第9章:忌まれた地にて その2
魔導師が奇妙な言葉を呟いたとたん、少年の声で悲鳴を上げる自分。肉の焦げる異臭の中、あの邪悪な声が嘲笑する。
「こんな目にあうと知りながら、逃げようとするのをやめぬ愚か者め。そんな足で逃げ切れるとでも思っていたのか。ならばこうしてやるまでだ!」
嗜虐的な喜色さえ浮かべつつ、さらなる呪文を唱える魔導師。長さも揃わぬ捻れた片足が、見えざる手によりさらに捻じ上げられる。激痛のあまり遠退くのをむりやり繋ぎとめた切れ切れの意識で、苦痛を代償に聴き取った呪文を呪咀で黒く塗り固められた心へと必死に刻むかつての自分。
得体のしれぬ研究の実験台として、そして単なる嗜虐性の的として苛まれ続けた歳月の中、少年期の終わりに近づいていたその身は与えられる怪しい薬や食べ物のせいかあちこちが歪み、村で射抜かれた右足は腐り落ちたくるぶしの代りに粗末な木の偽足がぞんざいに差し込まれていただけでなく、残りの手足のどれもが指の揃っていない状態になり果てていた。そしてつい一月前に、呪わしい薬の材料としてえぐり取られた右目の傷もまだ癒えぬ身に、唾棄すべき邪法師は残酷な私刑を加えているのだ。絶対的な優位に酔いしれ己が力を見せつけるようにして。自分がそうするよう仕組まれているなどと、露ほども疑うことのないままに。
この邪悪な男の手に落ちた当初は、毎日が恐怖の連続だった。ありとあらゆる苦痛に内外から襲われる我が身。次はどんな目にあわされるのかと怯えるしかなかった、子鼠よりも無力な自分。目の前で惨殺された父母の苦痛もかくやと思われる苦悶に晒され続ける自分は確実に歪み、やがて一度で死ぬことのできた二人を呪うしかないところへ追い込まれていったのだ。両親の死が平安な日々の喪失の象徴の座を失うことはなかったが、思慕であるべきものが呪咀に塗り換えられてゆくにつれ、幸せというものの実感が失われてゆくことを見せつけるかのように、自分は二人の、そして幼い妹や弟の面影さえも思い出せなくなっていったのだった。
だが、そんな果てしないとしか思えぬ年月の果てに、いつしか自分は振りかかるものが炎なのか見えざる爪なのか、判るようになっていた。そしてほどなく、相手が発する言葉が同じなら襲いくる苦痛も同じであることが、その理由であることに気づいたのだ。瞬間、黒き光が世界を照らし、分厚い恐怖に塗り込められてきた憎悪が声を発した。これぞ力への鍵。掴み取れ。戦えと!
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運命を変えたあの声が悪夢の彩る浅い眠りを破り、彼は寝台の上で身を起こす。責め手が病魔に代わったことで根深さを増した苦悶が全身を走るが、幽鬼のごとくやつれ果てた顔の中、消し難きものに支えられた眼光が残された目から、当てた仮面の眼窩を貫き炯々と迸る。
あの男は、イルジーは、最後まで自分を侮っていた。読み書きひとつできぬ農民の倅などに、高き知に至るすべはない。そういいながら、この身を苛む数々の実験から得られた結果をつぶさに書きとめたあの魔道書を、自分に見せびらかせたことも多々あったほどだ。確かにあそこに書かれていた文字は、最後まで読めぬままだった。だがその頃には、自分は呪文の構造をほとんど理解しつつあったのだ。無数に唱えられた呪文とそれがわが身に引き起こした忌まわしい結果の数々。その対応を読み解くことで文法はその全容を現わしつつあった。そしてなによりその本質が呪詛にほかならず、ひいては意志の力を顕現させる技こそその実体であるのだと、憎悪に染められた心は自分に深く知らしめたのだ。そして自分はそのことから、いくつかの条件が揃えば向けられた術に抵抗しその威力を軽減させることができることすら推論し、ついにその正しさを確かめるに至った。
そうして憎むべき仇敵を打ち破ったとき、だがあまりにも長く削られ続けた命の火はもはや消えようとしていた。永遠の生命をイルジーが探求していたことを既に知っていた自分にとって、仇敵が残した様々な薬を牢の中の囚人たちで試すことにためらいのあろうはずがなかった。水源の村から攫われた者たちはみな憎んでも憎みきれぬあの黒髪の民だったのだから。だが魔道書に記された知識の助けなしにいくら総当りで実験を繰り返しても、求める結果は得られなかった。耳から知識を得る術が閉ざされた今、立ちはだかる壁はあまりにも高かったのだ。そしてその上では死せるイルジーが自分を見下ろし、魔道書を見せびらかせて嘲笑っていた。
こんな夢をなぜ見たか、理由はわかっていた。迫る死に追い詰められ自暴自棄になって解き放った亡者どもが水源の村を襲ったあのとき、突如として吹き上がった巨大な火柱が魔術師の存在を告げたのだから。正体こそ知れずとも、その威力の高さは術者が只者でないことを窺わせるに足るものだった。そしてあの小娘が助け出されたことからすれば、明らかに相手は自分のすることを阻む意図を示している!
