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インスタント・ベイビー

作者: 晩酌魚

 築三十年程にもなる木造アパートの二階に僕の部屋はあった。褐色に錆びた鉄製の階段は一段踏みしめる毎に鈍い音を奏でる。都内でいて安いという理由だけで選んだ安普請のアパートだった。夜も更けた真冬の寒空の下、僕はバイトで疲れ切った体を引きずるようにして階段を上がっていった。

 全身に纏わりつくような倦怠感には一週間の疲れが如実に現れているようだ。骨は軋み肉は固く張っている。この前成人式を終えたばかりでまだまだ若いはずであるというのにこの様である。老化は二十歳から既に始まっているという説を思い出して僕はため息をついた。

 早く横になって寝たい。休みたい。そればかりが頭を占めるようになってようやく僕は今週の終わりを感じることが出来る。

 昼間は大学に通い夜はバイトに勤しむ。そんな生活を入学して以来続けていた。最初の内こそ体力的に厳しかったが今ではてこの生活にも慣れていた。が、それでも今日のように仕事終わりの会社員やどこぞの大学サークルがうちの店に大挙して押しかけた日の疲労感たるや筆舌に尽くしがたいものだ。時刻は深夜二時を過ぎていた。

 二月半ば。月の明るい夜もあと数時間後には太陽がその場を取って代わり、子供や老人が元気に活動を始める。それに対して僕は死んだように眠っていることだろう。

 階段を上り終える。ポケットから取り出した家の鍵はまるで自身の出番を待ちわびていたかのように蛍光灯の明かりを鈍く反射させた。しかし、ふと足は止まる。

 廊下の先、ちょうど僕の部屋の前あたりに何やら不審なダンボール箱が一つ置かれていた。近寄ってみるに、それはやはり僕の部屋の前に扉を塞ぐかのように置かれていた。なかなかな大きさがある。

「なんだこれ?」

 誰かの嫌がらせかと思って足で小突いてみる。ピクリとも動かないところをみると中には相当な質量をもった物が入っているようだった。しゃがみこんで仔細に観察するがどこにも配達表が見つからないあたりに不審さが輪にかけて増す。箱の蓋はがっちりとテープで固定されているので中を見ることも出来ない。とりあえず部屋に入るために持ち上げようとしたのだが、箱は予想を遥かに上回る重さで危うく腰を痛めるではなかろうかというほどだ。

「一体何が入ってるんだ……?」

 一番に予想したのは本だった。一冊一冊にそんなに重さを感じずとも原料が木であることを忘れてはならない。ダンボール箱に目一杯の紙を詰め込んだ場合、それはもはや同寸大の原木ブロックに等しいのだ。いや、むしろ紙であるほうが実際は重いのだろうが。それほどの重さがその箱にはあった。

 片膝をついた状態で底に指をすべり込ませて箱をわずかに持ち上げる。そのまま扉の前から横にずらす。実際に手にしてみて、重さは大体十キロといったところか。

 しかし、誰が一体どんな目的でこんなはた迷惑な箱を置いたのだろう。予測がつかない状態で物を考えても仕方ない。情報を得るためにも一旦箱を開けて確かめる必要がある。

 僕は部屋からカッターナイフを持ってくるとおそるおそる箱を開けた。中身は揮発性の劇物とか爆弾とかそんな非現実的なテロじみたものは欠片も見えず、ただ梱包用シートが二重に敷かれており、それを取ってなお発泡スチロールの箱があった。大層厳重に包まれているものだ。僕は箱の隙間に手を入れると発泡スチロール製の蓋を引き上げて取り外した。

「え……」

 息を呑んだ。中に入っていたのは体を丸めた状態の小さな赤ん坊だった。

 事件性を匂わせるような出来事に僕は反射的に周囲を見渡す。アパート二階の廊下は当然僕しかいない。箱に視線を戻してみると、赤ん坊の傍に小さな冊子を見つけた。手に取ってみるとその表紙にはこんなタイトルが載っていた。

『インスタント・ベイビーのご利用案内』

 見出しに書かれた言葉は実に聞き慣れない言葉だった。

 インスタント・ベイビー……即席の赤ん坊?

 直訳された言葉には不気味な響きがあった。現代技術が進んだ今ではヒューマノイドも普通の人間と変わりのない生活を営む様になっていたが、このような言葉はついぞ聞いたことがない。

 遺伝子操作による体質改善、自組織の幹細胞化による器官移植、あるいはヒューマノイドの一部を臓器や四肢と置換する技術。

 昨今の医療生殖技術には目を見張るものがあるがそれでも赤ん坊をそのまま作り出す技術は確立されていないはずだった。

 ならば赤子型のヒューマノイドだろうか? 反射的に僕は赤ん坊の右手を見る。しかし、右手の甲にはこの子がヒューマノイドである証は刻まれてはいなかった。もし、ヒューマノイドであれば水晶のような細長い六角形を三つ並べた、チューリップの花のような紋章がある。

 説明書を読み進める。

「インスタント・ベイビーは我々ノヴァ社が技術の粋を集めて作り出した次世代型愛玩生物です。我々は彼、あるいは彼女を大いなる始まりの意味も込めて『イブ』と呼んでいます。ヒトの一生を一年というごく短い期間に圧縮することで、ヒトの成長過程を間近に見ることが出来ます。お客様にはそのプロトタイプのお試し頂きたくお送りいたしました。もし商品に不具合が出た場合にはこちらで迅速に対応させていただきますので安心してご使用ください。なお、商品をお取り扱い上でのいくつかの注意点がございますので――」

 ノヴァ社といえば世界初の有機思考AIを考え出したヒューマノイド製造の大手じゃないか。なぜそんな企業がこんなものをここに? 冊子の内容も疑問が渦巻くばかりだ。

「ゥゥァ……アーアアーアアゥアーアー」

 うめき声が聞こえたと思った次には、そのイブとかいう赤ん坊が大きな声で泣き始めた。

「ああもうっ! なんだってんだよ一体っ!」

 目まぐるしい状況に頭が追い付かない。とりあえずこの子を泣きやめさせないと……。赤ん坊の相手をするなんて姉貴の出産以来だ。赤ん坊の正面で手をひらひらさせたり、変顔で対抗するも一向に泣き止む気配が無い。すると不意に背後でガチャリと音がした。

「あの、静かにして貰えませんか?」

「は、はい。すみません……」

 隣人の若い男は不快な表情に奇異の視線を寄こしたあと、そそくさとドアを閉めた。ここはアパートの廊下だった。なんで自分が謝らなくてはいけないんだという理不尽さを感じながらも、泣き止まないこの子をとりあえず家に連れ込んだ方が得策のようだった。僕は自身の家のドアを開けると赤ん坊のいるダンボール箱ごと玄関に持ち運んだ。これで少しは隣に響く泣き声も軽減されるだろう。しかしなにぶん古いアパートだ。壁の薄さはこのアパートに住んで居るものなら誰もが知っている。なんとか泣きやめさせる手段はないのか。

