第18話 『レッドドラゴンとの戦い その2』
石化したレッドドラゴンの記憶は、継続しない。
私たちの8年間。それは対話のための時間だった。『名無し』の魔女の居室へ続く扉の守護者であるレッドドラゴンと、私たち人間との、言語を介さぬ対話。
平時は石像と化して備え、人の接近に連動してその身を生身へと変えるレッドドラゴンは、見たままの存在ではない。私はそれを、純粋なドラゴン種ではなくある種の魔法生命体だと定義した。
外敵の接近により生身に戻ったレッドドラゴンは、必ずドラゴンブレスを吐く。数百人規模の人間を即座に炭と化すそれを耐えきって初めて、私たちはレッドドラゴンとの戦闘を行うことができる。
8年間もの間、昼夜を問わずに続けた一撃離脱の繰り返しにより、レッドドラゴンの保持する魔力量は徐々にしかし確実に削れていった。そして先刻、ついにその魔力量は、ドラゴンブレスを吐けぬほどに減衰した。
ゾラの負傷に気をとられてはいた。だが私はこの眼で把握している。
先の交戦時、レッドドラゴンは初撃にドラゴンブレスを狙った。体内に溜めを作ったあとの、それを撃てなかったことによる一拍の隙。それが不幸にも、ゾラにとってはフェイントとして作用した。鋭いかぎ爪の一撃は、言わば第2撃としてゾラを襲ったのだ。
つまり――。
「人の接近に連動した初撃は、ドラゴンブレスだ」
私は共に円座する仲間たちへと説明する。
「おそらく、次もそうなる。私たちの接近に反応して石化を解いたレッドドラゴンは、1度は吐けぬはずのドラゴンブレスを狙ってくるはずだ」
そこに隙が生まれる。そしてもう1点。
「人の接近ではなく、攻撃の接近によっても、レッドドラゴンは石像から生身へと戻る。これは実証済みで、君たちも把握していることだ」
水を向けると、一同から頷きが返ってくる。
「初めてここを訪れたとき、私が遠距離から攻撃魔法を繰り出しましたわね。飛来する氷柱を、レッドドラゴンが生身に戻って撃ち落として見せた」
エテルナの記憶に間違いはない。
私は彼女に頷きを返し、それから全員に向けて話を進める。
「攻撃に対する自己防衛本能だ。言わばオートカウンターのような機能が刻まれていると考えられる。つまり、だ」
私はチョークを使って階段上に位置関係を図解する。
レッドドラゴンのすぐ足元に、ゾラが取り落とした大槌を描く。
「私たちが素直にゾラの得物を取り戻しに行けば、反応によりレッドドラゴンは生身に変じる。ドラゴンブレスを吐こうとするも諦め、物理攻撃で私たちを除こうとするだろう。逆に先行して遠隔攻撃を放った場合、レッドドラゴンはこれを撃ち落としたあとで、私たちとの交戦に入ることとなる」
2通りの手順を紹介すると、感覚派のバリーが結論に達した。
「やることは決まってる。つまり、どっちが有利かって話だな」
「そういうことだ」
場に少し考える間があった。気まずげにゾラが口を開く。
「私が取りに行けたら良かったのですが……」
「待機の決定に変更はないよ。ゾラの仕事は、仲間を信じること」
戦略上、ゾラの存在は要に位置する。階段付近に待機し、取り戻した大槌を用いて全力全開の一撃をレッドドラゴンに見舞うという、最重要の仕事だ。
彼女の体力の温存は、それこそ私たち全員の命に直結する。
「しかし、超重量級の武器です。運べる人は限られます」
「俺か、シェーンかってところだろうな」
バリーが顎を撫でてシェーンを見ると、シェーンは大仰に肩を竦めて見せた。
「美味しいとこって、いっつも兄貴が持ってくんだよなぁ」
「戦士の誉れは最前線を張ること。悪いが、今回も諦めてくれ」
「わかったわかった。俺は『運び屋』に一時転職するとしますよ」
やれやれ、と首を振るシェーンへと、バリーが笑顔を送った。
