第10章:禁断の魔牢 その3
通路を駆けてゆくうち、リアは違和感を覚え始めていた。身を包む魔力の渦が薄れ始め、道が上り坂になっていたのだ。こんなところにあの少女が囚われているのだろうかとの疑念をからくも抑え込めたのは、いやますばかりのあの臭いゆえだったが、それも人外の身に転じたがための鋭い嗅覚があればこそで、人間であれば部屋に薄くこびりついた程度のものとしか感じなかったかもしれない。一本道の通路は細くて狭く、ひたすら壁が続くだけで部屋もない。間違った道を選んだのではとの思いが確信に転じたその瞬間、通路の突き当たりに木製の扉が見えた。それと共に、薄れつつあったはずの魔力がその向こうから感じられた。なぜかそれは渦状というより、柱のようなものとして感じられた。
その扉は空気が通るように細い板を並べて組み込んだもので、例の臭いを乗せた風がかざした手のひらに感じられた。取っ手はごく簡素なもので、鍵穴は見当たらなかった。目にするであろうものの見当がつけられぬまま扉を開けたリアは、異様な光景に息を呑んだ。
まぶしいほど明るいその部屋の天井から、様々な形をした何かが数え切れないほど垂れ下がっていた。くらみかけた目が明るさに慣れるにつれ、それがありとあらゆる蟲や草花の陰干しであるのが見分けられるようになった。通路を広げたような奥行きの深いその部屋の反対側には、いま開けたのと同じような扉があり、通気溝の隙間が目を焼く光に輝いていた。どうやら向こうは屋外らしかった。右手の壁面には棚が設けられ、壷がずらりと並んでいた。左手には大きな炉と机があり、机の上には羊皮紙を束ねたものが積み上げられていた。それらと陽光を漏らす扉のちょうど真ん中の位置の床に、魔法陣が一つ描かれていた。そこからあの魔力が垂直に放たれているのを、魔性の娘は感じ取った。用途は定かでないものの、これらの素材と関係するものだろうとリアは思った。
羊皮紙の束は薬の調合を記録したものだった。様々な素材を混合する比率の下に、飲まされた犠牲者に生じた変化が書き留められていた。記述自体は無味乾燥なものにすぎなかったが、それが意味するものに人間ならざる身の少女は戦慄を禁じ得なかった。肉体の変化を完了できずに三日もの間悶えて死んだ例が失敗例として片づけられていたのみならず、犠牲者の血や臓腑をいかなる素材と組み合わせるべきかについて手短な考察までもが記されていたのだ。そしてその考察からは、いかに短い時間で人間を変身させるかが関心事であることがうかがえた。それが目標とされた理由はわからなかったものの、亡者たちが吸血鬼としての属性をあんな中途半端な形で備えなければならなかったのがこの方針のせいだったのは疑う余地がなかった。
頭上に人々の内臓が吊り下げられているのかとの思いにぞっとしつつ鉄鉤の列を見上げたリアは、忌むべき陰干しが古いものばかりであるのに気づいた。どれもすっかり萎び果て、中には鉤爪から落ちたまま床に積みあがり、埃を被っているものもあった。ふと気がつくと、自分の指にも埃がついていた。羊皮紙の束や置かれた机に埃がうっすら積もっていたのだ。炉にもここしばらく使われたらしき形跡はなく、壷も空になっているものがほとんどだった。水分が抜けて壷にこびりついたものがいくつか例の異臭を放っていたが、それが本来の状態ではないのは明らかだった。どうやら悪魔の研究は停滞し放置されているように見えた。完成したにしては荒廃が目立ちすぎる光景だった。