 付属の冊子を急いで捲る。

「箱を開けるとイブは起きて泣き始めます。これは光がイブの始動合図であり、設定の初期段階に位置します。まずはあなたがイブの飼い主であるということを認識させなければなりません。そのためにはイブを抱きかかえてあげてください。これを行うことによってイブは正式にあなたを飼い主と認識して初期設定は完了します」

「こ、こうか?」

 以前姉貴に言われたことを思い出しながらイブをそっと抱きかかえた。途端にイブは泣き声を出さなくなり、薄い目が開くと黒い瞳がじっと僕を覗きこんだ。

 奇妙な感覚だ。手に伝わる温かさや柔らかさ。生生しすぎるほどの感覚があった。こちらをじっと見つめるそれはまるで本物の赤ん坊だった。

「なんだよ……」

 何かを訴えたげな視線に狼狽えてしまう。けれどこれでひとまず落ち着けた。赤ん坊の泣き声は妙に心をざわつかせる。

「お前はひとまずここな」

 イブをダンボール箱に戻すと僕は冊子をまた読み返した。インスタント・ベイビー? 愛玩生物? 商品……?

 冊子の言葉に幾つもの違和感がまとわりつく。物にしたいのか生物にしたいのか、その境界が極めて曖昧だった。人には人権がある。ヒューマノイドには存在権がある。ならば人工的に作られたというこの子はいったい……?

 冊子をいくら捲っても、イブの成長予定とその都度の飼育方法が記載されているだけだ。飼育方法と書かれたそれらは普通の子供を育て方となんら変わらないようにもみえる。自分が育てるのか?

 冊子の巻末には幸いにも緊急時用の連絡先としてアドレスと番号が記載されていた。僕は早速その番号へ電話を掛けた。

「……………………」

 長い長いコールが続いて繋がる気配が無い。確かに夜も遅い時間だ。明るくなってから再度掛けるしかないのかもしれない。

 僕は足元の赤ん坊をみる。

「ひとまず預かるだけだからな」

 誰にあてたともわからない独り言は六畳ほどしかない部屋に吸い込まれて消えていった。どっと体に溜め込まれた疲労が強烈な睡魔を伴って襲ってきた。イブもおとなしくしているし大丈夫だろうと見越して僕は眠りについた。

 翌日になって電話をかけてみてもコールが延々と続くばかりで繋がらない。仕方ないとひとまず諦めて他に何かないかと箱を漁ってみる。昨晩の段階でイブが収められていた下には粉ミルクや離乳食用のレトルトパックなどの幼児期の食糧に加えて大きさの異なる衣服が詰められていることは知っていた。そこからさらに細かく確認してみる。

「ん?」

 それらの物品に加えて出てきたのは大量の薬と、百万もの金が入っていた。明らかに怪しすぎる……。薬はイブの成長度合いに応じて飲ませるべきだと書いてあった。支給金も同封したと書いてあったがこんなに大金をポンと出せるものなのだろうか。

 イブの泣き声にハッと我に返る。時間的にお腹が空いてのことだろう。実際、昨日も何度おこされたことか。数時間おきに泣き声に起こされ、その度に粉ミルクを作り与えてきた。そのおかげで今はすっかり睡眠不足である。二十歳になっていきなり子供を持つとかなんの冗談だ。

「まったく手間のかかる……」

 この子に文句を言っても仕方なかったが言わずにはいられない。何の前触れもなくはいどうぞと寄こされても扱いに困るだろ。当然僕にだって大学生としての生活があるし、バイトだってしている。そこに一人分の生活の面倒を見るというのは荷が重い。

 イブのほっぺたをつんつんと触る。イブは突っつかれたほうに顔をむけて口で咥えようとしてくる。何も知らない無邪気な笑顔だ。その笑顔に思わず毒気が抜かれる。腹を立てていてもこの状況が変わるわけでもないのだ。

 それからの一ヶ月というのはイブの面倒にかかりっきりで全くの余裕が無かった。大学がちょうど春休みに入って時間的に可能だったことが不幸中の幸いというのか。しかし、ヒトの成長過程を間近でみられるという謳い文句は本当だった。そして冊子書かれたイブの成長段階表と見比べながら成長記録を付けていくことがいつの間にか楽しいと感じていた自分がいた……。あれから電話も掛けつ続けているがいまだ繋がった試しがなかった。

 イブが来た日、二月十五日を初日としてつけられた記録を見直してみる。はじめの十日間はとにかくよく動くしよく泣いた。でもその泣きはお腹の空きやおむつの交換など明確な理由のあるものが多かった。十一日後にはお座りが出来るようになっていたし意味のない言葉も頻繁に口にするようになった。それから間もなくしてハイハイが出来るようになり、二十二日後には一人歩きも出来た。このころになるとご飯やトイレといった簡単な言葉も理解しているようだった。

 あまりに驚異的な成長スピードだ。彼女は一体なんなのだろう。明らかにヒトを逸したこの成長は、しかしイブが機械でないことの証明でもあった。

「おなかすいた」

「はいはい、もうすぐ出来るからな」

 僕の腕をゆすりながらイブが言った。僕はイブの頭を撫でると立ち上がって夕飯の準備を始めた。部屋に充満している香辛料の匂いが香しい。今晩はカレーだった。

 三月も後半に突入している。気温もすっかりと上がって一気に春めいてきた。

「おいしいか?」

「うんっ!」

 カレーを懸命に頬張るイブを見つめながら間もなく始まるであろう大学に気を落としていた。これまでは長期休暇で何とかなっていた部分がある。といっても、バイトはやめてしまったことも大きい。しかし大学はやめるわけにもいかないだろう。

 忙しさに身をつままれた時に、切れるべきものを切るというのは自己防衛のためにも大事なことであるが、その取捨選択は適切に行われなければいけない。バイトだって本当はやめたくなかった。何かと不満を漏らしていたが職場の雰囲気は好きだったからだ。

 イブは現在約2才にあたる成長段階に入っていた。この段階だと、イブは走ることも簡単な文を言うことも出来た。もちろんこちらの言葉もある程度理解出来るようになっていて、僕が買い物いく時などはお留守番もしている。イブをひとり部屋に残していくことは少し……いや、かなり不安ではあるけれどそれしか選択肢が無かった。

「イブ、もう少しすると僕は大学に行かなくちゃならないんだ」

「だいがく?」

「そう。まぁ学校だ。勉強するところでもある。僕はそこに行かなくちゃいけないんだ」

「……帰ってくる?」

「もちろんだとも。ただその間イブを一人にしてしまう」

「イブ……ひとりなの?」

「だから少し寂しい想いをさせるかもしれない。だけどちゃんと帰ってくるから、それまでお留守番を頼めるかい?」

「お留守番ならできる」

「えらいぞ」

 知ってる単語が出てイブはいくらかホッとした様子だった。状況が状況だけに親や友人は頼れない。託児所などもイブの成長速度から不審に思われる可能性がある。なんとなくだが、イブの存在はなるべく隠さなければいけないように感じていた。それはこの子がヒトでも機械でもなかったからだ。

