日常
しばらく続く店の数々を横目に見ながら、歩いていく。入口付近に陣取っていた店の方が優勢だったのだろう、進むにつれてみすぼらしい店が増えてきた。みすぼらしいといっても、汚れた様子はなく、ただ単に日よけや看板がないだけだ。地面の上に1枚だけ敷かれている布に、自分で収穫したのであろう野菜や、陶器の類が並べられている。
品物の向こうで座っている者も、どこか小奇麗な雰囲気を漂わせている。この街が兼ね備えている特徴がよく表れているようだ。
「ほんとに治安がいいですね、グラナートって」
ロートがあたりを見回しながらいう。他の都市を数えきれないほど訪れてきたが、ここまで安定している街は初めてだった。
「そうね」
イリスがそっけなく答える。彼女には、もっと気がかりなことがあった。それに頭がいって、他のことにまで考えが回らないのである。
「――宿」
「は?」
「あーもう、どうしようかしら! どこか良さそうな宿泊先はないものなの?」
誰に尋ねたわけでもなく、かといって答えを期待していないわけでもない。そんな叫びが乾いた空気にこだました。腰をかがめて商品を見比べていた老人が数人、何事かとイリスに目を向ける。ロートはその視線を敏感に感じ取って目をそらした。
イリスの悩みの種――泊まる場所を探すことである。あまりにも重要なことで、それ以外には目がいかないのだ。ロートは道の向こうに浮かぶ雲を眺めながら、
「宿、ですか? そんなの後で探せば……」
そこまで言いかけて、自分の愚かさに気づいた。
「なんてことだ! このままだと野宿じゃないですか! それだけは避けなければ!」
ああ、自分はどれほどバカだったのだ、といわんばかりの勢いでしゃがみ込む。そしてきっ、とあたりを睨みつけた。泣いている子供が見たら、一瞬で泣きやむだろう。そのくらい、鋭かった。
「師匠! ぜひとも暖かくて、清潔で、ご飯の出る宿を探しましょう。そのためには、このロート。いかなる努力も惜しみません!」
「よくいった! それでこそわが弟子だ!」
無駄に熱く語り合う二人を、白い眼差しが覆う。その頭上を、カラスが鳴きながら飛んでいった。火照った頬に、風が冷たく感じられる。冷たいのはそれだけではなかったが、そんなことはどうでもよかった。
前の街を出てから、運に恵まれず、道端に眠る日々を続けていた。そのため、見た目からは分からないが、疲れ果てている上に、空腹なのだ。
それに――。
「これでやっと虫刺れからもお別れよ。もう足がかゆくって」
苦痛を思い出したのか、イリスが顔をしかめる。
「さ、行くわよ!」
さっそうと駆け出すイリス。その横を、ロートが駆け足で追う。
――こうして、次の目的が決まった。
「……案外早く決まりましたね……」
勢い勇んで探しに出たはいいものの、曲がり角一つ行ったところで見つけてしまった。普通に考えれば万々歳なのだが、このときばかりは何故か悲しかった。
建物の名前は、幻夢荘。個人で経営しているらしく、小さい宿だった。
「うん……」
一度燃やし始めた火は、なかなか消えない。不完全燃焼だ。そんな欲求不満の折に、一人の男が扉を開けて目を丸くした。見覚えのある後ろ姿。
「あ、あんただけには会いたくなかった……」
「ヘイ! 久しぶりの再会に嬉しい言葉だねえ」
「いや――褒めてないです」
イリスがすさまじい速さで後ずさりを始める。その視線の先には、呑気に笑う男の姿があった。
茶色のコートに身を包み、いかにも旅人といった雰囲気を醸し出している。その割に表情は軽そうで、明るかった。俗にいう、優男である。
場違いな挨拶にツッコミを入れたのはロート。彼が珍しくイリスよりも上の立場にあるように見える。
「ジャ、ジャック! どうしてここに……いや、帰って! お願いだから!」
どうやら、この男ジャックという名前らしい。これほどまでイリスに避けられる人も珍しいものだ。だが当の本人は全く気にする様子がない。
露骨に嫌がられても、相変わらずの笑顔を振りまいている。……天然とでもいうのだろうか。
「そうかそうか。そんなに俺に会えたことがうれしくて腰が抜けてしまったと」
「絶対に違います」
「ああ、ロート君も久しぶりだねえ。また大きくなったんじゃない?」
「……それは嫌みですか?」
「俺の目が君を見つめているって? そんなわけないだろう。こんなにも優しい視線じゃないか」
「睨みなんていっていません!」
いつの間にかイリスは男の背後に移動し、扉を開けて逃げようとしていた。音が立たないように静かに行動するのを、ロートが見逃すはずもなく。襟首をつかんで言った。
「あれ? 師匠、どこ行くんですか」
ぎくっ、という効果音が聞こえてきそうなほど怖々振り向いて、
