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一面

 古びた木の椅子に腰掛けながら、男が話しだす。

「まあ、大きなイベントといえば、仮面祭だな」

「仮面祭?」

 聞いたことのない祭りだ。多分、この街独自の催しなのだろうとイリスは推測した。

 男が続けた。

「年に一回行われる祭りでな。とは言ってもまだ2回目なんだけどよ、みんな仮面をかぶって街に繰り出すんだ。広場で踊る奴らもいれば、屋台を冷やかすだけの奴らもいる。何をしろっていう規則はねえから、好き勝手やるだけだぜ? 城では舞踏会もやるらしいな。なんでも、姫様自ら勧誘しに来るって噂だ」

「お姫様が? なんでまたそんなことを?」

 言わずと知れた高貴な身分である。普通なら街へ下りたりはしないだろう。

 疑問に思ったイリスが訊いた。

「舞踏会っていうのは、そんなに重要なものなの?」

 一城の姫が、自分で誘いに回るというのだ。よほど大切なことだろうと考えた。

「いいや、そんなもんじゃねえ。至って普通さ」

「なら、どうして?」

「ここの姫様は、お転婆なことで有名でなあ。よく街ん中をふらふらしているのを見かけるよ」

 主人は、どこか遠い目をしていった。

「綺麗な方だぜぇ。あんたほどじゃねえが、綺麗な髪の毛をお持ちでなあ……みんなのあこがれの的さ」

「ふーん」

 イリスは、他人の容姿が良いからといって嫉妬するような人ではないが、興味なさげな反応を示した。ロートは嫌な予感が頭をよぎったのを感じた。

「そのお姫様の名前は?」

「サラ・ハーレット様だ。本当の名前は、結構な長さなんだが、覚えちゃいねえよ」

 貴族のように、身分が高い者の名前は総じて長い。それは家名だとか、縁故などのためなのだが、普通は略して使う。公の場で仕方なく正式な名前を使うときなど、読み上げるのも一苦労である。

 自分のものでもない名前をいちいち覚えていろ、という方が無理だろう。要は実用性があればいいのだ。

「つまり、この街を治めているのはハーレット家ということね」

 確認というよりも、自分の頭に入れようとしているような口調で、イリスがいった。彼女は、自分に都合が悪いこと以外を忘れたりはしない。もちろん、ロートも記憶力は良い。例え覚えておきたくないことでも、鮮明に思い出せるだけの能力がある。

 その点、イリスの脳は明らかにタチが悪かった。

「領主の名前は?」

「サモン様だ。なかなかいい領主さまだぜ、俺たちみたいな貧乏人にも優しくしてくださる」

「サモン・ハーレット……ふーんよかったじゃない、あんた恵まれてるわよ」

 イリスはそれだけいうと、男に背を向けた。その背中へ、独り言のような呟きが飛ぶ。

「恵まれている……か。どうなんだろうな?」

「どうって――、なにが?」

 体の向きは変えず、顔だけを主人の方へ向ける。紫の髪がはらりと揺れて、半分ほどが肩にかかった。女神のような美しさがすべての挙動に備わっていた。

「恵まれていることと、幸せだということは、似ているようでなかなか違うもんだ。そう思うと、恵まれているってのも一体何なのだろうなって……」

 ロートには、男の言いたいことが理解できるような気がした。

 霧の中で迷いながらも答えを探すような話。解けるかどうかの保証すらない。だが、確実に真実は存在する。そんな問いだ。

 イリスは改めて男に向き直った。

 珍しく真剣な顔つきで、しかし口元にはわずかに微笑を携えている。

「相対的に考えると、そうね。あんたはすごく恵まれている。けれど、絶対的な関係でいうとそれはすごく難しい問題。――なぜなら、評価基準は他人と比べることで生まれるから。比較し、区別することで価値を見出す方が簡単だもんね」

 どこか諭すような口調だ。後ろにいるロートも硬い表情でイリスの話に聞き入っている。彼は自分の師匠がときどき真面目な哲学を教授してくれるのを知っていたから、その裏にどんな感情が込められているのか、なにを理解してほしいのかもきっちり感じ取っていた。

「というわけで、あたしはこの仮面をいただいていくわ。代金はこの子でお願い」

 壁に掛けてあった一枚の仮面を取り、ロートを指さす。呆気にとられている主人をよそに、ロートが驚きの声を上げた。

「ちょっと、僕が代金の代わりですか!?」

 ふっと笑って、イリスは店を覆っている青い布をくぐった。あわてて、ロートもその後に続く。

 外に出ると、薄暗い店内とはうって変わって、空の光が燦々と降り注いでいた。その眩しさに耐えられず、手をかざしてみた。

 少しだけ影ができて、イリスの顔が見える。

「あんたも仮面貰ってくれば?」

 不思議そうな顔で見つめ返してくるロートに、イリスは仮面祭だからね、と説明した。

 納得した様子でロートは店内に戻る。

 主人がいぶかしげに睨みつけるが、ロートは一番無難そうな、飾りの少ないものを選んだ。そして、そのまま目もくれずに店外へ出る。

「選んできた?」

 こくり、と頷く。

「そう、じゃあ次行きましょう」

 計画もなく歩き出そうとしたイリスを、ロートが止めた。

「どこへ行くつもりですか?」

「どこってつもりはないけど、あんたは行きたいところある?」

「まさか買い物でもするつもりですか!」

「あ、ばれちゃった」

 可愛く舌を出して、コツンと頭をたたいた。てへっ♪ という効果音が聞こえてきそうである。

「これでも弟子ですからね」

 ふてぶてしくロートがいう。

「でもまあ、情報収集にはちょうどいいのよ。わかるでしょ?」

「適度なら僕だって目をつむります。けどこんなことしているから万年金欠になるんですよ。しかも自分ばっかり美味しいもの食べちゃって……」

「もしかして、恨みの焦点はそこ?」

 ロートの顔を覗き込む。わずかに赤くなった頬と、怨みがましい青い瞳が見えた。

 小さい呟きが漏れる。

「ずるいじゃないですか……僕だって育ちざかりなんですよ……」

 身長が低いのだってきっと――そういって、自分でも恥ずかしくなったのかロートはうつむいた。その頭を乱暴になでる。かぶっていたフードがずれて、ピンクの髪が姿をあらわしたり、消したりした。

「今度御馳走するわよ。期待して待ってなさい」

 あまり期待しないでおこうとロートは心に固く誓った。イリスはロートの頬をぷにぷにとつついて遊んでいる。満面の笑みはまるで子供がおやつを見つけた時に浮かべるそれのようだった。


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