関ダンジョン【天球宮】を出た私は、高らかに光を送って寄越す太陽を懐かしむようにして眺めた。再びこの光に巡り合うまで、私がどれだけの犠牲を払ったのかなんて、考えたくもなかった。
「さて。これからどうするか、だけど……」
手でひさしを作って、太陽を眺めながら思考する。
果てのない繰り返しの最中、夢想したことはあった。
もしこの場所を出られたら、どうしたい――?
私ひとりを置いて、早々に転移魔法でダンジョンを脱出した勇者一行に復讐してやろうか。それともこの醜聞をダシに、他国の王子に取り入って王妃の座でも狙ってやろうか。はたまた魔王と結んで人類の支配権を確立してやろうか。安全な場所から、滅びゆくこの世界を達観した風情で見てやろうか……。
どれも1度は胸に思い描いて、本当にそうしてやりたいと思ったことだ。
私は攻撃を受けた。何度も死んだ。その報いは、歪みは、この世界のどこかにぶつけて解消されるべきものだった。そうでなければバランスが狂ってしまう。
新鮮な外気の中を、気ままに足を踏み出す。
その行き先は、私にとって意外な方角へ向いた。
潮の匂いが満ちる、海沿いの村。故郷を訪れるのは勇者パーティに誘われて旅立ったきり。とはいえ、現実では半年程度の時間しか流れていない。記憶の書に挟んだ栞のページを手繰れば、眼前の景色そのままの挿絵を見ることができる。
「メリンダ・サマリー、私の名前……」
海辺の道を歩きながら、自分の名を繰り返し呟く。
目深に被ったフードのせいで、周囲の人々は私が誰だかわかっていない。だが、脱げばたちどころに看破されるだろう。田舎の社会は狭い。ここに住む人たちは誰もが顔見知りで、広義には家族と言ってしまっていい。
古びた家の前に立ち止まる。生家だ。
壮年の男性が、外で漁に使う網を張り直している。
ふと、見られていることに気づいた男性が振り返る。
私はフードを目深に被ったまま会釈した。
こちらに近寄ってきたのは、親切心からだろう。旅の者が村に迷い込み、行き先がわからなくなってしまっている。ここで生まれ育ち、土地勘に通じている自分なら、きっと力になれるに違いない。
「どうしました?」
「いえ、ちょっと……」
「ひょっとして、道に迷われましたか?」
首を振ると、髭面に怪訝な表情が兆した。
「よければ、茶でも一緒にどうです。この地方は、これからもっと暑くなるので」
「大丈夫です。あの……」
フードの縁で、眼元を隠そうと俯く。
正体がバレる前に、手早く仕事を終えなければ。
「間違っていたら申し訳ないのですが、メリンダのお父さんですか?」
「娘が、どうかしたのですか」
固い口調。ぎこちない表情は、最悪の想像が巡っている証拠だ。
父さんは、最後まで私の旅立ちに反対していた。
「彼女、死んだんです。私は伝令の命を仰せつかって、ここまでやってきました」
「そう、ですか」
落胆する顔を見るのが怖くて、私はくるりと踵を返した。「失礼します」の一言だけを残し、気まずい気持ちとともに足早にその場を去る。
これで最大の仕事は終えた。
ここから先には、うだるほどの時間と自由がある。