第3話 隣国の辺境伯領へ出立
一週間が経ち、出立の日が訪れた。
嫁ぎに行くのでいろいろと準備しないといけないはずなのだが、私はこの一週間、何も準備していない。
お父様が「こちらで用意していく」と言っていたはずなのだが、お父様は一週間前に屋敷を出て行ってから帰ってきていない。
どうやら私を見送る気はさらさらないみたいね。
お父様が準備したものは、私のドレスだけだ。
しかも特注品ではなく既製品で、刺繍も飾りもほとんどない。
まあいつも着ているボロいドレスよりは良いものだし、これ以外にドレスなんて持ってないから、着るしかないのだけど。
これ、ウェディングドレスなのかしら? さすがにこれじゃ私達の家、バシュタ伯爵家の恥だと思うのだけど……お父様やお義母様はそんなこと考えてないようね。
服だけじゃなく、私の身なりの準備も本当に最低限だ。
髪はお母様と同じく亜麻色で綺麗だと思うのだが、お手入れをほとんどしていないので流すことはせずに、まとめて頭の上でお団子にしている。
化粧も本当に薄くしかしておらず、嫁ぎにいく令嬢がするような化粧ではない。
顔立ちはお母様に似て美人だとは思うのだが、ずっと満足に食事が出来ていないので、頬が少し痩せこけているので、それを隠すようにメイクをしている。
こんな状態で辺境伯家に嫁ぎに行くことになるなんて、行ったらガッカリされて帰らせられるんじゃないかしら。
本当はこの一週間、私の準備だけじゃなく、私がいなくなっても大丈夫なように仕事の引き継ぎとかもしたかったのだけれど……。
全くその余裕はなかったし、それをエメリ夫人に進言しても私のご飯が無くなるだけだった。
もう私が出来ることは何もないので、仕方ない。
屋敷の前に馬車が止まっており、私はトランク一つに着替えや裁縫道具などを入れて乗り込んだ。
お父様は屋敷にはいないので仕方ないが、お母様もお見送りには来ないようだ。
だけど聖女の学校へ行く時間と被ったのか、セシーラがちょうど現れた。
「お姉様、お幸せに。魔獣に殺されないように、お気をつけて」
「ええ、セシーラもお元気で。聖女のお勉強頑張るのよ」
「落第した聖女に言われる筋合いはないわよ」
不満そうに頬を膨らませるセシーラの顔に、私は頬を緩ませた。
最後のお見送りをしてくれただけで少し嬉しいわね。
私が嫁ぐルンドヴァル辺境伯は、どんな方かしら。
どんな生活になるのか、どんな方と結婚するのか。
楽しみと不安が混じったまま、馬車は動き出した。
一週間、馬車に揺られ続け、ようやく隣国のアムレアン王国の街に着いた。
この街からルンドヴァル辺境伯領は近いようで、あと半日くらいで着くようだ。
さすがに疲れたわね……。
用意された馬車も良いものじゃないから、身体のあちこちが痛い。
だけどいつもよりも調子はすこぶるにいい、セシーラに魔力を差し出さずに済んでいるからね。
魔力をほとんど減らさずにいるだけで、ここまで体調がいいとは思わなかったわ。
私もお母様と同じく身体が弱いんじゃないかと思っていたけど、魔力を差し出していたから体調が悪かっただけみたいね。
御者の話では、ここから辺境伯までは魔獣が出ることがあるので、辺境伯家の方が迎えに来てくれるという話だったけど。
馬車の中で待っていると、外で御者の方が誰かと話しているのが聞こえた。
しばらくしてから、馬車の扉がノックされた。
「お嬢様、扉をお開けしてもよろしいでしょうか」
「……あっ、どうぞ」
家ではノックされずに扉を開けられることが当然だったので、久しぶりに許可を求められたから反応が遅れてしまった。
「失礼いたします」
扉を開けてそこに立っていたのは、若い二十代後半くらいの男性。
「お初にお目にかかります。ルンドヴァル辺境伯家の執事、レイです」
