異郷の剣士と竜の姫君
聖山の、深雪の降り積もる荘厳な原野に、一筋の乱雑な線が引かれている。
描いた犯人は一人の男である。防寒具の、目深に被ったフードのおかげで年の頃は判然としないが、体格が良く、腰には立派な長剣を佩いている。流れ者の剣士という風体だった。
膝元まで深く積もった雪の中から、どうやって探り当てるのか、確かな地面をしっかりと踏み締めつつ、ただ淡々と歩みを続けている。歩んだ道筋が、そのまま乱雑な線となって残っていく。上空からは、まるで巨大な蛇か蚯蚓がうねうねと這っている、そのように見えなくもない。
暦はもう二月に入っていた。
伊達や酔狂でこの魔境に立ち入る修道士や猟師たちも、この時期ばかりは避けて通る。
冬の聖山は「危険」などという生易しい言葉では語れぬ。
周辺地域では一般常識の範疇である。
もちろん、かの剣士が遠い異郷よりの旅人で、冬の聖山の悪名を知らぬ可能性はある。
であるならば、哀れな異邦人に危険を知らせてやるのもまた、国境付近の守護と警戒を平時の任務とする飛竜騎士団の役目ではあった。
(何を考えているのかしら)
はるか上空から、無謀な剣士を見下ろしつつ、ガイラント公女デネブ姫は秀麗な眉目をしかめた。
歳は十八。ガイラント人らしい長身に漆黒の髪と漆黒の瞳、そしてもぎたての白桃のように艶やかで瑞々しい肌。張りのある口唇と、可愛らしくツンと上を向いた小鼻は母譲り、そして少々きつい目元と剣の才は父王譲りだ。
その、近隣諸国でも評判の戦乙女が跨る飛竜が、不意に小さく声を上げた。デネブの憂鬱な気分が多少、伝播したのかもしれない。「大丈夫よ」とデネブは騎竜――アスタリュートという名だ――の首を軽く撫で、それから旋回と下降を指示した。
冷たい風が頬を撫ぜ、デネブの見事な黒髪をかきあげた。
空気は冷たいが、空は快晴である。上空は日差しも強く、凍えるほどの寒さは感じない。
アスタリュートもよく風を捕らえ、快適な飛行を続けてくれている。
冬の聖山でこんな穏やかな天候に巡り合うことなど稀である。あまりにも珍しいから、通常の見回りから少し遠出をした。それで余計なものを見つけてしまうのだから、デネブが憂鬱になるのも仕方がなかった。
高度を下げていくと、向こうの方でもこちらを確認したらしい。
剣士は歩みを止め、徐々に降下してくるデネブとアスタリュートに視線を固定した。その瞳と視線を交わし、デネブは息を呑んだ。それほどに深い、冷気を放つような青い瞳だった。
「待って」
アスタリュートが地面に降り立つと同時に、剣士が長剣の柄に手をかけるのを、デネブは慌てた声で制した。
そして鞍から跳ね降り、アスタリュートに待機を指示する。
ひゅう、と強い風が粉雪を散らした。剣士のフードが払われ、その顔があらわになる。
デネブは「ほうっ」と息を漏らした。
銀色に輝く髪が風に揺れていた。対照的に肌は浅黒い。日に焼けたふうではない。少なくとも、デネブが初めて目にする異貌である。思ったよりも随分若いようだ。二十歳前後だろうか。ほどよく整った凛々しい面立ちが、氷の様に張り付いている。
そしてその目だ。
深く美しい、吸い込まれるような紺碧の瞳と、いかなる感情も読み取れぬ表情から、ただ冷たい威圧感だけが伝わってくる。
デネブは両手を広げ、勤めて明るい表情と声とで言った。
「まずは名乗らせてください。私はデネブ・クロフト。ガイラント国王セリオス・ガーラント・ヴィシュナスの娘で、飛竜騎士団十一番目の竜士です」
周囲の人間からそれなりに好評を博す己の容姿が、この若者にも通用すればという期待だった。しかし彼は表情を変えず、長剣から手を離すこともなかった。
背が高い。デネブもさすがはガイラントの姫君、と言ったところで、女性にしては体格が良く、並のガレリア男性よりは上背があるのだが、異貌の若者はデネブよりさらに頭一つ分長身だった。
