【妖精さん】アフター
妖精と聞いて、どんな存在をイメージするか。
そう聞くと、大抵の人は戸惑ったり訝しがったりしながらも、こんな返答をよこす。
『小さくてふわふわしていつもにこにこした可愛いもの』
さすがにこのすべての要素を言い切る人はまずいないが、一つか二つくらいは答えるものだ。
これが不思議に思えてならない、というよりも納得がいかない。
本当にこんな妖精像を信じている人間があまりにも多いから、その花でも舞っていそうな思考の理解に苦しむことが多い。
ついでに言ってしまうと人のような形をしているのに、羽がついていて自力で飛ぶことができるらしい。
肩から腕が生えていて、背中から羽が生えているのだから、人に近い生き物なのか虫に近い生き物なのかもわからない。
たしか、人間はほかの生き物よりも頭がいいのだと胸を張ってはいなかっただろうか。それにしては随分と珍妙なものを信じているものだが。
妖精について正しく広まっているのは、人に近い姿をしているという部分くらいのものだ。
あとはほとんどが当てはまらない。
もちろんだが、背中に羽が生えている奇妙な妖精などはいないのだ。
私の背中も人間と違うつくりはしていないし、飛べるわけもない。二本足で地面の上を立って歩く。
身長も普通だ。
手のひらほどの大きさを想像しやすいらしいが、私は一六二センチある。
小さくはないだろう。むしろ私よりも背の低い人など、街中で五、六人もすれ違えば一人は見つけられる。
そもそも一目で気が付けるほどの違いが人間と妖精の間にあっては困る。
私たちは人間の集団の中に紛れながら日々を送っているのだから。
妖精は退屈が嫌いだ。
◇◆◇
さて、そろそろ人間と妖精の違いについて話そう。いろいろとあるのだが、そう、たとえば。
私たちの姿はまったく変わらない。
背も伸びないし顔立ちも変わらない。
日焼けのために肌が赤や黒に変色することもない。
ただ、声は特に決まっていない。
子ども特有の甲高い声から低いしわがれ声まで出したいものをどんなものでも出せる。
私たちが歌う機会があれば必ずと言っていいほど褒められるのはこれのためだ。声まねをする機会があるときは言うまでもない。
人間の集団に入り始めたばかりのころ、常識を十分に把握できていないために声を変えすぎて多少騒がれることもあるが、それも誰しも一度は通る道だ。
特に問題もない。
ほかには、そう、たとえば。
私たちは親から生まれてこない。
人間のように親が二人いて、その片方の腹に宿るというようなことはない。
では私たちの一生がどのように始まるのかというと、いつの間にか現れるのだ。
ある場所で、ふと自分というものに気がつく。
自分でもいつ現れたのかということを特定するのは難しい。
はっきりとした意識ができるまでは、あるようでないようなぼんやりとした記憶しか留めてはおけない。
親となる妖精はおらず、強いて産みの親とするならそれは現れた土地だろうか。
現れてから意識を持つまでふらふらと動くということはないから、気がついたその場所がその妖精の現れた場所といえる。
そして最後もまた、私たちは気がつけば消えているのだ。
いつ消えたともわからない。
消えるころが近づくとそれと悟って、現れた土地で日々を過ごすようになる。
そしてあるとき、ふといなくなっていることに気がつく。
人間はやたらと誕生日を重要視するが、私たちにとってはいつ生まれたかということよりも、どこで生まれたかの方が正確で重要な情報であったりする。
◇◆◇
大きく売り出せるものもこれといってない、ぱっとしない私立大学がいま私が紛れている場所だ。
空調のきかない講義室もさして珍しくもなく、緑がそこそこ豊かだが雨の日には泥はねに気をつける必要があると大抵の学生が文句を言っている。
学校ほど妖精が出入りする場所もなかなかない。
毛色の揃わない若者が勝手気ままに集まっては散らばるから、誰と交友関係があっても不思議に思われないし、雰囲気がのんびりしている。
なにより出入りがしやすい。
「おはよう」
「おはよう菜月」
昨日からこの大学に潜り込んでいる。
いま挨拶を交わし、私の隣の席に荷物を置いた彼女には、昨日のお昼休みが始まる少し前に食堂で声をかけた。
理系の一年生らしい。
由美という。髪型が好きだったことが声をかけた一番の理由だ。
人間との違いで最も大きなものは、私たちの髪が一生伸びないことだ。
誰でもそう言うだろう。
だから床屋や美容院に行ったという者がいれば少しでも話を聞こうとするのが普通だ。
