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窓辺にて・・・

 午前0時37分。被害者は身元不明。三十代半ばの男性で、かなりの薬物中毒者である。加害者は大野マリ。化粧品会社の販売促進部に勤める、三十九歳の女性。都内の某私鉄S駅徒歩15分のセントラルアパート2階の1DKの部屋で一人暮らし。凶器は果物ナイフ。被害者の鎖骨から胸部の斜め下方へ深く一突き。凶器からは彼女の指紋しか検出されていない。


 彼女があまりにも落ち着き払い、罪の意識すら持っていないようなので、まだ刑事課に所属して1年目で、殺人事件を担当するのは今回が初めてというツダ刑事は、思わず殺人犯というものはおしなべてこういうものか、と信じそうになった。

 調書を前に、ボールペンを学生時代の癖で人差し指と薬指の関節で挟んで器用にクルクル回しながら、ツダ刑事はどう切り出したものかと言葉を探していた。

「・・・私はやっぱり、人殺しなんでしょうね」

 マリは鼻筋のすっきりした色白で目元の涼やかな、どちらかというと古風な美人顔をきっぱりと上げて、ツダ刑事に向かって語りかけた。

「え?ええ、まあ、何と言っても現行犯ですから」

 ツダ刑事は自分が警察官としてまともな返事をしているとはとても思えなかったが、そうとしか言いようがなく、きまりわるそうにわざとらしい空咳でその場を紛らわせた。

「それで、動機は?」

「まず初めに、彼が、その、被害者のことですわ、ここでは一応・・・。彼の方が私を殺したんですの」

 はあ、と曖昧な笑いを浮かべて軽く頷くツダ刑事に、いきなり怒鳴りつけられる心配はなさそうだと踏んだのか、マリはようやく椅子を少し引いて身を乗り出し、自分から雄弁に語り始めた。

「信じていただこう、なんて思っておりませんわ。でも、時間はたっぷりあるんだし、一通り聞いていただきたいんですの」

 マリの微笑がひどく穏やかで幸福そうなので、ツダ刑事は出かかった言葉を飲み込んで、とりあえず彼女が話すに任せることにした。

「とてもいいお天気の日に、私、電車に乗ったんですの・・・」


 初夏の、緑がいちばんきれいな季節でした。私、会社の用事で外回りをして、昼過ぎに会社に戻るところでした。電車の中はとてもすいていました。会社勤めをしていると、朝夕のラッシュ時以外の、かなり空いているそういう電車に乗ることってほとんどありませんから、私は突然別の世界の別の人間になったような気がして、子供のようにわくわくしたものです。

 私は、車両のつなぎ目の、角の席に座りました。あちこちで開け放された窓から、広々とした車両をのびのびと吹き抜ける風の心地よい事ったら!

 私はいつまでもこうして座っていられたらいいなあ、なんて、年甲斐もなく子供っぽいわがままを感じ始めました。

 木々の間から覗く空はどこまでも澄んで真っ青で、風は緑のにおいがするし、車窓からのぞいただけでも、土は小さい子の手のひらみたいに湿って、はしゃいでいるのがわかります。線路脇の土手にたくさんの花が気持ちよく咲いて、視界を流れていきます。けれども私ときたら、一体この世界にはどのくらいの花が咲いているのか、そんなことは考えもせずに毎日が同じ繰り返しでさみしく流れていくのです。

 きっと、こんなことは誰もが時々ふっと感じてしまうことなのでしょうね。でも、こんな想いに惑わされていては、駅から近い好条件の分譲マンションも、自分の趣味でまとめた家具や雑貨や、町で見かけて気に入った服も、落ち着いたレストランでの良い食事も、夏休みの海外旅行なども、全て手に入らなくなってしまいます。だからこういうことは一刻も早く忘れて、普段の味気ない生活に自分の気持ちをシフトして、できるだけ毎日に不満を感じないように、自分の心に波風が立たないように、気を付けて自分に時々ご褒美を与えながら、現実と折り合って、今までよりずっと慎重に生きていかなければならないのでしょう。

 私にも、それはよくわかっています。ただ、会社まではまだだいぶあったし、しばらくは自分の中に生まれた正しい切なさと向き合ってみるのも悪くはない、とその時の私は思ったのです。

