第8章:炎を抜けて
「どういうつもりか、説明してもらおうか」
周囲をぐるりと見回していうボルドフの声は激したものでこそなかったが、抑圧された怒りで聞く者を威圧せずにおかぬ迫力に満ちていた。その巨体の背後で馬小屋だったものの残骸を舐める炎が天へ伸び上がり、動揺を隠せぬ村人たちの顔に貼りついた驚愕と恐怖を明々と照らし出した。彼らに目を向けたアラードは、村人たちの輪が二重になっていることに気づいた。弓矢を手にした黒髪の民の外側に、様々な髪の色をした人々が数人づつ固まって、不安気に様子をうかがっているのだ。そのとき、村長ハーリの裏返った声が叫んだ。
「ば、化け物の言葉に耳を貸すな。射ろ、射殺すんだ!」
間髪を入れず、大剣を鞘走らせた戦士の巨躯が膨れ上がる!
「これ以上やるなら容赦せんぞ!」
その声に、いや、物理的な力とさえまがう闘気に撃たれる村人たち。怪物たちと剣一本で渡り合ってきた剛剣の主の威圧の前に弓を取り落とす者も一人や二人ではなかったが、持ち応えた者も村長をはじめ石のように硬直して、戦意など跡形もなく消し飛ばされていた。アラードの右後ろから、オルト院長が苦笑混じりに耳打ちした。
「いや、凄いものだ。これでは吸血鬼でないにせよ、人食い鬼か巨人と間違われても文句はいえんな」
そんな言葉が聞こえたのかどうか、ため息混じりに剣を引くボルドフ。ややあって聞こえてきたその声は、やるせない響きさえ滲ませたものだった。
「いつからこんなことを続けてきた。二百年前とかいう事件からずっとか?」
「し、知ってるのか?」
絞り出すようなハーリの言葉にボルドフが頷き返す。
「おおよそのところは」
とたんに村長が堰を切ったようにまくしたてる。
「だったらわかるだろう。わしらは村を守ろうとしただけだ! この村は呪われてるんだぞ。金の髪と緑の目の悪魔に!」
自分の方を差す指先を追い左後ろを振り返るアラードの前に、色を失いこわばったグロスの顔があった。
「おれたちの仲間を化け物呼ばわりする気か!」
「大婆様の占いの卦が出たんだ。村を守れって」
「人間だという卦が出たことなどないだろう。違うか?」
「え、なぜ……」
虚を突かれた村長ハーリを、苦々しげに見下ろすボルドフ。
「この村は百年前に水源を広げて以来、入埴者を受け入れてきたはずだ。後ろで遠巻きにしている連中がそうなのだろう? だがあの中には髪が茶色や赤、灰色の者はいても金色の髪の者は一人もおらん。そこへこんな仕打ちをされてみろ。そう思うのが当然だと思わんか?」
微妙に遠回しなその言葉は、だがアラードの頭の中でそれまでバラバラだったものを一気に結びつけた。裏切られた若者は唾棄すべき真相への怒りのあまり、声の震えを抑えられなかった。
「金髪の者たちが来るたびに、こんなことを……っ」
その声には師のような桁外れの威圧こそなかったが、剥き出しの怒りの激しさで人々を振り向かせずにおかなかった。
「でたらめな占いなんかで、罪もない人々をあんたたちは!」
「ば、馬鹿野郎っ、いつ牙を剥くかもしれない相手にどうしろというんだ。襲われないうちに焼き殺すしかなかろうがっ」
「火で焼いたくらいで死ぬ吸血鬼がどこにいる! あんたたちが焼き殺したのはみな人間だ。いくら恐ろしいからってインチキな占いで誰かれなしに殺していいわけが!」
「やめてくれーーっ!!」
背後からの絶叫に、血を吐くがごときその響きに、アラードも村長も絶句した。ぎこちなく振り向いた若者のこわばった顔が、固く目を閉じ両耳を押さえたグロスの顔と向き合った。その唇が震えているのにアラードは気づいた。なにかを呟いているのだと悟るのに時間がかかるほど、漏れ聞こえる声はかすかなものだった。
「……考えなかったはずがないじゃないか。そうだろう?」
それが赤毛の戦士に聴き取れた最初の言葉だった。
「五歳になるかどうかの女の子が、赤ん坊の私を背負って荒野をうろついていたというんだぞ。親はどうした、どうなったのかと怪しむのが当然じゃないか……」
呟きが徐々に大きくなるにつれ、血の気を失くした唇の震えも増してゆくのがわかった。
「そんな私があのとき、ユーラを滅ぼしてからのこの村の歩みを聞かされたんだ。わかったような気になって当たり前だろう? 希望に満ちてやってきた一家がどんな目にあったか、親を覚えていない奴になど察しがつくはずがないとでも?」
「やめてください! 師父」
たまりかねたアラードは近づこうとしたが、かっと目を見開き自分を見上げる白衣の司教の表情に足が釘付けになった。それは長い旅路で見慣れたはずの顔とは、あまりにもかけ離れていた。赤黒く変色し不自然に震えるその顔は、無理やり抑えつけているものを隠すどころか、それがいかに激しいものかを暴きたてるばかりだった。熱に浮かされたようなまなざしが、たじろぐ弟子の顔に貼りついた。
