生きていてよかった
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
上履きで階段を一段一段蹴飛ばすようにのぼる。続く階段は、窓から入る朝日に照らされ、きらきらと眩しい。
早朝、生徒が誰もいない学校は、いつもとは違い、ずいぶんと平和で神聖な場所のように思える。でも、そんなのは幻想だと僕は知っている。神聖な場所なんかであるはずがない。こんな地獄みたいな場所。
踏み込む度に、昨日殴られた下腹部が痛む。蹴られた太ももが痛む。痛いし、悔しいし、悲しい。でも、もうどうだっていい。僕は飛ぶ。
空は白々と晴れていた。天気予報でも、今日は全国的に晴れだと言っていた。日がもう少し高く昇れば、真っ青な濃い夏空が拡がるだろう。からりとして気持ちのいい日になるに違いない。
母と姉の顔が思い浮かんで、僕の足は重くなる。しかし、もう決めたことだ。母と姉に宛てた手紙は、今朝、学校に来る途中でポストに投函した。明後日には家に届くだろう。ふたりがその手紙を読んでどう思うか、なんてことは、いまは考えないようにする。
携帯で撮られた様々な写真のことも気になるけれど、それもやっぱりどうだっていい。全部、全部、どうでもいい。僕は、いまから飛ぶんだから。
階段をのぼり切り、屋上の扉に手をかけた。その時、
「鍵かかってるぞ」
背後から声をかけられ、びくりとする。振り向くと、ひとつ下の踊り場に男子生徒が立っていた。いつのまに、そこにいたのだろう。自分以外に、こんなに早く登校している生徒がいるとは思わなかったので、驚いた。そして、その風貌にぎょっとする。彼は、病的なくらい肌の色が白かった。七月、衣替えはもうとっくに終わっているのに、長袖のカッターシャツを着ている。長い前髪が顔の鼻のあたりまでをもっさりと覆っていて、表情が読み取れない。厚い前髪の間から、左目だけがチラリと覗く程度だ。ゆうれいみたい。いや、ゆうれいと言うよりも、なんだか妖怪じみていた。上履きに目をやると、緑色だった。一年生か。
しかし、彼の風変わりな外見のことよりも、僕は彼の発した言葉のほうが気になった。
鍵が、かかってる?
ドアノブを下ろす。下りなかった。ガキン、と重苦しい金属音だけが響く。うそだ。ガキガキとドアノブを揺らしながら無駄な抵抗をする僕に、彼が言った。
「屋上に出たいのか?」
自分の詰めの甘さを呪いながら、僕はそれでもきっぱりと頷いた。
「出たい」
彼はゆっくりと階段をのぼり、僕と同じ場所に立つ。そうしてみると、彼はかなり背が高かった。僕は少し見上げなければならない。
「俺は鍵を開けることができる」
彼は、ズボンの右ポケットから鈍く光る針金のようなものを取り出して見せた。
「どうだ。取り引きをしないか」
針金をポケットに戻しながら、彼は軽い口調で言う。
「取り引き?」
「俺が望むものをおまえがくれたら、俺は屋上の鍵を開けてやる」
「な、なにがほしいの?」
やっぱりお金だろうか。お金は、もうない。あいつらに搾り取られてしまった。しかし、彼は予想外のことを口にした。
「おまえの命」
彼は、唇の左端をつり上げて、ニヤリと笑う。
「おまえの命を、俺にくれ」
あっけにとられたけれど、僕はすぐに頷いた。
「いいよ。あげる」
どうせ、これから飛ぶんだ。こんな命くらい、いくらでもくれてやる。
「なら、誓約書を交わそう」
彼はそう言って、ズボンの尻ポケットから黒い手帳を取り出し、付属のミニボールペンでサラサラとなにかを書いた。そして、そのページをちぎって、僕の目の前にかざす。そこには、
誓約書
甲は乙に屋上の扉を開けてもらう代わりに、甲の命を乙に与えることをここに誓う。
という文言が、走り書きのような文字で書かれていた。その下に今日の日付と『甲』『乙』と記された空欄がある。
「甲のところはおまえの名前、乙のところは俺の名前」
彼は言った。
「高校名とか学年も書いておいたほうがいいかな」
ひとりごとのように呟き、彼は手帳を台紙にして、そのメモのような誓約書にまたなにかを書き込んだ。その紙を、ボールペンといっしょに、僕に差し出す。
「はい。書いて」
乙の欄には、
香坂高校普通科一年五組 六野幸太
と書かれていた。
「俺が書いたのと同じように書けばいいから」
僕は頷いて、屋上の灰色の扉を台紙代わりに自分の名前を記入した。
香坂高校普通科二年四組 恩田聡泰
「お、ん、だ、さ、と、や、す」
六野くんは、ボールペンを握る僕の手元を覗き込みながら、一文字一文字を声に出して読んだ。
「オンちゃんだな」
ふいに言われ、僕は目を瞬かせる。
「恩田だから、オンちゃん」
言って、六野くんはニヤリと笑う。僕も曖昧に笑みを返した。一応、僕のほうが先輩なんだけどな、と思わなくもなかったけれど、そんなことは些細なことだった。それに、僕は誰もが安心して見下せる矮小な存在なのだ。少なくとも、あいつはそう思っているだろうし、実際にそう言っていた。だから、後輩に敬ってもらえないのもあたりまえなんだ。
誓約書を渡すと、「よし」と、六野くんは頷いた。
「ちょっと痛いけど、我慢しろよ」
そう言って、六野くんはズボンの左ポケットから校章を取り出し、そのピンで僕の親指をちくりと刺す。
「痛いか。痛いよな。ごめんな」
六野くんは小声でぶつぶつとそんなことを言っていた。ピンを抜いた僕の親指に血の玉がぷっくりとまるく盛り上がり、やがて形をくずして流れた。
「捺して」
彼は誓約書を、再び僕に差し出す。僕は、自分の名前の横に血の拇印を捺した。六野くんも同じように拇印を捺す。
それから、同じものをもう一枚作った。今度は、僕が本文を書く。六野くんは僕が本文を書いた誓約書を、僕は六野くんが本文を書いた誓約書を、互いに持つことになった。六野くんは、それを大事そうに手帳に挟んだ。
だけど、と僕は思う。この誓約書には意味があるのだろうか。屋上の扉が開いたら、僕は飛ぶ。遙か下のグラウンドに向かって、一世一代の大ジャンプだ。それで、すべてが終わるのに。
「よし。これで、オンちゃんの命は俺のもんだ」
六野くんは親指をペロリと舐めて、ニヤリと笑った。唇の左端が引きつったように持ち上がる。
「オンちゃん。俺に許可なく勝手に死んだりするなよ」
僕は絶句した。なんだか騙されたような気がした。
「ちょ、ちょっと待って。困るよ、六野くん」
「ロクでいいよ」
「ロクくん」
「ロクでいいって。呼びにくいだろ、それ」
「じゃあ、ロク。それじゃあ困るんだ」
僕は前に進まない会話に焦れながら言う。
「僕は、屋上から飛ぶつもりだった。死ぬつもりだったんだ」
「知ってるよ」
ロクは、あっさりと言った。
「だってオンちゃん、いまにも死にそうな顔してた」
「それなら……」
勝手に死ぬな、なんて、意地悪なことを言わないでほしい。
だけど、冷静に考えたら、ロクの言うことはなにひとつ間違ってはいない。僕の命は、彼のものになってしまった。そうなったら、僕がそれを勝手に壊したり捨てたりすることはできない。だって、それはもう、僕のものじゃないんだから。
「約束だ。扉を開けてやる」
ロクは、ポケットから針金を取り出して笑った。
