死を見続けた男
森林樹が主催した『散華~歴史人物死に際アンソロジー~』に寄稿した作品です。
日本史畑の人間が初めて書いた世界史創作なので、全体的に勉強不足は否めませんが、今までで一番書きやすかった作品の一つです。
パリのとある聖堂の扉を、一人の老人が開ける。
その手には、既に酸化してくすんだ血痕が付着したハンカチを、大切そうに握り締めている。覚束無い足取りの老人を、堂内にいた神父が支える。
「神父様。どうか国王陛下のために、今年もミサを行なってはいただけませんか」
椅子に座らされた老人は、ハンカチを神父に手渡す。ハンカチが祭壇に置かれ、静寂の中二人だけのミサが始まった。
「私は処刑人として、多くの命を奪いました。敬愛する国王王妃両陛下、かつて愛し合った女性、善良な市民……数多くの人を殺めました。罪深い私のために、そして国王陛下が、私が殺めた兄弟が神の国に至れるよう、祈ってください」
老人――シャルル=アンリ・サンソンは、曲がった背をさらに丸くして、回心の祈りを捧げた。
パリの処刑人『ムッシュ・ド・パリ』の息子として生まれたサンソンは、生まれながら処刑人となる未来が定められていた。
初めて刑を執行したのは十六の時、半身不随になった父の代理だった。
首の落とし方は父に何度も教わっていたが、実際に罪人の首を断つのは初めてだ。何度も振っていたはずの剣が、異様に重い。処刑人が躊躇ったところで、足元の罪人の刑が取りやめになるわけではない。息を吐き出し、重い剣を振り下ろす。
しかし、一度で首は落ちなかった。赤い血が飛沫を上げて噴き出すも、罪人にはまだ息があった。空気の抜ける音が呻き声に混じる。
「ごめん、なさい……」
もう一度剣を振り上げようとするも、手が震える。それでも何とか柄を握り締め、今度は重力に任せて思い切り振り下ろした。
ようやく罪人の首が落ちる。しかしサンソンの耳に、歓声は聞こえない。血を流し転がる亡骸を、ただ呆然と眺めていた。
「兄さん。シャルルに処刑人は向いてないよ」
立ち尽くしたサンソンを引きずり家に送り届けた叔父は、開口一番そう言った。しかし、父親は顔の半分が引き攣った笑みを浮かべ、首を振った。
「いや、シャルルみたいな子でないと、処刑人は勤められない」
父は、杖をつき片足を引きずって息子に近づく。サンソンも慌てて父に駆け寄り、体を支える。
「処刑は殺人とは違う。良心も慈悲も無い人間に、処刑をさせてはならない」
「でも、人を殺める事には変わりないよ」
「家業がこの子に苦しみを与えるのは分かっている。でも、この子に継がせるのが、死に向かう罪人の安らぎのためだ」
罪人の安らぎとはどういう意味だろうか。避けられぬ死が迫る中、安らぎなどあるのだろうか。
「父さん、ちょっとよく分かりません」
「なに、お前が分からんでも神は分かるとも」
父は、そう言って跡継ぎ息子の両肩を抱いた。
サンソンが初仕事で学んだ事はただ一つ、「躊躇えば余計に罪人の苦痛が増す」
執行の時は、迷いも躊躇いも憐憫も捨て、手元が狂わないようにだけ神経を注ぐように心掛けた。
その代わり彼の慈悲は、執行前に向けられるようになった。彼は刑の執行前に罪人と面会し、こう言った。
「最期の時を迎える前に、何か望みはありますか? 私が、力の及ぶ範囲で叶えます」
そう言うと、罪人は驚愕した後歓喜した。
さらに彼は、父の代から続けられてきた医療も継承した。処刑人の知識を応用した独学だったが、当時の医学知識より遥かに先進的だった。サンソンはその医術を庶民にも施し、
「サンソン先生のとこの治療は良いよ。医者に見放された患者も治しちまうんだ」
と評判になった。
「次期ムッシュ・ド・パリは今までと違うらしい」
やがて、そう密かに噂されるようになった。