一瞬、デネブは背筋に冷たいものを覚えた。
いまだ鞘の中に収まるこの若者の剣が、己と騎竜を切り刻むのに、さした時間を必要としないのではないか。そんな予感に駆られたからだった。
「少なくとも、あなたの敵ではないと思うのだけれど?」
心の動揺を悟られぬよう、デネブは勤めて穏やかに言った。馬鹿な事、という想いもある。飛竜は全長六メートル、翼長は十メートル以上にも及び、板金鎧をも噛み砕く強靭な顎と、城砦を軽々と叩き崩す攻撃力を持つ。一介の剣士が太刀打ちできるはずがない。
ならば。この途方もない威圧感は何だというのだろう。
「知らず」
突然に若者が口を開く。デネブは「びくん」と肩を震わせた。綺麗な声。低く、透明で、心に直接響くような声だ。
しかし、告げられた内容が判然としない。彼の手はまだ長剣の柄にかけられたままだ。
「知らない? 何を知らないと言うの」
デネブは問う。
「不明」
若者は答える。
「汝の言が分からず。我、不慣れな故」
デネブは「ああ」と声を漏らす。彼女たちの言葉、つまりガレリア語に不慣れなのだ。やたらと古臭い言い回しなのは、もっと西方の出身か、その国々である程度、ガレリア語を学んだからだろうか。
「クティル語なら、分かる?」
デネブは言語を変えてたずねた。
「分からず」
若者は古臭いガレリア語で答えた。
「クティル語。名称は承知。されど用いるに至らず」
びゅうっ!
ひときわ強い風が、若者の銀髪とデネブの黒髪を巻き上げた。遠くの方から、徐々に地吹雪が強くなっていく。悪い予兆だ。いつまでもここにはいられない。
デネブは腰に佩いた長剣の留め具を外し、一挙では届かぬ位置に放り投げた。待機の姿勢を取っていたアスタリュートが首をもたげる。デネブはそれを制し、若者に向かって再び、両手を広げて微笑んだ。
「敵意は無い。ここにいては危険。私と、一緒に来て」
ゆっくりと、抑揚をおさえ、端的な言葉を選んでつむぐ。それをかき消すように、風がゴォゴォとうなり、激しさを増していく。
「……えず」
若者が何事かを告げた。しかし風にかき消されて、デネブの耳には届かなかった。
デネブは一歩、足を踏み出した。ぴん、と空気が張り詰める。若者が柄を握る手に力を込めた。
構わず、デネブは歩みを続ける。一歩。また一歩。深い雪に足を取られながらも、着実に若者との距離を詰めていく。
若者の張り付いた無表情に、徐々に何かしらの感情が浮かび上がってくる。疑問。逡巡。緊張――。
シャン、と音を鳴らし、若者の長剣がついに鞘走った。すでにデネブは、彼の必殺の間合いへと入り込んでいる。
デネブは「きゅっ」と唇を結び、さらに距離を詰めた。風はどんどん強くなっている。巻き上げられる雪で、すでに周りもよく見えない。
しかし、若者の姿だけは良く見える。抜き放った剣を構えるでもなくだらりと下ろしている。銀色の髪が風に舞い踊っている。そして紺碧の双眸が、じっとこちらを見据えている。
デネブは視線を逸らさず、ついにお互いに触れ合える距離まで近寄ると、おもむろに若者の手を取り、言った。
「あなたを助けたい。来て。私と、一緒に」
握った手の、厚手の手袋の上から、伝わるはずの無い体温を感じる。強風が冷気と雪とを身に叩きつける中、その温かさは確かに、デネブの心に伝わってくる。
願わくは、この若者にも――。
「承知」
若者が力強く手を握り返した。
「理解。我、汝、強き者に従う」
そして柔らかに微笑んだ。つられてデネブも笑う。はっきりとした、心からの笑みであった。
後方で、飛竜が咆えた。警戒の声。それを聞くまでも無く、聖山の猛威が幕を開けようとしている。
急がねば、とデネブは思った。しかし不思議と不安はなかった。それはひょっとしたら、力強く彼女の手を取る、異貌の剣士のお陰かも知れない。
時にデロサリア暦441年の事である。俗に【暗黒戦争】と呼ばれた大戦から、二十年ちかくの歳月が過ぎ去っていた。