そんな中でただ一つ、床に描かれた魔法陣だけは未だに魔力を放ち続けているのだ。不可解な状況に首を傾げつつ、リアは魔法陣の周囲に記された呪文を読みとろうとした。呪文を刻んだ文様には赤い光が明滅し、壁やゴーレムの顔面にはめ込まれていた水晶玉と同様、火の山の尽きることなき炎の精霊力を利用していることがうかがえた。だがアルデガンで学んだ呪文体系とは異質なため、呪文や魔法陣の素性を直接読みとることはできなかった。薬になんらかの加工を加えるものだろうかとも考えたが、それにしては放たれる魔力が強すぎるように思え、なぜこれだけが今も動作しているのか説明がつかないような気もした。
外へ続く扉には通路側の扉と異なり、なんらかの術が施されていた。内側からは確かめられなかったが、幻影の術であろうことは想像がついた。通気に対する配慮を思えば、この場所に素材を保管したのは硫黄を含む洞窟の空気を嫌っての配慮と思えたが、いずれにせよ扉に気づかれないための対策は欠かせないはずだったから。ここが恐怖の実験場たる牢獄から離れた場所になるのは仕方がないとされたのだろう。臭いをたどれば牢獄に行き着くのではとの目算は、残念ながら外れたといわざるをえなかった。
そうだとわかった以上、あの分かれ道に戻るしかない。だが何を手がかりに進めばいいのか見当もつかないまま、感覚を封じる魔力の渦の中をさまよっていたのでは、どれだけ時間がかかるかわからない。その時ふと、アザリアなら、自分の名付け親だった聡明な魔術の師ならば、この窮地にどう臨んだだろうとの思いがわき上がった。単に高度な呪文を縦横に駆使するにとどまらず、数多の窮地から自らの属するパーティーを帰還させ、ついには自らの命と引き替えにアルデガンに迫る破滅を知らせた偉大なる守護者。戸口から通路へ戻る一歩を踏み出せないまま、リアは亡きアザリアに祈らずにはいられなかった。
「アザリア様、どうかお導き下さい……」
すると少女の脳裏に、あの懐かしい声が聞こえた。
>意志の力を保つのよ! それが精霊力に形と方向性をもたらすのだから<
それは炎の呪文の修行中に、繰り返し聞かされた言葉だった。潜在的な魔力の素質の高さと裏腹に、高すぎる感応力が災いして敵への攻撃に気後れしがちだったリア。そんな自分をアザリアは根気強く導いてくれていたのだった。あらゆる呪文はその目的に応じ定まらぬ精霊力を使いこなそうとするものだから、無秩序な力に方向性を与えるところから全てが始まるのだと諭しつつ。
祈りが通じたわけではむろんない。それは単に記憶に刻まれていた言葉が浮上してきたものにすぎなかった。にもかかわらず、その言葉は扉の取っ手にかかったリアの手を止め、床の魔法陣へ振り向かせるに足るものだった。この魔法陣の役割が何なのかは魔力が床に垂直に働いていることと深く関係しているはずだと、亡き師の残した遠い言葉は示唆するものでもあったから。魔力の渦と化して自分の感覚を結果的に阻むその力にも、本来の役割が別にあるはずだと気づかせるものであったから!
強さだけでいうならば、アルデガンをかつて包んでいた二つの力の方がはるかに上のはずだった。洞窟全体を覆い尽くす強大な魔封じの結界に加え、星界からの漂泊者の力は洞窟の環境を変容させてさえいたのだから。にもかかわらず、それらの力は自分の感覚を妨げることはなかった。それらはいずれも洞窟の壁に沿って働いていたものであり、この洞窟のように通路を遮断する形で働いてはいなかったから。そして自分がここへくることを相手が予知でもしていない限り、それは特殊な力を持つ侵入者への備えとして意図されたものではないはずだ。ならば魔法陣は、そして通路を垂直に貫く力は、いかなる意図のもとにこのようなものになっている?