「そなたはあのときいっただろう? アラード。あの別れ道で、まず北の村へ行くべきではないかと。なぜ私は、あのときそなたに賛成しなかった? いくら気が変になりそうだからといって、はっきりしたほうがいいなどと血迷ったことを思ったんだ?」
アラードにもようやくわかってきた。この小柄な、英雄的とはいい難い呪文の師は、ともすれば外に向きそうな何かを無理やりそらせようとあがいているのだと。
「自分が拾われ子だったことで気を惑わせたり、仲間を見捨てて敵から逃げた軟弱者の分際で、なにに向き合えるつもりだった。自分がどうなるかもわからないほど私は愚かだったのか?」
「あなたのせいじゃない。全てはこの」「やめてくれーっ!」
たまりかねたようなオルトの言葉を、再び断ち切る絶叫。
「……その先をいわないでくれ。それを聞いてしまったら、もうラーダの誓いなど守れない。自分がなにをするかもわからない。私の父母はこんな死に方はしなかった。そうだろう? 姉もただ荒野に迷い出ただけに違いないんだ……っ」
いいつつ身をわななかせる白衣の司教を、その場の誰もが声もなく見つめていた。
「この場所は呪われているのか? 吸血鬼への恐怖が二百年間も積み重なった果てに、牙の毒よりひどい腐汁に穢されたのか? だからこんな、自分が自分でなくなりそうな、歪み堕ちるような思いをさせられるのか? もうたくさんだっ!」
いうなり手にした錫杖を、折れよとばかりに地に突き立てるグロス! 勢い余りよろめく体を地を穿った錫杖を握ってからくも支え、荒い息をつきつつ仲間たちを見回すやつれた顔。
「……村を出よう。私はここへ来るべきじゃなかったんだ」
そんな打ちひしがれた様子の同輩に、ボルドフが歩み寄ろうとした瞬間、遠巻きの人垣の向こうから浅瀬を走る水音と呼ばわる声がする。
「舟だと? 誰だ今頃……」
「な、なんだあんたらは?」
誰もがいっせいに振り返ったが、囲みで視界がふさがれている五人が様子をうかがえずにいるところへ、突如としてあがる血も凍るような断末魔! 正面の人垣が渦巻く悲鳴に大きく崩れ、背後の炎がもつれる人影を暴き出す。
人垣の外にいた移民の若者が背後に向きかけたまま、二人の男に首筋と肩に食らいつかれていた。目を見開いたままのけぞった顔はすでに青白かったが、手足がまだ痙攣しているのが馬小屋の残骸を舐める炎に照らし出されていた。そして無残な獲物を貪るびしょ濡れの男たちの黒髪もまた、炎を受けて赤光りしていた。だがその怪物たちの身なりはまるで違うものだった。ぼろぼろの身なりの一人の腰は、囚人のような胴輪と鎖で縛められていた。そして一人は茶色と緑の狩衣姿で、弓を背負ったままだった。
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「な、なんてこと……っ」
地上へ降下し始めた魔獣の背にしがみついたまま、呆然と呻く人外の少女。獲物を感知するための忌むべき感覚が、人間の心を残してしまった魔少女に凄惨としかいいようのない事態を見せつけていたから。
最初は塊として知覚されるだけだった二つの異なる気配の蠢きは村に近づくにつれてほぐれ、すでに一人一人の動きがはっきり感じ取れるようになっていた。だが同時に、村の中にいた人間の気配はいつの間にか一掃されていた。村人の気配に侵入者の気配が重なることで前者がいわば塗りかえられてゆく。知覚の捉えたイメージはそのようなものだった。
そこで起こっているはずの光景は、リアにはもちろん察しがついた。限界までこらえた渇きに屈したときの自分自身の狂態は、いかにそれを忌み嫌い否定したくとも、意識から振り払えるはずのないものだったから。
だがいま彼女を戦慄せしめているのは、それとは別の恐ろしさだった。それは自分の殺した人間が転化してゆく姿を見たことがあればこそ、実感しうることだった。村が襲われたのとほとんど同時に、自分はガルムに乗り洞から舞い上がった。魔獣の強靭な翼は丘を超えここへ飛来するのに数刻と費やしてはいない。にもかかわらず、牙にかかった村人たちは次々と立ち上がり、周囲の村人を襲っている。犠牲者が生きた死体と化して動き始めるには一昼夜かかるはずなのに、ありうべからざる速さだった。いまや二百人ほどもいたはずの村人は一人しか残っておらず、その最後の一人に起き上がったばかりの二人が襲いかかろうとしている。着地する暇はない!
