第10話 『あなたが望んだ生き方は?』
静寂が、訪れた。
面と向かい合ったまま、時間が流れる。
娘は言葉を探しているようにも、迷っているようにも見える。
不思議なのは、私の胸から重荷が少し降りているということ。
今度こそ隠し立てなしに、私は半生を語り終えた。
そして今、この胸の奥底にひとつの確信がある。
もし聞き手がこの娘でなければ、私はここまで話していない。
「…………」
不思議な感覚がするやつだった。無自覚にこちらの警戒を解いたかと思えば、洗いざらいを話させてしまった。これまで娘が距離を詰めてきた分、こちらからも娘の本質がよく見える。今や、ある程度の相互理解は果たされている。
だからわかる。
こいつは、今日ここであったことを誰にも喋ったりはしない。
「……話は終わりだ」
停滞する空気を自ら裂く。
「お前には、私の半生を聞かせた。この上で私になにか伝えたいことがあるのなら言うがいい。だがひとつだけ忠告しておく。このまま放り置くのが身のためだ」
指を振って魔力を飛ばし、冷めたポットを再加熱する。
自分のティーカップに温まった紅茶を注いで、口元を潤す。
「ここで起きたことは誰にも言うな。一生、他の誰にもだ。約束できるなら、お前をここから逃がしてやっていい」
現状の、こちらからの最大限の譲歩。
娘が頷けば、この奇妙な邂逅も終わりとなる。
だが誓いは結ばれない。娘は静かに首を振った。
「あたしは、覚悟してきた。この日のために、全部準備してきた」
「それがお前の意志か。ならば言うがいい。私にどうしてもらいたいのか」
もっとも、言えばこいつの死は確定する。
取引が無効となれば、蟻を潰すことに躊躇はない。
「いなくなる前に、お父さんとお母さんが言っていたの。人間には、とてもしあわせな時代があったんだって。平和で、お互いのことを思い合い、やさしさに満ちたそんな時代が」
娘の瞳は私を通して遠くを見ている。過去の遥か遠くの一点を。
私は知っている。そんな光景、実際には存在しなかった。
「ただの小康状態だ。魔王という外敵の到来に際し、人間は一致団結してこれを迎え討たねばならなかった。大勢の勇者を募り、そのうちのひとつが運よく討伐を果たした。束の間の平和は、再び人間同士が争い始めるまでのほんの一瞬の出来事でしかない」
すべて、見てきた。
ここから、この崖の上から。
私の言葉の重みなら知っているはず。だが娘はもう一度首を振った。
「それでも、それはたしかに存在した。どんなに短くても、もう失われてしまったものであったとしても、本当にこの世界にあったものでしょ」
「お前……」
まるで見てきたような言い方が気に障る。しかし、娘だって理解していないわけじゃない。己が眼にしているのが、どれほどの時間の蓄積であるのかを。
「それは、お父さんもお母さんも経験していない。ううん、おじいちゃんやおばあちゃんだって、そのまたおじいちゃんやおばあちゃんからの又聞きだったかもしれない。でもたしかに、それは本当にあったものなの。でなければみんな、あんなにも笑顔で、あたしに語ってくれたりしなかったはずだもの」
語り継がれる、古き良き過去の幻想。
こいつは、そんなものに縋っているようには見えない。
「……なにが言いたい」
「戻したいの」
「なに?」
「あたしはもう1度、世界をそんな時代に戻したい」
こいつ、なにを言っている。
「あれから人間は、ずっと悪い繰り返しをしてる。奪い合って、殺し合って」
「これからだって続く。きっと、生物としての本能だろう」
「そんなの、あたしは信じない」
大きく首を振って、否定する。
「断ち切りたいの。あたしが」
「お前……さっきから、なにが言いたい」
「あなたに、力になってほしい」
胸に手を当てて、娘は勢い込む。
「もう時間がないの。今の王様は不治の病で、ずっと臥せってる。病状が悪化して、継嗣を残さないまま明日にも亡くなるかもしれない。今の情勢でそんなことになればどうなるか、あなたにもわかってるはずだよ」
「…………」
噂には、聞いたことがあった。
現王は先が長くないと。
それが事実だという裏付けを取らないほどには、私はこの世界への興味を失ってしまっていた。
「人々は、また凄惨な争いを始めてしまう。それはもう止められない」
「だとするなら、お前はどうするつもりだ」
「あたしが、魔王を倒す勇者になる」
驚きは、しなかったつもりだ。
こいつを動かす原動力。それが魔王打倒に対する強い使命感であったのならば、なによりも合点がいく。