一度は死病の根深き苦悶に屈し、我が死すならこの世も滅びよとの思いで亡者たちを解き放った自分。せめて憎むべき黒髪の民の村の滅びを見届けて、なにもかも終わりにしようと思ったその瞬間、自分の前に謎の魔術師が、そして最後のいけにえが現れたのだ。それはついえつつあった生への意思の残り火を掻き立て、自分を阻もうとする何者かへの、ひいては理不尽な運命そのものへの最後の敵愾心を奮い立たせた。身を引きずるようにして床に描かれた魔法陣に踏み入り、虚空を睨み上げるや叫ぶ隻眼の邪法師!
「酷薄なる運命よ。俺はただ苛まれるためにだけ生まれたのではない! 呪うべきイルジーが求めていた不死の秘密は必ずや俺が解き明かす。奴がこの身で見出したものを、俺が手にしてなにが悪い。阻めるものなら阻んでみよ!」
そして唱える転移の呪文。たちまちその蝕まれた身は、大地の奥深く刻まれた無数の魔方陣の一つへと転じてゆく!
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夜明け前に突如として飛び込んできたその叫びに、やっと洞へ戻ったばかりのリアは驚愕のあまり中空を見上げた。忌まわしき力はもはや獲物の気配を感じておらず、この地にもう人は残っていないと思っていたから。
信じられぬ思いで、いつもは使うのを忌避しているその感覚をあえて研ぎ澄ます魔少女だったが、やはり獲物たる人間の存在は捉えられなかった。それでもこの地に誰かがいることを、もはや疑うことはできなかった。なぜならそれは、生来の能力によって感受した何者かの心の動きであり、転化したことで信じ難いほど強化されていたものの、感触そのものは彼女にとってあまりにもなじみ深いものだったから。
それは明らかに呪咀だった。これまでになくはっきりとしてはいたが、東のこの地を訪れて以来、自分の意識に働きかけて夢を見せてきたものに違いなかった。それが触れることもできそうなほどの強さで、自分の心に飛び込んできたのだ。
それが意味するものは、もはや明らかだった。しかも明るみに出たその真相は、自分が取り返しのつかぬ過ちを犯した可能性を示唆していた。華奢なその身を悪寒が走り、顔が色を失った。
その誰かはずっとここにいた。だから自分が近づくにつれて、より強く感じられるようになったのだ。にもかかわらず直接その気配を捉えられなかったのは距離が遠かったのではなく、どこか感覚の網が届かない所に相手がいたからではなかったか。では、それはどこか。
そう自問してきて、リアは気づいてしまったのだ。亡者たちが少女に迫ってきたあのとき、忌むべき感覚の網に突然姿を現したのは誰だったのか。切羽詰まった自分は馬に乗った旅人を思わずイメージしてしまったが、地下から姿を現した可能性もあるではないか。火の山の近くなら洞窟があっても不思議ではない。だがそうだとしたら、それは只者ではありえないと。
「そんな……っ」
わななく唇から漏れる、自分のものと思えぬ掠れた呻き。だがその間も仮借ない自問が、魔性と化した身に宿るその心に迫る。そもそもあの亡者たちはどこから来た? あれだけの数の亡者が身を潜める場所があるとすれば、かなりの規模の洞窟でなくてはならない。しかもそれは魔物の巣などではなく、何者かが禁断の技を人間に振るい、亡者となさしめた場所なのだ。ただの洞窟であるはずがない!
ならば自分はあの少女を、そんな場所へ行かせたのか。助けたつもりだったのに、よりによって村を滅ぼした張本人のところへ追いやってしまったのか。黒々とした憎しみを心に抱き、破滅を振りまく何者かの手中へと!
「ガルム、ガルムーっ!」
狂乱の態で呼ばわる声に応じた魔獣にしがみつくのももどかしく、白みゆく空になかば盲いつつ火の山めざして飛び立つリア。焼けつくような苦痛とともに薄れゆく視力が最後に捉えたのは、得体の知れぬ悪意を形にしたかのごとき噴煙の、黒々と迫り来る姿だった。