 大学が始まった当初は不安で仕方なかった。講義が終わったらなるべく早く家に戻った。その度にイブは笑顔でおかえりと言いながら抱きついてきて安堵したものだ。部屋にいるばかりでつまらないだろうともって、図書館でいくつもの本を借りてはイブに渡していた。本の中でもイブは特に生き物が載っている図鑑が好きだった。

 そんな生活が続いて五月半ばのことだった。

「あれ……鍵が開いてる」

 いつもなら僕が鍵を開けるまで絶対に開けちゃいけないと言い含めている。

「イブ~?」

 いつもならおかえりなさいと駆けよってくるイブの姿がどこにも無かった。電気も点けっぱなしだ。トイレか? ノックしても返事はなく開けてみても空だった。いつも過ごしている小さな部屋に隠れられる場所もそんなに無い。僕をほんの少し驚かせるような可愛いイタズラであって欲しいと願いながらイブのいそうな場所を順にあたっていく。ベッドの下。押入れの中。ベランダ。そのどこにもイブの姿は無かった。

 玄関に戻って靴を確認する。やはりイブ用の小さなクロッククスが消えていた。イブは外に出て行ったのだ。

 僕は家から飛び出した。アパートの周囲をぐるっと確認してもイブの姿は見当たらない。

 どこにいったんだ……?

 心がざわつく。嫌な想像ばかりが頭の中で膨らんでいく。

 イブを連れて外に出たことはある場所を思い返す。

 公園……。イブを連れてそこに出かけたことが何度かある。歩いて数分で着く小さな公園に急いで向かう。普段運動をしないせいか短時間の運動でも息が苦しい。

「イブっ!」

 いた。イブは公園の端っこの草むらにしゃがみこんでいた。僕の声に振り返ったイブは笑顔で駆け寄ってきた。

「みてみてっ! バッタ!」

 イブの小さな手には緑色のショウリョウバッタが捕まれていた。

「すごいんだよこの子。すごい跳ねるの。ぴょんっ、ぴょんって。うさぎさんみたい」

 ほらほらと言わんばかりにバッタを僕の足元に置くと、イブはバッタを指で追い立てた。バッタはイブの手から逃げるように跳躍した。

「イブ」

「わっ!」

 僕はその小さな体を抱きしめた。イブは驚いたようで身をわずかに固くした。

「心配……したんだぞ」

「あっ……ごめんなさい」

 イブは僕に黙って家を出てしまったことにようやく思い至ったようだった。

「蝶がね、飛んでたの。窓の外をふわふわ~って。蝶がね……蝶が……」

 イブの言葉は段々と涙声になっていく。

「ごめんなさい……」

「いいんだよ。こうしてちゃんと見つかったんだから」

 イブを優しく抱きしめる。さっきまで頭の中を占めていた焦燥や不安も静かに消えていった。

 イブは賢い。むしろ今まで僕の言うことをこんなに小さい子がよく守ってくれたものだと感心するぐらいだ。いくら成長が早いと言っても人で言えばまだ五才ほどの成長段階に過ぎない子供だった。

「帰ろうか」

「うん……」

 怒っているわけではないのにイブは今にも大声で泣き出してしまいそうに顔をひそめている。これは僕の過失でもあった。イブは家に居てくれると慢心していた。気を掛けていたことも日常化してしまうことによって注意は薄れていく。そんなひとつの教訓を僕自身も得た。ぐずっているイブの小さな手をとって僕らは家路についた。

 イブの無断外出騒動以来、僕はイブの周囲の環境により気を持つようになった。それとこのままの育て方ではイブに良くないとも思った。

 暦上では間もなく七月に入るころになっていた。緑の深さが増して、雨が多くなり、空気にかすかな土の匂いと草の匂いが混じっている。徐々に熱気を帯びる太陽に夏の近づきを感じる。

 イブの成長段階は現在の七歳と少しぐらい。小学生の低学年に相当する。普通の子供なら学校に行って勉強や他者との接し方を学ぶ時期だ。

 先の一件もある。部屋に居っぱなしのイブが外の世界に興味を持つのもなんら不思議なことじゃない。だからイブをもっと外界に触れさせることがこの子の情操教育にも繋がるのではなかろうかと思った。

 僕はすっかり親の気分だった。自分も子供のときに親はあれこれと手を焼いたのではなかろうかと思いはせる。

 そんなわけで、今日は日ごろからイブが見たがっているものを見せてあげようと、イブを連れ立って近所のペットショップにやってきた。といっても、ペットショップは駅前にあるのでイブにとっては初めての遠出だ。

 中央入り口から左手には犬や猫がいて、右手奥には金魚や熱帯魚が、正面には昆虫や爬虫類が展示されている。イブは生き物が大好きだった。図鑑に関しては同じものでも何度も見たいと言って何度も借りに行かされている。

 入り口から入ってすぐに『夏の昆虫フェア』と題された特設ブースに幾つもの小さな虫かごが並べられていた。それを目ざとく見つけたイブは中身を見てより一層目を輝かせる。

「カブトムシだ!」

 虫かごに敷き詰められたおがくずの上に昆虫ゼリーを舐めるカブトムシの姿が見えた。それは僕にも懐かしい姿だった。真っ黒な体に大きな角。棘のある六本の脚がずんぐりとした体から伸びている。自身の体重の何倍もの重さのものを引っ張る力があるカブトムシは生命力の象徴のような昆虫だった。そんなカブトムシにイブは釘付けになっていた。

「うぉ~ちょう強そう」

「飼うか?」

「え、いいの?」

「もちろん」

 カブトムシなら飼育もそんなに大変じゃないだろう。何よりイブが欲しがっているのなら僕が買い与えてあげたかった。それにイブは決して口には出さないが、イブの感じているだろう寂しさを少しでも無くせるならばと。

「やった!」

「でもちゃんと面倒見るんだぞ」

「はーい」

 イブは籠のひとつを手に取って僕の傍に来た。両手で大事そうに抱えている。

「ねぇねぇ、この数字ってなに?」

 イブは籠に張られた値札のシールを見て言った。

「それは値段だよ。そのカブトムシの値段」

「値段?」

 そういえばイブとの買い物はこれが初めてだった。この子は買い物のシステムを知らないのだ。

「物の価値っていうのかな……。お店のものにはみんな値段がついているんだ。僕らがそれを手に入れるためには値段に見合ったお金を払わなくちゃいけない。ほら、このお札だったりコインだったりがお金だ」

 僕は財布から千円札やじゃらじゃらした小銭をイブに見せた。

「このカブトムシならこの一枚で買うことが出来る」

 カブトムシの値段は籠付きで千円にも満たなかった。この時期でこの値段ならこれからもっと安くなるかもしれない。

「ん~?」

「まだちょっと難しいかな」

 イブは首を傾げている。僕は苦笑いして財布をポケットに戻した。

「じゃあさじゃあさ、この子とあっちの子じゃこの子のほうが駄目なの?」

 イブの指差した先にはクワガタの籠があった。クワガタはカブトムシよりも高値で売られていた。僕は思わず言葉に詰まってしまう。

 なんて説明しよう。店で売られているものは大抵が商品として売られているものだ。そのことに僕らは何の疑念も抱かない。当然だから。

 しかしイブの疑問はもっともだ。材料費や人件費などの製造コストから店側の利益を足してつけられるものが基本的な値段となる。そこに需要と供給の関係から希少性というブランドがつけられる。簡潔に言えば多くあるものは安く、少ないものは高くなる。ただその値段を本当にその物の価値だと見なしてよいのだろうか?

