エルゲネコンの細道(還)
「ええっとですねぇ、某如きの蜘蛛風情が、お二方の何やらお取り込み中っぽい会話に水を注すは、あまりにも憚られたので、今の今まで、ずっとこちらで控えさせて頂いていたのですが、どうにも手詰まりと云う風な感じだったので、発言させて貰いましても、宜しいで御座いまりまするで御座いましょうか?」
お前の、その喋り方はなんなんだよ!!
「うわー、うわー。今更、そのツッコミで御座いますか? で御座る」
そこまで長々と前口上を述べておいて、今更「発言させて貰いましても」とは、君、自分でも変だとは思わないのかい。
「ですよねー」
いや、そんなことよりも、どうしてお前の声が聞こえるんだ? お前、死んだのではなかったのか?
「確かに某、一回、死にましたが、そこは魔族ですから……。歴代の魔王様や英霊と邪神などの加護に縁って、物理的に死んだとしても、まぁ精神は消滅を免れると言いますか。ちゃんとした手順を踏めば、物理的にも復活できるので御座る次第で。それでも復活できないときは、できないのですが、状況的に割りとギリギリ目で、なんとか命を繋ぐことはできたので御座る」
君は今、何処にいるのだ。吾輩らには、声しか知覚できぬ。
「最後に某の依代となっていた、符の中に居ります。某を封印した救道者殿が、このような状態にあるので、拘束が半減され、このように某めの声をお伝えすることができる、と云った具合で御座りまする」
よく俺たちのアドレスが判ったな。でないと、対面していない場合はテレパス送れないだろ。
「そこの、墓狼様ですか? アセナ様で宜しいのでしょうか? そこのお方が、かなりオープンにしていますので、アセナで検索すれば、割と一発で……。ご自身を無制限に公開されているようです。それで、アセナ様にお憑かれになられている、ダレン殿? ズィン殿でしょうか? 救道者殿のアドレスも判明したので御座る」
「入られたところで、余程のものではない限り、吾輩をどうこうすることはできぬからな」
常軌を逸してるな……こいつら。人間の価値観では量れないところがある。と云うか、俺のアドレスも筒抜けなのかよ。ブロックしとけよ。本名割れまでしてるのかよ!
「それで、吾輩らの会話に割って入って来たのには、何かしらの理由があるのだろう。用件はなんだい」
「要するにお二方は、アレから逃れることができればよろしいので御座いましょう?」
何か策があるのか?
「このことをですね、某の上司筋に当たる、ラプラス様に相談しましたところ、エガリヴはムカつくがカトプトに義理立てしておいて損はない、と云うようなことを申されていたで御座る」
ラプラス……? つまり、この情況をどうにかできるのだな?
「できるかできないかと言われれば、確実とは行きませんが、できないってことはないと思われるで御座る」
やっぱり歯切れの悪い奴だな。具体的に、何をどうすればいいんだ?
