第17話 『レッドドラゴンとの戦い その1』
階段の途中で、身を潜めていた。
誰もが前方を凝視し、眼前で起こったことを脳裏で反芻している。
最初に声を上げたのは、妻だった。
「……ねえ、今の見たよね?」
両手に持った杖をきゅっと握り締め、驚きの表情で訊ねてくる。
私は夫ではなく指導者の立場として、その問いに力強く頷いた。
「間違いない。ドラゴンブレスを、吐けなかった」
信じがたいのは私も同じだ。生唾を嚥下する。
屈強な大剣使いが、後方から身を乗り出してくる。
「今日はさっきので最後にしようって言ってたがよ。ひょっとして千載一遇のチャンスなんじゃないのか」
「ああ。ドラゴンブレスさえなけりゃあ、勝機は充分にある」
「しかし……」
ともに大剣使いと大斧使いであるアレックス兄弟の言うことには一理ある。これまでもレッドドラゴンの攻撃にフェイントや、ブラフの類はなかった。
その通りだ。起こったことを素直に受け取るならば。
だがしかし、ここで躊躇する理由があるとすれば、それは――。
「……理由は、私ですか」
弱々しい声がして、一同がそちらを見遣る。
真っ先に眼に入ってくるのは階段を染め上げる鮮血。そしてその先にある、腹部と足に裂傷を走らせて、壁に背を持たせかけて座り込んでいる瀕死の女冒険者の姿。
ゾラの得物である大槌は階段上にはない。退避の際、室内から持ち帰る余裕がなかった。傍らに寄り添い、軽鎧の上から傷の具合を診ている魔法使いエテルナの表情からして、状態は芳しくないのだろう。
「動かないでください。血を止めるので手一杯です」
「そんな悠長なことは言っていられませんよ」
治癒を掛けるエテルナを気丈にも制して、私を見る。
「仕掛けるべきです。私が傷を負ったのは、あいつがドラゴンブレスを吐かなかったせいなのですから」
ドラゴンブレスは溜めを作る。我々は、その空隙を突いて階段近くまで退避する予定だった。しかしレッドドラゴンは予測と違う動きを見せた。陽動のため最も接近していたゾラを狙い、かぎ爪の一撃を見舞ったのだ。
予測不能の攻撃に、ゾラの対処は間に合わなかった。
「あなたの大願は眼の前ということです。クラウス」
「…………」
私は一同の顔を順繰りに見回す。
疲労による消耗に、大小様々の怪我、万全から程遠い装備。
くしくも、という表現が嫌いだ。この世界を支配するのは偶然ではなく必然だと考える。必然を偶然と見紛う節穴たちのことを、学問の徒として心底から軽蔑してきた。正しき学術的知見を持つことさえできれば、世界は一定の法則によって成り立っているのだと、誰の眼にも理解できるものと信じていた。
だが、そんな私をして匙を投げている。
この光景は予測できなかった。
最初に100人もの冒険者を集めた。彼らは果ての見えない作業に絶望し、私に見切りをつけ、やがて元の生活に戻るために去っていった。
去らなかった者もいる。今、階段に腰かけている彼らがそうだ。
くしくも、初めてこのダンジョンに潜行したとき、私の供をしてくれた面々だった。
彼らに私と妻を合わせた計6名。
それが、この最終局面まで付き合ってくれた最後のパーティだ。
だから、言うことは決まっている。私は手を組んで話す。
「ラストチャンスなのはわかっている。だが、君たちを死なせたくない」
一同の視線が私に固定されたまま、少しだけ揺れた。
納得のいく答えがほしいと。だから次の発言主も私だ。
「今までも、死人を出さずにやってきた。それを厭ったのは私だ。古来より災害になぞらえられるドラゴンと正面からやりあえば、必ず死人が出る。それ故に、私は迂遠な方法を取って、やつを削ってきた。そして今、このときが最大のチャンスだと心得てもいる。だが、しかし――」
息を継ぎ、彼ら一人一人に語りかける。
