うそつき
朝、目が覚めた僕は、あどけなく寝息を立てているルーチェの前髪を優しくすく。まだ彼女が起きる気配がないと分かると、起こさないように気を遣いながらベッドを抜け出した。
すっかり朝は冷え込むようになってしまった。寒さに身を震わせながら真新しいシャツに袖を通し、ルーチェが寒い思いをしないようにと居間の暖炉に薪を放り込み、魔法を使って火をつける。
そして何気なく最近の日課であるカルクスの種に魔法をかけようとした僕は、最悪の光景を目にしてしまった。
ぽとりと。
まるで椿の花のように、土の上に落ちているカルクスの蕾。
明らかにこれはいけないことだと、目の前の光景が信じられず、たたらを踏んでよろめく。
魔法はちゃんとかけていた。
生育環境にも十分気をつけていた。
それなのに蕾が落ちてしまったのは。
よぎるのは昨夜の甘やかな時間。
これはきっと、紫の口づけによってもたらせる災い。
文字通り、触れることは許されなかったのだと。
ルーチェに許してしまった失態を後悔してしまう。
どうしようか。
どうするべきか。
ルーチェにどんな顔をして伝えれば良いのか。
ぐるぐる考えているうちに、ルーチェが起き出してきてしまったようで。
衣擦れの音がやけに耳に響いた。
「ノエ……? どうしたの? 花は、咲いたのかしら」
かすれた声でルーチェが僕を呼ぶ。
こんこん、と咳き込みながら起き出して来たルーチェ。
その、少し息苦しそうな様子に、僕は慌てて彼女に駆け寄った。
「ルーチェ、無理をしないで。喉が痛いのかい?」
「お水が欲しく、て、っ」
口元を手で覆い隠すようにして咳き込むルーチェは、身体を折ると、立っていられないのかそのまま座り込んでしまう。
ひどく咳き込むルーチェに嫌な予感がする。
ここしばらく風邪一つ、引いていなかったから油断していた。
とにかくルーチェを温めようと、彼女を暖炉の前まで連れていく。
ルーチェの身体は、ついさっきまで布団にくるまっていたとは思えないくらいに冷えきっていた。
暖炉のそばでしばらくルーチェの背中をさすっていたけれど、なかなか咳は止まらない。
僕は万が一に備えて、魔法を使って小さな桶を手繰り寄せた。
その予感は正しいと言わんばかりに、次の瞬間、ルーチェがえづく。
「ルーチェ!」
ルーチェはなりふりかまわず、喉の奥につかえていたものを桶に吐き出す。
それは白く溶けかけた何か。
医者が言うには……ルーチェの骨、らしい。
「の、え……」
「大丈夫、大丈夫だ、ルーチェ。まだ大丈夫だ。ほら、水を飲んで」
コップに水を汲むのすら惜しんで、ルーチェを抱きしめながら空中に水の玉を生み出すと、ふよふよと小さくちぎってルーチェに含ませる。
「……あり、がと……」
「これくらいなんてことないさ。ほら、まだお眠りよ。身体、つらいだろう?」
「ん……ごめん、ごめんね、ノエ……」
消え入るような声で謝るルーチェに、僕は首を振る。
「気にしないでいいんだ、ルーチェ」
「嘘よ……きっと罰なのよ……私がノエにキスをしたから……病気を、忘れるなって……死は、いつも私の隣にあるんだって……」
「そんなことは」
「私にとっての災厄は、病気が治らないこと……ふふ、魔法ってすごいね……。ちゃんと、分かってるんだもの……。……ねぇ、ノエ、花は……カルクスの花は咲くかしら……」
「大丈夫、大丈夫だ。蕾がついたんだ。花はもうすぐ咲くよ。そうしたら、その蜜で薬が作れる」
「……そう、咲くの……。咲けるんだ……」
「ルーチェ?」
様子のおかしいルーチェに、僕は戸惑う。
ルーチェはゆっくりとまばたき、咳き込むあまりに浮かべていた涙を散らすと、僕の頭をそっと引き寄せる。
されるがままにルーチェに顔を寄せれば、彼女はなんの前触れもなく僕の唇にキスをする。
「うそつき」
唇が離れると同時に、僕の心臓を握るような言葉がささやかれた。
うそつき。
嘘つき、か。
僕は蕾の落ちたカルクスの花を見やる。
ルーチェはたぶん、隠すのを忘れた、このできそこないの花を見てしまったのだろう。
蕾が落ちてしまった以上、この花が咲くことはない。
花が咲かなければ、蜜を採り、薬を作ることも叶わない。
薬がなければ、ルーチェの病気を治すことはできない。
これが災いというものなのだろう。
ルーチェに死を突きつけるこの現実は、災い以外の何ものでもない。
そしてその災いもたらしたのは、僕に違いない。
僕が魔法使いなんかじゃなかったら。
僕がこんな代償を発現させなかったら。
口づけ一つで、愛しい人の命を奪うことは無かっただろう。
「……は、はは」
乾いた笑いが部屋の中に広がる。
身体からくたりと力を抜いて、目蓋の裏からぽとぽとと涙をあふれさせるルーチェ。
彼女の頬に落ちる涙を、悪の色をした唇で舐めるようにすくいとった。
これで、三回。
「ルーチェ、君こそ嘘つきだ」
試すように、自分から唇を寄せたルーチェ。
確かに災いをもたらしたのは僕だけど、その災いを呼び寄せたのはルーチェ自身。
降りかかる災いが死を予感させてもなお、僕に口づけた。
望んで僕に破滅のキスをするのは、君が、きっと、もう。
「……生きるのを、やめたいからなのかい?」
瞳を閉ざすルーチェに僕の言葉は届かない。
応えのない言葉は、虚しく、寂しく、空気にとける。
いつからかなんてことは知りたくもない。
でも君が、僕との未来を否定しようとしたことだけは、許しがたい。
僕はずっと、ずっと、君のことを想って、君のためを想って、時を重ねたいと思っていたのに。
君も、僕と同じだと、ずっと一緒にいたいと、想ってくれていると、信じていたのに。
ーーーでもルーチェの本心は、そんな未来を望んでいなかった?
「……ひどいなぁルーチェ。僕のかわいいルーチェ。こんな……こんな回りくどいことをしなくたって、僕は君のためなら望んで何でもしてあげるというのに」
ルーチェの額にかかる、金の髪へさらりと指を通す。
あぁ、全く、こんな可愛いおねだりをされたら、叶えたくなってしまうじゃないか。
「たくさん、たくさんキスをしてあげる。溺れるくらいのたくさんのキスをあげよう。僕のキスで、息ができないくらいに、たくさんの口づけを贈ってあげよう」
簡単なことだ。
君の願いは全部、全部僕が叶えてあげるんだ。
それが僕の心臓が張り裂けそうなくらいつらいことでも。
「君が願うなら、優しい死を贈ってあげるーーー」