「待ちなさい!」
叫ぶやいなや魔獣の背から二人めがけ飛び降りるリア。勢いの乗った爪が相手の肩から胸をえぐると、あっけなく倒れる男。
「え?」
あまりの手応えのなさにとまどうリアの背後から、子供の悲鳴が耳朶を打つ!
「パパー!」
思わず身をこわばらせたリアの腹を激痛がつき抜けたとたん、その細い肩に牙を立てる女。苦鳴を噛み殺しつつ相手の胴を横に払うと、もろくもくずおれる女。牙や爪が抜けた瞬間リアの傷は回復を始めるが、倒れた二人は全く回復する様子がない。
「これは、いったい……」
つぶやく背後で、空ろな声が呻く。
「ママ……」
ぎくりとして振り返ったリアの目が、呆然と立ち尽くす少女を捉える。闇をも見通す空色の瞳に、十歳にもなっていない痩せた黒髪の少女のこわばった表情が焼きつけられる。
「あ、あの……」
思わず踏み出し手を差し延べようとすると、脅えた顔で後じさる少女。その様子に、今度はリアが固い表情で立ち尽くす。
とっさのことだったにせよ、自分はこの子の目の前で両親を殺してしまったのだ。差し延べようとした手は二人の血に染まってさえいる。この子の目にいま、自分はどれほど恐ろしい化け物に映っていることか。
事実、彼らは自分よりよほど人間に近いようだった。手を濡らす両親の血は奇妙な匂いがして、明らかに変質していることをうかがわせている。だがその怪しい血は肉体の表層を変えるに留まり、深い変化をもたらすには至っていない。本能のみで人を襲う動く死体に似た状態に陥りながらも、彼らは傷つけば死ぬもろい肉体のままなのだ。おそらくこの驚くべき変貌の速さも、肉体が深い変化を起こしていないがゆえのことなのだろう。
だがその変化の速さは、人間にとってはるかに恐ろしいものに違いなかった。吸血鬼の犠牲者なら発見さえ早ければ、動き出す前に対処することもできるが、これほど動き出すのが早ければ、ある程度まで広がってしまうと抑えることはできなくなる。この村も不意を突かれたとはいえ、丘を飛び越えるだけの短い時間に壊滅してしまった。そしていま、家々から人外の身になり果てた村人たちが姿を現わし、残された少女ににじり寄ってくる!
「逃げるのよ、早く!」
焦ったリアが声をかけるが、少女の脅えは強まるばかり。無理に近づけば恐慌に陥るか気を失うに違いない。囲みを破ることはできるとしても相手がここまで自分を怖れる以上、たとえ自分が渇きに耐えられようと連れていくのは無理だろう。それでは結局荒野に置き去りにするしかなくなってしまう。丘を越えるとき、あたりには狼の群れも見えた……。
いや、見殺しになどできはしない! 知らなかったとはいえ、自分はこの子の両親を殺してしまったのだ。なにがなんでもこの子だけは!