悩み多きサンソンにも、年頃になると春が訪れる。
処刑人は、差別職でありながら貴族並みの生活を送る、珍しい存在だった。サンソンも例に漏れず、社交界に繰り出した。眉目秀麗な伊達男に貴婦人も目を奪われたが、処刑人であるとばれるとすぐに遠巻きに避けられた。それでも、結婚前は恋多き男だったサンソンは諦めずに淑女を口説き落とし、華麗な恋愛遍歴を重ねた。
その中でも、印象的な女性が二人いた。
一人目はマリー・ジャンヌ・ペギュー。後にデュ・バリー夫人と呼ばれる彼女は、自分をしつこく口説くサンソンに根負けしたのか、
「私、先約がある女だから、本気にしないでね」
と、条件付きでベッドを共にした。自分が本命のお相手でないことくらい分かっていた。実際、彼女は数年後にはデュ・バリー子爵に囲われ、やがてルイ十五世の公妾にまで成り上がった。しかし、相手が死刑執行人だと分かっていながらも、ジャンヌは溌剌と笑い、そっと触れてくれる。それだけで満足だった。
二人目は、マリー=アンヌ・ジュジェという農民の娘。
「もし、あなたに愛を捧げたい男がいたら、もし全ての幸せをあなたに捧げようとしている男がいたら、どうしますか?」
「……私もその方を癒したいと思います。でも私、六歳も歳上ですよ?」
「その男は、年齢なんて気にしていませんよ。あなたを愛しているんですから」
本来、処刑人は同じ処刑人の家系の女性としか結婚出来ない。しかしサンソンとアンヌは、サンソンの粘り強い求婚が実を結び、身分の垣根を越えて結ばれた。二人の息子も生まれ、慎ましやかながら温かな家庭を手に入れた。
家族のためと思えば、迷いも少しは晴れた。長男アンリが十一歳になる頃、父が正式に引退し、ムッシュ・ド・パリの称号はサンソンに引き継がれた。
彼が生きた頃、ヨーロッパは激動の時代を迎えていた。
ヨーロッパ各地で広まりつつあった平等主義や国民主義の波は、フランスにも到達した。フランスは財政難を一向に改善出来ないまま、当時『第三身分』と呼ばれた平民の負担は増えるばかり。第三身分達は王侯貴族を見限り、国民を主体とする議会を発足した。当然この流れに反発する王侯貴族も多く、一触即発となっていた。
そんな中、ついに一七八九年七月のバスティーユ牢獄襲撃を皮切りに各地で暴動が起こった。国は慌てて『人権宣言』をするが時既に遅し、第三身分が築いた革命政府の勢いは止まらなかった。
ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットは、あくまで平民による革命を容認しなかった。国王一家は、王妃の実家オーストリアへの逃亡を図ったが失敗、国民からの信頼を失った。
――そんな折、サンソンの仕事にも転機が訪れた。ギヨタン議員が「より苦痛の少ない処刑道具を」と医師アントワーヌ・ルイに依頼し、新たな処刑道具が提案されたのだ。罪人を寝かせて刃を上から落とし、刃の重みで首を斬るという代物だった。
サンソンは、この発明を喜んだ。
「ありがたい。これなら、執行人の力量に左右されることも、失敗をして無駄な苦痛を与えることも無く、最小限の痛みで刑を執行できます」
早速、サンソンはアントワーヌと改良を検討した。
「問題は刃の形ですね。より刃の抵抗を少なくするには、刃を三日月型にするのが良いかと」
「でも三日月型だと、首が細い人には使いにくいんですよね……」
考えあぐねていると、部屋の扉がノックされた。
「やあ。開発は進んでいるかね」
「国王陛下!?」
あろう事か、その客人は時の国王、ルイ十六世だった。実権は革命政府に握られお飾りも同然だったが、それでもその立ち姿は威厳に満ちていた。