「状況は最悪に近い。冒険者たちの信望を失って、私たちはたった1パーティでこの作業に従事している。回数も、日に2度を限度だと決めている。現にそうしていても、如実に疲労が蓄積して立ち行かなくなってきている。命に関わる怪我人を抱えるこの状況で、我々に3度目の強襲をかけるだけの余裕はない」
顔を上げて、一同を見渡した。
「正直に言おう……頃合いだと、考えている」
沈黙の帳が、場に降りた。私を凝視していた面々が、今は眼を逸らして壁や天井など方々を見ている。
最初に口火を切ったのは、意外にも妻だった。
いつもと同じく、穏やかな口調で――。
「本当にあなたはそれでいいの」
「セルヴィ、君は私の覚悟の重さを知っているはずだよ」
次期公爵の継承権を放棄したとき、母に同情された。父への嫁入りの際、持参金代わりとした領地を、私に譲るよう父に掛け合ってくれた。
生前贈与のかたちで提供されたその領地を、私は迷いなく売り払った。母は卒倒し、親族内での私の評判は放蕩息子から鬼畜生にまで落ちることとなった。そうなることも見越していた。どうしても自由になる金が必要だったのだ。
「親不孝をしても、見たかった光景なんでしょ」
「君たちを失うよりマシだ」
8年の月日は長い。この事業を始めたとき青臭い学生身分だった私も、今や一人前の大人と呼ばれる年齢に達している。知を得たいという欲求を我慢できずにいた頃と比べて、分別というものをいくらか学習した。
「……怖いのは、死か?」
大剣をその腕に抱えるバリー・アレックスが、階段に腰かけたまま私へと首を捻った。
「もしそうなら、俺たちのことを見損なうな、大将」
「そんなつもりはない。私はただ、みなで無事に帰りたいんだ」
いつもなら私が折れる。相手はここまで付いてきてくれた冒険者たちだ。雇い主として、最大限の融通を利かせる意志まで捨ててはいない。
しかしここは、絶対に譲ってはならぬ場面だ。
私とバリーは互いに見つめ合い、どちらも逸らさない。
「わかるだろ。怖いのは死じゃねぇ」
「死だ。生命の消失はどのような魔法だろうと補填が利かない」
死者蘇生。それは人が扱う一般魔法の領域を逸脱した、神域にのみ存在すると言われる魔法。つまるところ概念でしかない。この世界上に存在するどんな人間にも、決して行使を許されていないのだ。
バリーは私から視線を外すと首を振り、もう1度私を見る。
「ズレてる。怖いのは、この身から生きるに足る情熱が絶えることだ」
「この事業に8年もの月日を費やしてきた。理解ならできている」
「いや、できてねえよ」
溜息をこぼすと、弟のシェーンの姿を眼の動きだけで追った。
「俺にとっての死はな、こいつに葬式を上げてもらうことだ。それ以上でも以下でもねえ。逆にこいつが先に死んじまったら、役割はその逆だ。俺がこいつの葬式を盛大にやってやる。だがな……」
バリーは珍しく言葉を吟味して、片眼を閉じると私に告げた。
「生きてるうちの死は別だ。こいつがもし、今のあんたみたいな弱音を吐いたら、俺は本気でぶちのめしてる。後悔すると知ってて諦めたからだ。怖気づいて先に進む勇気を失ったからだ。そんな負け犬みたいな生き方をするために、俺たちはこの稼業を選んだわけじゃねえんだよ」
シェーンが大斧を持ち上げ、柄を何度か階段に叩きつけた。
今しがたの兄の意見に賛意を表明しているのだ。
「それでも最後に選ぶのはあんただ。俺たちはあんたの意志に従う」
長年付き合って、冒険者たちがどのような人間なのかを知った。
損得勘定では動かない。いや、そういう人間は淘汰されてしまう。
社会的な成功すら、彼らにとっては通過点でしかない。他の人間がゴールとして目指すものそれ自体に重きを置きはしない。究極的には結果に興味を持たないのだと言える。今この瞬間を精一杯生きることそのものが、彼らの唯一にして最大の目的なのだ。
そんな彼らのひたむきな姿に、私も感化された。
今この瞬間にだって、感じ入っている……。
「……ここで投げ出せ、というのはナシですよ」