あっという間に囲まれて一通りどころか二通りも三通りも繰り返し話してようやく解放される。
散髪というものはすべての妖精の憧れであり、消えるまでに一度は経験しようと考えるものだ。
私たちが髪型について言及するのはその現れである。
だから私のように女性型で、その上髪が長い姿だととても羨ましがられる。
一度だけでなく二度も散髪を体験できるかもしれないからだ。
人間と違って妖精の散髪はそれほど慎重に行われるものだ。
由美の髪型は耳が隠れておらず、肩辺りの毛先が内側に緩くカールしているミディアム。大変参考になる。
「この講義って教科書いるんだったっけ」
あと十五分ほどで始まるのは化学の講義だが、由美がまだ真新しい教科書らしきものを取り出している。
ここで返ってくる反応には二パターンある。
私が教科書を忘れるのは珍しいと驚かれるのがひとつ。
「まあた忘れたの」
とため息をついて呆れられるのがもうひとつだ。
どちらの反応をされるかは運で決まる。
私はなぜか後者ばかりが多いのが不思議だが、きっとこれから前者が増えて半々になるのだろう。
精々二日か三日しかいない私が教科書を用意するのは現実的ではないから、勿論忘れたのではなく持っていない。
いちいち買いそろえるにはお金がかかりすぎるし、その学校を離れたあとにどうするのかという問題もある。
「私はね、朝ベッドを出てここまでやってくるので精一杯なんだよ」
「はいはい、言い訳しない」
とはいえ中学校や高校で教科書を出していなければかなり目立つ。
大学で扱う教科書は幅が広すぎて同じようにはいかないが、小学校から高校で使うような教科書は妖精たちの間で貸し借りされることも多い。
自分の拠点を中心に近場の学校で使っているものを集めることに力を尽くすような変わり者がいるからだ。
「着替えて靴を履くだけで私のエネルギーは尽きかけてるんだから」
「はいはい、よくそれでここまでたどり着けたね」
人間と私たちを見分けようと思ったら教科書を見てみるといいかもしれない。
まだ習っていない範囲に書き込みがあったり、すでに習ったページがまっさらだったりするだろう。
ときには他の生徒よりも明らかに傷んでいるものを使っていることもある。
それに加えて異なる筆跡がひしめき合っていたら決まりだ。
「家を出たらセーブモードに入るんだよ。ほんの少しのエネルギーでビューンて来れるの」
「はいはい、ビューンね」
そんな事情はあるけれど人間にそれを言ってもしょうがない。
まず信じてもらえるはずもない。
だから私はこうして冗談でごまかすことにしている。
「ほんとうに仲いいよね、二人とも」
私が講義室に入ってきた時から由美の後ろの席に座っていた女の人が突然声をかけてきた。
髪型はショートボブだ。
前髪が斜めに顎の辺りまで流れていて、顔の周りが包まれているような印象を受ける。なるほど、クールだ。
「ん? あ、おはよう。
菜月が忘れてばっかだからね、しかたない」
しかし彼女は誰だろうか。この学校で声をかけたのはまだ由美だけなのだが。
「由美の知り合い?」
「何言ってるの菜月、知ってるでしょ」
私たちは人間の記憶から消されやすいものだ。
もともと少しの交遊もなかったはずの人物を、いつからか一緒にいたと思わせて短期間の付き合いをしているにすぎないのだから、いなかったことになるのも道理といえばそうなのかもしれない。
基本的に私たちは短い期間で移動するうえにそれがあまり広範囲のものでもないから、以前に付き合いのあった人を見かけることもたまにある。
だが人間であるのだから当然だが、私たちを覚えていられるはずもなく、視界に入っても特に反応は示されない。
私たちの方でも、こんなことがあったなとそっと思い出し、また記憶の引き出しの一つに入れ直すのが常だ。
しかしその逆が起こるとはまた珍しい状況だ。
「目黒だよ」
由美が紹介してくれるような気配もないから名前を聞くと、ショートボブの彼女は名字だけ名乗ってくれた。
覚えやすい名前でよかった。
「目黒ね、覚えた覚えた」
「まったく、もう」
私も知っているはずだと思われていたから理学部だろうか。
由美には私も理学部であると言っているからそう思われたのだろう。
「あ、ほら。目黒も忘れてるよ」
机の上に視線をおろせば教科書がないことがわかった。
目黒の鞄はB5サイズの教科書より一回り小さく、しっかりとファスナーが閉められたその中に入っているということはないだろう。
話題を変えるにはちょうどいい。
「あれ、ほんとうだね」