「苦痛が少ない処刑道具が開発されるのは良い事だ。朕も見学しようと思ってな。それで、完成しそうかな」
「いえ、それが、刃の形をどうするか で困っておりまして……」
「ふむ」
国王が、設計図を穴が空くほど見つめる。
「刃を斜めにした方が良いのではないかね。そうすれば、首の太さに関わらず使えるぞ」
「成程! では三日月型に加え、斜め刃も試作致しましょう!」
勢い余って膝を打つアントワーヌに対し、サンソンは国王の笑顔を見つめる。
「……陛下。死刑自体を廃止する事は、叶いませんか?」
「ムッシュ……?」
アントワーヌの口から戸惑いが漏れる。にこにこと笑んでいた国王の表情が、瞬く間に曇る。
「いえ、過ぎた事を申してしまいました……」
「いいや。君は悪くない。粛々と刑を執行し続けるその苦悩、察するに余りある。しかし、罪を犯す者が消えない限り、罰する者は不可欠なのだ」
「しかし、何も殺さなくとも……」
「そうだな。しかし民草の中には、凶悪な者への死を要求する者も少なくない。この世には、牢獄に入れただけでは罪を償えない者もいる。そしてそんな凶悪な者の犠牲になるのは、いつも民草だ。朕のような警備も毒味もいる宮殿に暮らす者には想像もつかぬ不安が、罪人への厳罰を求めるのであろうな」
「…………」
黙りこくるサンソンの両肩に、国王の手が置かれた
「君自身は嫌がるだろうが、あえて言わせてくれたまえ。……ムッシュ・ド・パリの称号は、君のような慈愛溢れる者にこそ相応しい」
「私が、でございますか?」
彼は狼狽えた。国王に意見するという無礼を働いていながら、処罰されるどころか国王自らが処刑人に触れられるとは。
「噂には聞いている。君が、処刑人の技術を医療に生かし、多くの民草を救っていると。君が、死刑の執行前に罪人の最期の望みを叶えようと奔走しているとね」
「勝手な事だとは存じております」
「いいや。むしろ君には礼を言いたい。――ありがとう。朕の代わりに、民草の尊厳を守ってくれて」
「そんな、畏れ多い……」
「いいや。きっといつか、君の慈愛が報われる時が来るさ。そうだ。もし朕に何かあったら、君に執行を頼もう」
「陛下! 滅多な事を仰せにならないで下さいませ!」
「はは。では二人共、どうか励んでくれたまえ」
国王は再び笑みを浮かべ、気が抜けたような二人をおいて去っていった。
後にこの機械は、ルイ十六世の斜め刃が採用され、通称『ギロティーヌ』と呼ばれるようになった。
ギロティーヌは画期的な機械だった。紐を放すだけで首が落ちる。 処刑人が不慣れであろうと失敗は少ない。手順が簡略化されようとサンソンの苦悩は晴れなかったが、罪人への気遣いに労力を割けるようになる程度には負担が減った。
そんな、矢先だった。
息子二人に刑の手伝いをさせるようになった頃だった。
ある日、いつも通り刑を執行していると、次男ガブリエルが、慣れていない処刑に立ちくらみを起こした。
次男は、運が悪い事に処刑台の端に立っていた。サンソンがあっと声をかける間もなく、彼の身は処刑台から真っ逆さまに落ちていった。
「ガブリエル!」
観衆がざわめく中、すぐに処刑台の階段を下り、ぐったりした息子に駆け寄った。
サンソンに抱き抱えられたガブリエルは、首があらぬ方向に曲がっていた。
「父さん! ガブリエルは……」
処刑台の上から覗き込む長男アンリに、サンソンは首を振った。医療の知識がある彼には、息子はもう助からないと一目で分かっていた。
民衆が息を漏らす中、冷たくなっていく我が子を、サンソンはただ抱き締めることしか出来なかった。
帰宅後、サンソンは倒れるようにアンヌに縋り着いた。
「すまない、アンヌ……」
妻は、腫れぼったい目を閉じ、夫の頭を撫でる。
「ガブリエルにも悪い事をした。僕がついていながら……」