とても綺麗なお辞儀をする執事のレイさん。
青色の少し癖がある短い髪に、優しげな笑みを浮かべている。
本当に久しぶりに伯爵家の令嬢としての扱いを受けるので、少したじろいでしまうわ。
「初めまして。リリアナ・ユル・バシュタと申します。よろしくお願いいたします」
「リリアナ様、敬語などおやめください。私は執事で、貴方様はルンドヴァル辺境伯の夫人となるお方です」
「そう……わかったわ。よろしくね、レイ」
「はい、よろしくお願いいたします。これから私達が用意した馬車に乗って、辺境伯家までご案内いたします」
こちらの馬車から降りて、迎えの馬車に乗り移る。
私が乗ってきた馬車とは違い、こちらはとても高級な馬車で、椅子もとてもふかふかだ。これなら身体が痛くなることはないだろう。
「侍女の姿が見えませんが、どうしましたか?」
「あ、侍女はいないわ。一人で来たの」
「そう、ですか。護衛は……」
「いないわ」
ここに来るまでも魔獣が襲ってくる可能性があったのに、護衛の一つもつけてくれなかった。
エメリ夫人が「聖女なのだから魔獣くらい倒せるでしょ? まあ落第した聖女じゃ無理かもしれないけれどね」と嘲笑気味に言っていたのを思い出す。
聖女の学校でも魔獣の倒し方は教わるけど、実際に魔獣なんて倒したことは一度もない。
もし出てきたらと思うと少し怖かったけど、一体も出なくてよかった。
普通なら侍女も一人か二人くらいは連れてくるはずなのだが、これもエメリ夫人が「私の家の侍女よ? なんで嫁ぐ貴方に渡さないといけないのかしら」と言っていた。
平民出ということもあるのだが、エメリ夫人ほど強欲で自分のものを誰かに奪われるのが嫌いな人を、私は見たことがない。
まあ注意しないお父様もお父様だけど。
「かしこまりました。お荷物は馬車の中にトランクが一つありましたが、それ以外は?」
「トランク一つだけ、です」
自分で言ってて悲しくなるというか、恥ずかしくなってくる。
こちらが用意するべきものを何も用意しておらず、本当に必要最低限のもので嫁いできたのだから。
私個人としても恥ずかしいが、これはバシュタ伯爵家の恥だ。
お父様もエメリ夫人も、伯爵家の体面を全く気にしてないのかしら。
「左様ですか。では馬車の準備が整い次第、出発してもよろしいでしょうか?」
「ええ、行きましょう」
心の内では訝しげに思っているだろうに、レイは全くそのような素振りは見せず、笑みを浮かべたままそう言ってくれた。
「護衛はこちらで十人ほど用意しております。ルンドヴァル辺境伯家の精鋭部隊ですし、隊長のジルもいますので、どうかご安心しておくつろぎください」
「ありがとう。ジルさんにもよろしく伝えといてください」
「はい、お心遣い感謝します」
レイは一礼し、一度馬車の外に出て行った。
馬車の窓から外の景色を見ると、レイと武装した騎士のような人が喋っている。
騎士の人は他にもいるが、風貌から見るにその人がジルという方なのだろう。
お髭が少しだけ生えていて、いかにも強そうな見た目だ。
しばらく待つと、馬車の扉がノックされて、レイが顔を覗かせた。
「お待たせしました。準備が完了しましたので、出発いたします」
「ええ、わかったわ」
「大変失礼なのですが、私も同乗させていただいてよろしいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます。馬車の中で執事である私と二人きりという状況は避けるべきなのですが、申し訳ありません」
「大丈夫よ。むしろ一人で暇していたから、同乗してくれると嬉しいわ」
「そう言ってくださると助かります。私でよければ、お話の相手になりましょう」
レイは斜め向かいに座り、馬車は動き始めた。