僕を待つ君、君を迎えにくる彼、そして僕と彼の話
夕暮れの交差点。まばたきする青信号。
僕はハンカチを握りしめたまま、横断歩道を走り抜ける。彼女――綾乃さん――は今日もまた駅前でひとり迷子になっているはずだから。
いつもおっとり、お嬢さん育ちの綾乃さんは、絶望的に方向音痴だ。年々ひどくなる一方で、僕は本当に気が気じゃない。額から流れ落ちる汗を、スウェットの袖口で拭きとる。肌寒いはずの風が心地いい。
帰宅途中の高校生やサラリーマンの波に逆らいながら走り続けること、10分あまり。いた、綾乃さんだ。案の定、綾乃さんは駅前のロータリー近くをうろうろしていた。薄手のワンピース姿で、見ているこちらが風邪を引きそうだ。
すぐに迷子になってしまうくせに、自由人な綾乃さんはふらりと出かけてしまう。まったくいい加減にしてほしい。この間も派出所でお巡りさんに、苦笑いされちゃったんだから。
「お嬢さん、ハンカチを落としましたよ」
なにをやってるの、綾乃さん。もう帰るよ。
そう言いたいのをぐっとこらえて、僕は真っ白なハンカチを差し出しながら声をかけた。綾乃さんはメルヘンチックな乙女だから、毎回決まった手順を踏んであげないとへそを曲げてしまうのだ。
「あらまあ、ご親切にありがとうございます」
「そんな薄着で寒くありませんか」
ころころと楽しそうに笑う綾乃さんに、用意しておいたコートを着せる。ありがたいことに今日の綾乃さんは、なんだかとても機嫌がいい。こんな風に笑顔を向けられてしまうと、こちらも毒気を抜かれてしまう。まったく、こういうところがズルいんだよな。
「こんな可愛らしいお嬢さんがひとりだなんて心配だな。家までお送りします」
「もうお上手なんだから。ねえ、落とし物を拾っていただいたお礼に、コーヒーでもいかがかしら。もちろん純喫茶よ」
ウインクまじりのお誘い。
寄り道して買い食いなんてしていると、夕飯が入らなくなるよ。せっかく、今夜は特製のクリームシチューなのに。
その言葉も、僕はもちろん飲み込む。どうせ綾乃さんは、言い出したら僕の話なんて聞きやしないんだから。
「それでは、お言葉に甘えまして」
意識して背筋を伸ばしうなずけば、綾乃さんは猫のように目を細めて笑った。
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駅前の角を右に曲がれば、昔懐かしい商店街のアーケード。再開発に合わせて入れ替わった店も多いけれど、それでも昔から変わらない店だってちゃんと残っている。
僕たちはそのうちのひとつ、古式ゆかしい喫茶店に滑り込む。綾乃さんは、学生時代から、暇さえあればここに入り浸っていたらしい。
「うふふ、ボーイフレンドと一緒に喫茶店だなんて、先生に見つかったら叱られちゃうかしら」
綾乃さんは時代錯誤なことを言いながら、悪びれることなくメニューを開き始める。
「どれにしようかしら。迷ってしまうわ」
選択権のない僕は、その間にメールを打つ。どれだけ悩んだところで、注文するものは結局同じもの。
綾乃さんはやはりいつも通り、ウィンナーコーヒーとエスプレッソを頼むことに決めたらしい。
「ねえ、ウインナーコーヒーはどうしてウインナーって言うか知ってる?」
綾乃さんに尋ねてみれば、きょとんと目を丸くした。それからおかしくてたまらないと言わんばかりに、口元に手をあてる。
「オーストリアのウィーン風のコーヒーだからでしょう。いやだ、前に一緒に喫茶店に行った時にあなたが教えてくれたんじゃない。ほら、銀座へ映画を見にいったでしょう? あの日は雨が急に降りだして傘を持っていなかったから、近くの喫茶店に……」
綾乃さんが流れるように話し始める。忘れっぽい綾乃さんの思い出話は、本当に不思議だ。その記憶は一体どこにしまってあるのだろう。
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「ねえ、聞いているの?」
「もちろんだよ。綾乃さん、それからどうなったんだっけ?」
綾乃さんのおしゃべりは、話題の移り変わりが目まぐるしい。ちょっとした連想ゲームのように、ふわふわとあちらこちらへ飛んでしまう。
「だから、あの時はあの子の夜泣きが大変だったという話を……。あら、違ったかしら。結婚式の日にタクシーが渋滞に巻き込まれて、遅刻しそうだったという話だったかしら……。ええと、たしか……」
遠くを見つめたまま、不明瞭なひとり言をつぶやく。思い出の世界に入り込んだ綾乃さんは、しばらくこのままだ。とりあえず僕は肩をすくめて、タイミングよく届いたコーヒーを口に含んだ。
「っ!」
エスプレッソはやっぱりまだ僕には早すぎたみたいだ。喉の奥が熱い。思わずお冷やを流し込み、ついでとばかりに溶けかけた氷を噛みくだいた。走り回ったあとにきちんと汗を拭かなかったせいか、今ごろになって体が冷えてくる。
