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第1章:翳りの夜空

「魔物が東へ飛んでゆく。うんと高いところだが」


 巌のごとき巨漢が大剣の柄に手をかけ、低い声で告げた。その黒髪に混じる白い物に焚火の光が絡み、油断なく天を仰ぐ横顔を浮かび上がらせた。だが師に倣って夜空を見上げた赤毛の若者がいくら鳶色の目をこらしても、東へと足早に流れる群雲が半月をかすめては、仄かな月明かりを翳らせるのが見えるだけだった。ついに彼は師のいかつい横顔に視線を戻し、口を開いた。

「私にはなにも見えませんが」


 すると焚火の向こうから、白い神官着をまとった小柄な男が、高位呪文を記した羊皮紙の束から顔をあげた。

 壮年の終わり近い年齢だけは巨漢の戦士と同じだったが、それ以外の点では全く対照的な人物だった。頑健さが人の形を取ったような巨体に対し、長旅で肉が落ちたせいでいっそう特徴を欠く短躯、強靭な意志をうかがわせる造りの大きな巨漢の貌に対し、角の丸い温厚な面立ち。それらが醸し出す印象はおよそ威圧とは無縁なばかりか、赤毛の剣士が持つ若さゆえの精悍さからも遠いものだった。そんな神官のかけた言葉も、師から弟子へのものというより兄弟子のごとき口調だった。

「私たちはまだまだ修行が足りないな、アラード」

「グロス師父」


 緊張の色を隠せぬ赤毛の弟子に苦笑を返した呪文の師は、緑の瞳を巨漢に向けた。相手のごつい顔とは正反対の童顔を取り巻く色あせた金髪だけが、二人の同輩たる証だった。そうならではの気心の知れた調子で、司教グロスは巨躯の戦士に声をかけた。

「数はわかるか? ボルドフ」

「……いや、数匹どまりだとは思うが」

「そなたにつかめないほど遠くなら、わざわざこちらへ来たりはせんだろう?」

「気楽な奴だ。まあ、向きを変える様子がないのも確かだが」


 いいながらも剣の柄から離れた分厚い手が、焚火に新たな枝をくべた。野鴨の焼ける香ばしい匂いが煙とともに立ち昇った。

「やはりアルデガンから解き放たれたものでしょうか?」

「ああ。あの距離で気配を感じ取れる奴だ。飛竜ほどの図体ではなくても、そこそこ大きな魔獣だろう」

「本当にたいしたものだな。私もあやかりたいよ」

「おだててもこれはやらんぞ。それに」

 アラードが差し出したもも肉を受け取ると、ボルドフは言葉を継いだ。

「いくら相手を感じることができても、それだけではどうにもならんのだからな」


 その言葉に同い歳の司教がどう返したか、赤毛の若者はもはや聞いていなかった。ボルドフの言葉がはるかな高みを自分たちと同じ方角めざして飛んでゆくという魔物へと、思いをかりたててやまなかった。

 二百年前に稀代の高僧アールダが魔物たちを封じた洞窟を警護してきた城塞都市アルデガンが、戦を始めた人間の手で破られて六年余り。アルデガンの戦士だった三人は地上に解放された魔物の群れを追い続けてきた。そして彼らが人里離れた場所で少しづつ群れから離れてはなわばりを定め、安住していくのを確かめてきた。三人はそれらの情報を周辺の人々に伝え、知らずに近づくことのないよう警告してきたのだった。


 魔物たちの奇妙に秩序だった振る舞いは、ひとえに導き手の存在ゆえのことだった。吸血鬼の身へと堕とされながら人としての記憶と心を失わなかった少女が、転化により強化された感応力で魔物たちを束ね、大陸全土をさまよいつつも棲むべき所へ戻していったのだ。

 すべてがうまくいったわけではむろんなかった。大砂漠に迷い込み飢餓に晒された群れが踏み込んだ街を一夜にして全滅させたこともあった。解放された魔物にも人里を襲って三人に討たれたものがいくらかいた。それでもあれだけの魔物がもし散り散りに解放されていたら、戦の混乱の中比較を絶する被害が出たに相違なかった。いくつもの村や町が戦火に崩れ落ちるのを見ねばならず、我が身や恩人たちを襲う人間相手に何度も刃すら振るわねばならなかった三人の、それは疑問の余地なき確信だった。