そこまで言うと、サンソンは食卓に掲げてあった十字架にもつれる足で駆け寄った。
「神よ。なぜ僕ではなく、ガブリエルの命を奪ったのですか?」
「父さん……?」
「なぜ僕を罰しないのですか?それとも、息子を奪われ、罪を背負いながら生きるのが、僕に課せられた罰なのですか?」
「シャルル、落ち着いて。あまり自分を追い詰め過ぎないで……」
妻は、背後から震える夫を抱擁し、涙流れる目を塞いだ。
だが時代は、サンソンが傷を癒す時間さえも与えなかった。
フランスの革命政府とプロイセン・オーストリア連合軍との間で戦争が勃発。フランス軍の敗戦が続く中、夫妻は「フランスが負けるのは、国王夫妻が敵と内通しているからだ」と、槍玉に上げられた。ルイ十六世は王位を剥奪され、国王一家は幽閉された。
さらに勢いを増した革命政府は、共和政樹立の最後の仕上げに取り掛かった。ルイ十六世は、国民を裏切った王として死刑を宣告された。
早速、革命政府の一派であるジャコバン派のリーダー格、マクシミリアン・ロベスピエールの代役が、サンソンの元へ国王死刑の報を届けた。
「私に、王を処刑せよと言うのですか?」
「もうあいつは王などではない。国民を裏切った売国奴だ」
言葉が出ない。ここで逆らえば自分がギロティーヌにかけられる事になる。
沈黙を肯定と受け取ったのか、代役は一週間後に刑を執行すると知らせ、帰っていった。
翌日、サンソンは正装で、タンプル塔に幽閉されたルイ十六世――否、今はただの平民ルイ・カペーに会いに行った。
「いや、まさか本当に君に執行を頼む事になるとは。前に言った通り、よろしく頼むよ」
以前会った時より遥かに粗末な服を着たルイは、死を目前としているにも関わらず平然としていた。
「……市民を恨まないのですか?」
「恨まないとも。朕はかねてより、市民と特権階級の壁を崩そうとしていた。暴力的な革命はとても容認出来ないが、私が崩そうとした壁が今まさに崩されたのは事実だ」
「しかし、何も陛下が処刑されなくとも……」
涙が頬を伝う。するとルイは自らのハンカチを処刑人に差し出した。
「泣くでない。見つかれば君も王党派扱いされるぞ。……もちろん、朕は無実のようなものだ。しかし、私が血を流してこのフランスが潤うならばそれで良い」
サンソンがなおもうなだれていると、目の前に一通の手紙が差し出された。
「君は、処刑前の罪人の願いを叶えてくれると言ってたね。なら、朕からも頼みがある。妻や子供達に会えはしないだろうが、せめて手紙だけでも届けてはくれぬだろうか」
サンソンは、ハンカチで泣き濡れた顔を拭って頷く。
「畏まりました。必ずやお届け致します」
「頼んだよ」
ルイとの再会の後、サンソンはすぐさまロベスピエールに妻子との面会を打診した。しかし拒否されてしまった。
「なぜですか! たとえ罪人であっても、家族を思う権利くらいあるはずです!」
激高すると、看守は手紙を検閲し、「こちらは私の手で届ける」と言って手紙をポケットに仕舞った。
処刑の前日、サンソンは一睡も出来ず、ただ明日が来ないことを祈った。だが無情にも朝日は昇り、サンソンは観念して家を出た。
噂によれば、王党派による国王奪還作戦が計画されているという。もし決行されたらサンソンも巻き添えを食らう。護衛を引き連れ、武装してはいるが、二度と家に帰れないかもしれないと覚悟していた。アンヌにも今生の別れを告げた。
しかし心の底では、国王奪還作戦が決行される事を望んでいた。
「やあ。昨日はぐっすり眠れたよ」
タンプル塔を訪ねると、ルイは本当に眠れたようで、むしろ表情は晴れやかだった。
「なに、君が気に病むことはない。実は昨日家族に面会する許可をもらってね。もう思い残すことは無い」
