いびつな愛
ルーチェを寝室のベッドへ横たえて、僕はその枕元にそっと腰かけた。
先ほど発作が起きたとは思えないほど穏やかに呼吸をしているルーチェの髪に指を差し入れる。
さらりと髪をすいて、その指を耳、頬、鼻、唇をつたい、首へとすべらせる。
細いその首筋は今にも手折れそうだ。
わき上がる仄暗い悦びを抑えながら、僕はこんこんと眠るルーチェに口づけた。
「可愛いルーチェ、僕のルーチェ……あいしているよ」
つむじから、髪、耳、額、頬、鼻、首筋、胸元ーーーちゅ、ちゅ、と甘美な音を立てながら、僕は熟した果実をすするように、ルーチェの全身を余すことなく口づけていく。
足の爪先まで口づけて、僕はほぅ……と息をついた。
「すべては君が望むままに……僕の愛すべき女神。今救ってあげるから。もう二度と、こんな希望のない世界で目覚めることのないように」
教会で祈りを捧げるように、魔法を使う。
僕の行使した魔法の力に導かれ、じんわりと光の粒子が僕とルーチェに集まり出す。
魔法は何かを代償にして得られる奇跡の力。
僕の場合、『災い』を代償に魔法を行使する。
つまり僕は、魔法を使うたびに誰かを不幸にするということで。
そんな僕が、そもそもルーチェを幸せになんてできるはずはなかったんだと、今さらながらに自嘲した。
「僕も一緒に逝くから。ルーチェ、来世でもきっも僕らは出会うから。きっと、君を幸せにしてみせるから」
僕は魔法を重ねていく。
ルーチェが安らかに眠れる魔法。
ルーチェと僕が、来世でも一緒に出会う魔法。
ルーチェが僕との幸せを夢見られるような、幸福の魔法ーーー
「たわけもの」
ふいに、低く、はっきりとした声が耳朶を打つ。
僕が喚んだ奇跡の前触れも、急速に成りをひそめていく。
聞き覚えのあるその声は、僕ではない。
ましてやルーチェでもない。
では誰か、なんて問いすら馬鹿げている。
僕は上体を起こしてベッドから降りると、ゆっくりと背後を振り返った。
「……師匠」
「この、たわけもの」
いつの間に入ってきたのか、眉間に皺を寄せた魔法使いは、ことの次第をまるで知っているかのように僕を罵る。
師匠の波打つ緑の髪に紛れて、顔の横で咲く白い花がかさりと乾いた音を立てた。
「もしやと思い来てみれば、案の定か」
街の外れの草深い森の奥に居を構える師匠は、本当に隔世された場所で過ごしているのかと思うくらいに色んなことを知っている時がある。
今だってそうだ。
何も僕は教えていないのに、どこかで見ていたかのように絶妙な間で入ってきて、あまつさえ僕の紡いでいた魔法を全て打ち消してみせた。
「……師匠、何をしに来たんです。僕を笑いに来たのですか。花一つ咲かせられない不出来な弟子に説教でも?」
「馬鹿馬鹿しい。お前が私の説教一つで馬鹿な真似をやめるというのなら試してみるのは良いかもしれないがな」
「馬鹿な真似とは」
「魂を縛る魔法だ、大馬鹿者」
師匠はそう言うと、手のひらを仰向ける。
「私はお前に問うたな。代償を支払う覚悟はあるかと。お前は是と答えた。その覚悟をお前は試されているというのに、このていたらく。お前を魔法使いにした己が恥ずかしい」
師匠の手のひらに、光の粒子が集まっていく。
光はやがて魔法を生み出すエネルギーとなり、師匠の創造するものへと形を変えていく。
「魔法とは生み出す奇跡が大きければ大きいほど、己の中に蓄積される代償は大きくなると私は言ったな。そしてその代償は己に還るとも。お前はその意味を正しく理解していないな。だから愚直にも大それたそんな魔法を使おうとする」
「師匠、何をーーー」
「お前の力を封じる。私はお前を災厄そのものにするために魔法を与えたのではない」
師匠の手の中にある光が鎖のような形を成すと、蛇のようにうねりながら伸びて、僕の首へと枷のようにからみつく。
その意図するところを飲み込んだ僕は青ざめた。
「そんなっ! これではルーチェが救えない! ルーチェの願いを叶えられない!」
「ついでだ。ルーチェにも触れるな」
「……っ、師匠!」
僕の中にどっと怒りがわき上がる。
目の前が真っ赤に染まるくらい、頭に血が上る。
信じられない。
師匠はーーー目の前にいる魔法使いは、ルーチェを苦しめるつもりなのか!