なにかを自分が掴みかけている感触を覚えつつ、リアは再び魔法陣に歩み寄った。そのわずか数瞬に、見えざる力のことが頭をよぎった。下の階では通路にも渦巻くほどの魔力が満ちていると感じたのに、この部屋にくるまでの長い通路ではなぜ感じなかったのか。あるいはそれは、この通路が洞窟の最上階にあるからでは? そして通路の途中に魔法陣がなかったことを思えば、下の通路に満ちていた魔力もすべて、部屋の中にある魔法陣から発せられていたのかも。それが通路を貫いているのは、真上と真下に魔法陣を刻んだ部屋があることの顕れではないだろうか! 息を呑んだリアの脳裏に、そのとき野太い声がした。
>アザリアは天才だ。洞窟のどの地点に自分が跳ぶべきか、瞬時に読みとり転移する。真上や真下に跳ぶのとはわけが違う<
それはボルドフから聞いた若き日の師への賛辞だった。転移の術が最も難しいとされているのは、自分が跳ぶ先の位置を精確に指定できなければ使えるものでなかったからだが、そんな術を戦いの混乱の中で誰より素早く駆使できたアザリアに自分たちは何度も助けられた。アルデガンきっての剛の者の言葉ゆえ、それは自分の心に深く刻まれていたのだ。そしてそのアザリアは、もう複雑な呪文を唱えられない身であったにもかかわらず高さの把握を司る呪文を刈り込んだ上で転移の呪文を唱えきり、その亡骸はアルデガンのはるか上空に実体化して自分の目の前に墜落した。そして自分たちは師の腕に結ばれた書き付けにより、迫る破滅を知らされたのだ。
あのとき目撃した師アザリア最後の転移が、ボルドフの賛辞とあいまって1つのイメージを作り上げた。魔法陣を見つめる青い瞳が見開かれた。
もしやこの魔法陣は、部屋の間の移動を補助するものでは? 火の山の尽きぬ精霊力で困難を伴う術式を固定化し安全に目的地へ跳ぶための。そして常に魔力を発動させる関係上、より簡素な術ですむよう上下移動だけで行き来できる位置に部屋を配置しているのでは? そう考えれば、魔力が必ず通路に対し垂直に流れていることは説明がつく!
飛躍であることはわかっていた。亡き師が得意としていた転移の術を、自分がこの場の特殊なケースに性急に当てはめていることは。だがこの場の状況の説明を他に思いつけずにいる以上、これを手がかりにする以外には非効率な総当たりを回避することは望めない。地下に戻れば垂直の力の上下に魔法陣が刻まれているかも確かめられる。もしそれが当たっていれば、感覚を阻まれる場所を探ることで洞窟内の部屋の配置をおおまかに知ることもできるだろう。そのとき自分が目指すべきは、おそらくこの場所の真下のどこかに違いない!
魔法陣を見つめるその瞳から、迷いの色は消えていた。決意を秘めたまなざしが魔法陣から離れ、ゆっくりと天を仰いだ。岩の天井の彼方に広がる大空の彼方へと。光に拒まれ罪を重ねたこの身にもはや許されるはずのない、亡き師のいる高みへと。
「ありがとうございます。アザリア様」
呟くその言葉にこもる万感の思い。二度と見ることのかなわぬ青空の色をとどめた瞳の奥にゆらぐ切なげな翳り。次の瞬間踵を返し、振り切るように部屋から走り去る魔性に墜ちた娘。けれど身をも溶かすような闇をものともせず駆け下りてゆくリアの意識に、通路に列をなしてはめ込まれている水晶玉のことなどもはやとまる余地はなかった。
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一抱えもありそうな巨大な水晶玉の放つ光だけが闇を薄める寝室で、病んだ男の隻眼が薄闇を駆ける娘の虚像を食い入るように見つめていた。その身が人間でないことはすでに確信と化していたが、薬置き場の明るさが暴いた一連のしぐさや表情は驚くほど人間的なものだった。それゆえに男は娘の姿が赤みを帯びた闇に溶けた今も、その一挙一動から目を離せずにいたのだ。そんな男の念頭にもはや、獄舎に打ち捨てられた小娘のことは影も残っていなかった。