「ああ、はいはい。えっとですね、ダレン殿にですね、一時的にゲスト・アカウントを発行するので、ラプラス様の庇護に入って頂きまして、それに依る肉体の完全な復元を行い、助力付きの神格武器を送らせて頂きます。けれどですね、この武器の仕様は部外秘ですので、操作の程は、不祥この某、ザイーフ・ウト・コイノークめが務めさせて頂きます。で御座る。そうしてですね、ラプラス様の方で、アレとダレン殿の縁切り処理を行うので、時間稼ぎのために、逃げ回って頂くと云う手筈で御座る」
「縁切りができる……と云うことは、そのラプラスは、鏡龍よりも上位の神なのか?」
「いえ。そう云う訳でもありませぬ……で御座る。ただ、相性の問題で御座いますね。ラプラス様は、卑怯卑劣の間道が大好きな質で御座りまするので、普通では無理と云うことでも、横車を押すような芸当ができるので御座います。アレが本気になって、アセナ様の結界がアレの結界に上書きされて無効化されても、抜け穴を探すことは容易な方なので御座る」
法の穴を突くのか。
「悪く言えば、無法者ですかねぇ。某ら魔族は、悪く言われてこそなんぼ、ってところもありますが……。結界なんぞ、ラプラス様の前では無意味なものですよ」
●
『神意の加護を開始します』
『鏡龍の加護を開始します』
『????の加護を開始』
『所属不明の神を確認。魔神判定。強制終――』
「黙るのはお前だ」
『神意の加護を終了します』
●
「器の再生が完了したで御座る。今から定着させるので、動かないで欲しいで御座る」
どっちにしろ動けないんだが、と言うが早いか、瞼に熱を感じた。恐る恐る目を開けてみると、光が差し込む。
「体は大丈夫でしょうか?」
……視界に、宙空に浮く剣が飛び込んできた。
「なんだこれ」
両刃の無柄剣。念動力に依って操る、全体が刀身で柄がない剣だ。人類史には、超常種の発生と時を同じくして登場している。現代に於いては、メイン・アームとしては時代遅れになっているが、サイド・アームとして採用されることは珍しくない。
これには柄はないがリカッソ――ブレードで刃が付けられていない部分が長く取られているので、手に持つことは可能な作りになっている。
「某ですよ、某。ザイーフ・ウト・コイノーニで御座る」
剣が喋った。……魔族って、本当になんでもありなんだな。
その様子だと大丈夫のようだね。……アレも、こちらに気が付いたようだ。今の内に、少しでも距離を稼いでおこう。
「おい、なんか憑いてるぞ?」
「某が関知するところではないで御座います」
くそう、ややこしくて敵わんな。しかし、悪態を吐いていても仕方あるまい。気を取り直して、吾輩は歩み出すことにした。
やめろ。勝手に体を動かすな。やめろ。自分で歩くからやめろ。
この調子じゃ、自分の意志や自我とはなんなのか疑いたくなってくるな。
●
コートに泥が跳ねる。泥濘が絡み付いて足を奪う。葦が行く手を淡く阻む。だが、それらは全く意に介さないとばかりに、俺の足は速かった。
元々、足は速い方だと自負していたが、それにしても速い。走る度に、行動が最適化されていくのが解る。これが仔狼のご利益なのか? まるで疾駆する獣だ。この調子だと、気が付いたら四足になっているかもしれないな。
「アレに対向するには、準備が必要ですね。エナジー、どれくらい残ってるで御座ります?」
移動し始めてから間もなく、宙を四方八方に飛び回る剣と化した蜘蛛が、そんなことを言った。
「雀の涙だ。防壁も張れん」
「でしたら、これをお使い下さいで御座る」
『何か添付されてるメールが送られて来たんですけどぉ……。チョー怪しいんですけどぉ……。本当に開く?』
「おい、これ大丈夫なんだろうな?」
見たところ、そう危険なものではなさそうだね。開けても好いぞ。
……お前に訊いてねぇよ。
「この状況で某が変なもの渡す訳がないでしょう……で御座る」
確かにそれもそうだな。開く。
だから勝手に開くな。
『え……? マジで? マジで開くの? ねぇ、それ本気なの? もう一回、よく考えた方が良いよ? 信頼できる送信元か確認した?』
確認したってか、目の前にいる奴だ。
開く。
『……知らないよ? マジで。それでも本当に開くの? なんか、これ、絶対に良くないのが入ってるって! 私の第六感がそう囁いて――』
うるせぇな。早く開けよ。
『もう知らないんだからねっ!』
添付物の中身を視ると、何かの術式が圧縮されたもののようだ。解凍。
『え? マジ? これ解凍しちゃうの?』
しつこい!!
解凍は一瞬で終了し、実行ファイルが本体と一緒になった術式が出てきた。それは良いのだが――。
『町此処椅子寺園』
「……この術式名、意味になってないぞ。これはなんだ?」
「文字化けしているんでしょうね、多分」
文字化け……? 概念を伝達するテレパス言語でか?
