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砂漠に咲く

作者: えりんだむ

〈 雨を観に来ませんか 〉



 そんな手紙が届いた。


 砂漠地方に住んでいる義姉からだった。


 私は一人、モーターサイクルで兄夫婦の住む砂漠地方へと向かうことにした。



●●●



 曇りだった。



 灰色の空の下、私はモーターサイクルで砂を散らしながら砂漠を進んでいた。


 白色の砂漠は、まるで牛乳の海のようだ。

 この分ならゴーグルやロングコートのような大仰な装備は必要なかったのかもしれない。


 『波』を避け、ワジを進むようにする。


 手元のナビゲーションによれば、兄夫婦の家にはあと一時間もすれば辿りつけそうだった。

 砂漠地帯に入ってからここまで来るのに、丸一日はかかっている。


 波立ったまま凍り付いた海のようにも見える奇妙な風景の中、私はモーターサイクルの速度を上げた。



●●●



 砂漠に建つ家は、どれも四本足の鶏のような形をしている。

 地面からの熱伝導を和らげ、雨期の土砂流れで家ごと流されるのを防ぐためだ。


 私はモーターサイクルを兄夫婦の家の下に止めると、地面から浮かび上がった家の底から伸びているロープで、それを縛った。滑車に繋がったロープの反対側の端を引っ張ると、モーターサイクルは少しずつ宙に吊り上げられていく。


 これで雨に流される心配もなくなるだろう。


 モーターサイクルがずり落ちないことを確認すると、私は同じく家の腹からぶら下がった縄梯子に捕まり、玄関を目指してそれを登り始めた。



●●●



 家の「腹」から内部に侵入すると、私は兄夫婦の家が随分暗いことに気が付いた。


 曇りだからだろうか?


