幼妻と浮気したい俺その四 目覚め
三章:パーティが終わるまでに
【幼妻と浮気したい俺その四】
ゆっくりと昏睡していた意識が回帰していく。……俺は何をしていたんだろうか。寝ていたのか? 思い出せない。脳の半分はいまだにシャットダウンしていて思考が回らない。瞼がくっついたかのように重くなかなか目を開けられない。
ベッドで寝ていたことを理解するのにだいぶ時間を要した。聴覚がようやく働き始めてシーリングファンの音が耳に入る。ようやく俺は身体を起こした。いまだにぼんやりとしていて、夢と現実が混ざり合っている。
「今は……朝? いや、夜か」
外の空気を吸いたくてベランダに出た。湿気のある、けれど涼しい夜風が頬を撫でる。濃厚な森の匂い。晴天の青空が嘘みたいに夜闇に落ちていて、俺が知る世界の夜と違って紺や紫ではなく黒がすべてを満たしていた。濃い影に消えた木々。水平線と地平線は溶け合って区別がつかない。
星と思えるものはなく、しかし真上を振り仰ぐと空間の裂け目が露わとなっていた。天の川のように伸びたそれは、周囲の空気を歪ませ揺れて、何層もの玉虫色のヴェールを重ねて輝いていた。
「……綺麗だ。エルフィ、ベランダにッ――――」
ようやく頭は正常稼働し始めた。寝る直前までの出来事が一気に振り返っていく。ああ、あああああああああ! 思い出した。浮気がバレたんだ。想定外の早さで事は進んでしまったが計画通りだ。彼女はもうここにはいない。寂しくないといえば嘘だったが、これで彼女は書類一枚の契約に縛られず自由に生きていける。
「これで、……これでよかったんだ」
言い聞かせた。平静を保とうとしても表情筋が引き攣って、指先が震えている。俺は正しいことをしたはずなのに、とんでもない間違いを犯した気がしてならなかった。口がカラカラに乾いていて、嗚咽が混じって吐く息が震える。さらに鮮明に記憶が戻るにつれて頭が真っ白になっていた。
――――なんでエルフィは泣いていたんだ。
あの一瞬が何度も何度もフラッシュバックし続けた。覚えている。ああなる前に飲んでいた甘酸っぱいお茶の味を、夕日が射し込める部屋を、彼女の髪の匂いを、表情を、涙を、すべて覚えている。
『わたしは愛してる。あなたの愛が真実でも、偽りでも』
分からない。どこまで演技だったんだ。あんな表情はいままで見たことなかった。エルフィ、君は嫌じゃなかったのか? 無理矢理定められた結婚が。紙切れ一枚の契約が。
考える。考えても考えても頭がぐちゃぐちゃになって訳が分からなくて焦燥感だけが胸のなかを搔き乱す。胃に穴が開きそうだった。
「プラフォード! いるんだろう! お願いだ。俺はもう分からないんだ! 出てきてくれないか!」
近くにいるはずだろう護衛隊長の名を呼んだ。次の瞬間、俺の隣で空気が震えてわずかな紫電とオゾン臭が広がる。透明迷彩を切ったらしい。何もなかったはずのその場所に無骨で漆喰色のボディーアーマーが姿を見せた。フルフェイスの装備なため彼の顔は見れないし、見たことがない。
『お呼びでしょうか。ハルト様』
彼の脳波を読み取ってスピーカーが合成音声を発する。俺は彼の両肩を掴んだ。誰にでもいいから縋りたかった。教えてほしかった。背中を押してほしかった。何をする背中を?
「教えてくれプラフォード……! 俺達はどこまで本物なんだ。俺はずっと愛されてないと思ってたんだ。金のために無理矢理結婚させられて、そんなことのためにエルフィの人生を縛り付けたくなくて……!」
『理解しています。あなたは誰よりも彼女のことを想っていました。ですが彼女も同様です。あなたのためにすべてを隠していました。女の子らしくない仕草も、拳銃や薬物、盗聴器から隠しカメラにいたるまであらゆる事柄に長けていることも』
思考がフリーズしかける。情報量が多すぎた。
「……俺はどうしたらいい。ずっと全部が偽物だと思ってた。エルフィは、あの子の涙は本物なのか? 分からないんだ。けど俺が泣かせた。最低だ。どうすればいい」
『ハルト様、確かに契約はあらゆることを縛り付けます。俺は給料がなければ相談にのろうとも思わないです。契約外のことまで不用意に行動して責任問題になったら嫌だからです。ですがエルフィ様は違います。契約はキッカケではありましたが、形だけの夫婦ならここまで拗れません。泣きません。睡眠薬を盛りません。あなたが悩む理由もなかったはずです』
そこまで言われても俺は行動できずにいた。立ち尽くして後悔が巡る。エルフィは俺を愛してくれていたのか? 嗚呼、糞! なんでこんなときまでずっと疑問形なんだ。
『……そっか。わたしも愛してるよ。嬉しいなぁ』
溶けるような笑み。射し込む夕日。なんで俺は彼女と向き合えなかった。縛り付けているかもしれないから浮気する? なんて、なんて馬鹿なことをしていたんだ。
俺は俺が情けなくて、惨めで仕方なくて頭を殴った。拳が痛い。額から脳全体に響く衝撃に視界が揺らされる。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。このまま勘違いされて別れたくない。俺だって彼女を――――逢いたい。話ができなくたっていい。せめてもう一度逢いたい。
プラフォードが俺の腕を掴んで自傷行為をとめさせる。視線の見えない視覚補正ゴーグル越しに彼は俺を凝視した。無機質だが力のある声を響かせる。
『ハルト様。走るべきです。いいえ、走れ。俺はずっとあんたたちを見てきた。口を出さないでいた。もう限界だ。いつまで両片想いを見てればいい。あげくにこんな別れ方をされたら最低だ。胸糞悪いにもほどがあるんだ。あなたが命令してくれればいくらでも従います。部下全員の休暇を切り上げます』
頭を殴ろうとしていた腕から力が抜ける。頭はもうクールになっていた。冷静だ。冷静に、今すぐにでも駆け出したい衝動が疼いた。握り拳を作る。死にかけていた脚に熱い血が通う。スッともう一度息を吸った。もう呼吸は震えていない。
「プラフォード、命令だ。この仕事が終わったらいくらでも有給をくれてやる。俺の妻を探してくれ」
フルフェイスの防具を装備しているせいで表情は見えなかったが、プラフォードがニヤリと笑ってくれた気がした。
『お前ら聞いてたな! 馬鹿夫婦のために休暇を使え!』
『すでに命令前から行動中であります! こちらデルタ隊! エルフィ様は島南部の砂浜から第三迎賓館へと移動中。パーティ会場の一つとなる場所です』
このホテルの地図はすべて把握している。俺はすぐに部屋を飛び出した。バチバチと透明迷彩が再びオンになる音がする。マナーなんて今ばかりは考えられなかった。エレベーターも待てずに階段を跳んで勢いよく降りる。
「……エルフィ!」
――――後悔している。このまま会えなかったらと思うと怖くて仕方なくて体が突き動かされる。全て思い出していた。口に残る柔らかい感触も。すべて、すべて。