ロクは鍵を難なく開けてしまった。屋上の扉は、内側にも外側にも鍵穴がついていて、ロクは、扉を閉めた後、その外側の鍵穴にも先の曲がった針金を二本突っ込み、施錠した。施錠には少し時間がかかった。
その作業が終わると、ロクは屋上のど真ん中に真っ直ぐ立った。ぴんと背筋を伸ばした立ち姿を、僕はきれいだと思った。ロクは、ゆっくりと半歩ずつ足を肩幅に開き、腰を落とす。そして、ものすごくスローな動きで不思議な舞いを舞った。
すっかり意気消沈してしまった僕は、することもないので、錆びたフェンスを背に座り込んだ。ロクが舞う姿をぼんやりと眺める。それから、空を仰いでみた。すこん、と抜けるような青だ。よくよく見ると、僕がもたれているこのフェンスは、かなりの高さがある。これをのぼろうと思ったら大変だろうな、と他人事みたいに思った。
「いまの踊りみたいなの、なに?」
一通り終わったのか、ロクが僕の隣に来て腰かけた。僕は、さっきの不思議な舞いについて尋ねた。
「太極拳」
「ああ、そうか。テレビとかで見たことある気がする」
「踊りというより、体操だな。日課なんだ。早朝の屋上で二十四式をやるのが」
二十四式というのがなんなのか僕にはわからなかったのだけど、太極拳の種類とかそういうものだろうと思った。
「毎日やると健康になるぞ」
ロクは言った。
「オンちゃんはきっと、心も身体も不健康だ」
僕は黙っていた。ロクの言うことは、たぶん正解だ。外見だけ見るなら、ロクのほうが断然不健康そうなんだけど、よく見ると、ロクの身体には、ちゃんと適度に筋肉がついている。
「死にたいんだ」
僕は不健康っぽく呟いた。
「毎日、殴られたり蹴られたりするんだ。服で隠れて見えないところをね。それで、女子の目の前で裸に剥かれて、携帯で写真を撮られる。結構、頻繁にだよ。それを拒否すれば、立ち上がれないくらいボコボコにされた後、お金を要求される。もう、いやなんだ」
「もっと抵抗してみたら」
ロクは簡単に言う。それは、抵抗できるひとの物言いだ。抵抗すらできない矮小な存在の気持ちがわからないひとの意見。
「できないよ。僕の抵抗力なんて微々たるものだし、抵抗なんてしたら、それ以上にまたやり返される。もう、本当に死んじゃいたい。ここから逃げたい」
ここまできたら、ただの愚痴だ。僕にはもう、今朝みたいな強い決意は残っていない。死にぞこなったいま、その不平不満をロクにぶつけているだけだ。でも、ロクはいやな顔ひとつせずに聞いていた。前髪で見えないだけで、本当はいやな顔をしてるのかもしれないんだけれど、そういう感じは伝わってこなかった。なにも思っていないのかもしれない。
「逃げたっていい」
ロクは静かに言った。
「だけど、オンちゃんは逃げ道を間違ってる。逃げ道は、死ぬことだけじゃない。結構いっぱい方法はあるよ」
僕は目を閉じて、ロクの声を聞く。少し高めで硬質なロクの声は、大人と子どものちょうど中間みたいな不安定さがある。
「親に話して転校する。学校をやめて働く。休学してそいつらが卒業するのを待ってから学校に復帰する。格闘技を習って逆にボコボコにしてやる。それか、ひたすら我慢して、卒業を待つ」
ロクは、『方法』とやらをひとつひとつ挙げていく。
「どれも、死ぬよりはマシだろう。どうせ死ぬんなら、そういうのを試してからでもいいんじゃないか。死ぬくらいの決意があるんなら、どれかひとつくらいできると思うよ」
ロクの言うことは、正しい。正しいし、頭では理解できる。理解はできるけれど、それを実行に移すことができるかどうかというのは、また別の話だ。特に、僕みたいに体力もなく意志も弱い人間ならなおさらだ。だから、僕はそれには答えず、
「愚痴を聞いてくれて、ありがとう」
と、お礼だけ言った。
チャイムが鳴る。予鈴だ。もうそんなに時間が経ったのか、と重い腰を上げる。
立ち上がった僕の右手を、ロクは座ったまま引きとめるように掴んだ。
「授業出るの?」
「うん」
僕はロクを見下ろして頷いた。ロクの表情は、やっぱり前髪で見えないけれど、その代わり、ボタンを外したカッターシャツの首元から覗く青白い鎖骨が目に入り、少しどきりとした。
「なんで?」
そう尋ねられ、
「なんでって……」
僕は言葉に詰まった。授業は出なきゃいけないものだ。だって、それが決まりだから。ルールだから。
「オンちゃん、今日、死ぬつもりだったんだろ? 死んでたらさ、授業なんて出てなかったんだぞ。だったら、ずっとここにいてもいっしょだよ」
ロクは言う。僕が今日死んでいたとしたら、僕だけじゃなく学校全体が授業どころではなくなっていただろう。
僕は、想像してみた。グラウンドに横たわる、僕の死体。べっちゃりとつぶれて、変なふうに曲がった身体からは、赤黒い血が放射状に散っている。結構遠くまで。そんな凄惨な状況で授業が行われる学校は、もはや学校ですらない。
中止になった授業に出られないのと、実際にある授業に出ないのとでは全然違うのだけど、
「ここにいろよ。行かなくていいよ、教室なんか」
強い調子で言われ、僕は再び座り込んでしまう。ロクは、僕の手を握ったまま離さない。おそるおそる握り返すと、ぎゅっと、さらに強く握られる。
「行かなくていいよ」
ロクは、もう一度言った。
「不当に虐げられる場所なら、行かなくていい」
涙が出た。ロクに気づかれないように、僕はそれを左手でそっと拭った。
ポケットの誓約書を、なくさないようにしよう、と思った。
「聡泰!」
次の日、午後から学校を早退した。玄関でただいまを言うと同時に、姉がものすごい勢いで、どたどたとこちらに突進してきた。
「あんた、なんなのこれ!」
「あ」
ヒステリックに叫ぶ姉が手に握りしめているものは、僕が昨日の早朝、ポストに投函した手紙だった。母と姉に宛てた、遺書。回収するつもりではあったけど、届くなら明日だと思っていたので油断していた。
「これ、これって、遺書じゃない」
その手紙には、僕が昨日の段階で学校の屋上から飛んで死んでいるということや、いままであいつらにされてきたひどいことの数々が、事細かに綴られている。それを書いた時には死ぬつもりだったので、もうどうでもいいや、と、全てを包み隠さず告白しているのだ。
「そりゃ、あんたは暗いしダサいし顔も普通だし、正直、友だちに弟ですって紹介するの、ちょっと躊躇っちゃうわよ。でもね、だからって、ここに書いてあるような、こんなひどいことされていいわけないじゃない! ずっと黙ってるなんて、バカじゃないの!?」
姉は、すごい剣幕で捲し立てた。捲し立てながら、泣き出した。
「死んじゃったかと思ったじゃない!」
僕は驚いていた。声が出なかった。姉には、きらわれていると思っていたのだ。普段、僕とは必要以上の口をきかないし、目も合わせなかったから。
「死ぬのは、失敗したんだ」
僕は、やっと口を開いた。
「お姉ちゃんは、僕のこときらいなんだと思ってた」
正直に言うと、
「きらいなわけ、ないじゃない。姉弟なんだから」
姉は怒鳴るように言った。
「ちょっと、接し方がわかんなかっただけよ」
その言いぐさに、僕は思わず笑ってしまう。それを見た姉も、涙でぐちゃぐちゃの顔で少し笑った。