 そして私はふと傍らのガラスを見たんです。背中の窓ガラスではなくて、車両のつなぎめにはまっている、細長いガラスです。透かして、連結部分の灰色の分厚い幌が見える、あのガラス窓です。

 そこからもちろん隣の車両も見えるんですけれど、そこに私の目の前の景色が映っていたんです。

 ガラスと鏡の違いなんて、考えたことがありますか。当たり前のことでしょうけれど、鏡はその表面に映ったものだけしか見せないけれど、ガラスは裏側の世界も見せてくれるのです。

 ねえ、確かに鏡は便利ですわ。私など職業柄、鏡とは切っても切れない関係でしょう。今でこそほとんど内勤で事務所勤めですけれど、しばらく前までは百貨店で美容部員をやっていたんですもの。毎日が鏡とのにらめっこです。

 自分を映せるって、女にとって最高の幸福ですわ(それは、彼女が容貌に恵まれているからだ、とその時ツダ刑事は思った)。鏡の中の自分が美しく仕上がれば仕上がるほど、それを目に留めるたくさんの人たちの気分も高まるんです。そう、鏡があるからこそ、自分の欠点も解って、それをうまくカバーする技術も学べるんです。眉根がちょっと下がり気味だとか、唇が少し厚ぼったいとか、産毛が目立ってきた、とか・・・・。

 全く、鏡はすばらしい人類の宝物です。でも、ガラスはまたひと味違うんですわ。それを私はその時初めて気がついたんです。

 ガラスに映った姿は、透き通って、頼りなくて、光の加減ですぐ消えてしまいます。でも、それだけに妖しげで、何か不思議な力を蓄えているような気がしませんか。だって、自分の姿の向こうに、別の世界が見えるんです。鏡のように遮断された、自分の背景しか映せない道具とは違って、ガラスはある意味では、人を変える力があるんです。向こう側とこちら側と、両方を内包した多元的な空間。あら、私ずいぶんと小難しい言葉をもちだしてしまいました。これはきっと、ガラスの魔法の続きです。

 ところで、私が電車の中に座って見たガラスの中で、何が起こったと思います?私は思わずあっと叫びそうになりました。

 ガラスに映った、私の向かい側の車窓の景色が、逆方向に流れていくんです。それはそれは不思議な眺めでした。私を乗せた電車は、郊外ののどかな町から会社のある混雑きわまりない都会へ向けてしゃかりきに走っているのに、垂直にさえぎるガラスの中では、どんどん逆方向に・・・、郊外へ、田舎の町へと走ってゆくんです。

 その上、ガラスを透かした隣の車両では、現実の私と同じく、車窓の景色は都会へ都会へと流れていくのです。一枚のガラスの中に、限りなく交わりながら、電車はふたつの方向へとめどなく走っていくのです。

 そして、それを呆然と見守っている私の姿は、一体どちらの方向に走っているのでしょう。

 駅で電車は止まって、一組の親子連れを乗せました。若い母親と、三つ四つの女の子です。二人は私の真向かいの座席に座りました。そして電車は走り出したのです。すると、ガラスの中の親子は、郊外に向けてひたすら走ってゆきました。ああ、私もあっちの席に行こうかしら、と私は思いました。でも、何のことはない、私だって向かいの座席の同じ位置でガラスを透かしてみれば、逆へ逆へと走っているに違いないのです。

 それにしても私は自分の目で自分が都会から遠ざかってゆく姿を見たかったのです。どこまでもどこまでも、現実の私の生活から離れ続けて、自由の身になりたかったのです。

 現実逃避って仰言りたいのね。確かに、そうかもしれません。だけど貴方だって、もし今のこの現実の世界の、自分を束縛するすべてのものから自由になれたら、なりたいものだと思いませんか。上司や同僚や接待しなければならないお客様や、気を遣わなければいけない家族や、山積みの書類や伝票やずっと先まで埋まった予定表から遠ざかってゆく、ガラスに映った幻の電車に乗り換えたいと思いませんか。