自由の利く部分での役割分担は、だいたい決まったことになる。
「起点はどうしましょうか。正直、大差はないように思えるのですが……」
エテルナの迷いに、私が補足を入れる。
「攻撃による石化解除を狙えば、遠距離攻撃がひとつ潰れる。ゾラほどの威力はないにしろ、君の魔法は大きな火力だ。無駄に使わせるわけにはいかない」
「あたしだって、攻撃魔法は使えるよ?」
ねえねえ、と自分を指差してセルヴィがアピールしてくるのだが。
「もちろん理解している。けれど我々には、本当に余裕がない。ゾラが一撃を放つまでに、少しでもレッドドラゴンにダメージを与えておきたい」
「では、どのようにいたしますの?」
指示を仰ぐエテルナに、私は自分の構想を開示する。
「石化は、シェーンに解いてもらう。大槌に手を伸ばせば、確実に圏域に入る。そのタイミングで君たち2人はレッドドラゴンに攻撃魔法を叩き込む。シェーンがゾラに大槌を届けるまでの間、バリーが最前線で耐える。いや……」
さらに考え直して、こう付け足す。
「バリーと私が、最前線で耐える」
「大将、それは……」
逡巡を見せるバリーに先んじて、私から釘を刺しておく。
「使えるものはすべて使う。その上で勝ちにゆく。それこそ君たち冒険者の遣り方だろう。今回ばかりは私も調査隊の先導役というわけにはいかないよ」
今の私たちに必要なのは、完璧なかたちでの勝利だ。
仮に手にするのが不完全な勝利ならば、仲間の誰かが死ぬことになる。
バリーは苦笑を湛えた。こんな風に私に笑いかけるのは初めてのことだ。
「まったく、大将ときたら……なあ聞いたか? こんな臆病者がどこにいる?」
仲間の輪から、愉快げな笑い声が響いた。
「見たことがありませんわね。それにクラウスさんがそうおっしゃるなら、私も前に出ないわけにはまいりません。中距離に陣取って、魔法攻撃を叩き込みましょう」
「あたしもやるよ! 夫にばかり迷惑かける妻じゃないんだから!」
ふん、と鼻息荒く妻のセルヴィもやる気を見せる。
正直、セルヴィに関しては本気で止めたいところだが、もはや言っても聞かないだろう。誰もがその身にやる気を滾らせる中、私の妻だけ特別扱いして気骨を折るような野暮な真似はできない。
それに、こうなったら一蓮托生だ。
今の私たちは、生死すらも共有しているのだから。
「行こう」
作戦を纏めて、万感の思いとともに私たちは腰を上げる。
泣いても笑っても、勝負はものの数分で決まる。
「絶対零度の氷神の加護よ、鋭きその刃に宿り給え……フリーズセイバー」
前衛を担当する仲間の武具に、レッドドラゴンの弱点属性である氷属性を順繰りに付与していく。自らの分も終えると、今度は攻撃魔法を担当する後衛へと補助魔法を唱えた。
「明晰なる知の光よ、彼の身を照らして賢者とならん……マジックアップ」
一巡りして、私は全員に魔法を掛け終えた。
いくさの前のゲン担ぎのようだなと、少し奇妙な気分に陥る。
「エテルナとセルヴィは事前詠唱を」
「はい」
「わかった」
眼を瞑り、杖を構えて詠唱を始める2人から視線を外し、私は殿を務めるアレックス兄弟へと向き直った。
「いつでも行けるか」
「ずっと薄暗い場所にこもってたお蔭で、全力疾走は久々だがな」
「兄貴と肩を並べて走るのは、ガキの頃以来になるよ」
アレックス兄弟は入念なストレッチでお互いの身体のケアをし、万全に備えている。私は最後に待機を命じたゾラを見た。階段の一番下に腰かけ、大槌を運んでくるシェーンを待つ役を負っている。
「くれぐれも気負わないように」
「わかっています……クラウスも、どうかお気をつけて」
準備を終えた全員が顔を上げて、頷き合う。
各々、定位置に着いた。口火を切るのはアレックス兄弟だ。