「お姉ちゃん、今日、学校どうしたの?」
姉は、地元の公立大学へ通っている。どうしても大学へ行きたかった姉は、家計を少しでも助けるために、実家から自転車で通える比較的学費の安い大学を選んだのだ。学費も、奨学金とアルバイトで大半は姉が自分で払っている。えらいと思う。そんな姉なので、授業をサボったりなんて、そんなもったいないことをするはずはない。こんな早い時間に家にいるのは珍しいのだ。
「午後からいっこしかなかった授業が休講になったの。突っ立ってないで上がれば。ここは、あんたの家よ」
沓脱でぼうっと立っていた僕に、姉が言った。
制服からティーシャツとジャージに着替えて、リビングの座椅子に座る。
「お姉ちゃん。僕、学校行きたくない」
キッチンで、コップに麦茶を注いでいる姉の背中に向かって言ってみた。
「行かなくていいわよ」
姉は、吐き捨てるように言った。
「ひどいことされてるんでしょ。そんなとこ、行かなくていい」
姉がコップを渡してくれる。僕は、麦茶をひとくち飲んだ。姉は続ける。
「あんたはまだ高校生だから、学校での生活が全てだと思ってるかもしれない。あたしも、高校生の時はそう思ってた。学校に馴染めなかったら終わりだって。でも、学校での生活が全てってわけじゃないのよ。学校に馴染めないからって、終わりじゃないの。たとえば、バイトとか、習いごととかしてみるとね、そこで新しい人間関係ができるのよ。学校が楽しくなくても、そっちは楽しいかもしれないのよ」
「そこでもいじめられたら?」
僕の不健康な問いに、姉は顔をしかめた。
「やめたらいいじゃない。簡単よ。学校だって、本当はやめたっていいのよ。学校をやめるって、世間では良くないことのように言われてるから、実際にやめるのって勇気がいるし、すごくしんどいかもしれない。だけど、学校へ行くのが死んじゃうくらいつらいんだったら、死ぬ気でやめたらいいのよ人権を侵害されながら通うような学校なんて、学校じゃないわよ」
「そっか」
僕は頷いた。
「もう少し、行ってみるよ。学校」
「どうして、いまの話の流れでそうなるのよ」
姉は、飲みかけた麦茶にむせながら言う。
「『行かなくていい』って、言ってもらえるだけで、ずいぶん気が楽なんだ。『行け』って言われて行くのはしんどいんだけど。いつでも、『学校に行かない』って選択ができると思ったら、ずっと楽になる」
姉は、困ったような表情をしていた。きっと、納得はしていないんだろうなあ、と思う。
「それに、友だちができたんだ。そいつも、『行かなくていい』って言ってくれた」
そう言うと、姉は表情を明るくし、うんうんと頷いた。
「いいわね。友だち。その子のためにも、もう死のうなんて思うんじゃないわよ。もちろん、あたしと母さんのためにもね」
「うん」
というか、僕の命はもう、そいつのものなのだから、死ぬに死ねない。
「あんたは、なんで早退したの? 今日もひどいことされたの?」
姉が、ふと気づいたように暗い声で問う。
「もうこんなことやめてほしいって、頼んできたんだ」
「どうだったの」
「ボコボコにされた」
姉はまた、泣きそうな顔になる。
「だいじょうぶだよ。慣れないけど、我慢はできる」
「だいじょうぶじゃないわよ」
姉は目をこすりながら、弱々しく言った。
「今日は頼みを聞いてもらえなかったし、これ以上学校にいても殴られるだけだから、早退した」
明日がこわいよ、と笑う僕を、姉は鋭い目つきで睨んだ。
「殴られたとこ、見せて」
姉が言うので、僕はティーシャツをめくってお腹を見せる。無数に散る、いびつな紫色の痣を見て、姉はまた泣き出した。
「だいじょうぶだって」
「だいじょうぶじゃないわよ」
姉は泣きながら、叫ぶように言う。
「なによ、そのやわらかそうなお腹は! 腹筋くらい、鍛えなさいよ!」
早朝の屋上で、ロクは二十四式太極拳をゆっくりと舞っている。舞っている、という言い方が正しいのかどうかはわからないけれど、僕には、舞っているように見える。きれいだ。
それを見るともなしに眺めながら、僕は腹筋運動をしていた。「腹筋くらい、鍛えなさいよ!」という姉の言葉には、目から鱗だった。腹筋が強ければ、お腹に暴行を加えられた時の痛みが軽減するかもしれない。気安めかもしれないけど。
二十四式太極拳を舞い終えたロクは、筋トレ中の僕の隣に来て座る。
「お母さんには、まだ、言わない、ことに、したんだ」
上半身を必死で持ち上げながら、僕は途切れ途切れに言う。
「お母さん、忙しいし、心配、かけたく、ないから」
あの手紙は、姉がフライパンの上でチャッカマンで火を点けて燃やしてしまった。「あんたはもう一生死なないんだから、必要ないでしょ」と言って。
「オンちゃんの姉ちゃんは、いい女だな」
僕の話を聞いたロクが言う。
「ひとの姉を女として見ないでよ」
「いや、見るだろ。普通」
そうか。見るのか、普通。
「今日もやるのか? あれ」
ロクが言った。
「やるよ」
僕はきっぱりと返す。
「やってもやらなくても、されることは同じなんだって、昨日わかったし」
僕をいじめているグループの中心人物は、川上という。川上正義。『正義』と書いて、『まさよし』と読む。川上総合病院の院長の孫。地元のひとのほとんどは、この川上総合病院にお世話になったことがあるはずだ。僕たちの通うこの高校も、川上総合病院から決して少なくはない寄付金を受けていると聞く。だからかどうかは知らないけれど、川上は素行が悪いにも関わらず、かなり野放しにされていた。しかし、川上の成績はダントツで学年一位だし、外見だけを見ると優等生のように見える。顔も悪くない。悪いのは、その性格だ。
この高校に入学して半年ほどで、僕は川上に目をつけられた。なぜ目をつけられたのかは、わからない。僕が、暗いしダサいし顔も普通だし、友だちですって紹介するのをちょっと躊躇っちゃうようなやつだからかもしれない。いずれにしても、自分ではどうしようもなかった。殴られながら、理由を尋ねたこともある。川上はだいたい、「気に入らねーから」と「ウザいんだよ」の二言くらいしか言わなかった。こいつ、学年トップのくせに語彙が少ないな、と暴行の痛みに耐えながら思ったのを覚えている。お金に困っているわけでもないくせに、僕に時たまお金を要求するのは、やっぱり「気に入らねー」し「ウザい」からなのかもしれない。
「もうこんなことやめてください!」
そう叫んで、僕は昨日の朝、登校して来た川上に土下座をした。
同じ学年なのに敬語になってしまうのは、いじめられっ子の悲しい性なのかもしれない。というか、土下座自体が間違っている気がしないでもない。
「なに言っちゃってんのー? 恩田くんてば」
床に頭をつけたまま、川上の、こちらを見下したような軽薄そうな声を聞く。
「こんなことってなんだよ」
「僕をいじめるのは、もうやめてください」
「はあ? オレがいつ恩田くんをいじめたって言うんだよ? なあ?」
川上の取り巻きたちの笑い声が、ざわざわと耳に貼り付く。
言っても無駄なのかな、と思う。だったら面倒くさいな、と、くじけそうになる。
「お願いします!」
それでも、僕は声を張り上げた。もう、それこそ死ぬ気だった。