 そんな体験を重ねるうち、若いアラードはむしろ人間のほうが恐ろしいのではとの思いを抱くことが増えていた。砂漠で飢えた記憶ゆえか、怪物たちはあえてなわばりの外へは出ようとしないものがほとんどで、身一つで生きてゆくだけで満たされている風情とさえ見えた。それにひきかえ、なぜ人間はかくも争わずにいられないのか。そう思い続けてきた赤毛の若者の心から、魔物の恐ろしさの実感はいつしか薄れ始めていたのだった。群れは既に形をなしておらず、そのせいで最後の一群の足取りを見失っていたものの、かつてのような脅威がもはや失われているのは明らかだったから。

 ゆえに東に向かう三人のこの旅も、もはや群れの足取りを直接追うものではなく、かつて捨て子だったグロスが拾われたラーダ教団の僧院を目ざすものとなっていた。大陸の西と東にはアールダすら討てなかった吸血鬼がいたという話が教団に秘密裏に伝えられており、大司教の腹心だったグロスもそのことを知っていたのだ。そして西にいるものが千古の森を統べる闇姫として伝えられている一方で、東のものはアールダさえ姿を見ることができなかったとされており、正体は謎のままだった。破邪の教団ラーダの司教として、グロスは自分たちが追ってきた魔物たちの情報と各地の僧院が保有する様々な情報を交換してきた。それらのうち大陸の最も東に位置するアーレスまであと数日。アールダがその最後の旅路の途上に立ち寄り祝福とともに改称したとの逸話を持つ東の拠点の間近にアラードたちはいたのだった。そんな自分たちのはるか上空を飛んでいっただけの姿も見えぬ魔物が心に落としていった思いがけぬ翳りに、赤毛の剣士は忘れかけていた脅威の感覚が背筋を這い登るのを覚えた。


 翼を持つものが天駆けるのは自然な姿のはずだった。空は人間の手の及ばぬ領域であり、彼らが高みに留まり続ける限り問題はないはずだった。にもかかわらず、アラードは平穏なはずのこの旅路の行く手になにかが待ち受けているとの確信めいた予感に、異様な身震いを禁じえなかった。



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「下に人間たちが。それも三人。もっと高く飛んで!」


 背にしがみついた華奢な少女の叫びに、人面の獅子のごとき魔獣が大きく羽ばたき、筋肉の塊のような黒い巨体が一気に高度を上げた。すると右横に女面の妖鳥がふわりと舞い上がってきた。雲一つない天空を満たす月の光がその虹色の羽毛に、うっすらと白銀の光沢を添えた。

「そんなに高く飛ばずともよい。他の者の目には、我らは群雲の一つとしか映らぬ」

「いえ、あなたの力を疑うわけじゃないの……」

 呟きは風に散り、空色の瞳が言葉にならなかった思いを込めて半月を見上げた。


 アルデガンが破れたあの六年前、吸血鬼の牙を受け魔性の身に堕ちた我が身。いや増すばかりの獲物の存在を感じる力が、闇を見通す視力でさえ捉えきれない地上に人間の存在を告げたとき、思わず見下ろした光景に胸がずきりと疼いたのだった。糸のように細い街道は斑なす荒野と森に寸断され辿ることもできず、行く手に横たわる連山の稜線すら銀光満ちる天蓋に圧せられていた。その途方もない高みに少女は、自分がいかに人間からかけ離れた存在に成り果てたかを見せつけられる思いがした。無駄なこととわかっていながら、逃れようとせずにいられなかったのだ。


 白髪の乙女が語った太古の出来事。野望に憑かれた一人の王が自ら身を堕としたばかりに滅びかけた世界。そしていま東の地に感じ取れるという異変に、かの至高の吸血鬼は魔性の力に伸びる人間の手の存在を示唆した。その力に運命を狂わされ人間を贄とせずにいられなくなった我が身。その苦しみゆえに少女は異変の正体を暴き、こんな苦しみが多くの者に及ぶのだけはくい止めなければとの思い一つで大陸を横断してきたのだった。死の寸前に転化を遂げてしまったせいで失うことがなかった人間としての記憶と、それが支える自我の命じるままに。自分を転化させた者もそんな苦しみに苛まれた果てに、全てを呪うしかないところへと追い詰められていたことを、決して忘れられないがゆえに。


 渇きはまだ昂まっていなかった。だが、本来の在り方を歪められた魂の軋みから解放されることはなかった。その名も心も失うことを許されなかった少女リアは、分厚い皮翼が巻き起こす風に淡い金髪を千々に乱されつつ、天空の彼方で半身を影に沈めた月を、胸の軋みに滲む目でただ見上げ続けるばかりだった。


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