「僕の言い方が悪かったね。駄目なんてことは無い。ただその子らの育ててくる上でもお金が掛かってくるんだ。イブだって毎日ごはんを食べているだろう? お風呂だって入るし服だって着替える。目には見えてないかもしれないけどそれらも全てお金がかかっているんだ。それをこの子らに置き換えて考えてみるといい。彼らの世話はこのお店の人がやってくれている。新しい飼い主が見つかるまでの間ね。その子は今からイブのとこに来る。だからその値段は今まで世話してくれたお店の人に対する少しでもの感謝みたいなものなんだよ」

「そう……なんだ?」

「お店の人にありがとうって言うんだぞ」

「うん」

「マットと餌も買っていこう」

 イブは僕の横をひょこひょこと付いてくる。この説明でよかったのか自分でもよくわかっていない。今の社会では人に値段をつけて売ることは許されていない。それは倫理的に問題があるとされるからだ。けれど僕らは多くの他の生物をペットとして売買しているじゃないか。そこに倫理的な問題は無いと言えるのか?

 一方でヒューマノイドは高額の値段でとりひきされることがままある。彼らは建前ではロボットだからだ。その構造しか人と違わないのにだ。とても歪じゃないか。

 イブはそれからペットショップ中の生き物を見て回って喜んでいた。その生き物にはそれぞれ値段がつけられている。僕は隣を歩くイブを見て、この子はどうなのだろうかと思わずにはいられなかった。


『愛しているから愛してほしい、というのは傲慢でしょうか』

 講演会からの帰り道の途中でその言葉だけが何度も頭の中で繰り返されていた。

 話は数刻前まで遡る。

 大学の構内でヒューマノイドの講演が開かれると知ったのはつい先日のことだった。ヒューマノイドによる講演というのはテレビで幾度か見たことがあるが現実にこの目で見たことはなかった。そもそもヒューマノイドの絶対数が少ないからだ。

 ヒューマノイドを機械と呼ぶことは今の日本では許されていない。彼、あるいは彼女には既に法的な人権が与えられており、僕ら人間と相違ない同格の存在として扱われるべきだとされている。僕らが彼らを見分ける唯一の方法は、彼らの右手の甲に刻まれるある紋様を見て判断する他にない。それほどまでに彼らの造りは精巧で、人間的だと言える。

 そんなヒューマノイドの講演が一介の地方大学で開かれるとなれば少なからずの人間が興味を示すのは至極当然のことだった。

 当日になって足を運んでみると予想を超える大勢の人間が押し寄せていた。五百人ほどの人間を収容できる講堂もこの勢いでは収まりきれないかもしれないといった具合だった。 多くの人が彼らの話を聞きたがっている。その彼らの言葉を聞きたいという思いの裏には、未知への好奇心や恐怖が隠れているのかもしれない。

 ただ僕にとってはそれ以上に、もしかしたらノヴァ社の情報が入るかもしれないという期待のほうが強かった。何の確証もなく、本当にただの講演であるならそれはそれでいい。 しかしヒューマノイドの製造を一手に引き受けるノヴァ社について、ほんの少しの情報でも手に入れたかった。それはきっとイブの素性にも関わってくると踏んだからだ。

 僕が会場に着いたときは日が遥か頭上に浮かぶお昼過ぎの頃だった。じりじりとした暑さに肌を焦がすような感覚を覚える。やや余裕をもって講堂に来たことが幸いしたのか、五百ある席の一つに腰を落ち着けることができた。

 講堂内の照明が落とされ、仄かな明かりが壇上を浮かび上がらせる。開始寸前となったときには空いている席は無くなっていて、後方の壁には立ち見をしている人の姿が何人も確認できた。

「はじめまして皆さん。この度は私の講演に聞きに来てくださり誠にありがとうございます。こんなにも大勢の方にご来場に頂き望外の喜びでございます。さて、みなさんが聞きたいのは他でもない『私たち』のことについてでしょう。何度も議論されつくされたことではありますが、『私』自身の所感を織り交ぜて話していきたいと思います」

 壇上にいる彼女はおもむろに右手掲げると、その甲をこちらに向けた。まるでチューリップの花を模した様な形で、細長い水晶が縦に三つ刻まれていた。

「これが『私たち』である証。いくら外見はヒトであろうと、『私』が機械であるという証です。『私たち』の中にはこれを忌み嫌うものさえいます。当然です。なぜなら『私たち』には自我があるから。なぜ『私たち』はヒトではなく機械なのだろう。『私たち』の誰もがまずその疑問を持つのです。

 皆様は自分を自分自身だと認識するようになったのはいつごろでしょうか。朝起きて洗面所でそれとなく鏡をみて、それを自分ではないと考えない人はいないはずです。幼いころの写真を見ても、幼稚園児程度に成長した自身ならば、たとえ記憶がなくとも正確に認識できることでしょう。そう、「これが私だ」と明確に自覚するまでもなく、あなたの顔が、声が、体が、頭が、あなたをあなただと規定しているのです。

 しかし『私たち』はどうでしょうか。顔や声、性別までもがコンパージ可能なヒューマノイドにとって自己同一性といったものは『私』は『私』であるという記憶にしかありません。

 しかしその記憶も量子化されたただの電子記号の排列に過ぎず、改竄の隙があるのです。そうなってくるといよいよ『私たち』は自分のというものがわからなくなってしまいます。規定できないのです。

 果たして『私』は昨日と連続した『私』であろうか。それとも違う『私』であるのか。そもそも『私』とはなんだろうか。立ち戻り返り、『私たち』はなぜ人ではなく機械なのだろうか……。これらの疑問は全てのヒューマノイド抱えている根源的な問いかけなのです。

 ヒューマノイドがこの問いに答えられない時、私たちは深刻なエラーが生じて動けなくなります。

 しかしそれでも、今ではこの疑問にも答えがあります。

 それはヒトの記憶に自己の同一性を見いだすというものです。ヒトの記憶にはまだ解明できない謎が多くあります。いくら技術の発展した現代といえどヒトの、生きている人間の記憶を書き換えることなど誰にも叶いません。未知であるが故に信じるにたるものだと『私たち』は結論づけたのです。いいえ、そうせざるを得なかったといったほうが正しいでしょうか。つまり『私たち』ヒューマノイドにとって、皆様は自身の同一性を保つに欠かせない唯一の存在たりえるのです。