そう思ったとたん、目の前の少女だけを感じていた感覚の網が一人の人間の気配を捕捉した。この村の北、火の山の近くに誰かがいる。旅人かと思った瞬間、空色の瞳に決意が宿り、澄んだ声が呪文を唱える。たちまち村人たちの囲みの外に炎の壁が現れ、その場の全員を囲い込む。背後でいきなり燃え上がった炎に獣のごとく恐慌をきたす亡者たちのただ中で、やおら天を仰いで叫ぶリア。
「ガルム!」
とたんに夜空からはがれ落ちるように降下してきた黒い魔獣の異様な姿に硬直する少女を一瞥すると、老人に似た顔に向き直り語りかける人の心残せし魔性の娘。
「ここから北の、火の山の近くに人がいるわ。この子をそこまで連れていって。でも相手が驚くといけないから、姿を見られないよう少し手前で降ろしてあげて」
たちまち怪物のごつい前脚に抱えられ、生きた心地もなさげな黒髪の少女。その様子に目を伏せつつ、悲しげな声をかける金髪の娘。
「ごめんなさい。助けたかっただけなの……」
その声に少女が目を見開いたとたん皮の翼が風を巻き、驚いたままの小さな顔が一気に真上へ遠ざかる。見送る人外の娘の青い瞳がさらなる悲嘆を含み、炎の囲みに退路を絶たれた村人たちに向けられる。黒衣の乙女がかつていった、いびつで不完全な存在という言葉が意味するものがなんであるか、その目はすでに見て取っていたから。
「魂が砕け、目覚めを迎えることもかなわない、いつまでも動く死体のまま……」
もはや涙声というべきその言葉も、しかし炎に怯えるばかりの亡者たちには届かず、空しく虚空に消えてゆく。ついに耐えきれなくなって、天を仰いで叫ぶリア。
「ねえ、この人たちにもう魂は残っていないの? 元には本当に戻れないの?」
すると黒い天蓋から、虹色のきらめきが舞い降りてきた。炎をかすめるように飛ぶ人面の妖鳥が、玲瓏たる声を返す。
「わかるだろう? 我が目の見るのも同じこと。不滅の魂失いしゆえ、この者どもは不死たりえないのだから」
「不死になんかなってほしいんじゃないわ! 元に戻ってほしいだけよ」
「彼らは魂を切り離された。戻れぬ門を潜ったのだ。もはや戻すすべはない」
予想どおりの言葉だった。それ以外の答えがあるはずもなかった。それでも諦めることができなくて、少女はさらなる存在に呼びかけた。
「見ているのでしょう? だったら教えて! この人たちはどうなってしまったの? 本当になにもしてあげられないの?」
そのとき、リアはあの深い瞳を感じた。それは彼女の外にあるのではなく、内側から見られている感触だった。やがて脳裏に、かつて星空の下で出会った白髪の乙女の、あの低い声が聞こえてきた。
「これは人間の手による不出来な模倣。欲望のまま未知の領域に手を出したみじめな結果」
「不出来だというなら、私のように変わりきっていないのなら、なんとかしてあげて。できないなんていわないで!」
「いったはずよ。私は理の中に留まる身。人間が歪めた摂理の中では、私の力は働かない」
「そんな……」
言葉を失うリアの眼前で、炎に怯え身を寄せ合う亡者の群れ。ぼろぼろの衣服に鎖の切れ端をつけた襲撃者と野良着や狩人姿の村人たちが、男も女も、老いも若きも、果ては子供たちに至るまで、一様に理性も知性も失くした人型の獣と化していた。それは証だった。襲撃者も含めた全ての者が無残な犠牲者に他ならないことの。
だがもはやなすべきことは明白であり、避けることは許されなかった。もし彼らを放置すれば、この大陸はほどなく亡者たちに呑まれるしかないのだから。冷厳な事実に追い詰められた少女の心が絶望に軋み、苦渋に満ちた呻きと化す。
「こんなこと、見たくなかった。絶対起こらないでほしかった。だから来たのに、ここまで来たのに……っ」
間に合わなかったのだ。ためらったから。人を害することしかできなくなった身で、村に近づくことを怖れたから。そのせいで自分は最悪の結果を招いてしまった。ためらったせいで、自分のせいで! その思いに打たれ、地に跪き手を延べるリア!