ルイは刑吏に引き立てられるまでもなく、自ら部屋を出て馬車に乗り込んだ。
幸か不幸か、何の妨害も無く処刑台の下に到着してしまった。
「あれがギロティーヌか。完成品を見るのは初めてだ」
ルイはそう言って笑うと、自ら服を脱ぎ、手を後ろに差し出した。まだ国王を奪還しに王党派が蜂起する可能性に賭けていたサンソンは、わざと手際悪くルイを縛ろうとした。だが王党派が蜂起する気配は無く、無事に縛り終えてしまった。
処刑台に登ったルイは、群衆を前に叫んだ。
「人民よ、朕は無実のうちに死ぬ。しかし朕は、朕の死を作り出した者を許そう。 これ以上血がフランスの土に注がれぬよう、神に祈る」
しかしその声は、打ち鳴らされる太鼓によって遮られた。
「なぜだ! 最期に市民に話す事すら許されんのか!」
ルイは歯噛みするが、太鼓はなおも彼をギロティーヌへと急かす。
もうこれ以上の時間稼ぎは難しい。抗議するルイを半ば強引にギロティーヌへと誘う。
「お鎮まり下さい。きっと陛下の思いは市民にもいつか届きます」
「そうか」
ルイはなおも腑に落ちない様子だったが、観念してギロティーヌに横たわった。
震える手でギロティーヌの紐を放す。かつて国王だった男の首は、平民と同じく容易く切り離された。飛ばされた首を手に取ると、その顔は穏やかだった。首を抱えて群衆に見せると、歓声が沸いた。
その時、頬を冷たい雫が伝った。
「父さん!」
慌ててアンリが父の顔を隠す。王の死を惜しんでいると革命派に発覚すれば、次に処刑台に立つのは自分だ。
「すまない」
サンソンはハンカチで目を拭うと、そのまま王の首に付着した血をハンカチに染み込ませた。
刑の執行後自宅に帰ると、アンヌが飛びついてきた。
「シャルル! アンリも! 無事だったのね!」
「うん。何も滞りなかったよ。何も、ね」
「シャルル……」
目を伏せる夫を椅子に座らせたアンヌが、「あ、そうだ」と一通の手紙を差し出してきた。その手紙に見覚えがあった。
「これ、国王陛下が御家族に宛てた手紙……。どうしてここに?」
「タンプル塔から女中さんが来て、これを置いて行ったの。王妃様が『塔に手紙を置いていたらぞんざいに扱われるから、お返しします』とおっしゃっていたとかなんとか」
「そっか。じゃあ、僕がもらっておくよ」
自室に入り、こっそりとルイの手紙を読んでみる。するとそこには、家族や市民、そしてフランスへの愛が綴られていた。
「なぜだ。これ程までに国を愛していた陛下が、なぜ処刑されなければいけなかったんだ……」
サンソンは自室で泣き崩れた。その手に、王の血を含ませた、ハンカチを握り締めながら。
ルイの願いも虚しく、彼の死後も数多くの血が流れた。革命派はさらに過激化し、治安維持の名目で恐怖政治が執り行われた。王党派や王政時代の政治家だった者などが次々と処刑台に送られた。サンソンも刑に駆り出され、まるで機械かのように毎日毎日ギロティーヌの刃を落とした。
そんな中、サンソンの心の拠り所となったのは、ある禁忌だった。サンソンはカトリックの聖職者を匿い、ルイの血を含ませたハンカチを用いて、ルイを弔うミサを行なっていた。
「良いのですか? もし発覚すれば、あなたも死刑ですよ?」
「構いません」
この禁忌は、サンソンが死亡するまで続けられた。
十月、今度は王妃マリー=アントワネットの処刑を命じられた。
表立って革命勢力と対立した彼女の扱いは劣悪だった。王妃は酷く老け込んでいた。目は落ちくぼみ、ハプスブルク家に特徴的な受け口のせいもあって気難しい表情に見える。粗末なドレスを着せられ、手入れされていない髪は伸び放題になっていた。それでも来客が来ると、毅然と背筋を正すのだ。
「望みは何もありません。夫に先立たれ、子供達とも引き離された。もう私に、残っているものはありませんわ」