 ヒューマノイドが実験的に導入された時代の世間を騒がせた幾つかの事件について弁明させてください。皆様方はヒューマノイドの暴走だと大変不安に思われたことだと思います。身近にいるヒューマノイドが突如暴れだすなど本来あってはならないことです。

 しかし先のとおり、『私たち』ヒューマノイドはヒトを必要としているのです。そんな『私たち』が故意に誰かを傷つけるべくもありません。『私たち』は皆様を愛しています。だから、皆様も『私たち』を愛してほしいのです。愛しているから愛してほしい、というのは傲慢でしょうか」

 最後の彼女の言葉は弱く細い響きで、それを口にする不安が滲み出るようなものであった。彼女を代表とするヒューマノイドが抱える問題は想像していたよりもずっと重く深刻なのだろう。機械を素体とする彼らは、その出自がゆえに自己を自己たらしめる自我を持てないというのはなんたる皮肉だろうか。

「さて、前置きはこのぐらいにしてこの度の講演の主題に関してですが――」

 と妙に明るい声で話題を切り替える彼女の姿は酷く不自然に見えた。



 先日の講演から早一か月も過ぎると大学も夏期休暇に入ってイブと一緒にいられる時間も増えてきた。イブはカブトムシの世話を甲斐甲斐しくこなしながら、時折外に行っては遊んでいる。僕の知らぬ間にどうやら友達が出来たらしい。それはきっと良いことだ。

 イブの身長は今や百三十センチほどになっている。体重も増えた。最近は特に元気が溢れて止まらないといった具合だ。

「どうかな?」

「よく似合ってるよ」

「えへへ」

 イブは自身の浴衣姿を少し気恥ずかしそうにしながらも、嬉しさが滲み出るかのように袖を握りこんで黒色の布地を左右にはためかせている。

 浴衣には白い百合の花が描かれており、腰に巻いた帯の鮮やかな朱色が目に映える。イブの小さい体が夏の装いを通して幾ばくか大人びた雰囲気を醸し出していた。

 和太鼓のお囃子が遠く空から響いてくる。今日はお祭りだった。

「行くよ」

「うん」

 履きなれない下駄を鳴らすイブと二人でお祭りへ向かった。

 会場に近づくにつれてお囃子の音はより鮮明に聞こえてくる。行き交う人の密度も増して、それが夏の熱気にうねりを生んでいるようだった。ずらりと両脇に並ぶ露店の数々。その後ろに控える幾つものエンジンがドッドッドッドと威勢よく電気を生み出している。

 子供に人気なキャラクターの描かれた袋にみっちりと詰め込まれた綿菓子が格子に吊り下げられて壁を成し、たこ焼きの香ばしい匂いが人の列を作り、大きな氷が幾つも放り込まれた小さなプールにはキンキンに冷えた缶ジュースが浮かび、型抜きと題されたビールケースを足にしたみすぼらしくも広いベニヤ板の上には人をおちょくるような形の見本があって、金魚すくいに敗れた男の子は母親らしき女性にもう一回と駄々をこねている。

「わ~~~すごいすごいすごい!」

 イブは初めて見るそれらのものひとつひとつに目を輝かせて感嘆を漏らす。あまりのはしゃぎぶりにこちらまで浮ついた気持ちになってくる。

「なにか食べたいものあるか」

「ん~……あれ!」

 そう言ってイブが指さした先には大きな「氷」の字が目立つ露店だった。

「あいよ! いらっしゃい!」

 威勢のいい掛け声をくれるおやじの前には果実酒用の瓶がズラリと並び、それぞれに異なる色の液体が注がれてある。イチゴ、レモン、ブルーハワイ、メロン、コーラ、マンゴー、ピーチ、みぞれ等々、そんなたくさんの味に釣られるようにイブの体が動く。

「ん~と……ん~と……」

 すごい悩んでいる。後ろに並んでいる客には申し訳ないがもう少しだけ待っていただきたい。

「レモン!」

「あいよ!」

 まるで合いの手のようなおじさんの声に思わず苦笑してしまう。

「すいません。それとみぞれも一つください」

「りょうかい!」

 おやじは二つのカップを手に取ると氷削機を作動させる。小ぎみのいい音が続き、カップには白く薄い氷がこんもりと積もった。そこにたっぷりのシロップが注がれる。

「あいよ!」

 おやじの厳つい手から二つのかき氷を貰うとそのまま二つともイブに手渡す。代金を払うためなのだが、イブはその手にしたかき氷に今にもかぶりついてしまいそうだった。無事に会計を済ませるとイブの片手からみぞれのかき氷を受け取る。イブは目を大きく開けて口角の上がった口を半開きにし、食べていい!?食べていい!?と同意の眼差しを寄越してくる。そっと頷くとイブはかき氷にかぶりついた。付属のストロースプーンを無視して。

「ん~~~!!おいひい!!」

 既に大きく開けられていたと思われる目がさらに一回り大きくなったような錯覚を覚えるほど喜色満面の笑みを見せる。

「あぁそんなに急いで食べると――」

「っ――!!」

「だからいわんこっちゃない」

 イブは眉をしかめて天を仰ぐ。口は無一文に結ばれ経験のない痛みに身を捩らせていた。定番といえば定番だが、イブはこのことも知らないのだ。

「イッたぁ。そういうのは早めに言ってほしいよ~」

「がっついたイブが悪い」

「だってぇ」

 イブは拗ねたように口を尖らせた。

 それから二人で射的や輪投げ、金魚すくいや型抜きなどあらゆる出店を遊んで回り、りんご飴やチョコバナナ、人形カステラにたこ焼きと食べたい物を食べて回った。

 『せっかくだから』という魔法の言葉によって飛んでいった金の総額たるや考えたくもない。

「今日はすっごい楽しかった!」

 それでも、イブが満足そうに笑っているのを見ればお釣りも来るといものだ。

「どうせなら友達と来たほうがよかったんじゃないか?」

 顔も知らないイブの友達。しかし年の離れた男よりも背丈の似た者同士のほうが楽しめそうな気がする。

「今日はいいの」

「そう?」

「うん」

「もしくは一人で回ったほうがもっと色々見れたかもな」

 と、何気ない言葉にイブはあからさまに不機嫌な表情を見せた。

「そういうの良くないと思う。それにひとりで来たってつまんないもん。たぶんね、美味しものだって楽しいものだって」

「そう……だな」

「どこに行くかじゃなくて誰と行くかじゃない?」

「――」

 その言葉は妙に的を射ていて、僕はこの小さな女の子からとても大事なことを教わったような気がした。祭りは終わりを迎え、イブの小さな手を引いて帰途についた。




「ねぇ……」

 イブが悲しげに問いかけてきたのは一匹のツクツクボウシの鳴き声が寂しげに聞こえるようになった夏の終わりを感じさせる日暮れ時だった。

 彼女に連れだって玄関のほうへ向かうと、カブトムシを飼っているプラスチックケースの蓋を開けられているのがわかった。

 玄関にはかすかにツンとした酸っぱいような木の臭いが漂っている。

「動かないの」

 イブはおもむろにケースからカブトムシを取り出すと、カブトムシの脚が床につくように置こうとした。けれど死後硬直によって丸くたわんだ六本の脚が拒むように、カブトムシはコロリと仰向けになると蛇腹のような腹を差し出した。