何をと言わなくとも由美もわかったようで、呆れた様子だ。教科書を忘れた仲間ができた。
「ああ、教科書のことなら私は買ってないの。
言ってなかったっけ」
「あ、そうだった。目黒さんは化学の教科書は買わないって言ってたよね。
菜月と一緒にしちゃ駄目だよね」
目黒を仲間に引き入れたと思っていたのは勘違いだったらしい。
由美が納得がいったように頷いている。
さっきまで目黒に対しても呆れていたのに変わり身のはやいやつだ。
「持ってないことには変わりないじゃん。なんで私だけ」
「菜月は、持ってるのに毎回忘れてくるでしょ」
私だって持っていないのだが、忘れたということをつい先程認めてしまったから、事実を言ったところで嘘だと思われるだろう。
実際には私たちと知り合ったばかりでほとんど何も知らないのに、長い付き合いがあるように思わせることで、私たちは人間の集団に面倒なく受け入れられている。
初めに口にした言葉に沿って、それまでの付き合いの中で知った事実として私たちに対する認識をしている形だ。
「違うの、実は私も教科書買ってないんだよ」
「はいはい、誰かに譲ってもらったとかいうオチでしょ」
だからこうなると『やっぱりこっちがいい』とはいかないものだ。
一度された認識を覆すのは少し骨が折れる。
「私と目黒の扱いが違う」
「当然でしょう」
後ろから楽しそうにクスクスと笑う声が聞こえてきた。
何故目黒に笑われたのだろう。初めての経験だ。
「私はどうしてもないと困る授業じゃなければ教科書は買わないことにしてるの」
「なるほど、頭いいね」
確かに。
教科書を指定しておきながらいざ授業となるとほとんど使わない、ということも珍しくない。
これも大学の教科書が妖精の間で貸し借りされない理由だ。
「菜月は私がいるからなくても困らないんだけどね」
「私だってわざとじゃないんだよ。
朝、教科書の存在を思い出すだけで大量のエネルギーが消費されるわけ」
「で、枯渇寸前のエネルギーは使いきられると?」
「そうそう、その通り」
最後まで言う前に察してくれるとは、昨日からの付き合いなのに大分適応が早い。
私たちの相性がいいのか、由美の頭の回転とか学習能力が優れているのだろう。
授業時間が始まる二分ほど前に、教授が入ってきたことで講義室がざわついた。
あの教授は男性だし、そもそも髪が少ないからあまり参考にはならなさそうだ。
「今日も有機化学ですね」
ああ、有機化学ならよく聞く授業であるから大体わかる。
それも、前回の授業に引き続き高校で学ぶ範囲の復習であるらしい。楽勝だ。
「今回は教科書なくても平気そうだね」
「まあね。でも次はちゃんと持ってきなさい」
「はーい」
週に一回しかない次回の授業がやってくる前に私はここを去るのだが。
◇◆◇
化学の授業の後は昼休みとなり、私たち三人は食堂でうどんを食べることになった。
「それじゃあ、このうどんの粘り強さと固さを確かめてみようか」
つまり、麺のコシを確かめてみようということだ。なぜ急にそんなことをする話になったかと思うだろうが、理由がある。
深いかと問われれば迷う理由なのだが。
どうも、先程の授業によるとうどんのコシは粘り強さと固さが合わさったものであるらしい。
この二つの食感の関係で決まるのだとか。
まず硬さだが、これには小麦粉中のタンパク質が加熱によって硬くなることできまる。グルテンやらなんやらはまあ置いておく。
次に粘り強さは、でんぷんが決める。
でんぷんのうちのアミロースが少ないと粘り強くなる、というわけだ。
長々と化学的な話をしたが、これははまったく重要ではない。
要するにうどんの話を聞いたら食べたくなったから、今にいたる。
妖精はそもそも食事を取る必要がなく、いくら食べても太らないし絶食を続けたところで痩せもしない。
気に入っていたのにサイズが変わってしまい服が着られなくなるというようなことがないのは都合がよいかもしれない。
味や食感を楽しむことはできるが、満腹感や空腹感がわからないから本当に食事を楽しんでいるといえるのかというようなことを考えている者もいるが、美味しいものは美味しいとわかるのだから構わないのではないかと思う。
第一、妖精の身でそんなことを考えたところで答えは出ない。
このうどんが美味しければ、それでいいということだ。
「コシは普通だけどまあ、美味しいね」
「そうだね、それなりに硬くなったたんぱく質でも美味しいってことね」
この感想なのだから、二人も美味しければ問題ないという考えだ。
「アミロースもそれなりにあるけど、美味しいもんね」