隆々と盛り上がった筋肉には重量が乗る。それを毛ほども感じさせない速度で先行したのはシェーンだ。大斧を階段に置き、クラウチングスタートの姿勢から一直線に、レッドドラゴンの石像を目掛けて突進してゆく。
その巨躯から少し離れて、バリーが背を追う。こちらは武器を背負って走っており、シェーンの健脚を横眼に見てから立ち姿勢でのスタートを切った。一拍分の遅れがあるが、それを感じさせない加速っぷりで、先行者との差をぐんぐんと縮めてゆく。
「まったく兄貴ったら速えな! だがな、予定じゃ俺が勝つんだよ!!」
その通りになった。シェーンの姿勢が前に傾ぎ、頭から突っ込むヘッドスライディングの要領で、レッドドラゴンの足元にある大槌を取りにゆく。
逆にバリーはブレーキを掛ける。靴裏を床との摩擦で焼きながら、背中の大剣を抜き構えを取って前方のレッドドラゴンの頭に向けて突きつけた。
「エテルナ、セルヴィ……頼んだ!!」
前方を凝視したまま言い残し、私も全速力で駆け出す。
背後からは、残る2人が攻撃魔法を発動させる声を聞く。
「湿りし大気よ、鋭き氷槍と成りて、彼の者を貫け……アイス」
『ダブルニードル!!』
重なる声とともに、高速度で射出された無数の氷柱が私の背を追い越して行った。
前方では、レッドドラゴンの石化が解ける。ゾラの大槌を手にしたシェーンは床を滑ってレッドドラゴンの腹の下を通過し、部屋の最奥まで達していた。
「こっからが、トンボ返りの時間だってな!!」
立ち上がり、柄を持って肩に携える。ズシリとした重量感を感じて見えたのは気のせいじゃない。ゾラの大槌は、シェーンの大斧の5倍の重量を誇る。
シェーンが走り始める。行きよりも鈍重なのは織り込み済みだ。レッドドラゴンの溜め。魔力の充填が思うようにいかず、人のように怪訝に頭を振った。スイッチが切り替わるのがわかる。縦に割れた瞳をぎょろりと動かして激しい動きを見せるシェーンを視認し、まずはこいつから片づけると言わんばかりに前脚を上げた。
瞬間、横合いから無数の氷槍の襲撃を受ける。シェーンに気を取られたレッドドラゴンの防御は間に合わない。氷槍のいくつかが竜鱗を貫き、血潮を噴き出す痛みに雄叫びを上げる。
「やった!」
「追撃します。私に付いてきて」
セルヴィを誘導してエテルナが距離を詰める。中ほどまで駆けた私を追走するかたちだ。前方には痛みによるスタンから回復しつつあるレッドドラゴンの姿。無論のこと、易々と次の一手を打たせたりはしない。
「俺にだって、借りはあんだからよぉっ!!」
先の魔法攻撃で、両手で大剣を振り被るだけの時間は作れていた。
図太い丸太の如きレッドドラゴンの足に向かう、大剣の横薙ぎ。
「らあああああっ!! 旋風撃っ!!」
今度は、防御効果は発動していた。しかしバリーの一撃は、レッドドラゴンが展開した魔法防壁を破壊して突き刺さり、木の幹に斧が食い込むように、その身を骨の髄まで到達させる。
再び、絶叫が迸る。逆方向に駆ける私とシェーンの身体が交錯し、擦れ違う。背後では魔法使い2人が足を止め、短縮詠唱で追撃の準備へと移行していた。
私は剣を抜く。慣れぬ手つきなのは仕方がない。こんなことになるなら学生時代にもっと修練しておけばと思わないでもない。
だが、今この瞬間がすべてだ。
有利だろうが不利だろうが、眼の前のこと以外を考えるのを止める。
「たあああっ!!」
強撃のフォロースルーに入ったバリーの隣から、私は連撃を狙って片手で斬り込んだ。狙いあやまたず先刻の傷の上から内部に達し、残った筋の何本かと、骨の一部を削り取ることに成功する。