その時、ぐん、と圧力を感じた。息が止まる。後頭部を踏んづけられたのだ。
「言ってみろよ。オレがいつ、おまえをいじめたってんだよ。ああ?」
まさにいまだよ、と思ったけれど、言葉が出ない。かわいた咳だけが出た。
両側から二の腕を掴まれ、身体を持ち上げられる。目の前に、川上の顔があった。
「なんだよ、その目」
川上が言った。お腹に蹴りが入った。僕はいま、一体どんな目をしているのだろう。
後は、されるがままだった。痛くて苦しくて、このまま死んじゃうかもしれない、と思う。それもいいかもしれない、と思う自分と、死にたくない、と思う自分がいて、なんだかおかしかった。
「なに笑ってんだよ」
という川上の声で、僕は自分が笑っていることに気づいた。
「こいつ、マゾなんじゃね?」
周囲の笑い声が、わんわんと頭に響く。その雑音の中、
「オンちゃん」
クリアな声が聞こえた。大人と子どもの、ちょうど中間みたいな声。
ぱしん、という音がして、教室がしんと静まりかえる。どういう状況かわからなくて、閉じていた目を開こうとしたのだけど、まぶたに力が入らない。
「行こう、オンちゃん」
そう言ってロクは、僕の身体を軽々と肩にかついだ。お腹が圧迫されて苦しい。
静まりかえった教室に、ロクの声が響いた。
「こいつの命は俺のもんだ。すり減らすのはやめてくれ」
ロクは、僕をかついだまま走り出した。階段をのぼっているような感覚の後、ゆっくりと身体を下ろされた。ガチ、と金属音がしたので、ああ、屋上だ、とわかる。ロクが鍵を開けたのだ。
ロクは再び僕の身体をかつぐと、屋上への扉を開けた。風を感じる。
「オンちゃん」
フェンスに僕の身体をもたれさせながら、ロクが呼ぶ。
「ロク、ちょっと待って。まぶたに力が入らないんだ」
「ああ」
ロクは言って、僕の身体を抱き寄せた。
「痛かったな」
ロクは、僕の頭を撫でる。
「ロク。僕のこと、かわいそうだと思ってる?」
「思ってないよ」
ロクは笑う。
「かわいそうなのは、あいつらだろ?」
「うん」
頷いて、僕はやっと目を開けた。ロクの、前髪に隠れた顔が目の前にあって、それが涙で滲んだ。
「見られたくなかった」
あんなところ。あんな、みっともないところ。
「オンちゃん、かっこいいよ」
ロクは言った。
「かっこよかったよ。オンちゃん、あいつのこと、キッと睨んでさ、ボコボコにされても泣かなかっただろ」
「いま泣いてるけど」
ロクは、唇の左端を持ち上げて笑った。
「泣いてもいいよ。俺しかいない」
ロクはカッターシャツの袖で、僕の濡れたほっぺたをぽんぽんと拭った。
ごっ、と鈍い衝撃を受けた。顔を殴られたのは初めてだ。唇の端に、ピリリと痛みが走る。昨日と同じように土下座をした、直後のことだった。
「恩田くーん。昨日のあいつ、なんなの?」
川上が言った。前髪を掴まれ、伏せていた顔を無理矢理上げられる。
「あいつ、オレに平手打ち食らわせやがったんだよね」
昨日の、ぱしん、という音はそれだったのか、と妙に納得する。
「あいつ、おまえのなに? トモダチ?」
川上はヘラヘラと笑う。
「オレにも紹介してほしいなあ」
ぞっとした。背筋に冷たいものが走る。それとは正反対に、どくどくとこめかみが脈打って頭が沸騰したみたいに熱くなった。こいつ、ロクにまでひどいことをするつもりなのか。
「おまえ、いまから行ってさ、あいつ連れて来いよ」
いやだ。そんなの、だめだ。ロクに手を出したら、許さない。絶対許さない。
「いやだ」
僕は言った。我ながら、かすれて聞き取りにくい声だった。
「あ? なんて?」
「いやだって言ってるだろ! ロクになにかしたら、許さない! 本当にもうやめろよ、こんなこと!」
がつん。と顎に一発食らって、僕の視界がぶれた。目眩がして、身体が、ずん、と沈み込むように重くなる。口の中に、鉄の味がひろがった。
目を開けると、視界いっぱいに白い天井だった。眩しいな、と思った瞬間、視界がロクの顔で遮られた。
「オンちゃん、平気か?」
ロクが、心配そうな声音で、僕の顔を覗き込んでいる。前髪が顔にかかって、くすぐったい。
「うん。ちょっとくらくらするけど」
言いながら、身体を起こす。頭に乗っかっていたらしい氷のうが布団の上に、ぼとん、と落ちた。殴られた後の記憶がない。気を失ってしまったのだろう。
「先生は職員室に行ってる。オンちゃん、脳しんとうだって。でも、なっかなか目覚まさないもんだから、もうすぐ救急車来ちゃうぞ」
「救急車?」
そんな大げさな。と思ったけれど、気を失ったのは初めてなので、やっぱりちょっと不安ではある。
「びっくりした。オンちゃんの教室行ってみたら、オンちゃん動かなくなってんだもん。あいつらも、さすがに慌ててたぞ」
「ロクが、保健室に運んでくれたんでしょ?」
当然そうだろう、と思って訊いたのに、ロクは首を振った。
「いや、俺じゃない。驚くと思うけど、ここまで運んだのは、あいつだ」
「……川上?」
信じられない。
「そう。俺も驚いたけど、あいつの行動がいちばん早かった。オンちゃんをお姫様だっこして保健室まで連れて来た。情けないけど俺、することなかったな。あいつんち、川上総合病院なんだって。知ってたか?」
僕は頷く。ロクは、唇の左端をつり上げた。
「オンちゃん、たぶん、川上総合病院へ運ばれるぞ」
皮肉だな、とロクは言った。そうかもしれない、と僕は笑った。
「あいつ、ロクを呼んで来いって言ったんだ。もしかしたら、ロクにもひどいことするかもしれない。だから……」
だからロク、僕なんかとはもう、関わらないほうがいい。そう言いたかった。でも、言えなかった。僕のほうが、ロクといっしょにいたかったから。
出会って何日も経っていないのに、おかしいのかもしれない。僕はロクを友だちだと思っているけれど、ロクのほうはどう思っているのかわからない。もしかしたら、僕たちは友だちではないのかもしれない。でも、僕は、ロクの舞う二十四式太極拳を見るのが好きだ。ロクの、大人と子どものちょうど真ん中の、不安定な声が好きだ。ロクの前髪の間から覗く、左目が好きだ。ロクの暖かい手が好きだ。笑った時につり上がる口元が好きだ。ロクといると、いじめられているみじめな自分を忘れて、普通の高校生になれる。ロクといっしょにいたい。毎日、ロクのことを見ていたい。ロクのことをもっと知りたい。だけど、それは全て僕の我が儘だ。そんなことのために、ロクをひどい目に合わせるわけにはいかない。
「ロクは、僕なんかに関わらないほうがいい」
やっとの思いで、そう言った。涙が出そうだった。
「僕も、もう屋上へは行かない」
「いやだ」
ロクは言う。
「俺は、オンちゃんといたいんだ。オンちゃんの命は俺のものなんだから、ちゃんと最後まで見てる」
一瞬、思考が停止した。ロクはいま、なんだかものすごいことを言った気がする。「ちゃんと最後まで見てる」って、一生そばにいてくれるってことなんだろうか。いや、どうだろう。なにも考えていないようにも思える。それでも、オンちゃんといたい、と言ってくれたのがうれしかった。
僕は、その甘やかな喜びを胸に押し込めて反論の言葉を口にする。
「でも……」
僕といっしょにいたら、ロクまでいじめられる。