もちろん絶賛するほどの美味しさではないが、これほど冴えない大学の食堂で食べていることを考えれば十分美味しい。
そんなもので化学の話題からは離れていった。口実なのだからそんなものだ。
食事の後の話からわかったことだが、由美と目黒の時間割は示し合わせたかのようにほとんど同じだった。
私は二人に半分ずつほど合わせようと考えていたのだが、今日と明日の二人の時間割がそっくり同じであったから私も加わって三人がまったく同じ時間割ということになった。
意図せずにこれほどぴったり重なるとはどれだけ仲がいいのだろうか、この二人は。
「すごい偶然だね。全然気がついてなかったよ」
「私は後ろの方の席によく座るから」
今日になって由美がいることに気がついて、すぐ後ろの席に座ったということだろうか。
まったくもっていいタイミングに出会えた。
「そろそろ移動しよう」
次の数学の授業の開始時刻が近くなって、食堂の利用者もかなり減ってきている。
食器を片付けて本日最後の講義室へ向かう。
二人とも今日は三限までの時間割で、帰ってからバイトがあるらしい。私はバイトの必要はない。
私は場所が分かっていないから、由美がいく道をすぐ後から追いかけていく。
すると目黒と並んで歩くことになった。
「ねえ、名字はなんていうんだっけ」
「白崎だよ」
すでに下の名前を知っているのに、名字まで聞いてきた。
そういえば名乗るときも名字だけだったし、目黒は少し変わった人間である気がする。
普通人間は名字よりも下の名前の方が親しみを感じるものらしいから、特に学生では下の名前を呼んでおけば差し支えることはない。
私たちからすると名字の方が特別なものであるのだが。
消えるまでもうまもない時期の妖精が取り仕切るクニという枠組みがある。
まもないとはいっても十年ほどの猶予はある妖精で、彼らのことは爺とか婆とかいうことが多い。
私たちに名字を与えてくれるのは彼らで、親を持たない私たちの保護者のようなものだ。
名付け親ということはできるかもしれない。
現れたばかりの妖精は何をするという指針も持たず、ふらふらと歩くようになる。
そんな妖精は人間に紛れて生活しているほかの妖精に見つけられて、その妖精が拠点とするクニへ連れていかれる。
そして爺や婆に名字をもらうことでそのクニに入った証になり、活動に必要なお金ももらえる。
名字だけを与えるのは、それだけでどのクニの妖精かがわかるからだ。
私ならば白のクニの白崎といったように。
下の名前は自分で考える者もいるし、特に考えていない者もいる。
私は菜月だ。
「目黒は親指姫の話って知ってる?」
「知ってるけど」
親指姫は花から生まれた小さい女の子の話だ。
誘拐されたりさまよったりしたあげく、ツバメに南の花の国に連れてこられた親指姫は花の国の王子と結婚する。
いろいろとつっこみどころのあるストーリーであるのだが、一番の問題は花の国の王子に羽がついていることだ。
しかも親指姫は王子に羽を付けてもらって、自身も飛べるようになってしまうのだ。
人間はこの話に出てくるような、花に囲まれた場所で花の蜜だとかを食料にふわふわと飛んでいたりする小さい生き物を妖精というようになったのだ。
誰が言い出したのか知らないが完全に虫ではないか。
まず花の国というのが間違っている。
色のクニが正しい。
「親指姫ってさ、ものすごい美人だよね」
「そうなの?」
もうひとつ親指姫の話には抗議したいことがあるからこう言ったのだが、きょとんとされた。
「だってどこから来たかもわからない初めて見る生き物なのに、王子様と結婚させてもらえたんだよ」
「なるほどね」
花の国とかいうそこかしこにありそうなところとはいえ、一国の王子と結婚できたのだからそうに違いない。
もしかすると、この話のせいで妖精は綺麗だったり可愛かったりする顔立ちだと思われているのかもしれない。
「だからって妖精がみんな美形だと思わないでほしいよ」
「まあ、そうだね」
「というか羽が単体で用意されてる時点で、妖精の羽も本物か疑わしいよね。実は飛べないのかもよ」
「確かに」
大きく頷いて聞いてくれる目黒は珍しいほど話がわかる。
だいたいの人間は妖精そのものを否定してきたり、私が夢見がちだと馬鹿にしてきたりするのに。
「なんでそんなに妖精の立場で考えてるの」
「妖精がいたらきっとこう言うと思うし」
「妖精なんていないって」
由美は夢を見すぎだと言いたいのだろう。こ
ういう風に微笑ましそうに笑ってくる人間の方こそ夢を見ている。