しかし勇者か――。
「勇者志願が、私にいったいどうしろと」
「崖の下から見上げていた頃から、ずっと思ってた。あなたはきっと、この世界で最強の魔法使いなんだって」
図らずしも、さっきの話で裏が取れたというわけか。
承諾と拒絶を答えるその前に、言っておかねばならないことがある。
「先に言っておく。不可能だ」
「やっぱり、そうなんだね……」
寂しげな表情は、察したか。
いや、あるいは最初から答えを予期していたのだろう。
「あなたの呪いは、まだ解けてない。だから権能の正体を知った後も、ずっとここにいて、ひとりきりで生きてきた。ううん、そうせざるを得なかった」
「…………」
初めて、私の方から眼を逸らす。
手元のティーカップ。湯気を立てて揺れる水面を見ながら、私は答えた。
「既に何千、何万もの世界を滅ぼしてきた。すべては今更だ」
「でもあなたは、今のこの世界を守ってる。あなたがずっと、死なないことで」
それは遅過ぎる罪滅ぼしなのかもしれない。
それでも、私は自分なりの解釈を選んだのだから――。
揺れる水面が静まり、私は私に向かって話しかける。
「ダンジョン内で死ぬのとは、もうわけが違うんだ。癒しの権能は私をあの時間にセーブすることで、恒常性を維持している。今もしこの肉体が死ねば、世界は抹消されて過去へ戻るだろう。そこから先の未来は、同じ場所から蝶を飛ばすようなものだ。描く軌跡も到達地点もすべてが違う」
顔を上げて、娘の顔を眼に入れた。
「お前も、死ぬ。2度と生まれてくることはない」
これは脅しではない。事実だ。ひとりの人間が、そのものとして生まれる確率は天文学的な低確率でしかない。
「もしそうだとしても、あなたのことはあたしが守る」
「お前……この世界が生きるか死ぬかの問題をそんな簡単に」
「でもこのままじゃ、ただ見ているだけじゃ、人の世界はきっと滅んでしまう。違う?」
思わず、口を噤んでしまった。
おそらくそれは違わない。
私は滅びの魔女。この世界を、その行く末を見届けるためだけに生きている。そのために、己が身に及ぶあらゆる危険を避けてきた。極力人との関わり合いを避けてきた。
1度きりの名前、1度きりの経歴、1度きりの話相手……名を変え、姿を変え、性格すらも変えて私は生きてきた。かつていたメリンダ・サマリーではなく、他人の人生を。都合よく創作された誰かになりきることで、私はこの世界を維持してきた。
「……それは、寂しいよ」
私の言葉じゃない。眼前の、娘の口からその声を聞く。
「望んだ生き方じゃないなら、それは寂しい」
「孤独になんて、とっくに慣れたさ」
「嘘だよそんなの……だって、あの日見たあなたの瞳も、とても寂しそうだった」
本当に寂しそうな顔をしているのは、お前の方じゃないか。
言わずにおいたのは、言ってしまえば泣き出すと思ったからかもしれない。
「それでも、あたしにとっては希望だったの。絶望の淵にいたとき、ずっとあなたに会いたいと願ってた。その一心で今日まで生きてきた。それと同じ希望が、今のみんなにも必要なの。魔王を打ち倒す、勇者っていう希望が」
娘に、もう先程までの憂いは見えない。
意志のこもった強い瞳が、私を穿っている。
「お前が、それになると?」
「誰かがやらなくちゃいけないのなら」
「どうせ誰も信じやしない」
「だからあたしが信じさせる」
「今の魔王はかつてないほど強力だ。それを打ち倒す勇者になんて……」
「なれる! あなたと一緒なら!!」
娘が立ち上がり、私に向かって手を差し伸ばす。
私は今、瞼ひとつ動かせず、その手を見て眼を丸くしている。
……いつか見た、既視感のある光景だった。
私の中にもういない村娘の、失ってしまった青春の1ページ。
それを、そっくりそのまま眼前に貼り付けられているような。
だけどそれは、錯覚だ。魔法すら、時間を過去には戻せない。私の正面にいるのはバゼットではなく、今日初めて向かい合って話した娘だ。重ねてはいけない。浸ってはいけない。それでは正しい行動を取れなくなってしまう。
暗くなった窓外から、狼の遠吠えが聞こえる。それが私の眼を覚ました。
ここは私の館で、眼の前にいるのは勇者志願の初対面の娘だ。
気を取り直そうとティーカップを口元に運び、震える唇を湿す。
「話し込んで、日が暮れたな。今帰せばお前の安全は保障できない」
娘がどこか、残念そうに腰を降ろす。
私の声は、震えてはいなかったろうか?
「今夜は泊まっていけ。明日の朝、改めてお前の答えを聞くとしよう」