「俺なら、だいじょうぶ。逃げる方法は知ってるから」
ロクは言った。
「それより、ごめん。俺のせいだ」
「なにが?」
「俺があいつに手を出したらオンちゃんに返ってくるって、ちょっと考えたらわかることだったのに。考えなしだった」
ロクは、僕の唇にそっと指を這わせる。
「痛いよな」
ロクは言って、僕の唇の切れたところを、ぺろっと舐めた。
「え、ロク……」
言いかけると、今度は、普通に塞がれた。ちゅ、と音がして、唇が離れる。
「ロク。いまの」
その瞬間、ロクの真っ白な肌が、みるみるうちに赤くなった。
「ごめん」
ロクはそう言って俯いた。いや全然、いいんだけど、と口を開こうとした時、
「あ、目が覚めたのね。よかった、よかった」
保健の先生が戻ってきた。
「もうすぐ救急車が来るから。まだ安静にしてないとだめよ」
ゆっくりと寝かしつけられ、頭に新しい氷のうを乗せられる。チラリとロクのほうを見ると、前髪の間から覗く左目が、照れくさそうに細められた。
川上は、僕の顎を殴った時に右手の指を骨折していたらしい。ついでに、と僕と一緒に救急車に乗せられた。
寝ている僕と、傍らにむすっと座っている川上。お互い、ずっと無言だった。
「もうすぐ着きますからね」
救急隊員のひとに言われ、僕はやっと口を開いた。
「保健室まで運んでくれて、ありがとう」
川上は、ぎょっとしたように僕を見た。そして、
「おまえのトモダチには、手ぇ出さねーよ。安心しろ」
と、ぼそりと言った。その言葉を頭から信じてしまえるほど、僕はまだ川上を信用してはいなかったのだけれど、それでも、とりあえずは安心した。ロクにさえ手を出さないでいてくれたら、それでいい。
「おまえが動かなくなった時、すげーこわかった」
小さく、川上が言う。僕は驚いて川上を見た。
「オレ、救急車乗ったの、初めてだわ」
前の言葉をかき消すように川上が続けて呟いたので、僕もだよ、と頷いた。
顎を殴られたことによる軽度の脳しんとうだった。一日がかりで脳の検査を受け、異常がないことはわかったけれど、一週間は安静にしないといけないと言われた。僕は、担任といっしょにそれを聞いた。担任は、ばつの悪そうな顔で僕を見て、「申し訳ない」と聞こえるか聞こえないかのような声で言った。見て見ぬふりをしていたことに対しての謝罪かもしれない。別に、謝ってもらいたいわけではなかったので、僕は黙っていた。担任も、それきりなにも言わなかった。
病院には、母と姉がそろって来ていた。遠くにその姿を見つけ、笑って手を振ると、母はつかつかと僕に歩み寄り、そして、僕を強く抱きしめた。姉から、全部聞いたのかもしれない。母は、なにも言わず、僕の目を見た。僕も母の目を見返す。
「だいじょうぶなのね」
母は言った。僕は頷く。
「気づかなくてごめんね」
それから、そんなことを言うので、
「隠してたんだから。気づかないのはあたりまえだよ」
と僕は返す。
「バカじゃないの」
姉が涙声で言った。
母と姉に、強制的に学校を休まされている。
ここ数日、僕は、びっくりするくらい甘やかされていた。夕飯は僕の好きなおかずが続いたし、僕の担当のお風呂掃除も、姉が代わりにしてくれた。
「一週間だけよ」
姉は言う。
「安静にしてろって、言われたでしょ。最低でも、一週間は休みなさいよ」
そうは言っても、もうだいじょうぶなのになあ、と思う。どこにも異常はなかったんだし。
でも、どうやら母や姉は、したくてしているようなので、ふたりが納得するまで甘えていようと思う。
「学校へ行きたいな」
そう言うと、
「バカじゃないの」
と言われた。そうだよなあ、と僕は笑う。
学校へ行きたいというよりも、僕はロクに会いたかった。ロクに会って、僕はだいじょうぶだと伝えたかった。そういえば、携帯番号もアドレスも交換していなかった、と、いまさらのように気づく。
ベッドの中で、僕はロクのことばかりを考えていた。よくよく考えたら、ロクには謎が多い。素顔すら見たことがない。
それに。
思い出して、僕のほっぺたはじんわりと熱くなる。それに、あのキスは、どういう意味だったんだろう。ロクはどうか知らないけれど、僕にとっては初めてのキスだった。初めてのキスの相手が同性の友だち、というのは、どういう状況なんだろう。だけど、全然いやじゃなかった。いやじゃないなんて、おかしいのだろうか。
ぐるぐると思いはめぐる。答えは出ない。やっぱり、ロクに会いたい、と思った。
ベッドから抜け出し、勉強机の引き出しを開ける。奥に大事にしまい込んでいた、ロクとの誓約書を取り出して眺めた。僕の命は、ロクのものだ。そう思うだけで、幸せだった。
そんな休養期間の、ちょうど七日目のことだ。ロクが家にやって来た。その日は雨が降っていて、まだ夕方の四時だというのに、空は一面真っ黒で夜みたいに暗かった。遠くのほうで雷の鳴る音も聞こえる。ベッドの横の窓から見える、時折光る空がなんだか不気味だった。
チャイムが鳴って、姉が出た。その時、僕は、クーラーの効いた自室のベッドでうとうとと微睡んでいて、姉の、「ささささ、さとやすー!」という、素っ頓狂な声で飛び起きた。
後から聞いた話によると、姉はロクの風貌を見て、一瞬息が止まったという。ロクは、真っ黒な傘を差していた。病的なくらい真っ白な肌、顔の半分を隠した真っ黒な前髪、夏なのに長袖のカッターシャツ。その風貌は、おおよそ夏の男子高校生のさわやかさからはかけ離れすぎていて、まるで妖怪のようだったと姉は言った。
「こんにちは。ぼく、聡泰くんの友人の六野幸太と言います。聡泰くんはご在宅ですか?」
というロクの珍しく丁寧な物言いにも、とっさに反応できなかったらしい。
固まった姉と、姉の反応を待つロクは、玄関先でしばらく見つめ合っていた。ロクの背後の空で、雷が光った。やっと我に返った姉が、そこで僕を呼んだのだ。「ささささ、さとやすー!」と。
僕の部屋に通されたロクの第一声は、「オンちゃんの姉ちゃん、おっぱいでかいな」だった。一体どこを見てるんだ、と呆れてしまう。
「体調はどうだ。頭痛くなったりしてないか?」
「うん、全然。だいじょうぶだよ」
僕は身体を起こす。ただ惰性で眠っていただけなのだ。ロクは安心したように頷いた。
僕の部屋は、もともと物置だったところを改造したので、とても狭い。ベッドと勉強机でいっぱいいっぱいだ。ロクは少し迷って、ベッドに腰かけた。
「僕の家、よくわかったね」
「オンちゃんの担任に聞いた」
ロクは、唇の左端をつり上げて笑った。
「オンちゃんちに行くんならって、これ言付かった。休んでる間のプリントとか、ノートのコピーだってさ」
自分で来ればいいのにな、俺、学年も違うのに、と言いながら、ロクは鞄の中から、クリアファイルにパンパンに詰まったプリント類を取り出して、僕に手渡した。
「このコピー、川上のノートだって。てことは学年トップのノートだぞ。よかったな」
僕は複雑な思いで、そのノートのコピーを受け取った。歪んだ字で、授業の内容がわかりやすくまとめてある。利き手を骨折しているので、もう片ほうの手で書いたのだろう。ちゃんと全教科あって驚いた。利き手じゃないほうでこれだけのノートをとるなんて、すごい根性だ。川上がどういうつもりなのか、僕にはわからない。いまは、あまり考えたくないなあ、とも思う。そう言うと、ロクは、