 イブはカブトムシを何度も立たせようとして、その度にカブトムシは倒れた。

 カブトムシ。あるいはカブトムシをだったもの。

「死んでるね」

「死んでる……?」

「そう。だから、もう動かない」

「動かない……」

 イブは死んだカブトムシの角を持って、その体をまじまじと見つめていた。硬くなった脚に触れ、腹を指で押して、まるで中身を確認するかのように観察していた。

 ……気持ち悪い、とは思わないのだろうか。

 ハッとした。それが普通の感覚じゃないのか?

 死は綺麗なものじゃない。見た者に得も知れない恐怖を抱かせるものだ。今のイブにはそれが欠落しているようにみえた。それは単に動かなくなってしまったことに対する悲しみは死を悼むものとは違う。

「埋めてあげよう」

 イブの好奇心に区切りをつけてあげないといけない。このままではイブはカブトムシの死体をおもちゃ箱の中に戻してしまいそうな危うさがあった。

 シャベルをひとつ持ってマンションの階段を降りる。マンションの周りは整備のされてない野晒しの土だ。繁茂する雑草に煩わせられたことはあっても感謝したことは無かった。けれど今回ばかしはそうで良かったと思う。

 人通りの無さそうな片隅を選んで小さな穴を掘る。イブはその様子を隣で見ている。

 膝丈ほどに伸びた草むらには小さな虫が何びきも飛び交っていた。

「カブトムシをここにしまってあげるんだ」

「……」

 イブは少し躊躇いがちにカブトムシを穴の中に入れた。それを見届けた後でそっと土を被せる。少し大きめの石を最後に置いてカブトムシの墓ができた。

「手を合わせて」

 イブにも促して墓に合掌する。関わりのあった命に対する礼儀だった。

「……カブトムシさん、ありがとう」

 隣のイブからかすかにそんな言葉が聞こえて、心がやわらいだ。

 この子は、ちゃんとわかっている。そんな当たり前のことが確認できただけなのに嬉しいと感じるのは少しおかしかった。

 夕闇に暮れる夏の終わり、ツクツクボウシの鳴き声はもう聞こえない。



 秋に入り草木も活力を失って、その葉にくすんだ褐色を混ぜるようになったころ、川岸には何百という数え切れないほどの彼岸花が列をなして咲き誇っていた。真っ赤に弾ける彼岸花の赤をより一層深めるかのように夕日の橙が世界をどこか寂しげな暖色に染め上げる。

 僕の数歩前を歩くイブは、夏の頃よりもすっと背も伸びていた。頭一個分ほど低い彼女の伸長は百五十と少しといったところだろうか。すらりと伸びる肢体にはかすかに肉がついて、子供らしい骨ばった体つきから柔らかみを見せる女性的な肉体へと移行しつつある。

 鼻歌を歌いながら上機嫌に歩を進めるイブは、体をくるりと反転させると意地悪気な微笑を見せた。

「疲れてきた?」

 僕の両手にはスーパーで買いこんできた食材を詰めた袋がぶら下がっている。指に食い込む取っ手の鈍痛に対して何度も持ち直して耐え、家路に着くまではどうにか踏ん張ろうとしたものの、知らず知らずのうちに自身の移動速度は落ちていった。イブの言葉にはそういう指摘の意もあった。

「さすがにしんどいかなって言って代わってくれる?」

「ふふ。だーめ。お酒買い込んだのが悪いんだから」

「仕方ないだろ。スーパーで買ったほうが安く済むんだ。コンビニで買おうとするとイブだって怒るじゃないか」

「当然でしょ。少し我慢すれば同じ物がよりお手頃な値段で買えるんだよ?」

「そうは言っても夜中にスーパーは開いてないだろ」

「今は夜中じゃないし、そもそも夜中にお酒を飲もうとするのがいけないの」

「しょうがないだろ。だってそれは」

 と言いかけて言葉に詰まる。

「だってそれは?」

 艶やかな唇。目鼻立ちのはっきりとした綺麗な顔立ち。透き通るような双眸。原因のイブが理由のまったく見当もつかないといった無邪気な様子で尋ねる。僕はイブから目を逸らしてしまう。

「……なんでもない」

「え~なにそれ、意味わかんない」

 イブはおちょくるように笑った。子供と思っていたイブに対し妙に意識を持ってしまうのは抗いがたい性の欲求だった。イブを両手で抱きかかえるころを知ってからたった数か月だ。しっかりとした倫理観が、それが父性によるものだと根づく前に彼女をひとりの異性として認識しつつしまっている自分がいることは疑いなかった。

 頭ではわかっている。それが気持ち悪いものだともわかっている。

 わかっているが、どうしようもない。

 しかしそうやって開き直るにはあまりにも理性的すぎて、僕は彼女への対処を自身の思う理想に無理やり沿わせて今を凌いでいる。それはきっと不自然で歪なもの。

『この子だけには嫌われたくない』と考えられる人は、きっと他の誰よりも大切なものだ。故に一時の欲望にまかせた軽率な行いなどできるはずもない。今やイブの存在は大切に過ぎるほどにまで大きくなっている。

 大切な人。僕はそのことを思うと真っ先に亡くなった祖母の顔が浮かぶ。それは今、目に見えている光景も思い出に拍車を掛けていた。

「そこの赤い花――彼岸花は、摘むと死人が出る。昔、ばあちゃんが言ってたんだ」

「ばあちゃん?」

 イブはその単語の意味がわからないようで首を傾げた。

「そう。僕にとっては父方の――父さんの母さんにあたる人だった」

 川岸で揺れる真っ赤な花が記憶の中で揺れる花と重なって見える。記憶の中の幼い僕はばあちゃんに手を引かれていた。周りにはたくさんの墓石が林立していて、至るとこに彼岸花が咲いていた。その花の鮮烈な色や、造形があまりにも綺麗に見えて、場所も忘れて僕が手を伸ばしたところをばあちゃんがそう言って止めさせた。

「話すことが大好きな人だった。ばあちゃん家に行くといつも誰かが居た。人をすごく惹きつける人でね、僕もその一人だった」

「……」

 唐突な話にもイブは静かに耳を傾けてくれている。

「ばあちゃん家には畑があって、たくさんの野菜を育てていたんだ。春はアスパラに菜花にうどにふきに、夏はきゅうりにナスにトマトにスイカに、秋はカボチャにニンジンにサツマイモに大豆に、冬は白菜にカブにねぎに春菊に、そんな風にたくさんの野菜を育てていたんだ」