レッドドラゴンが膝を折る。脚の神経を傷つけたのだろう。勝利の天秤が私たちの側に大きく傾く感覚がする。いける。そう確信した。私もまたフォロースルーに入りながら、レッドドラゴンの頭部を確認する。これまで散々苦しめられてきたこの魔物が、どんな苦悶の表情にあるのか見てみたくなったのだ。
「え?」
衝撃を受けたのは、浮かべた表情が思っていたものではなかったから。
苦しみではない、悔しさでもない。そこにあったのは――。
怯え。
窮鼠、という言葉が脳裏に浮かんだ。
強者と弱者の間にある不均衡なバランス。死の間際にあっては、弱く小さな鼠であっても、強く大きい捕食者である猫に食らいつくこともある。ドラゴンブレスを失い、足の腱を切った今のレッドドラゴンはどちらの側なのか。その答えは考えるまでもなく、あまりに自明だった。
「……しまっ」
轟音が鼓膜を震わせた、気がした。
気のせいだったかもしれない。なにかが起こったとは思えない。周囲が火の海と化したわけでも、一撃で人を絶命に至らしめる攻撃が繰り出されたわけでもない。
ただ、静かだと思った。
次の瞬間、後方から金属音が響く。
首を捻る。両方の足首に鋭い傷を負ったシェーンがその場に倒れて、肩に担いでいた大槌を床に転げ落としている。
「大将!!」
ザシュッ、という音がした。
私を突き飛ばしたバリーの肩から、真っ赤な鮮血が噴き上がる。
「ぐっ!?」
「バリー!!」
私は叫び、バリーに駆け寄った。肩の傷は剣で斬り裂かれたような大きな裂傷で、止めどなく血が流れ出ている。
「平気だ。それより……手前のやることを優先しろ」
バリーが視線のみ動かす。私たちから見て、シェーンよりやや前方にいるエテルナが、防御魔法を全面に展開してなにかに耐えている。
「セルヴィさん、動かないで」
「で、でも……」
「あなたは防御魔法を使えない。有効範囲から出れば、なますにされます」
剣が盾に衝突するような音が間断なく聞こえる。出所は、エテルナの張った防御魔法からだ。しかし、肝心の刃が見えない。
「まさか」
弾けたように振り返る。レッドドラゴンが翼を開いている。一見するにその姿勢を保持し、まるで動きを見せていない。眼を凝らして初めてわかる。さっきから開いた両の翼が微細に振動し続けている。
「シェーン! 大丈夫ですか!? 今私が……」
「くるんじゃねぇっ!!」
床に倒れ伏したまま迸ったシェーンの怒号が、安全地帯の階段から立ち上がろうとしたゾラを押し留めた。
直立して、ゾラが歯噛みした。己の状態と状況とを秤に掛けている。
私たちは既に知っている。ゾラの負った怪我は、申告通りの状態ではない。
赤く深く開いた傷口は、今は血が止まって見える。しかしエテルナが施した治癒は応急処置にすらなっていない。表層の下にある筋組織は傷つき、特に軽鎧の防御のない、剥き出しの右足に走った裂傷の状態は深刻だった。
この状態のゾラを階段に待機させた理由は、彼女がフィニッシャーの役を負っているからだけじゃない。これ以上手の施しようがないからだ。現に彼女はもう殆ど走ることができず、全力の一撃を放てば傷口が開いて夥しい出血が始まることになる。
本当に余裕なんて存在しない。これはギリギリの戦いなのだ。
だからこそ痛みに耐えきって、シェーンがもう1度絶叫した。
「大槌は、俺が必ず届ける!! ゾラは絶対にそこを動くな!!」
「し、しかし……」
ゾラの眼が泳ぐ。理解しているのだ。
今もしレッドドラゴンの追撃を受ければ、シェーンの命はないのだと。
「葬式は、まだやる予定じゃねえんだよ……」
シェーンの精神が、肉体を凌駕した。
両足首の腱を切ったまま、立ち上がるという離れ業をやってのける。
ふらつく足取りで、屈んで大槌の柄を握る。両手を搾ってそれを持ち上げ、あろうことか再び自分の肩へと担ぎ上げた。
「ぬぐ、うおおおおおっ!!」
切れた両の足首から、花弁のように鮮血が散った。