「考えなくていいよ」
と言う。
「みんな、僕を甘やかしすぎなんじゃないかな」
「なに。オンちゃん、いま甘やかされてんの?」
僕が頷くと、ロクは笑った。
「たまにはいいだろ。そういうのも」
と細められたロクの左目が、ふいに僕の頭に焦点を合わせた。
「オンちゃん。ねぐせ」
ふ、と笑って、ロクの手が僕の髪の毛に伸びた。撫でるように触れられて、なんだか縮こまってしまう。かあっと顔が耳たぶまで熱くなった。止められない。赤くなる。熱くなる。いままで、ふれられても平気だったのに。どうしてこんなふうになってしまうんだろう。ああ、そうか。ロクが、キスなんかするからだ。心臓が、パンクしてしまいそうなくらいの勢いで、ばっくんばっくん跳ねている。
ロクは、そんな僕の様子を見て、驚いたように手を引っ込めた。そして、
「俺、オンちゃんに言ってないことがある」
と、神妙な雰囲気で言った。
「うん。なに?」
聞いてないことだらけだけど、と思いながら僕は尋ねる。
うん、とロクは呟いて、
「明日、学校来る?」
と尋ねた。
「うん」
僕が頷くと、
「じゃあ、明日話す。今日は帰るよ」
言って、ロクは腰を上げた。玄関まで送ろうと、僕もロクに続く。
「もう帰るの?」
階段の下で、姉がお盆に麦茶の入ったコップを乗せて立っていた。
「はい。お邪魔しました」
僕はこの時、ロクが敬語で話しているのを初めて聞いた。
「ごはん食べてったらいいのに」
「いえ、ご迷惑になるんで」
ロクは、唇の端をつり上げて、ニヤリと笑う。姉はびくりと震えて、「そう。残念だわ」と、あっさり退いた。
「また明日な」
手を振る僕に、ロクは言った。また明日。僕は口の中でその言葉を反芻する。また明日、また明日、また明日。
ロクが帰った後、
「あんた、あの子と友だちなんてすごいわね」
と姉が言った。
「なにが?」
「なんか、見た目こわいじゃない。霊的な意味で」
姉の言いぐさに、やっぱり笑ってしまう。
「そうかな」
「そうよ。見た目で判断しちゃいけないのはわかってるけど、ちょっとびっくりしたわ。ちょっとだけね」
早朝の屋上で筋トレをした後、見よう見まねでロクの舞う二十四式太極拳を同じように舞ってみる。ゆったりとした動きが意外と難しい。必死になっていると、ロクが口を開いた。
「腹筋、ずっと続けるのか?」
「うん。休んでた間も、朝晩最低二百回ずつはやってたよ」
「すげーな、オンちゃん」
ロクの前髪が、風に揺れる。その間から覗く左目と視線がかち合った。
ドキリとする。
「オンちゃん」
ロクが動きを止めて僕を呼んだ。なにかを言おうとして、口を開いたり閉じたりを繰り返す。そして結局、困ったように俯いてしまった。
僕を、地獄から掬い上げてくれたロク。でもロクはきっと、あの時、屋上へ行こうとしていたのが僕じゃなくても、こういうふうに手をさしのべていたんだろうな、と思う。そう言うと、ロクは、
「オンちゃんだって、あの時、誓約書を交わしたのが俺じゃなくて別の誰かでも、そいつのこと好きになってただろ」
と言った。
「それと同じだよ。たまたま俺は目の前のオンちゃんの命をもらった。オンちゃんは、たまたま俺に屋上の鍵を開けてもらった。たまたま、偶然なんだ。でもさ、そういうのってちょっといいじゃん」
そうかもしれない、と僕は納得する。だけど、ロクの言い方が気になった。
「それって、僕がロクのことを好きだっていうのが大前提になってる気がするんだけど」
「うん。え、だって、オンちゃん、俺のこと好きだろ?」
さらっと言われて、僕は目を見開いた。
「あれ、違った? 俺の勘違い?」
焦ったように言うロクが、なんだかおもしろくて、少し笑ってしまう。それで、思った。確かにそうだ。確かに、僕はロクが好きだ。でなければ、ふれられただけで、あんなふうに熱くなったりどきどきしたりはしないだろう。いま、こんなふうにうれしくなったりもしていないだろう。
「ううん。違わない」
僕が言うと、
「だろ?」
ロクは、満足そうに唇の端を持ち上げた。
そして、「あのね、オンちゃん」と、再び口を開いた。
「俺、いじめられてたんだ」
そう言ってロクは、すたすたとフェンスのほうへ歩いて行って、そこにもたれて座る。
いじめられてた。
その言葉に、僕の胃はずっしりと重くなった。のどがつっかえたみたいに苦しくなって、僕は深呼吸をする。気持ちを落ち着かせて、僕はロクの隣に腰かけた。
「俺、女にモテたからさ、もともとあまり同性には好かれてなかったんだよな。その上、友だちの彼女が俺のこと好きになっちゃって。逆恨みみたいな感じでさ、急に始まったんだ」
そんな気はなかったのだけど、僕は、きょとんとした表情をしていたのかもしれない。僕の顔を見て、ロクは笑った。
「ああ、そうか。驚くなよ。ええとね……」
言いながら、ロクはてのひらで、顔を下からつるりと撫で上げるようにして、分厚い前髪を持ち上げた。
「お、わっ」
僕は、思わず変な声を上げてしまう。
「なんだよ、『おわっ』て」
ロクが唇の左端をつり上げて笑った。
前髪で顔が隠れていた時はニヤリとして見えたその笑い方は、顔が丸出しになってしまっているいま、とても素敵でさわやかな笑顔にしか見えなかった。
驚いた。驚いたなんてもんじゃない。衝撃だった。心臓が破裂するかと思った。いま僕がしゃっくりの最中だったとしたら、確実にしゃっくりは止まっていただろう。心臓が止まらなかったのが不思議なくらいだ。
ロクの顔は、美しかった。壮絶な美がそこには存在していた。完璧なパーツが、完璧なバランスで収まっているその顔は、眩しすぎて直視できないほどだった。くっきりときれいな二重の、それでいて涼しげな目元、ほどよく高い鼻、改めて見ると形のいい唇。僕は、ここまで圧倒的な美人を見たことがなかった。
「まず、こういう大前提」
ロクは言った。僕は言葉もなく、こくこくと頷く。
「オンちゃん、驚きすぎだ」
「ごめん」
やっと言ったけれど、声は思いっきりかすれていた。ロクはまた笑って、前髪を元に戻した。ほっと胸を撫で下ろす。少し残念な気もした。
「友だちだったやつが、豹変したんだ。昨日まで、一緒に買い食いしたりカラオケ言ったり、エロい話で盛り上がってたやつが、急にだぞ。信じられなかった。信じられなかったし、信じたくなかった」
ロクは、淡々と話す。
「あいつ、言ったんだ。俺の顔を殴りながら、『おまえのこと、前から気に入らなかったんだ』って」
自嘲気味に笑うロクを、なんだか見ていられなくて、僕は思わずロクの右手を握っていた。ロクは、僕の手を、強く強く握り返してきた。
「じゃあ、いままでの俺たちはなんだったんだって思った。友だちヅラして隣にいたのは、なんだったんだって。俺はあいつを友だちだと思ってたのに、あいつは心の中では俺のことをきらってたんだ」
聞くのがつらかった。でも、聞かなきゃいけないと思った。ロクだって僕の話を聞いてくれた。こんなふうに、隣に座って、黙って聞いてくれた。僕は、それがうれしかった。すごく、うれしかったんだ。だから、なにもできないけれど、僕はせめてロクの隣で話を聞こう。