ゾラを治療するエテルナが、治癒を施しつつ私に注意を向ける。
「8年前、歴史の空白をつまびらかにしようとするあなたの姿に、私は深く共感いたしました。我々冒険者が前人未到のダンジョンを目指すように、真摯に謎を追い求めようとする人間もいる。その一助となり、ともに真実を掴むために私はここに残ったのです」
エテルナは不思議な雰囲気のする女性だった。若いようにも老成したようにも見える外貌で、掴みどころがなく達観している。私ですら知らない様々な魔法に長じた優秀な魔法使いだ。
「君の献身には助けられた。それに報いるだけの報酬は約束する」
「はあ……ここで出てくるのがお金の話ですか」
珍しく眉根を寄せたエテルナは、持ち前の長い金の髪を指先でいじくって面白くなさそうに告げた。
「それならもう、随分と儲けさせていただきましたよ。辺境に一軒家を購入し、安楽に余生を過ごせるくらいの蓄えならもう持っています。お金の話なんて、今さら過ぎるでしょう」
驚いたのは、それが彼女の口から出たことだ。
エテルナはふだん、私の金払いに関して細かい部分まで指定していた。
てっきり金に執着しているものと思っていたのだが……。
「その顔、私に関してなにか嫌な勘違いをされていたようですわね」
「あ、いや……」
早速にバレる。私はそんなにわかりやすい人間なのだろうか。
エテルナは逆に気分を直したらしく、口元に微笑みを湛えた。
「己の腕のみを頼りに渡る業界ですからね。約束を反故にする輩もいる。もっとも、私にそんな舐めたことをした雇い主は、後でしっかりと落とし前を付けさせてもらいましたが」
くす、と忍び笑いを挟んでから。
「あなたは違う。こう見えて人を見る眼はあるんですよ。変な言い方になりますが、この8年、あなたは私たち冒険者に対し、誠意を持ってもてなしてくれた。ですから私も、誠意を持って進言するんですよ。ここで諦めるべきではないと」
ミステリアスなエテルナが、腹を割って話してくれている。
初めてのことだ。だからこそ揺れる。失敗すれば人が死ぬというのに。
「……次は、私のようです」
懊悩の淵で思い悩んでいると、声がした。
治癒を掛けるエテルナの手を外し、起き上がる。
「まだ治癒の途中ですわ」
「ありがとうございます。でも、もう血は止まっていますから」
起き上がったゾラが、階段に片膝を突く。
血を失った頭が揺れ、呼気も未だに荒い。
「動かないでくれ。傷口が開いてしまう」
「残念ですが、今の私に必要なのは治療ではありません」
鋭い眼つきとぶつかる。とても死に瀕するほどの大怪我を負った人間のするような表情ではない。
「背後に川を背負う覚悟です」
「川? どういう意味だ」
「雇い主であるあなたの意向を完全に叶えるには、私の存在が必要不可欠ということです」
軽鎧の上から、裂けた傷口にゆっくりと触れる。
赤く染まった自分の掌を見て、ゾラが苦笑する。
「必要なのは、『必殺の一撃』。ドラゴンブレスを失ったレッドドラゴンを、反撃を許さず一撃で屠ることのできるだけの強撃。ここに集った面々で、それを放つことができるのは、私だけでしょう」
そう断言すると、血の気を失い青褪めているのに、不敵な笑みを深めた。
「なにより天秤に載せる命は、私のものだけで済む。武勲のためなら、惜しくなんてない」
「ゾラ、やめてくれ」
心底から願って言った。
ゾラの勤勉さ、仕事に対する実直さには、何度励まされたかしれない。
しかし理解もしている。
ゾラはそれしきで引き下がる冒険者ではないと。
「一撃だけです。もし外すか撃てなかった場合、皆さんは私を置いてここから退避してください。魔物の本能は弱者を捉える。怪我を負った私を標的に選ぶに違いありません。重要なことは……これは、悪い賭けではないということ」
ニッと笑むゾラに呼応して、冒険者たちが神妙に頷きを返す。
