夢見がちな三角形。
自己満足エッセイです。
ちょっと恥ずかしくなってきたから、評価は非表示にしておきますね。
「底辺の考えが甘いと、てっぺんがどれだけ優れていても脆く崩れ去る日が来る」
数学の先生が三者面談の時に掛けてくれた言葉だ。その時の私は未だ中学二年生。成績も下から数えて一位二位を争うほどだった。落ちこぼれだが、底抜けに明るく、夢見がちだった。
当時の私に三角形の例えを使われても、到底理解できなかった。まず、「底辺」という言葉を理解していなかったのだ。無理もないだろう。話にならない。
――しかし、先生は私を見捨てなかった。ぽやーんとしている私にジェスチャーをして、私が如何に「無謀な夢」を見ているか。それを教えてくれた。不思議と空に描かれた三角形の図はイメージが出来た。
「私、声優になりたいです。どうすればいいですか」
私の質問に、先生が言う。「まずは高校に行きなさい」と。私は信じていたのだ。声優は若くて声の良い人から順番に選ばれるものだと。そして、高校に行くのに「受験」という制度があることも知らなかった。このままでは俗にいう中卒で終わる。
それでも私は、漠然と声優になろうとしていた。最悪養成所にも入れると思っていた。底抜けのバカである。その時の私は、自分が歳を取りいつか自分の人生に責任を持たなければいけないことを知らなかった。何も知らなかった。
さすがに親も怒った。当然だろう。
「高校に行ったら声優になれますか」
受け身なのは今も昔も変わらない。何かをしたら何かを得られる。そう信じていた。今まで周囲の人たちがそうしてくれていたからだ。
でも、受験が始まった頃から、趣味友達の様子がおかしい。ノートや教科書と睨めっこをして、どこか知らない高校の名前をぽつぽつ口に出すようになった。それでも、私は気づかない。みんなが受験勉強をしていることに。
一応、漫画やアニメ、ゲームなどで日本語は読める。しかし漢字を書くのは不自由だった。クラスの平均点を取れたのは国語くらいで、あとは全然ダメだった。
「因数分解だけは覚えて、高校に行きなさい」
数学の先生は、頑なにそう言い続けていた。仕方がないから、無理やり叩き込む。公式を覚えるのが面倒で、何度も投げ出しそうになった。それでも、先生は私が幾度も間違い続けても教え続けてくれた。
そのおかげで、私のような者を受け入れてくれる高校に巡り会えた。友達ゼロからのスタート。なんだか、やり直してみたくなった。心機一転というやつかもしれない。
特に苦手な数学の授業でのこと。いきなり因数分解が出てきた。知っている問題に、なぜか心が躍った。今まで置いていかれていた授業についていける喜びを感じたのだ。
そして、テスト返却日。私は初めて高得点の回答欄を見ることになる。〇がいっぱいだ。それがなんだか認められたような気がして、嬉しかった。その高校のクラスで一応、公募推薦入試を受けられるくらいの成績は残せた。
しかし、私には「底辺」が無かった。
声優になるために何かをしていたわけでもなく、趣味も止めていて、大学に行って何をすべきかという目標を持っていなかった。高校で身につけた学問も、無理をして入った大学では通用しない。
また落ちこぼれになってしまった。
てっぺんから、ガラガラと崩れた私の理想。井の中の蛙だった私。その苛立ちを埋めるかの如くネットの言葉を信じるようになった。壊れてしまった三角形を他人の言葉で補おうとしたのだ。それがいけなかった。
何度も落とし続けた、仏教学。
あの時の私に信じるものなんてない。有るとすれば、この世の中の不平不満。もうこの思想を持ち始めてしまったら最後、蟻地獄のように幸せから遠のく。周囲の人たちも私の異変に気付き離れていった。
何のために大学へ入ったのか。
ここで、仏教学で印象に残った言葉が在る。「縁」だ。学校によって教え方が違うかもしれないが、この授業での私の先生は、二人居た。解釈の違いはあった。しかし「縁」については概ね合致していると言える。
「物事のすべては繋がっている」
ということ。まるで張り巡らされた糸のように。昔の私はそれを、先祖と重ねた。彼らが居なければ今の私は居ない。そういうことだろう。と。
これまでに話した昔の私は、入院生活と長い闘病生活を経て、変わり果てた。考え方も、何もかも。それが良いかどうかは未だ答えが出ていない。
今思い返してみれば、不思議なことが沢山ある。あの数学の先生が居なければ、私は高校に行けておらず、どのように暮らしていただろうか。少なくとも、【白夜いくと】はここには居ない。このアカウント名は、私にとっての、第二の命そのものだからだ。
「底辺」を今になって造っている。みんなよりだいぶ遅い作業だ。気が付けば十年ほど空白の期間がある。その間で出来たことを思えば、私、【白夜いくと】の生きてきた五年は非常に短い。昔に学んだ知識も朧気だ。
もし、残された気持ちがあるとするならば「言葉を遺したい」ということ。エゴだということは分かっている。しかし、今まで出逢ってきた幾つもの人たちの言葉は何度も私を支え、照らしてきてくれた。沈まない太陽のように。眩い白夜みたいに。
【白夜幾人=白夜いくと】
昔はもっと違う意味を持っていたが、今はこの解釈で使っている。私は言葉と同時にこのアカウント名も末永く遺したい。それが私の「てっぺん」であり、目標だ。そのためにすべきことが沢山ある。
私は今まで出逢ってきた人の言葉を継承できるだろうか。
不安だが、それ以上に、この文字を打ち込んでいてワクワクしている。十年間時が止まっていたのだ。無理もない。心は、まだ大学生のまま。いや、高校生か。
さて。いろいろ語ったが、肝心の作品造りに励んでいない。まだ夢見がちなのかもしれないな。「底辺」からゆっくり時間を掛けて、大きな三角形を造らなければ。
国を憂いているだけでは、何も変わらない。誰も自分の人生に責任なんか取っちゃくれないのだから。だったらせめて、本当にやりたいことを見つけて、今を生きよう。それは決して現実逃避なんかじゃない。まっとうな、時間の使い方だ。
そういう言葉を遺せたらと思っている。
蟻地獄に嵌っている人を、助け出したいのかもしれない。
でもまぁそう力まずにやっていこうと思う。あまり力むと、何も生み出せなくなってしまうから。私は好きに書く。そして読者も好きに読む。それでいい。それがいい。言葉の泡粒が一瞬でも目頭を熱くさせられたら上出来だ。
膨らんでいく。私の夢が……。
きっとみんなの方が立派だよ。
だからいくとさん、必死に今を生きるよ。
今だから生きられるよ。