ロクは、変わらず淡々と続ける。
「俺は、オンちゃんと違って、目立つところに、まあ主に顔に傷をつけられた。だから、親にも結構早めにバレちゃってさ、いいわけが大変だった。やっぱり、いじめられてるなんて親には知られたくなかったし」
ロクの言葉に、僕は無言で頷く。いじめられているなんて言えなかった。いじめられている自分が、すごくみじめで恥ずかしかった。そんなこと本当に、死ぬ気にならないと言えないと思う。
「親とか先生の追究をのらりくらり交わしてるうちに、だんだんエスカレートしていった。
熱湯をね、かけられたんだ」
僕は息を飲む。ひどい。
「あいつらは顔にかけるつもりだったんだろうけど、とっさに避けた。で、こっち」
ロクは、カッターシャツの袖を捲り上げた。僕と手をつないだほう。右腕に、痛々しい火傷の痕があった。
「ひどい」
僕は、思わず呟いた。
「これ見せたらみんなびっくりするだろ。半袖、着れないんだよな」
ロクは気楽な調子で言った。僕はなにも言えなくて、ただ、その火傷の跡をじっと見ていた。ロクは、気まずそうに笑って、左手で僕の頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
「それがあって、さすがに学校行くのやめた。死んじゃおうかとも思ったけど、なんだか悔しくてできなかった。なんで俺が死ななきゃならないんだって。ずっと部屋に閉じこもってたら、親父がドアをノックして言ったんだ。『出かけるぞ』って。いままで仕事ばっかで、そんなこと言ったことなかったのに。俺、ずっと無視してたんだけど、毎日言うんだ。毎日、毎日、俺の部屋の前まで来て、言うんだ。『出かけるぞ』って。俺もう根負けして親父の車に乗ったんだ。それで連れて行かれたのが、太極拳の教室だった。親父はたぶん、新聞に入ってたチラシを見たんだな。『心と身体を健康に』ってやつ。それを鵜呑みにして、俺をそこに連れて行った。俺は親父の単純さに笑った。本当に、久しぶりに笑ったんだ。それに、太極拳は悪くなかった。俺に合ってたのかもしれない。やってる間は、なにも考えなくてよかったし、身体を動かすだけで気持ちがよかった。それで、なんとなく、本当になんとなくだけど、死ななくてよかったって、思った」
僕は、小さく頷いた。
「僕、ロクの太極拳、見るの好き」
ロクは、照れたように唇の端をつり上げた。
「それから、この学校に転校した。というか、まあ、入学し直したんだな。だから、俺はオンちゃんの後輩だけど、オンちゃんと同い年だよ」
「そっか」
他になにを言ったらいいのかわからないので、僕はただ頷く。
「新しい学校では、この顔は隠しておこうと思った。この顔出してたら、よくも悪くも人が寄って来るから。あまり目立ちたくなかったし、友だちも、もういらないと思ってた。案の定、この妖怪みたいな雰囲気のおかげで、誰も寄って来ないから楽だよ。なんか、いじめたら呪われそうだろ?」
ロクは笑う。僕も、つられて笑った。妖怪みたいだという自覚は、ちゃんとあったのか。
「あの時」
ロクが、声のトーンを落とした。
「扉の前でオンちゃんを見た時、こいつ死ぬ気だって、なんかわかった。俺と同じだったからかもしれない。とにかく、冷静じゃない感じがしたから。だから、なるべく落ち着かせようと思って、時間稼いだ。どのくらいこっちの言うことを聞いてくれるかわからなかったし、屋上に出る前に階段の窓から飛ばれたら終わりだと思った」
僕は、その手があったことに、いま初めて気づいた。やっぱり、僕は詰めが甘い。
「少しでも時間を稼がなきゃって、内心、心臓ばくばくだった。結果的にはオンちゃん、思いとどまってくれたけど、俺かなり必死だったよ」
「そっか」
僕は言った。
「あのね、ロク」
そういえば、まだお礼も言っていなかった。
「僕の命をもらってくれて、ありがとう」
風が吹いて、ロクの前髪が揺れた。チラリと覗いた左目が、眩しそうに細められた。
「俺、オンちゃんが好きだよ」
真っ赤になった僕を見て、ロクは楽しそうに笑った。
僕はホームルームに少し遅刻をしてしまい、川上に土下座をするタイミングを失ってしまった。
意外なことに、ホームルームが終わっても、川上はなにもしてこなかったし、なにも言わなかった。骨折していないほうの手で頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めていて、僕には興味を失ったみたいだった。取り巻きたちも、そんな川上の態度に倣っている。そのまま、僕のことなんか忘れてくれたらいい。ほっとしたけど、不気味だった。どういうつもりなんだろう。
何事もなく昼休憩に入り、僕はおどおどと周りを見渡した。やはり、川上もみんなも僕には無関心だ。今日は隠れて食べる必要はなさそうだ、と僕はそのまま自分の席でお弁当をひろげた。
お弁当を食べ終わり、ロクはどこでお昼を食べているんだろう、いっしょに食べたいな、などと、ぼんやり考えていると、目の前に誰かが立った。ギブスと包帯でガチガチに固められた手を目だけで確認する。川上だ。
僕は身体を固くして縮こまった。
「びくびくすんな」
川上は感情のない声で勝手なことを言う。無理だよ、と僕は思う。いままで散々ひどいことをされてきたのだ。そんなの、無理だ。
「もう、土下座もすんな」
言われて、僕は顔を上げた。
「わかったか」
怒ったように言われ、僕は反射的に、
「わ、わかった」
と言ってしまう。
「声が小さい」
川上は、イライラしたように言う。
「わ、わか、わかりました!」
僕が叫ぶと、川上は不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「敬語もいらねーし」
川上は言う。
「写真は、全部消した。他のやつらのも消させた」
僕の、裸の写真のことだ。驚いて、僕は川上を凝視した。
「おまえさ、ちゃんとオレの目見れんじゃん」
川上は言った。
「いつもそういうふうにしてりゃいいんだよ」
言って、川上は僕から目をそらす。
そうだ、と思い出し、
「ノートのコピー、ありがとう」
と、お礼を言うと、川上はぎょっとしたように僕を見た。
「やめろよ、それ」
そう言われ、なにか気に入らないことがあったのだろうか、また声が小さかっただろうか、と僕はおどおどと川上を見る。
「ありがとうとか言うな」
川上は呟いた。
話は終わったようなのに、川上が立ち去ってくれないので、僕は困って下を向く。
「オレの手が治ったら、喧嘩するぞ」
唐突に言われ、
「け、けんか……?」
僕は戸惑ってしまう。なんで喧嘩? わけがわからない。
顔を上げると、川上と目が合った。
「一対一だからな。それまでに、恩田くん、オレに一発くらい入れられるようになっとけよ」
と、川上はヘラリと笑った。血の気が引いていく。僕は完全にすくみ上がってしまった。
「いままで悪かった。一発殴ってくれ。ってことじゃないのか?」
次の日の早朝、屋上に行ってすぐにロクに相談すると、そう言われた。
「ただ殴られるだけじゃ癪だから、タイマン張るってことにしたんじゃないの」