彼らが共有する価値観の中で、ゾラの言葉は正しいものとされた。
「手柄はほぼ、私の総取りです。『ドラゴン殺し』の異名にはそれだけの価値がある。そして、なによりも、ですよ」
そこで言葉を打ち切って、ゾラは私を見た。
その瞳に満ち満ちた生気は、かつて見たことがないほどのものだ。
「8年前、私の技はあいつに通用しなかった。これは、その汚名をもそそぐチャンスでもあるんです。千載一遇の機会、私の人生のハイライトがここにある。だからクラウス、どうかお願いします。私にあいつを倒すチャンスを下さい」
私は無言で、態度を保留する。
脳裏ではわかっている。私たちが全員無事なままレッドドラゴンを倒すには、ゾラの提唱する方法に頼るしかないと。そしてどちらにせよこれは、ラストチャンスになるのだと。
だがもし失敗したら、私たちはゾラを喪う。
この事業において、彼女ほど熱心に仕事に精を出してくれた冒険者はいない。それをみすみす、私たちの判断で見殺しにすることになるのだ。それが他ならぬ、彼女たっての願いであったとしても。
「クラウス」
「残念だけど、ゾラ……」
私の判断は間違っている、のだろう。
私が眼にする冒険者たちの価値観で言うのなら。
計画の中止を宣言しようとしたとき、掌に触れるものがあった。
「やっぱり最後はあたしね」
「セルヴィ」
妻のセルヴィが、私の掌を両手でやさしく包み込んだ。
柔らかな感触と体温が伝わってくる。傍で私のことを、見上げる。
「ねえ、覚えてる? 人員不足で、初めてあたしたち夫婦がレッドドラゴンと交戦したときのこと」
「覚えている。私は、恐怖で足が竦んでいた」
「あたしのことを置いて逃げるかもって、言ってたわよね」
「ああ、言ったよ。わかるだろう。私は臆病者なんだ……」
昔からそうだった。生来の痩せぎすで青瓢箪。学友たちとは違って剣には興味を示さず、教室の隅でずっと本を読んでいた。そんな私を、彼らは変人扱いして遠巻きに見ていた。
「今だって怖い。私の決定で誰かが死ぬかもしれない。それが堪らなく怖い」
セルヴィの握る私の手が、震えている。
セルヴィは、その手を両手で包み込んで撫でてくれた。
「でも、あなたは逃げなかった。あたしと一緒にレッドドラゴンに立ち向かった」
「君を失いたくなんてなかったからだ」
これも弱音か。私ときたら本当に弱い。
しかしセルヴィは嘲笑ったりせず、その弱さをも受け入れる。
「あたしもあなたを失いたくない。いいえ、誰もが誰かを失いたくない」
「セルヴィ、君は……」
「それでも、わかっていても危険に飛び込まなくちゃいけないの」
セルヴィの言葉が、私の源泉に勇気を投げ入れてくれる。
「なんの危険も冒さずに、なにかを手に入れることなんてできないわ。あたしはあなたの情熱を知ってる。望みの大きさも知ってる。だから言ってあげたいの。この先には絶対にあなたの求めているものがある。あなたの中の素敵な感情を満たしてくれるものが、ずっと昔から待っているんだって」
私は眼を見開いて、セルヴィの顔をじっと見る。
まるで女神のように微笑んで、セルヴィは告げた。
「あなたの願いは叶うのよ。ずっと憧れていた女の人に会いにいきましょう」
その一声が、私の中で眠っていたものを甦らせてくれる。
それはすべての始まりだった。私たちはそこからスタートしたのだ。
声が詰まって、洟を啜り上げて、眼頭を熱くしたまま私は顔を上げる。それから、仲間たちを見た。私の夢に共感し、私の事業に協力し、私との約束を守って、私とともに夢を見た者たちの精悍な顔つきを。
そして私は理解した。
これが、これこそが冒険なのだと――。
「ひとつだけ、私の口から言わせてもらいたい」
運命の導きのように、くしくもここに集った面々の顔を順繰りに見つめてから、私の口がその言葉を告げる。
「みんな死ぬな」
まるでいくさに勝利したかの如き歓声が、仲間たちから上がった。




