第2章:アーレス
=あの寺院からあと数日でイルの村だ=
左の瞼に閉ざされた空ろな眼窩の夢の中、明るく告げる姿をなくした父の声。薄れた指が指し示す質素な造りの、しかし堅固な白亜の僧院アーレス。
=寺院で少し休ませてもらう?=
=いや急ごう。先を越されてはいかん。新たに耕地を開墾できるほど水がある村なんか、めったにないんだから=
遠い記憶の木霊と化した父母の声とともに、もう新たなものを見ることのない左目にあのとき映じた白塗りの門が、開くことのなかった堅固な門が空虚な眼窩の闇に浮かぶ。しかしそれを意識するより早く、荷馬車はすぐに動き出し、門は後へと遠ざかってゆく。御者台で手綱を握る父の背も隣で赤子を乗せた母の膝も、さらには赤子をあやす妹の顔すら朧にかすんだまま、車輪が石を踏むごとに大きく小さく揺れる。
そして朧な妹の顔を取り巻く金色の巻き毛が日差しを柔らかく散らす中、まだ小さなその手が握る紐の先の三日月形の黒い石のかけらも揺れに合わせて跳ねまわり、あやされた赤子の笑い声を呼び起こす。
けれど眠りの深淵から浮かび始めた意識は僧院を訪れなかったあのときの自分たちと同様、遠く儚い残像と化した幸せの情景を通り過ぎる。そして右の眼窩に残る血走った緑の瞳が、目的地で起きた忌むべき出来事を映し始める。
--------------------
「侍祭たちが狼を追い払ったとき、女の子はもう息がなかった。身を挺して赤子のあなたを守ったのじゃ。あなたの姉に違いないと誰もが思った。だが本当にそうだったのか、なにしろ名前さえわからぬままなのじゃ」
往時を知るという老修道士の言葉に、グロスは目頭を押さえつつ印を切り、霊廟の隅の小さな柩に頭を垂れた。アラードも胸に迫るものをこらえつつ、ボルドフに倣い瞑目すると無言の祈りを捧げた。その耳に届く、噛み締めるような呻き。
「配慮ゆえのこととはいえ、知らなかったのが口惜しい。かくも尊き犠牲ゆえにこの身ありとの自覚あらば、私はもっと……」
その言葉にはっとする赤毛の剣士。なぜなら彼はかつて、この短躯の司教が己の弱さを人知れず悔やみ涙する姿を目の当たりにしたことがあったから。
アルデガンに侵入した吸血鬼を討伐するべく、なぜか自ら洞窟に赴くと宣言した大司教ゴルツに同行したアラード。敵の居場所を探知する秘術に欠かせぬリアを含めた三人で臨んだあの道行きの果て、明らかになった恐ろしい真相。それは二十年前に残忍な吸血鬼の手に落ちたゴルツの愛娘ラルダが、無残な責め苦にその身も魂も毒され続けたことで、あらゆるものを呪い憎むしかないところまで歪められた果てに、仇敵を溶岩たぎる火口に突き落としたことでようやく得たわずかな自由をよすがに凶行に及んだというものだった。そのとき捕われのラルダを見捨てて逃げたことで、壊滅したパーティからただ一人生還したのが若き日のグロスだったのだ。
そんなグロスを、しかしゴルツは責めなかった。もはや落日を迎えていたアルデガンの長として、吸血鬼と渡り合える人材などごく僅かだということを、ゴルツは誰よりよく知っていたのだ。術者としての素養が高く魔術師と僧侶の二系統の術式をほとんど習得し終えていたグロスも、不死の肉体に呪縛された魂をいわばもぎ離した上で浄化する「解呪の技」を発動させるだけの意志力には欠けていた。それが怠惰ではなく限界だと見抜いたがゆえ、ゴルツはグロスの生還を祝福したばかりか、自らの補佐役に取り立てさえしたのだった。自分が生まれる前のそんな事件をむろんアラードは知らなかった。だから洞窟から帰還した自分を密かに呼び出したグロスがラルダの無残な運命を、そして熾烈な戦いの果てにゴルツに討たれたことを知ったときに見せた深い嘆きに、赤毛の若者はただただ驚かされたのだった。
こんな形で二人が出会ったときのグロスの姿は、負い目ゆえにゴルツに全てを捧げ仕え続けて久しいものだった。しかし破滅に瀕したアルデガンを守り抜いてゴルツが命を落としてはや六年、旅路を共にしてきた赤毛の若者はどこかこわばりめいたものから解かれたグロス本来の温厚かつ忍耐強くしかも実務的な人柄に、術式を師事する中で接し続けてきた。アルデガン崩壊まで剣士としての修行しかしてこなかった赤毛の若者にとって、自身が行使できぬ呪文さえも噛んで含めるように伝授してくれるグロスは、厳格なボルドフとは違った意味で優れた師であった。その目標を「解呪の技」の習得に置いていたため、アラードは僧侶系呪文を集中的に学んでいたが、神への揺るがぬ信仰を通じて術の発動に必要な意志力の高まりを引き出す僧侶系呪文の修行は精神的領域に属することがらを併せて学ぶことに他ならず、六年余りに及ぶ学びは短慮の傾向なしとしなかったかつての少年を、より深みのある青年へと変えていたのだった。
だからアラードは感じた。師の胸に去来しているであろう深い思いを。そんな赤毛の若者の眼前で、白衣の司教は跪いたまま、すがるような緑の瞳を背後の修道士に向けた。
「せめてなにか、形見は残されておらぬだろうか?」
老修道士はうなづくと、柩の前に置かれた小箱をうやうやしく手に取り蓋を開けた。皺だらけのごつい手が、外見からは想像もできぬ柔らかな手つきで小さな布包みを解き、中身をグロスの掌にのせた。
「本来なら柩に収めるべき品であろうが、この子の消息を尋ねる者でもあればと思い、こうして保管しておったのじゃ」
黒い三日月形の小石だった。古びた紐の結び目が真ん中にかろうじて残されていた。
「首飾りにでもしていたのであろうが、発見されたときは赤子のあなたが握っていたと聞いておる。消息は遂にわからなんだが、あなたの手に戻るなら御霊の供養ともなろう」
「老師アルバよ、感謝の言葉も見つからぬ……」
押しいただくようにしてグロスがそれをアルバから受け取ったとき、訪れた侍祭が三人に告げた。
「オルト院長がお呼びです」
「アールダ師がこの地に潜むと喝破された件の吸血鬼は、影一つ見せたことがないが、ではこの地が平穏かといえば答えは否だ。この寺院には門外不出の文書がいくつかあるが、この記録などは尊師にお伝えするのを憚られた結果、秘されたものなのだ」
僧院アーレスの院長オルトは先ほどの修道士よりずっと若く、風貌も古武士のような老士とは対照的な学究の徒の趣を持つ人物だった。腰掛けた3人の対面に着席した少壮の院長は、短く刈り上げた茶色の髪の下の広い額に片手を添わせ、残る手で古文書の頁を繰り始めた。