「ちょっと忘れ物を取りに……」
「僕が取りに行きますよ。ですから師匠はぜひともジャックさんのお相手を」
「いやいや、そんなことする必要はないわ。あたしが行くから」
見苦しい譲り合いの精神だ。
「おや? イリスさん何か忘れものですか?」
「え、いや、まあ……」
「なら俺がとってきますよ。どんなのです?」
台詞は好青年のものだが、中身はかなりねじが外れているのである。
「えーと……えー、そう! あたしの名前が書いてあるやつ。財布なんだけど、探してきてもらえる?」
「えっ! 奥さんがいたの!」
「それはワイフ」
「また間違えてしまいました。それではっ!」
白い歯を見せて、颯爽と駆けていくジャック。その後ろ姿を、精神的な疲労を伴ったため息で見送った。二人の顔はほんの数分前とは打って変わってやつれているように見えた。
「ご主人、ここでは疲労に効く何かはありますか?」
かなりやつれた表情でロートが訊く。ジャックという男、侮れない。
先ほどの会話をすべて目の前で見ていた宿の主人だが、申し訳なさそうに微笑むだけで口を開くことはなかった。同情する気持ちはあるのだろう。
「……サービス価格で提供いたしますよ」
人の情けというやつで、半額になった。常に金欠の身としては、嬉しい申し出である。
少しだけショックから立ち直ったようで、イリスが主人から鍵を受け取る。鍵本体は親指ほどの大きさなのだが、それについている部屋の番号を記した木札がやけに大きかった。
203と書かれている。
部屋は1階と2階にそれぞれいくつかあり、イリス達が止まる部屋は2階の真ん中あたりだった。両脇には、それぞれ202、204とある。
経済的な理由や、その他もろもろの事情で部屋は共有して使う。それについては、全く問題はない。
ロートが変な気を起こすことはまずないし、もし万が一に血迷ったとしてもイリスが半殺しにする方が早いだろう。加えて、普段から寝食を共にしているため、別段不便なことはない。
年の近い男女が同じ部屋に泊まるとなると、なかなか詮索の目で見られるものなのだが、幸いなことにロートが大人とみなされることはまずない。
本人はだいぶ気にしている様子だが。
「朝食と夕食付きで、一泊2500円です。外食された場合、その分の料金は差し引きませんのでご了承ください」
通貨の単位は「円」だ。万国共通のお金で、どこへ行っても使える普遍の存在。いくつかの紙幣と、硬貨で構成されている。
2500円といえば、半額であることを考慮しても安い方だろう。当然、2食付なら破格の値段である。ジャックに感謝しなければならない。
イリスが、なけなしのお金を財布――ジャックよ哀れ――から取り出して払おうとすると、主人がそれを制した。
「後払いで結構ですよ」
治安の悪い街では、前払いが基本なのだが、少なくともグラナートにおいては違うようだ。しかし、イリスはその手に2人分の料金を乗せた。
「わるいけど、いついなくなるか分らないから」
本心であった。いつ何が起こるか分らないのが、旅である。料金が払えなかったことも何度か経験している。仕方がないことではあったのだが、(少なくとも)ロートの心は痛んだ。
幻夢荘の主人は良い人である。だからこそ、失礼なことはしたくないのだ。
主人としても損はないので、戸惑いながらも受け取っていた。
「それでは――おくつろぎください」
階下に消えていく主人の後ろ姿を確認してから、部屋に入る。
二人が入っても窮屈さを感じない程度の大きさで、ベッドが一つと、その隣に置いてある机が唯一の家具だ。木の壁にちょこんとあいている窓から陽光が差し込んでおり、それが光源となっていた。ロートが床で寝ることになるのだろう、というのは想像にたやすかった。
机の上には小さなランプが置いてあり、好きに持ち運べるようになっている。廊下には明かりがなかったため、夜にはランプを持って移動しなければいけないのかもしれない。
「さ、ロート。休む間もなく外へ行くわよ」
「休む間もなくって、自分でいうことですか?」
「いいから気合を示しなさい」
部屋には何も置いていかないで、主人に会釈してから幻夢荘を出た。きしむ音を立てながら、扉が閉まる。
「さて、どうしましょうか?」
ロートが訊いた。イリスは、少しだけ悩む様子を見せたが、
「最初は情報集めからね。夕食までには帰ってくるのよ」
「いわれなくてもそのつもりです。師匠こそ、ちゃんと戻ってて下さいよ」
「それじゃ、手分けして行動開始!」
拳をあげて意気込むが、ロートはそれに応じず勝手に歩いていく。イリスはローブ姿に冷ややかな視線を送りながら、真逆の方向へと歩き出した。