もっと現実的で普通のありふれた特徴を持っているとは考えないから妖精はいないと言うのだ。
虫と人間の中間のようなわけのわからないものが妖精ではないということをわかってもらえたら、私たちが人間にもつ不満の大部分が解消されると思う。
「由美は妖精がどんなのか知ってるの」
「えー、見たことないしわかんないけど。
ほら、小さくて羽が生えてて、お花畑とか森とかにいて、動物とかと話せたりするんでしょ」
すぐ目の前で話している私が妖精だとはつゆほども思っていない様子だ。
やはり人間の方が妖精にたいして夢のような期待を抱いている。
「そんなのいるわけないじゃん」
「そうだよ。
いないんだって、こんなファンタジーな存在」
結局、人間に正しい妖精像を理解してもらうのは無理だということなのかもしれない。
そうと分かっていてもこういった会話を繰り返してしまうのは、なにも私に限ったことではない。
人間に妖精だとバレずに過ごせるのは騒がれなくていいのだが、さすがに自分の存在を否定されていい気はしない。
「とにかく今はおとぎ話より数学だよ」
妖精なんていない、と話し始めたあたりから講義室に着いていて教授もいたのだが、心情的になかなか切りにくい話題だった。
「ベクトルの復習かあ」
復習が多い。おかげで今回も楽勝だ。
教授についてはペッタリしていない自然な七三分けだった。
なるほど、人を選ばなさそうな髪型だ。
右隣に座る由美は数学が苦手らしく板書を丁寧にうつし始めている。
邪魔をするわけにもいかず左隣の目黒の方をちらりと見やると、頬杖をついて暇そうにしている。
「白崎は数学得意なの?」
「うーん、このあたりは苦手じゃないよ」
「私もよく説明されるから聞き飽きてるんだよね」
「私もそんな感じ」
目黒とはよく話が合う。
小声でたわいない話をしたり、親指姫についての考察を披露したりしているうちに終了時間の十五分前になった。
今から小テストをするらしい。
学籍番号を書く必要があるようで学生証を引っ張り出している人がほとんどだ。
私には学籍番号も学生証もないから適当に書く。
「あれ?」
「なに?」
由美の学生証から思わぬ情報を得た。
「いや、髪の色全然違うね」
黒いとずいぶんと幼く見える。
◇◆◇
駅に向かって歩いていると、ある交差点の横断歩道で懐かしい顔を見かけた。
一週間ほど前にある私立大学で二日ほど昼食を一緒に食べた女だ。
最後に会話を交わしたときからまったく変わらない。
名前はなんといったか、記憶に間違いがなければ目黒だったと思う。
目が合った。
しかし一週間も前のことだ。
かろうじてこの顔に見覚えがある程度のことは感じるかもしれないが、その程度だろう。
確実に名前は思い出せないくらいには記憶から消されつつあるだろう。
そのまますれ違って、私と目が合ったこともすぐに忘れるのだろう。
しかしどういうことか、その予想は裏切られることとなった。
「ひさしぶりだね、白崎」
予想外にも、名前まで覚えられていた。
一週間ではそう簡単に人間の外見は変わらないものだから、まったく変わらない姿であることは殊更おかしいことでもないのだろう。
しかし声は、こんなにも様変わりするものだっただろうか。
一週間前の目黒の声は女性にしては低い、胸に響くようにも感じられるものだったはずだ。
初めに聞いた時には胸声とよばれるようなものかと思ったのだから。
それが今はきんきんと響く高い声だ。
「気がつかなかった?」
足を止めている間に目黒は私を通り越して歩き去っていった。
得意げなあの表情は最近ではどや顔というのだったか。
驚いたでしょ、とでも言いたそうな目だった。
まったく彼女の言う通り、気がつくどころか疑いもしなかった。
今思えばいくつも見当がつきそうな要素はあったのだ。
からかわれていたのか。
妖精はいたずら好きだ。
私もあのとき昼食を一緒にとっていたもう一人にはささやかないたずらをしておいた。
学生証を見たときに、由美は正しくは由美子という名前だったことがわかった。
てっきり由美という名前だと思っていたのに、それはあだ名だったのだ。
だから由美のスマートホンに入っていたチャットアプリのユーザーネームを由美子から由美(子)にしておいた。
もう気がついているだろうか。
学園祭のときにサークルで書いたお話のビフォーとアフターでした。
最初に考えてたのはビフォーくらいのものだったんですが、一万文字を目指して増やしていったらアフターのようなものになりました。
紙に印刷されると、なんだか感動するものがありました。