 もちろん、その時は私の願いは叶わず、私は会社に戻りました。味気ない毎日の中へ、私は一時の夢から覚めて、再び駆け込んでいったのです。

 でも、このときの想いはずっと私の中に残りました。恋愛みたいなものだったかも知れません。もう、そういう感情はあまり持てない年齢になりましたけれど・・・。


「・・・失礼ですが、大野さん。お話は、その、非常に共感の持てるすばらしいお話ではありますが、そのことと今回の事件と、どういった関わりがあるんでしょう?」

 ツダ刑事は、一息吐いたマリの隙を狙って何とか口を挟んだ。もしかして彼女は、こういった話を延々と続けて事件から際限なく話をずらそうとしているのかもしれない。

「ああ、やっぱり話の腰を折られてしまいましたわね。丁度今、これからそのことをお話しようと思っていましたのに・・・」

 マリはいかにも残念そうに目をゆっくりしばたたいて口の端をわずかに上げて微笑みながら言った。

「彼がやってきたのは、私がそんな想いを忘れられないまま、夏が過ぎ、秋になって、空気が澄んでひんやりと濃くなってきた一昨日の夜のことです・・・」


 私は古い友人たちと久しぶりに会って、ちょっとお酒を飲んでお互いの近況報告やら職場の愚痴こぼしやらであっという間に時間が過ぎ、珍しく終電車ぎりぎりでアパートへ戻りました。

 いつものようにバッグから鍵を取り出して開けようとすると、何故か玄関のドアが開いていて、ドアの前に見知らぬ男が立っていました。目が血走って、半開きの口から汚いよだれをたらした浮浪者ふうの男でした。もちろん、面識はありません。

 私が大声で叫ぶより早く男の腕が私の首を捕まえて部屋の奥へ引きずり込みました。六畳の部屋の広い窓が少し開いていました。朝、窓を開けて閉め忘れていたのでしょう。閉めたけれども、鍵をかけなかったのかもしれません。いつもは決してそんなことはないんですけれど、その時はどういうわけだか、いいお天気でどこかから香ってくるキンモクセイのにおいを部屋に取り込んでそのまま忘れてしまったでしょうか。とにかく窓を開けたまま家を出てしまったようなのです。そして、私の部屋の中は無惨に荒らされていました。自分の部屋が荒らされているの、見たことありますか?ありませんよね、普通。私も初めてです。あり得ない光景でした。思い出したくもない光景です。

 男は、台所にあった果物ナイフを私の首筋に突きつけて、ろれつの回らない口で金を出せ、というような事をつぶやきました。私はもう頭の中が空っぽで、何もしゃべることは出来なくて、押さえつけられているのにお金を出すことだって出来やしないでしょう。それなのに男は私が拒否したと思ったのか、いきなり激しく私の体をめちゃくちゃに揺すりながらヒステリックに叫びました。ダメだ、金じゃ間に合わねえ、薬だ、な、あんた持ってんだろ。私が首を振って否定すると、嘘だ、みんな持ってるはずだ、どこに隠してやがる!

 そして男は果物ナイフを振り上げ、私の首すじに振り下ろしました。

 一瞬、意識が宙に浮きました。私は窓辺にいました。もちろん男もです。ガラス窓がすぐ脇にありました。

 そして私たちの前には、大きな鏡があったのです。

 私たちの姿が、私たちの真向かいに映っていました。それと垂直な位置で、ガラス窓に透き通った私たちの姿が映っていました。丁度、あの日の電車の中のように。

 ガラス窓に映った私たちの姿は、そう、現実と少しだけ違っていました。私が果物ナイフを持ち、男ののど元に突き立てていたのです。

 私はこんな風に死ぬのは厭でした。ガラス窓に映る、別の宇宙へ逃げ出したかった。人は死に直面すれば、必ず普通以上の力が出せると言います。

 我に返ったとき、辺り一面血の海でした。男が深手を負って何やらうめいていましたが、やがて静かになりました。

 私は初め、何が何だかわからず呆然としていました。それから喜びが全身を貫きました。私は、ガラスの向こう側の世界に来れたのです。

 何一つ、今までと変わったところはないようでした。私の部屋も着ている服も、私自身も。

 でも、私には何かしら確信めいたものがありました。ここは、限りなく郊外へ走る電車に乗ることが出来る世界だ、と。

 ガラス窓の向こうで、血まみれで横たわる私と、呆然とこちらを凝視している男が見えました。私は思わずにっこりとガラスの向こうの男にほほえみかけてしまいました。私は彼のおかげでこちらの世界に来れたんですもの。