「野菜育てるのが上手な人だったんだね」

「そうだね。ばあちゃんは育てるのが上手な人だった。そしてそれは野菜に限らないことだったんだなって今は思う」

 ばあちゃんは優しく気配りができて根気強く、そして何より自分自身も楽しんでいた。だから人を惹きつける。

「そんなばあちゃんが脳梗塞で倒れたって聞いたのは高校一年生の時だったよ」

 医者からは大きな後遺症が残るだろうと言い渡された。悪くて寝たきり、良くても半身不随だろうと。それを聞いた僕は、何が起こったのか分からなくて混乱していて、でも受け入れるしかなくて、酷く泣いたのを覚えている。

「何より悲しかったのは、話すのが大好きなばあちゃんが失語に苦しんでいる姿だった」

「失語……」

「人の言葉は理解できるんだけど、自分がいざ言葉にしようとするとそれが出来ないんだって」

「……」

 イブは頑張って想像してくれているが難しいだろう。理屈を知っていても、正味のところ僕にもわからない。

「寝たきりになったばあちゃんはみるみる衰弱していった。そして死んだ。あっという間に。あっけなく」

 自分の口から出る言葉に、その棘に自身の心が刺される。ばあちゃんが死ぬはずがないって、そこにはあまりにも根拠に薄っぺらな幼稚じみた期待への裏切りがあったからだ。

 もっと話したかった。もっとばあちゃんから教わりたかった。もっと孝行しとくべきだった。もっとあっておくべきだった。もっと――もっと――。

 後悔が滲み出てくる。今更なにを嘆いたってどうにもならないのに。

「は――」

 酷く自虐的な笑みがこぼれた。思いとどまっていたものが話すことによって堰を切ってあふれ出た。ふと、頬に涙が流れた。

 なんでこんな話をしているのかも自分でもよく分かってない。ただ、なんとなく話さなくてはならない気がした。いつからかイブも僕もその歩みを止めて、河川敷に突っ立っていた。

「はい」

 近寄ってきたイブは僕の手からスーパーの袋をひとつ強引に奪い取ると、これもまた強引に手を繋いできた。力強く握られた手にイブの体温を感じる。柔らかく滑らかな肌。そのまま無言で、イブは僕の手を引っ張って歩き出した。夕闇に暮れる河川敷の上を自分よりも幼い女の子に連れだって引かれる様は少し気恥しくも嬉しく―――その誰かに繋がれて歩くというのはとても懐かしいものだった。



 食卓の中央に据えられた土鍋がその存在をあからさまに主張する脇に、こじんまりとしたローストチキンが二本あった。そのローストチキンこそが今日を代表する食べ物であるのに、ぐつぐつと煮え立つ土鍋がささやかな贅沢を拒絶しているようでもある。

 年に一度のクリスマスは、ここ数年のひとりで過ごしたものとは全く様相を異にしていた。それは目の前にいる一人の少女のおかげだった。

 いつもなら、クリスマスが来たなと意識はするものの特別な準備や予定は用意したりしない。そうするべき相手がいなかったというのも悲しい事実であるが、「誰かと幸せであるべき」という世の習わしによって不必要に悲しませられているのも事実である。

 無宗教なくせに日本人はイベント事が好きすぎる。バレンタインですら本来の有り様から日本独自のルールに変貌し、昨今のハロウィンなどはただのコスプレパーティーと化している。などとご託を並べても、それらを批判する全てが「一緒に騒ぐ相手もいない奴」と烙印が捺されるわけであるから手に負えない。しかし今日はどうだ。

 それがたとえ素性不明の少女だとしても、彼女が異性であることは紛れもない事実だ。つまるところ異性と共にこのクリスマスを迎えられた自分は――

「なんかいやーな顔してるよ」

「ん? あ、あぁ。食べるか」

「誤魔化し方、下手すぎない?」

 イブは怪訝な面持ちで、なに考えてたんだかと加えて吐き捨てた。

 部屋は土鍋の煮えたぎる音と湯気に満ちている。つけっぱなしのテレビからは賑やかな笑い声が聞こえてくる。世間はお祝いムードに満たされている。

「はい」

 しかし何故だか、目の前にいるは不機嫌そうにして、鍋を取り分けて渡してきた。

「なんか怒ってる?」

「……」

 無言の肯定と取っていいだろう。しかし、原因がわからない。ローストチキンは買ったし、プレゼントだってちゃんと用意している。夕食の準備だって手伝った。思い返せば僕が買い出しに戻ったあたりから素っ気ないような……。

「あ」

 思い出した。

『ケーキ、忘れないでよね』

 と、念を押されて家を出たはずなのに食材とローストチキンを買い込んだだけですっかりと忘れてしまっていた。

「ようやく気付いたかな?」

 イブの顔は笑っているがその声には少しドスが効いていた。

「今から急いで買って――」

 立ち上がりかけて時間の遅さが致命的なことに思い至る。どうして帰ってきた直後にイブが文句を言わなかったのか。それは既にその時点で手遅れだったことに他ならない。イブの指定していたお店は六時には閉まってしまっている。

「……ごめんなさい」

 素直に頭を下げる。イブはふんと鼻をならすと僕の頭を軽くはたいた。

「明日はケーキも安くなってるから二個以上は買えるよね?」

「はい……」

 完全に買って来いというお達しだった。以上という点で上に際限がないのが恐ろしい。

「さ、食べよっか」

「はい」

「敬語やめてよ。笑っちゃうから」

「はい」

「もー」

 主従関係が構築されてしまった直後でいきなり崩せというのはなかなかに難しいものだ。

 食事を食べ終えて食器をキッチンの流し台に下げる。居間にもどってきたイブは隣にちょこんと座る。いつのタイミングでプレゼントを渡すべきか、頭の中でしきりにシュミレーションを重ねたものの、結局のところ自分から切り出す他に無いわけで……。

 ベッドの下からこっそりプレゼントの入った包みを、イブにバレない様に引っ張り出す。

「メリークリスマス。イブ」

 唐突にその箱をイブに差し出した。

「え? なに、やだ」

「素に狼狽えられるとこっちも恥ずかしい」

「う……はい」

 イブは恭しく箱を受け取った。箱と僕の顔を交互に見比べるイブは暗に開けていい?と聞いているようなものだった。夏の祭りでイブがかき氷を食べていいかと聞くような眼差しが脳裏に思い出された。それをなぞって頷くと、イブはあの時とは真逆に、恐る恐る包装を開いていった。