それを見て、私は虚脱状態から我へと返る。
眼の前に、斬撃が迫っていた。回避行動は間に合わない。眼を閉じることすら許されない。迫るのは圧倒的で確実な死――そのはずだったが。
バリーの背中を見た。私とそれとの間に割り入って、見事な大剣の一撃で迫りきたものを弾き飛ばした。
「これでわかったろ! 『見えない斬撃』だ! あんたじゃ対応できねえ!!」
さらに迫りくる見えない斬撃を、気配のみで読み切って2度、3度と連続で斬り払う。
「行け!!」
レッドドラゴンのいる方向を直視しながら、私に向かって叫んだ。
「ここは最前線で、俺しか守れねえ! あんたを守っては戦えねえ!!」
「バリー……」
私は言葉を失くした。言わんとしていることはわかっている。
見捨てろと。勝利のために、他の全員のために、己自身のことを。
葛藤がある。私は、こうなる展開だって予期していたはずなのに。
バリーは斬撃を弾く合間に呼吸を入れ、それから穏やかに告げた。
「弟を、頼んだ」
その声を聞いたときには、既に踵を返していた。シェーンを助力し、大槌をゾラの元まで届けること。それが今の私がなすべきことだ。
シェーンは足首の激痛に耐えている。大槌を肩に担ぎ、1歩、2歩とふらつきながら進んでゆく。しかし人体には構造上の限界がある。さらに数歩進んだところで、担いだ大槌ごと、再び床へと倒れ込んだ。
私は駆ける。全速力で、シェーンの元に。
その道中、金属音がけたたましく鳴る最中に、声を聞いた。
「今から隙を作ります。セルヴィさん、あなたも向かって」
「でも、そんなことしたら……」
防御魔法の全面展開は、魔力消費が激しい。
見えない斬撃が応酬する状況で、人ひとり逃がす方法なんて……。
「一瞬だけ、前方に防御魔法を多重展開します。その間に」
「背後から抜けろっていうの? エテルナが危険過ぎる!!」
エテルナはバリーと違って、見えない斬撃を目視できない。背後に空きを作る際、空隙から攻撃を入れられれば防御が決壊する可能性がある。当然のこと、後衛の魔法使いの防御力は、前衛の戦士のそれより圧倒的に低い。
あえて、だったのだろう。
エテルナの口から、楽しげな声が聞こえたのは。
「心配には及びません。危険手当の上乗せで手を打ちましょう」
「エテルナ……」
「早く」
「わかった、絶対に支払うからね!!」
セルヴィが駆け出す。そのタイミングに合わせて後方の魔法防壁が消え、前面に多重展開される。それは見えない斬撃のほぼすべてを止めることに成功するが、耳慣れぬ音も聞こえた。
「エテルナ!!」
「致命傷ではありません」
振り返る余裕はない。それが痩せ我慢なのかたしかめる術はない。
先行する私にセルヴィが合流し、倒れ伏すシェーンへと駆け寄った。
「シェーン!!」
「う、ぐ……平気だ。それよりも」
視線の先には、床に投げ出された大槌がある。
2人がかりで持ち上げようと試みるも、ビクともしない。
「そんな……」
「持ち上げるのは諦めるんだ」
「じゃあ、どうすれば?」
「全員で引きずるんだよ!」
私に答えるが早いが、うつ伏せで腹ばいのまま両手両足を使って、シェーンは大槌の背後へと回った。
「俺はもう立てねえ。この姿勢のまま頭を押す。あんたらは柄の方を」
「わかった!!」
私たちは反対方向へ回り、大槌の柄を握って、畑から野菜を引き抜く要領で後方に引っ張った。
「ぐ……」
改めて、ゾラの膂力の尋常じゃなさを知る。
3人がかりで引きずっているのに、大槌はピクリとも動かない。
いや……わずかだが、私たちから見て後方に動いた気がする。
「息を合わせるんだ! クラウスさん、掛け声はあんただ!」
「わかった! ……せーのっ!!」
大槌が、少しずつ動き始めた。