 そして私はさっさとカーテンを引き、二度とその窓を見ませんでした。何かの拍子に元に戻って、冷たい骸になるのはごめんでしたから。

 こして私の新しい人生が始まったんです。私、まだこちら側の世界がどんなだか、まるで知りませんの。きっと、私の勤め先は、静かな郊外にあるんでしょうね。


 状況から見て正当防衛だったのは間違いがなかった。大野マリは罪を問われず、厳密な精神鑑定を受けた後、しかるべき病院へ収容されることになった。そこは小高い丘にある、周囲を雑木林に囲まれた、のどかな郊外にあった。彼女はそこで大好きな読書や手芸にふけって、日々を過ごしているという。

 ツダ刑事は最後までこの事件に納得できなかった。精神鑑定医は、孤独と仕事への情熱の欠如から来る現実逃避の軽い鬱状態にあった加害者が、襲われた際に咄嗟に超人的な力を発揮し、逆に相手を殺害するに至ったと診断した。しかし、被害者の傷の状態はいくら命の危険にさらされたからと言って、とても女性の力では不可能なほど深かった。それに、事件のあった夜、彼女と過ごした友人たちや、普段職場で彼女と共に過ごしていた同僚などの証言からも、彼女に精神的なダメージや病気の兆しは全く認められなかった。

 ツダ刑事は、事件のあったアパートの一室を彼女の証言のすぐ後でもう一度尋ねた。1DKの狭い部屋は空き巣に荒らされたままになっていたが、かなり質素で、大した家具も置いていなかった。一人暮らしの真面目な女性のステレオタイプな住居と言って良かった。

 ただ、一つだけ意表をつかれたのは、壁一面に貼られた大きな鏡だった。狭い住空間を広く見せるために、姿見としてだけではなくインテリアのアイディアとして大きめの鏡を壁にかけることは少なくないようだが、それにしてもその鏡は部屋の壁一面を被うほどの大きさで、ダンサーなどの芸能活動をしているわけでもない彼女が選ぶにはあまりにも大きすぎた。

 おそらくマリが語ったあの初夏の日に、電車に乗ってガラスに映った反射世界に魅了されて以後買い求めたもので、故意にその壁に貼ったものだろうとツダ刑事は推測した。

 マリは、一人でこの部屋にいるときには、窓辺に座って鏡に映った自分をガラス窓に映していたのだろう。自分がいつか「向こう側の世界」へ行ける事を信じていたのか、空想して心身共に疲れ切った自分を癒していたのかはわからないが。

 ツダ刑事は、あの時反論することも出来た。世界が逆方向に流れるのは動いている車窓だったからで、殺人現場で被害者と加害者が入れ替わるなどと言うことは断じてあり得ない、という当たり前のことを。しかし、彼は敢えて彼女に反論を突きつけなかった。そこまでしなくても、彼女が精神鑑定を受けることは話の流れから当然のように思えたし、たとえ彼が指摘しても、彼女はあのにこやかな笑みを浮かべ丁寧な口調できっぱり否定しただろうから。

 そして何より、ツダ刑事の口を重くしたのは、取り調べの初めに彼女が調書にサインするのをじかに見ていたからだった。彼女は平然と左手ですらすらと反転文字を書いていたのだった。

 大野マリが左利きだったと言う者は誰もいない。文字を裏返しに書く特技があるなどと言うことも。

 願望のあまり必死で練習したに違いない、という鑑定医の言葉も、ツダ刑事にはつじつま合わせに過ぎないように思えた。

 電車の中でいくつものガラスの重なりの中で見た偶然の反射世界を再現するために彼女が鏡を利用したことで、反射に加えて反転の世界も手に入れたのだ、とつい信じてしまいそうになる自分を、ツダ刑事は日々の多忙さに紛らわせ、埋没させることに何とか成功した。

 師走の風が木枯らしに変わるころ、数年前に協議離婚して子供達と共に元妻が出て行ってからずっと一人暮らしのマンションの一室に、ツダ刑事は冬のボーナスで壁一面の大きな鏡を買い、苦労して窓と垂直な位置に据えた。そして、ボーナスの残りで今度は窓辺に座り心地の良い一人掛けのソファを購入しようと思っているのだった。


かつて終末モノと共に流行った並行世界モノに挑戦しました。

学生時代の作品を加筆訂正したものです。

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[一言]  初めまして小町先生「窓辺にて…」拝読致しました。  成程、ジャンルがSFかホラーか難しい物語ですね。なろう様の中では珍しい、完成された本格小説、楽しませて頂きました。鏡面に映されたのは果た…
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