 しかしあちらこちらにぶら下がっているランタンにも火は灯されていない。

 加えて、室内は恐ろしいほどに静かだった。


 奇妙な玄関でコートやゴーグルをラックにかけて、私はリビングにつながる扉を開いた。


 砂漠に面したリビングの西の壁は、そのすべてがガラス張りになっていた

 一面に広がる白い砂漠と灰色の空は、波立った境界線に分かたれてどこまでも広がっている。


 義姉は窓の前にいた。


 私に背を向け、藤の椅子に腰かけている。




 玄関と同じように暗いリビングを進んでいく。

 砂漠を越えるために履いてきたロングブーツが、板張りの床をぎしりぎしりと軋ませた。


 義姉はまるで気が付いていないかのように、静かに窓の外の風景を眺めている。


「もうすぐ降り始めるでしょう」


 彼女の真横に立った時、椅子に座ったままの義姉が唐突に言葉を発した。


 やはり私の来訪には気が付いていたようだった。



 義姉はやはり美しかった。



 まだこの砂漠に越してくる前、郷土にいたころは、よく水仙の花に例えられていた。

 ただそんな姉も、この薄暗いリビングの中では萎れて見えた。




 窓の外を見つめる瞳は蒼く淀んで、その焦点も合っているのか定かではない。

 ブランケットを膝にかけて藤椅子に腰かけているその姿は、まるで百年も前からそこに据えられているドールのようだった。


「兄さんはどこにいるんだ」


「少しの間、いません」


「そうか」


 一向に義姉が私と目を合わせようとしないので、私も窓の外を眺めるようにした。



 白い砂。


 灰色の空。


 窓に反射する、それらを混ぜ合わせたかのような義姉の肌色。



「数年に一度、この季節になると雨が降るのです」


 蚊の鳴くような声で、義姉はそう呟いた。


「白い砂漠がまるで海のように流れて、うねって、揺蕩うのです」


 死んだように穏やかな砂漠が雨によって動き始めることを想像して、私は、


「まるで生き返っていくようだな」


 と言った。


 返答を求めた発言ではなかったのだが、しかし義姉はこれまでで一番興奮したように、「そうでしょう。そうでしょう」と繰り返した。


「そこの写真が見えますか」


 顔を傾けて、義姉は奥の壁を見るように私を促した。


 花畑の写真が掛かっている。

 鮮烈な紅い花が、地面を覆いつくすようにして咲き乱れている。



「ここから撮ったんです。綺麗でしょう?」


 写真の方に顔を向けたままそう言う義姉に、私は「そうだな」と答えた。


「雨が止んだら、何年ものあいだ地中で眠っていた種が芽吹くのです」


 写真の中の花畑は、しかしよく見ると場所によって濃淡が分かれている。より大きく、華やかに花が咲いている場所と、そうでない場所がある。


「コントラストに気が付きましたか?」


 義姉は見透かしたようにそう言った。


「花がより元気で、色の濃い場所。その下には砂漠の動物たちの死骸が埋まっているんです」


 その時だった。まるで絵画のように変化のなかった砂漠が、幽かに動いたような気がした。




 雨だ。


 雨が降り始めている。




 曇天の薄闇の中で白く浮き出た砂漠に、灰色の斑点がぽつりぽつりとつけられていく。


「いよいよ始まりましたね」


 と、嬉しそうに義姉は言った。


 雨なんて見慣れているから、私はむしろ晴天の下の砂漠の方が美しく思えるのだが、義姉にとっては逆なのだろう。


 義姉は一心不乱に窓の外の風景を注視していた。

 私のことなどすでに気にも留めていないようだ。


「純白の穢れない砂の下で腐乱する死体が、激しい雨と砂で混ざり合って滅茶苦茶になって、最後には美しい花を咲かす」


 ああ。


 義姉は感極まったように目を細めた。土色だった頬に紅が差しているような気すらする。


「なんと美しいんでしょうか」


 恍惚とした表情の義姉を見て、私は昔を思い出していた。



●●●



 郷里での義姉は高嶺の花という他なかった。


 もとより女性が少ないということもあっただろうが、しかしそれでも郷里の男は皆、義姉に夢中だった。


 触れれば散るような白い花弁のような肌。艶やかで長い黒い髪。愁いを帯びた微笑み。

 一挙手一投足が皆の目を引いた。


 無論言い寄られることも多かっただろうが、そのたびにそろりとそれを交わして、義姉は涼しい顔をしていたものだ。 


 そんな義姉がなぜ兄を選んだのかは、今でもわからない。


 私は兄が嫌いだった。



●●●



 雨はいよいよ強まって来た。


 ざあざあという音が室内まで響いてくる。


 兄は未だに現れていない。


「兄さんは大丈夫なのか」


「雨が止むころに戻ります」


 少し煩わしそうに、しかしわくわくしながら義姉はそう答える。


「心配なのですか」


「そりゃ、兄弟だし」


「嘘をおっしゃらないでください」


 私はどきりとして、義姉の方を振り向いた。


 やはり作り物のような笑顔で窓の外の雨を眺めている。




 空耳だろうか。それとも自らの心の底から響いてきた声が、義姉の声音を借りたのだろうか。

 雨音が聞こえなくなるほど私は緊張して、義姉から目が離せなくなった。




「手紙を差し上げたのは、あなたと二人で雨を観ようと思ったからです」


 義姉は独り言のようにそう呟いた。


 私はその意図を図りかねて、黙り込んだ。微動だにしない義姉から目を外して窓へ顔を向ける。


 暗いガラスは私と義姉を反射していた。




 呆けた表情で立っている私と、薄く微笑み椅子に腰かける義姉。


 私は窓に映った義姉を見ていた。


 義姉はまっすぐと砂漠を見据えている。




 ここへ来てようやく、私は義姉の顔を正面から見ることができた。

 今まで陰になっていて見えていなかった義姉の顔の左半分。そこにはまだ新しい痣があった。


「兄さんはどうした」


 幾分か震えた声で、私はそう聞いた。


「雨が止めば戻ります。真っ赤な花を携えて」


 義姉はぐねりと首をこちらへ捻った。

 洞のような両目が私を捕らえている。


「それを二人で待ちましょう」


 その眼は私の顔を透かして、なにか別の者を愛おしそうに見つめていた。




「ねえ。あなた」




 甘えるような声で、義姉はそう言った。



●●●



 スコップを放り捨てると、私は土砂降りの砂漠を進み始めた。


 海のようにうねって流れる砂漠に足を取られ、時々転んで手をつきながら、私は来た道を引き返していた。


 モーターサイクルのエンジンは滅茶苦茶に壊した。


 視界を埋め尽くす灰色の砂漠は、いくら進めど終わることはない。

 足を踏み出せど、こちらへ流れ来る砂に押し返される錯覚を覚える。


 モーターサイクルで一日かかった道だ。歩いたらどれほどの時間がかかるだろうか。



 ああ。



 私もまた、砂漠に咲くのだろう。

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