息を合わせて、力を込めた瞬間だけ、それが動く。
「もっとだ!」
「せーのっ!!」
全員が同調することで、1度の引きで移動する距離が伸びてきた。
腕の筋肉が千切れるほど力を込めながら、遠眼にそれを垣間見る。
見えない斬撃を弾くバリーも、防御魔法で防ぎ続けるエテルナも、既に限界が近い。打ち漏らしが、あるいは防壁を搔い潜った斬撃が、双方の身体に徐々に命中し始めている。
その身から鮮血を散らしながら、彼らは耐えていた。己を削り、命を削ってまで立ち続ける理由は、ただ一心に私たちを、仲間を守らんがため。
応えなければならない。報いなければならない。
そうでなければ、彼らに顔向けなんてできるはずがない。
「せーのっ!!」
歯を食いしばり、足を踏ん張って、引く。
私とセルヴィの手の皮が破ける。
裂けた足首で踏ん張るシェーンに至っては、床に血の痕まで残している。
この地獄はいつまで続く。そんな自問が脳裏を席巻する。
露出した手の肉。滲む血液が大槌の柄を真っ赤に染め、滑りを防ぐために幾度となく衣服で拭う。全身の筋肉が軋む。強く歯を噛み締めるセルヴィの口から血の筋が流れる。
まだなのか。
いったいどこまで引けば、どこまで行けばみんなを救えるんだ?
酸欠で、思考が白く染まる。止めどなく吹き出る汗。体感時間と実時間のずれ。1秒が1分にも、1日にも引き伸ばされて感じる。諦めることはできない。立ち止まることはできない。どんなに身体が悲鳴を上げても、それをした時点で私たちはすべてを投げ捨てたことになる。だから――。
「引けぇーっ!!」
誰かが叫ぶ。聞いたことのないような掠れた声で、絶叫する。それは誰のものでもない。それは私の声だった。叫びに呼応して力が込められ、ずずっと大槌が床を這いずる音が聞こえる。
手の感覚など完全に失われている。それでも、私の手は、セルヴィの手は、シェーンの手は、大槌から一瞬たりと離れることはない。
「クラウス!!」
「引けぇーっ!!」
今にも泣き出しそうなセルヴィの呼び声に応える。
私たちはまた1度分、大槌を移動させることに成功した。
息を吸え。酸素を取り込め。体内で燃焼しろ。
こんな苦痛、命を削って私たちを守っている2人に比べたら、どうってことないだろう!!
「引けぇーっ!! ……引けぇーっ!!」
肉体が、限界を迎えていた。
私の眼はもう現実を見てはいない。この先に待ち受ける幸福な幻を見ている。己とってのみ都合のいい幻想だ。背後から手が伸びてきて、柄を掴む。よくやったと、私たちを讃えてくれる。それで終わりなわけがないのに、私はほっと脱力してしまって、呆けた表情で背後に立つ彼女の顔を見ようとしてしまう。
そう、こんな風に――。
「クラウス、セルヴィ、シェーン……どうもありがとう」
お礼? 礼を言われるようなことなどしていない。
私はバリーを置いて、ここまで逃げ帰ってしまった。
「違います。あなたたちは届けてくれた。繋いでくれたんです、私まで」
無力だった。死ぬなと言っておきながら、彼らを置き去りにした。
「信頼に応えた。正しい仕事をした。みんなを救おうとしている」
もう疲れた。
「あなたは仕事を終えた。信じるのが私の仕事だった。でももう違う」
……ゾラ? 幻じゃないのか?
その問いかけには答えない。彼女は立ち上がり、両頬を濡らす水気を自分の腕で拭った。無意識に柄を握り込んで離さない私の指をやさしく引き剝がし、完全に自由になったトレードマークの大槌を、片腕で軽々と肩に担いでみせた。
「ゾラ?」
「休んでください。ここから先が、私の本当の仕事です」
力尽きた私が、セルヴィが、シェーンが呆然と見上げる先。
鬼神の如き闘気を纏ったゾラが、威風堂々と宣言する。
「レッドドラゴンを倒す」