そう言ったきり、王妃は一言も話さなかった。
刑の当日、王妃は髪を根元から切られ、粗末な白いドレスと白い帽子を身に着けた。
王妃は堆肥運搬用の荷車に乗せられた。サンソンは抗議したが、扱いは良くならなかった。蝿が飛び顔を歪める異臭が漂う荷車の中でも、王妃は毅然と背を正していた。
王妃が処刑台の下に到着すると、観衆から「オーストリア女」「売国奴」と怒号が飛び交う。それでも王妃は眉一つ動かさず、ギロティーヌに向かう。
その途中、王妃がサンソンの靴を踏み付けてしまった。
「痛っ」
思わず声が漏れるサンソンに、その時初めて王妃が眉を下げた。
「あらごめんなさいねムッシュ。わざとではなくてよ」
王妃がギロティーヌに横たわり、刃が落とされる。
首が落ちた瞬間、広場が「共和政万歳!」と大歓声に包まれた。しかし群衆は執行を見届けると昼の街に繰り出し、広場は閑散となった。鮮血で染まった王妃の体や首は無造作に荷車に放り込まれ、撤収させられた。
一人取り残されたサンソンは、血飛沫が飛んだ靴を、まだ王妃に踏まれた感触が残る足を、ただ呆然と見つめていた。
さらにその年の十二月だった。
「ジャンヌ……何故ここに……?」
今度処刑を命じられたのは、マリー=ジャンヌ・デュ・バリー、かつて愛し合ったジャンヌだった。
「ねえ、シャルル、助けて。私まだ死にたくないの。ねえ」
「……すまない。僕に刑を止める権利は無いんだ」
「分かってる、分かってるわよ! でも何で私が殺されないといけないの?」
かける言葉など、見つかるはずもなかった。
ジャンヌは、処刑台に上がっても観衆にぼろぼろと涙を零し訴え続けた。
「ねえあなた達! 何を嬉しそうに見てるのよ! 私今から殺されるのよ? 」
彼女は、サンソンにも縋り付いた。
「ねえシャルル! 何あの機械! 私あんなのに殺されるの!? 嫌よ! 今すぐ私と一緒に逃げてよ! 私達、あんなに愛し合ってたじゃないの!」
「あ……」
年老いたジャンヌの泣き叫ぶ顔に、若い頃の溌剌とした笑顔が重なる。
「ジャンヌ……ごめん……!」
もう限界だった。サンソンは転がり落ちるように処刑台を下り、階段の下でうずくまった。
帽子を目深に被り耳を塞いでしまった彼には、もうジャンヌの叫びは聞こえなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「父さん、終わったよ」
アンリが、父の肩を叩いた。
「すまないね、アンリ。見苦しい所を見せてしまった」
「いえ」
広場の方を見る。いつもはやんやと歓声を上げている観衆が、黙りこくって血に染まったギロティーヌを見つめていた。
「俺達、何してんだろうな」
観衆の1人が、そっと呟いた。
ルイの処刑以降、サンソンの鬱憤は溜まる一方だった。
恐怖政治の中、命は酷く軽くなった。役人を勤めていたから、王党派だったから、ジャコバン派に逆らったから、カトリックの聖職者だから、ただ気に入らなかったから――そんな理由で、老若男女を問わず、まるで麦を収穫するように斬首されるようになった。
しかし、うんざりする慌ただしさの中でも、サンソンはいつもの問い掛けは欠かさなかった。
「刑の前に望む事はありますか」
善良な神父も殺した。
「孤児院の子供達との、別れの時間を作っていただけませんか」
偉大な科学者も殺した。
「首を斬られてから、何秒間意識が残るか実験がしたい」
政治家の未亡人も殺した。
「夫に会いに行くんだもの。うんとおめかししたいわ」
どう考えても無実な少女も殺した。
「パパとママンに会えたらそれでいいわ」
サンソンはせめての餞として、彼らの最期の望みを叶え続けた。遺族に恨み言を言われた事は無い。彼らは涙に暮れながらも、「ありがとう」と言って去っていった。しかしサンソンの心は晴れない。
