第11章:暴かれし荒野 その8
「書状、ですと? それもアーレスから?」
面を上げたグロスに、大司教ゴルツは重々しく頷いた。封魔の城塞を束ねるこの偉大な術者も老境に入って久しく、髪や髭にも往時の色はもはや残っていなかったが、秘めた力と蓄えられた叡智はその身に威厳を与えこそすれ、老いの翳りはいうに及ばずその思いすら他の者に容易く窺わせることはなかった。ある事情で文字どおりゴルツにその身を捧げるようにして仕えてきたグロスだからこそ、微かな渋面めいたものをそこに見いだすことができたのだ。
「読んでみよ」
いわれるままに封の開いた書状を受け取ると、グロスは文面に目を通し始めた。大意を掴むべく流し読みで始まった目の動きは文面への驚嘆の念とともに食い入るような凝視に変わり、ついに目を上げた彼はゴルツに叫んだ。
「閣下、これは我らの窮状の助けなのでは?」
「長年ラーダの教義に接した身で、なおそう思うか」
渋面がもはや明らかなものになっていることに驚きうろたえるグロスには、主の窪んだ眼窩の奥を窺うことはできなかったが、続く言葉を告げた声は厳しさの中にもほんのわずか、ため息にも似たものを混じえているように思えた。
「ではそなたには、解呪の技などさぞかし無意味な禁忌や制約に縛られた術式と映るであろう」
だから発動できぬのだとはゴルツはいわなかったが、グロスは唇を噛みつつ面を伏せた。高位の術になるほど術者の資格を問い容易に発動できなくなるラーダ教団に伝わる呪文の中でも修得が最も困難な解呪の技。生と死の隘路に堕ちた吸血鬼を滅ぼしうる唯一の術はラーダの教義の奥義の象徴でもあり、唱える者の心のあり方への問いかけが幾重にも織り込まれた術式は魂に縛られて不死となった肉体をも滅する威力を有する反面、覚えただけでは発動すら不可能なものだったから。
もとをたどれば怨敵の肉体も魂も無に帰するべく編まれた呪殺の邪法を、その威力ゆえに対吸血鬼用の術式に作り替えることで生み出されたこの術は、多くの制約と禁忌が呪わしき出自を覆いつくすかのように厳重に施されていた。とりわけ本来の術式では破壊の対象だった魂を呪われた肉体の煉獄から解放し浄化すべきものとみなしたことに基づく制約と禁忌は、出自の前提と真っ向から食い違うものであるがゆえに、術の威力を大きく削いでさえいたのだ。
だがそのありかたに疑問を抱くようでは、解呪の技を発動することはできない。そのことがわかっていながらもなお、グロスは壁を越えることができずにいた。つい先頃までこの術式に必死に挑んでいたが、ついに発動させることのできぬまま術者としての絶頂期を過ぎつつあったのだ。巷では前線に出るだけの適性に欠けているとの噂がまことしやかに囁かれていたが、この場の二人は躓きの石がなんであるかを知っていた。それは邪悪な吸血鬼にパーティを全滅させられて仲間を見捨てて逃げることしかできなかった体験ゆえのものであり、無力感と仇敵に対するあらゆる負の感情を深々と植え付けられたグロスにさえ、この術は呪われた者の浄化を心から願うよう求めてやまなかったのだから。
司教としての修行の完遂をその目前で諦めたグロスは、失意を押し隠したままゴルツの補佐に専念していた。そんな己の心など見通しているはずのゴルツになにもいわれなかったことも、その失意をいっそう深めた。そして今、はやる心に沈黙で応じられたグロスは、常ならば決していわぬことを口走らずにいられなかった。
「閣下。畏れながら洞門では、戦うたびに若き者を中心に被害が出ておりますのが実状。いかにラーダの教えとて、禁忌や制約は血や命で贖うべきものでありましょうや?」
「我らはこの地に封じられた災いを外へ出さぬことに命を捧げし者。それは決して魔物どもに限らぬ!」
「も、申し訳ございませぬ」
グロスは色を失い平伏した。言葉よりむしろその声を畏れて。それが忌むべき記憶と深く結びついたものであるがゆえ。
同じ声を耳にしたのは忘れようもない、安堵と恥辱がせめぎ合うまま己を陽光に晒しつつ、今のように平伏していたあのときのことだった。顔を上げることのできぬまま事件の顛末を報告した彼の前で、アルデガンの大司教は彼らの救出に赴くことを禁じたのだ。もはや間には合わぬ。それに血気にはやったとはいえ、あれだけのパーティを瞬時に全滅に追い込むほど容易ならぬ相手となれば、さらなる被害は目に見えているからと。
その場の多くの者たちと同様、グロスもその言葉に驚愕した。それはパーティのメンバーだったゴルツ自身の愛娘をも見捨てる決断にほかならなかったから。だが、その言葉に異を唱える者はいなかった。その声の軋むような響きが、長としての決断を強いられた父親の胸中を伝えずにおかなかったから。
「……この書状への返書はそなたに任せる。いま一度、ラーダの教えの意とするところへ立ち返り、この者を説くつもりでしたためよ」
書状を手にグロスはゴルツの元を辞した。未だ納得できぬ思いと、己の浅はかさへの恥辱に心乱しつつ。
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「そんな私が書いた返書だ。オルトどのの心に届くべくもない。お恥ずかしい限りだ」
「それで師父は、あのとき解呪の技の術式を変えようと?」
アラードの言葉に、白衣の神官は頷いた。
「ああ、私はアルデガンが破れたあの時でさえ、なお迷いを引きずっていたのだ。もう一度かの術に向き合うには、かくも未熟な身で容易に人を殺めうる呪文を操る我が身の恐ろしさを感じねばならなかった。それでも未だ、発動には至っておらぬが……」
「いや、おそらくあなたはあと一歩のところにおられる。悩みの日々こそこの術式が求める心のあり方に近づく唯一の道なのだ。そしておそらく、あなたは戦いの心からではなく、慈愛の心からこの術式にたどり着くのではないかと思う」
「そうだろうか?」
呟くグロスに頷いてみせたアルバの目が、未だ眠りから覚めぬ少壮の院長に再び向けられた。アラードはふと、グロスに返書を書くよう命じたゴルツの心を想った。アルデガン最後の日々をその間近で過ごしたアラードに今もなお焼き付いている大司教の面影。かつての自分には窺い得なかった心が、僅かながらも視えるような気がした。人となりの違いはあれ、あるいは老師の心ともどこかで通じるものだったのではと感じつつ、赤毛の若者は次の言葉を待つのだった。