「わかりにくいよ」
僕は不満たっぷりに呟く。
「プライド高いんだな、川上は」
ロクは、少し呆れを含んだ口調でそう言った。
「僕、喧嘩なんてしたことないのに」
「それでも、オンちゃん。川上には、ちゃんと一発入れとけよ」
僕は頷く。
「ロク、川上に平手打ちしたんでしょ? どうやったの?」
参考にしようと思って訊いたら、
「平手打ち? ああ。あれは平手と言うより、張り手だな」
ロクは言った。前髪から覗く左目が、複雑そうに歪む。
「張り手?」
ロクは、構えて見せてくれた。左のてのひらをおでこのあたりに翳し、右てのひらをゆるく突き出す。
「それ、太極拳だ」
「そう。二十四式太極拳、第十八式。頭を庇いながら打つ」
「太極拳て、攻撃にも使えるの?」
「いや、使えないだろ。よくは知らないけど、根本的に違うんじゃないか? 俺がやってるのは健康体操だからな。武術太極拳てのがあって、そっちはスポーツ競技みたいだけど」
僕は首を傾げる。
「でも、その第十八式で一発入れられたんでしょ?」
ロクは、決まりが悪そうに僕を見た。
「いや、なんか、これ素早くやったら打てるのかなと思って。いかにも打てそうな型だろ? だから、ちょっと試してみたくてさ。寸止めしようと思ってたら、まともに入っちゃって、内心冷や汗だった。オンちゃんに悪いことした」
僕は、あっけにとられる。
「でも、こんなの、よく入ったんだよ。あいつ隙だらけだったんだな。本当ごめん、オンちゃん」
ロクが本当にすまなそうに言うので、僕はなんだか笑ってしまった。
「こんなのより、普通に殴るほうが、たぶん簡単だぞ。構えてたら間に合わない。試合じゃなくて喧嘩なんだから」
ロクは気を取り直したように言って、僕の右手を取った。
「オンちゃんの利き手は、こっち?」
「うん」
ロクの手は、暖かい。
僕の手はロクにふれられた途端、急激に熱くなって、じわっと汗ばんでいた。それがなんだか恥ずかしい。
「今度は、この手で扉を開け」
「扉?」
「鍵は、川上だ。こじ開けろ」
ロクの言葉に、僕は強く頷いた。
教室では、川上は相変わらず僕に興味がなさそうに過ごしていた。もう僕に話しかけてくることはなかったし、僕も少しだけびくびくしながら、それでも平穏に過ごしていた。
夏休みが始まる。僕は、筋トレを続けている。夏休みが終わるころには、川上の手も完治しているだろう。
終業式の日、学校帰りにロクが家に遊びに来た。
「今日、オンちゃんの姉ちゃんいないの?」
「うん。たぶんバイトかな」
「そうかー」
ロクは少しがっかりしたように言う。
「ロクは、お姉ちゃんのことが好きなの?」
おそるおそる訊いてみると、
「好きだよ。オンちゃんの姉ちゃんだもん」
と、あっさり言われた。軽い。
ちょっとショックだ。もしかしたら、僕がロクを好きな気持ちと、ロクが僕を好きな気持ちとは、違うものなのかもしれない。あの時のキスは、ロクにとってはそういうことじゃないのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は窓を網戸にする。
「ごめんね。いま、クーラーつけられないんだ」
休養期間には特別に許されていたクーラーの使用は、いまでは通常どおり禁止されていた。
「いいよ、べつに」
ロクはそう言って、僕の開襟シャツの襟首を後ろから引っ張った。
「ぐえ」
僕はベッドに仰向けに倒れ込む。ロクが上から覗き込んで笑う。
「いまも、まだ死にたい?」
ロクが尋ねる。僕は、身体を起こして座り直す。そして、答えた。
「ううん。もう一生死にたくない」
「オンちゃん、逃げたいって言ってたわりには逃げないんだもんな」
言いながらロクは、ズボンのポケットから黒いヘアピンを数本取り出し、
「俺は、思いっきり逃げたから。まあ、逃げて全然後悔してないけど。でも、オンちゃんのこと、すごいと思った」
前髪を上げてぎゅっぎゅっ、と留めた。美しい顔が露わになり、僕は息を飲む。
「おかげで、好きになっちゃった」
ロクは軽い口調で言う。そして、僕の顔をじっと見た。一瞬、その顔で僕を見ないでほしい、と思った。暑さと眩しさで溶けてしまいそうだ。
僕は、ロクの言葉をどうとらえたらいいのか、迷っていた。ロクは唇の左端をつり上げて笑う。僕はなぜだか動けなくなった。
「この前言った時は、顔隠してたから、ちゃんと顔出して言おうと思って」
ロクが、僕の目を覗き込むように見る。ますます動けなくなる。蛇に睨まれた蛙って、こんな心境なんだろうか。
「オンちゃん」
ロクが、動けない僕の肩に手を伸ばす。
「好きだ」
そう言われ、きゅ、と抱き締められた。僕は、石みたいに固まったまま、されるがままだ。
「オンちゃん、なんで固まってんだ?」
ロクが笑い声をこぼす。
「わ、わかんない」
心臓が口から飛び出てしまいそうなくらい跳ねている。僕は息苦しさに耐えながら口を開いた。
「あ、あの、ロクのそれは、お姉ちゃんを好きなのと同じ感じで、好きってこと?」
「ん?」
ロクは怪訝そうな声を発する。
「ロクはお姉ちゃんが好きでしょ? 僕のことも、そういうふうに好き?」
ロクは僕の肩を掴んで、驚いたように僕を見た。
「そういうのとは違う」
それから、少し考えて言う。
「オンちゃんの姉ちゃんは、オンちゃんの姉ちゃんだから好きなんだ」
なんかこれややこしいな、とロクは呟く。
「まず、オンちゃんを好きなことが大前提」
まだ意味を把握できていない僕に、どう言ったら伝わるんだろう、とロクは困ったように首を傾げた。
「オンちゃんとは、こういうこともしたいと思う」
ロクは、僕の唇に自分の唇を重ねた。ふに、とふれるだけのキスだった。
どうしよう、心臓がもたない。全身が熱い。汗がどっと噴き出る。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、なんだか知らないけど、じわっと涙が滲んだ。
「こういう好き」
ロクは、目を細めて笑う。唇の左端がつり上がる。
「あの時は、ごめんな。不意打ちだったし、正規の手続きを踏んでなかった」
「い、いまのも、不意打ちだった」
正規の手続きってなんだろう、と思いながら僕は言う。
「でも、好き同士だし、俺、ちゃんと告白して正規の手続き踏んで……」
言いながらロクは、ぽかんと固まっている僕を見た。その瞬間、ロクの目が不安に揺れる。
「あれ。え、違う? 違った? オンちゃんのは、そういう好きじゃないのか?」
ロクが焦ったように言うので、僕は笑ってしまう。
「ううん。違わない」
ロクは、満足そうに笑う。
「オンちゃんの命は、俺のもんだからな。ちゃんと最後まで見てるよ」
僕はロクの目をしっかりと見て、頷く。
うれしくて、死にそうだった。でも、いま死んだら、絶対、死んでも死にきれない。
これから先、きっと、もっといろんなことがある。悲しいこともこわいことも、つらいことも、また死にたくなるようなこともあるかもしれない。でも、楽しいこともうれしいことも、必ずある。生きていてよかったと思うことだって、あるはずだ。ロクといれば。
とりあえず、今日、夏休みが始まった。
了
ありがとうございました。