誰でもいいから僕と手を繋いでほしい。だらしない猫背で携帯をいじってみる。スマホの画面に流れるのは、他愛もない友人たちの呟き。それに僕は、いいねを押して回る。まるで何かの儀式のように。
不意に、心地よいテノールが響いた。
「綾乃さん、もうこんな時間ですよ。そろそろ家に帰りましょうか」
ぼんやりとしていた綾乃さんの目の焦点がゆっくりと合う。まばたきを繰り返し、綾乃さんはにっこりと微笑んだ。お帰り、綾乃さん。お迎えの時間だよ。
「まあ、昭彦さん。お帰りなさい。今日は、お早いのね」
「仕事が思ったよりも早く片付いたからね」
「ねえ、今夜はクリームシチューなのよ。あなたの大好物の!」
「それは嬉しいね」
きっちりと背広を着込んだ長身の彼が、綾乃さんの手を取る。かつて町内一と褒めそやされた美丈夫。頬を染めた綾乃さんは、可憐な少女のようだ。きっとふたりは、トレンディドラマのような恋人たちだったのだろう。半世紀前であれば、の話だけれど。
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綾乃さん――僕の祖母――はとても自由なひとだ。毎日楽しかった時間を自在に旅して生きている。認知症と診断されたのは、僕が小学5年生のとき。それからゆっくりと、けれど確実にその症状は進行している。
女学生として喫茶店を堪能することもあれば、新婚時代に戻って料理の腕を奮うこともある。出産したばかりの頃を思い出しているはずのない赤ちゃんを探し回ることもあるし、息子夫婦が危篤だと大騒ぎして夜中にタクシーで救急病院に向かおうとすることだってある。
混乱を避けるために、僕はいつの頃からかばあちゃんではなく、綾乃さんと呼ぶようになった。そうすれば、どの時代の彼女であったとしても、スムーズに会話を続けることができるからだ。
とはいえたいていは今日のように、僕のことを彼――祖父である昭彦――だと思い込むことが多い。僕たちは雰囲気が良く似ているらしい。だから僕は、綾乃さんが徘徊するたびに、ふたりの出会いの場面を再現する羽目になる。
もう何度駅前でハンカチを拾い、この喫茶店でコーヒーを飲んだことだろう。どれだけ繰り返しても、いまだにエスプレッソひとつまともに飲めない僕は、お子さまのまま。
砂のお城よりも脆い綾乃さんの記憶はとどまることなく、はらはらと崩れ落ちていく。
きっといつか、綾乃さんのてのひらから、僕もこぼれおちてしまうだろう。そして何千、何万の砂粒の中に混じった僕はきっと、綾乃さんに見つけてもらうことは叶わない。
死がふたりを分かつまで。その言葉を拒むかのように、ふたり一緒に旅立った両親。
病める時も健やかなる時も。その言葉通り、寄り添いあう祖父母。
僕はそのどちらにも入り込めない。宙ぶらりんだ。
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今日のところはひとまずお役御免ということだな。伝票をつかんで、こっそり席を立とうとしたその時だ。
「あら、落としたわよ」
綾乃さんが僕に声をかけた。
財布を出した時に、ハンカチが落ちてしまったらしい。綾乃さん用の真っ白なものとは違う、今日一日使ってしわくちゃになった僕の青いハンカチ。他人なら触れることすら躊躇するそれを、綾乃さんが拾い僕に差し出す。
「どうも、すみません」
「あらいやだ、どうしたの。そんな他人行儀な言い方なんかして。さあ、帰りましょう。特製シチューがわたしたちの帰りを待っているわ」
頭を下げる僕に向かって、綾乃さんが得意げにウインクをした。
ふたりの世界をたっぷり見せつけておいて、僕のことなんか放ったらかし。そうしてはたと気がついたかのように、時々、本来の時間軸に戻ってくるのだ、綾乃さんは。お前のことだって、ちゃんと覚えているよとでも言うかのように。
綾乃さんは、ひどいよ。そんなんだから、いつまで経っても、僕は綾乃さんが嫌いになれない。諦められない。
店の外に出れば、僕と祖父とそれぞれの手を繋ぎ、両手に花だと綾乃さんが軽やかに踊る。僕たちは黙ってただ歩くだけだ。綾乃さんを挟んだ、そのひとり分の距離が信じられないほど遠い。
ハロウィンが終わったばかりだというのに、既に気分は12月。商店街を彩っているド派手なクリスマスのイルミネーションが、眩しくて仕方がない。あいている左手で目元を乱暴にぬぐう。
僕は綾乃さんの幸いのために、一体どうしたらいいのだろう。何が幸せかなんて、わからない。けれど、僕はこれからも綾乃さんのハンカチを拾い続けるだろう。綾乃さんがすべてを忘れてしまうその日まで。
商店街のアーケードに遮られて、ここからは夜空なんて見えやしない。銀河鉄道にでも乗らない限りは、きっと。それでも、みんなの幸いのためにその身を燃やし続ける小さなさそりを探して、僕はいつまでも上を見続けた。