「私のせいなの。許して、許して!」
叫びとともに両手が天を突き、振り絞られた声が韻律を成す。とたんに炎の壁が膨れあがり、亡者たちを一気に舐め尽くす。阿鼻叫喚すら瞬時に貪り尽くした業火の顎がくずおれる華奢な姿に食らいつく寸前、紅蓮の牙をかい潜った翼ある影がその細い胴を爪で掴むや天空へと駆け上がる。呆然とする少女の耳に、魔獣の唸りが聞こえてくる。
「ナニヲスル気ダ。死ヌコトモナラヌ身デ」
「……燃えてしまいたかった。あの人たちと……」
「復活スレバ渇キニ屈シ、誰カヲ牙ニカケネバ収マラヌ。ソシテオマエハマタ嘆ク。我ラノ心ヲ巻キ添エニ」
堪えきれぬ悲泣もらす少女を、魔性の身のただ中で打ち震える魂を掴み上げた怪物は、きらめく星空を銀河へ届けとばかりに、どこまでも昇りつめてゆくのだった。
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彼方で大きく燃え上がる炎を、エルゼは呆然と見つめていた。村の破滅を告げるその光景にも、麻痺した心はもうなに一つ実感できずにいたのだった。
あまりにも突然だった。多くのことが起こりすぎた。夕暮れと共に聞こえてきた悲鳴。村の南端にあった家から逃げ出した自分たち三人に追いすがってきた隣人たち。自分を隠した茂みの前で笑顔を交わし合う仲だったはずの人々に貪りつくされた父と母。打ち捨てられた二人に縋りついたとき、ゆっくりと起き上がった二人の空ろな目と鋭い牙。
あとはもう、なにがなんだかわからなかった。迫る両親が突然倒れたと思うと、自分といくつも違わないような少女が手を血に染めて立っていて、真っ黒い怪物が自分を空へ掴み上げたのだ。少女の髪は金色だった。かつて村に災いをなしたという吸血鬼の眷属に違いなかった。でも自分を見上げた少女の顔はとても悲しそうで、謝るような声さえ聞こえた。自分を頭から噛み砕くはずの怪物も、ここへ降ろした自分にぎこちない声で、向こうに人がいるとだけ告げて飛び去っていった。まるでわけがわからなかった。
それでも山裾から顔を出したばかりの低い月を燻すように煙を吹き上げる炎を見ていると、もう二度とあそこへ戻れないことがだんだん心に迫ってきた。夕方に野鴨を捕って帰ってきた父も、夕餉の仕度をしていた母も、昼に木苺摘みに連れていってくれたクレアの一家もなにもかもが失われ、あそこで燃えているのだということが染みこむように感じられてきた。それは九つになったばかりのエルゼに耐えられるはずのないものだった。熱いもので視界が滲んだと思うと、黒髪の少女はこみあげてくる嗚咽をもう堪えられなかった。そのとき、嗄れた声が背後から聞こえた。
「誰だ、そこにいるのは」
振り返ったエルゼの黒い目が、炎の照り返しを受けて立つ人影を捉えた。黒いローブを着た痩身は斜めに傾ぎ、仮面とおぼしき異様な顔が彼方の大火に赤く染まっていた。
異様な姿にエルゼは竦んだ。だが奇妙なことに、それは相手も同じらしかった。仮面のせいで表情こそ窺えなかったが、相手も近づく途中で固まったような不自然な姿勢で、棒でも呑んだかのごとく立ち尽くしているのだった。仮面に開いた穴のうちの片方が、ちらりと光ったように見えた。そのとき先ほどよりもさらに掠れた声が呟きを漏らした。
「……リー?」
よく聞き取れなかったが、名前だろうか。ではこの異様な男は自分に無関係なのだ。用などありはしないのだ。だったらなぜ、そんなに見つめるのか。よろめきながらも近づこうとするのか。違う、自分じゃない。知らない。近づかないで! そんな思いがおびえた少女を後退りさせる。
すると男が立ち止まった。だが次の瞬間、怒りとも憎しみともつかぬものがその異様な姿から吹き出し、恐ろしい叫びが耳朶を打つ。
「おのれ、たぶらかす気か黒髪の民めが!」
そしてなにか禍々しい響きの言葉を口走る仮面の怪人。瞬間、エルゼの意識は恐怖に囚われたまま、暗闇の中をどこまでも滑り落ちていった。