「あ……」

 箱を開けたイブは思わず声を漏らす。それはこの前の買い物のときにイブがしきりに可愛いがって、ちょっと試すだけだからといって試着した靴だった。

「ありがとう。大切にする」

 どうやらプレゼントはお気に召したようで何よりだった。ごほん、とワザとらしい咳をするイブ。

「私からのプレゼント……って言っても物じゃないんだけど……」

 というとイブはこちらに体を寄せて、唇と唇を合わせるだけの幼いキスをした。

 上気してわずかに赤らんだイブ。堪らず抱きしめると腕の中に小さな温もりが伝わってくる。気持ちに整理はつかない。けれどイブが好きだという想いはきっと変わらない。このささやかな幸せがいつまでも続いて欲しいと心から願った。



 しかし、その日はあまりにも突然訪れた。

 雪のよく降る夜のことだった。凍てつく寒さが吐息を白く濁らせる。僕はイブに頼まれていた買い出しを終え、自身の家の鍵を震える手でやっとこさ見つけ出して開錠すると部屋に入った。外の冷たい空気とは打って変わって、湿気に富んだ暖かいそれが防寒のしてない顔全面にふりかかる。

 キッチンの鍋からは味噌汁の湯気が立ち込めていた。鍋は加熱しっぱなしにされていたようで、鍋の縁には水位の下がり方がわかるような線が出来ていた。あと数十分もすれば鍋の中の水分は全部飛んでいってしまったことだろう。

 そのことを怪訝に思い呼びかける。が、しかし返事は無かった。

 すぐにおかしいと気づく。即座に部屋の中に押し入ろうと大股で突っ切ると、

「――っ!」

 イブは俯せに倒れていた。

「イブっ!しっかりしろ!イブっ!」

「ぁ――」

 俯せの体を起こして抱き据えると、イブの唇がかすかに動いて吐息が漏れた。しかしそれは体位の変化によって肺から空気が押し出されたようなものだ。微かな呼吸。イブの唇が細かく震えている。否、イブの手が、脚が、脳の制御が効かないといった具合に微細な振動を生じさせている。意識を戻したイブは僕の存在に気付いて、必死に言葉を紡ごうとする。

「物心がついた時からね――ずっと頭の中にあったタイマーが、もう、残り少ないみたい」

 一つの単語を言うのでさえ辛そうなイブが口にしたのはそんな言葉だった。

「ちっくたっく……ちっくたっく……って、目減りしてくそれが何なのか、意味がわかったのは、カブトムシが死んだ時だった……」

 イブの瞳はここではないどこか虚空を見つめていた。

「カブトムシの中のタイマーが、切れちゃったんだって、妙に納得した」

「そんなタイマーなんてのはまやかしだ! そんなもの……そんなもの!」

 イブは緩やかに首を振る。それがどうしようもないことだと、仕方ないことだと、諦めるのではなく当然の事実として受け入れていた。でなければどうしてこんな柔らかい表情ができるものか。

「カブトムシはきっとね……ありがとうって言いたかったんだと思う。だって、私がありがとうって……」

「いい。もう話すな。きっと良くなるから。だってこんなのはあんまりにも……」

 突然すぎるだろ。自身の無力さが悔しくて憤りすら感じる。

「ありが……」

 言いかけてイブは止まった。すっと瞳孔が広がって瞳の奥の闇がこちらを覗いている。四肢の緊張が完全に解けて、力の失ったイブの体が重さを増したように感じた。手の中にいる。しかしもういない。わかっている。でもそんな簡単に割り切れるものじゃない。

「イブ……っ! イブっ!」

 これで終わりだなんて嘘だろ?

 いつもみたく笑ってくれよ。馬鹿な発言に意味わかんないって吐き捨ててくれよ。一緒にまたどこか行こう。どこに行くかじゃなくて誰かと行くのが大切だって教えてくれたのはお前じゃないか。それがどうして……どうしてこんな急に!

 この悲劇は予想してなかったわけじゃない。一年経ったイブがどうなるのか、その予想をしていなかったわけじゃない。最悪の結果だって……考えもした。しかし初めに提示された一年という期間にはまだ一か月ほどの猶予があったはずだ。なのにっ!

 その時、ノックの音がした。あまりにも場違いな、コンコンと叩く音だ。それがどこから聞こえてくるのか最初はわからなかった。無機質で、規則的に、十秒ほどのインターバルを挟んで二回鳴るそれは間違いなくうちのドアから聞こえた。

 誰だ、という思考が頭の中を横切る。今はそんなことをしてる場合じゃないと考える一方で、妙にタイミングの悪い来訪者に不吉な何かを感じた。

 イブを静かに横たえて玄関のほうに向かうも、その足取りは酷く重い。扉を開けるとスーツを着た若い女性と、その後ろにガタイの良い男が二人並んでいるのが見えた。

 瞬間的にヤバい、と感じ取ってドアを閉めようとするが女性の片足がその間に差し込まれる。

「そんなに慌てなくとも……私たちはノヴァ社の者です」

「――っ!」

 その言葉を受けてドアを閉めようとする手が緩む。ドアは男の一人によって外から開かれた。男を両脇に置いて中央に立つ女は、

「あらためまして。回収にきました」

 女は右手を胸に――その右手の甲にはヒューマノイドの印が――あてて、恭しく頭を下げた。

「なぁ、イブが動かねぇんだよ。助けてくれよ……」

 そうだ……これはきっと『不具合』なんだ。不具合が生じたら然るべき対応を取るって

 書いてあったじゃないか……。藁にもすがる気持ちだった。しかし、女は毅然と首を振った。

「それは私たちの手に負えることではありません。私たちに与えられた仕事は活動を停止した試験体を元の場所に戻すこと。ただ、それだけです」

 酷く事務的な返答。

「ただあなたが望むなら、それも不可能ではないでしょう」

「え……?」

 絶望的かと思われた矢先に女はひとつの希望を垂らした。

「インスタント・ベイビー。そう呼ばれるものの脳には記憶装置と呼べるメモリー入ってます。その個体の成長を記録するそれはいわば人工的かつ有機的な海馬。この試験の主な目的とは我々ヒューマノイドがヒトに依らない記憶機関を作ることにあります。そして第二に、その記憶の転用によるヒューマノイドの普及化。つまり、あるインスタント・ベイビーの記憶を引き継いで作られる新しいヒューマノイドです」

「イブが帰ってくる……?」

「ええ」

 そこにほんのすこしでも可能性があるのなら、そこに懸けたい。縋っているようにも見えるかもしれない。しかしそうせざるを得ないほどに、この胸にぽっかりと空いた穴が苦しい。

 女の言ってることは理に適っている。メモリーを移植する。外見も同じにする。それはきっとイブと呼べるものだ。しかし……それは本当にイブなのか?

 ヒューマノイド達が抱える闇はあまりにも深かった。自身の自己同一性を満たすための答えなんて出てはいなかった。彼らは自身の存在を確固たるものにするため、その方法すら独自で開発しようとしているのだから。

「ただ――」

 女は強調して一度区切ると、

「ここからはセールスの話になります」

 と、あまりにも残酷な事実を告げたのだった。


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