何度叫びたくなっただろうか。罪なき者達の命が容易く刈り取られているのに、なぜ誰も助けようとしないのか。なぜ誰も声を上げないのか。民衆が国王を蹴落としてでも得たかったのは、自由と平等ではなかったのか。
答えは分かっている。簡便で苦痛が少ない人道的なはずのギロティーヌの存在が、皮肉にも死刑への抵抗感を低くしているのだ。さらに、貴族達が恥を晒すまいと毅然と処刑台に登ったのもあり、度重なる処刑に完全に感覚は麻痺し、人が殺されるというのにお祭り騒ぎのように熱狂していた。ジャンヌが泣き叫ぶまで、誰も事態の深刻さに気付かなかった。
精神が摩耗していく内にさらに数ヶ月が過ぎた頃、時勢が動き始めた。ついに恐怖政治の反対派が蜂起し、ロベスピエールらジャコバン派の主だった者は逮捕、死刑を言い渡された。
何と皮肉な事だろう。恐怖政治の元に数え切れぬ人をギロティーヌに送ってきたロベスピエールは、回り回って自分がギロティーヌに送られる事になった。
サンソンがロベスピエールらの処刑を命じられたのは、彼の失脚の翌日だった。しかも、一日で二十二人、翌日にはさらに七十人のロベスピエール派を処刑しろと言われたのだ。
「無茶苦茶だ……」
当然、一人一人に望みを聞いている時間の余裕などない。それでも彼は、せめてロベスピエールだけには面会しておきたかった。
「僕は自由・平等・博愛を求めた。その実現のためなら、血を流す事も厭わなかった。そしたらどうだ。処刑を命じてきた人間が、今度は自分が処刑される側だ。まったく、何のために生きてきたのやら」
その横顔は、どこか寂しげだった。
「君はどうだい? 僕を笑うかね」
サンソンは首を横に振った。
「いえ。僕は王であろうが平民であろうが関係なく、最期の望みを叶え、刑を執行する。それだけです」
「……では僕も、国王と同じく扱うとでも言うのかね」
「はい。王も平民も、死の前では平等ですので」
サンソンがそう言い切ると、ロベスピエールはうなだれた。
「……はは、平等と博愛はこんな所にもうあったのか。……情けないな、僕は」
翌日、ロベスピエールは他の死刑囚に混じって、その首は王と同じく容易く切り離された。
ジャコバン派の粛清以降は、恐怖政治は収束し、サンソンの仕事も減った。しかし摩耗した精神が回復することはなく、翌年にはムッシュ・ド・パリの称号をアンリに明け渡し引退した。
処刑人として生きた事に今更悔いは無い。しかし、無実の人を次々手にかけた事だけが心残りだ。どうか、革命の犠牲となった全ての善良な魂に平安あれ――。
その年、サンソンは体調を崩し、伏すことが多くなった。温かい季節の中、彼は人生の終焉を悟っていた。
革命の渦中で多くの人間を処刑した男に訪れた最期は、笑ってしまう程穏やかだった。妻や息子、幼い孫達が度々顔を覗かせては、体を気遣う言葉をかけてくれる。体調は日に日に悪くなっていくが、自然と苦痛を感じなかった。
「そろそろ、かな」
手足から力が抜けていき、視界がぼやける。鼓動も呼吸も、弱く速くなっていく。
朧気な視界の中で、アンリが言った。
「父さん、最期に何か望みはある?」
虚ろだったサンソンの目に、少し光が戻る。
「陛下の手紙は、僕の棺に入れてほしい。あとは……あのハンカチを、握らせてほしい」
「分かった」
アンリは、父の右手にルイの血が付いたハンカチを置き、父の手を両手で包み込んだ。
「これで、いいかな?」
息子の手の温もりに、サンソンの表情がほころぶ。
「いいものだね、最期に望みが、叶うのは――」
七月の穏やかな風の中、処刑人シャルル=アンリ・サンソンは、ひっそりとその生涯に幕を下ろした。