「ふざけるな……! ルーチェは僕に触れてほしいと思っている、ルーチェは僕に救ってもらいたがっている、ルーチェは僕を望んでいる! ルーチェから僕を取り上げるな!」
「痴れ者。逆だ」
師匠は僕の首にかけた枷に質量を与える。
無骨なにび色の首枷が、罪人のようにずしりと僕の首へとはまった。
僕を見る師匠の瞳はどこまでも淡々としている。
「お前が間違ったから、お前からルーチェを取りあげるのだ」
まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるかのような師匠の言葉。
そんなもの、認めない。
「勝手なことを言うな! 僕は間違ってなんかいない! 僕はルーチェのために、ルーチェが望むから、ルーチェを苦しめる世界から逃がしてやるだけなんだ……!」
「……もはや一周回って哀れにすら思えてくるな」
それまで何を言うにも感情の乗らなかった師匠の声に、初めて憐憫の色が浮かぶ。
それも、これから死に行くはずのルーチェではなく、僕に対しての。
やめてほしい。
そんなものは、いらない。
「っ、僕を憐れむな! ふざけるな、ふざけるな! 師匠には人の心がないのか! これ以上、ルーチェを絶望させたいのか!」
「確かに私は人より感情に貧しいがーーー阿呆の弟子よりは人の心の機微を知っている」
「だったら!」
「頭を冷やせ。考えろ。狂った魔法使いの魔法は、奇跡を起こさない。それこそ災いしか起こせない。狂った魔法を、使うんじゃない」
師匠は訥々と僕に語りかけてくる。
狂った魔法なんて知らない。
僕はルーチェを救いたいだけ。
ルーチェと一緒に生きたいだけ。
「狂ってなんかいない。僕の魔法は狂わない。僕はルーチェと一緒に来世で結ばれるんだ」
「頑固者。魂を縛りつければ、それはただ同じ事の繰り返しだ。出口のない輪の中を延々と巡ることになる。それこそお前のその唇を染める紫に宿る災厄や、ルーチェの奇病も等しく繰り返すことになる」
「でたらめを言うな!」
「でたらめではない。私はお前より長く魔法使いをしている。魔法というものは、そういうものなのだと嫌というほど知っているんだ」
師匠はそう言うと、僕の額に指をついた。
「醜いな、ノエ。お前は結局何がしたかったんだ? ルーチェの病気を治したかったのか? それともルーチェを自分に縛り付けたかったのか?」
「ちがう、僕は、ルーチェを幸せに……っ」
「だったらなぜルーチェに口づけを許した。災いが起こると知りながら」
「それは、ルーチェが望んだことで」
「それこそ間違いだな。お前は結局、自分の欲に負けたのだ。浅はかにも肉欲をルーチェに求めたのではないのか?」
「ちがう! それは絶対にちがう!」
もう気が狂いそうだった。
僕の愛は間違っていたと師匠が否定するたびに、肺の中に毒がめぐるようだ。
「どうして師匠は否定する! 僕の、ルーチェへの愛を疑うのか!」
拳を壁に叩きつけ、僕は師匠を睨み付ける。
首が重たい。
師匠によってつけられた首枷が、肺からせりあがってくる毒素を押し込めているようで、ぐるぐるぐるぐる、気持ちが悪い。
「……お前のその真心を否定はせんよ。だが、お前は間違えたのだ。魔法使いならば、魔法使いらしく、奇跡の力を行使するだけだったというのに」
師匠の言う意味が分からない。
何が言いたい、何を言いたいんだ。
「お前は結局、魔法契約の真髄を理解し得なかった。それがお前の愚かさだよ、ノエ」
師匠はそう言うと、僕の額についた指に魔法の粒子を纏わせる。
「師匠……? いったい、なにをーーー」
「眠れ。正しく魔法が使えるようになるまで、ルーチェは私が預かろう」
「ルーチェ……!」
僕はとっさにルーチェに手を伸ばす。
でも、ベッドに横たわるルーチェへと手が届くより先に、師匠の魔法が僕を包む。
ふっ、と。
明かりを消すように、僕の意識は闇へと落ちた。