「代物が代物ですからねぇ、で御座る。けど、ラプラス様は差し上げるって仰ってましたよ。珍しい術式でも御座いませんし」
実行しても大丈夫なんだろうな? 今更だが心配になってきたぞ。危険なものではないと言っても、魔族の品だ。あまり使わない方が良さそうな気がする。いざってときにだけ頼ろう。
臆病だね。慎重と言え。けどね、そのいざは、直ぐそこにまで迫っているようだよ?
激しく鈍い音がした。飛来した黒い塊を、剣と化した蜘蛛が弾いた音だ。
「痛ッ!? ちょこれ何故か滅茶苦茶痛いで御座いますよ!! ラプラス様! なんでこんな余計な機能付けたで御座いますか!?」
それは初撃にしか過ぎなかった。
「おおわっ!?」
蜘蛛と共に叫ぶ。
向かってくる黒い礫は視界の八割を占める。蜘蛛もその全ては払い切れないようで、漏れた三割程が俺に直撃する寸でで視界から消えて行く。後退している暇がない。
……必死に躱している間に気付いたが、この黒い塊もテレパスの一種なんだな。巨大な悪意だ。あまりに大き過ぎて、今の今までテレパスだと思えなかったが。テレパスは情報そのものであり、そのやりとりは物質に変化を与えるものなので、高出力のテレパスは大きな質量にも変化を与えることができるとは聞いたことはあったが……身を以て経験したくはなかったな。必死とは正にこのこと。
しかし蜘蛛も必死だ。眼前で目紛るしく動き回るのは、絶え間なく発射される悪意の連続と、それを高速で弾いていく蜘蛛もとい剣……なのだろうが、俺の眼には、もはや残像ではない無数の黒を残像を作りながら往なす銀の陰にしか見えなかった。あまりの速さに、まるで現実感がない。これが他人事なら、どんなに良かったことだろう。
よく処理が追い付くなと思う。この用途なら、剣ではなく盾の形状をしていた方が良かったのではないだろうか。
「ちょ! 身が持たん! 身が持たんで御座る!! ダレン殿! 他人事のように構えてないで、早く例の物をお使い下さい!!」
こうなったら仕方ない。このままでは何が起ころうが死ぬだけだ。
『満地鯒寺危機名《メリーランド・フラッドヘッド・テンプル・クライシス・ネーム》を実行します』
『マジで? マジで実行するの? 管理者権限で実行しちゃうの?? 発行元が不明なんだけど、これヤバくない?』
さっきと名前が違うような気がするが、この際だから気のせいだってことにしよう。前の名前がどんなものだったかも覚えてないし。
しかし、マニュアルぐらいは付属して置いて欲しい。これでは、実行しても肝心の使い方が――
『瘴気濃度を測定……完了』
お?
『必要量確保に問題なし。対象検索……』
なんだ? なんとなく嫌な予感がするぞ。――悪意が耳元を掠めた。
『対象把握。召喚に移ります。対象から離れて下さい』
召喚? ちょっと待て。なんのことだ? 対象? 召喚に対象が必要なのか? まさか触媒か? 何を犠牲に何を召喚するつもりだ?!
ふと、嵐の中にチラリと『対象』の文字と、虚空を指す矢印が生えた。あまりにもざっくりしている。ユーザー設計がなってないぞ!!
喚くな、小心者。それよりも、あれに触らないよう気を付けろ。
そうして袖を引っ張られた先。瘴気が渦巻き、より濃さを増していた。ザイーフの術が効いているとは言え、少し気分が悪くなってきた程だ。だが、それも数秒の間に終わる。もはや塊となった瘴気の群は、先程の矢印に集中し始める。あまりの濃度に、その緊密だけ空間が歪んで見える。
『召喚完了。具現開始』
瘴気が葦を巻き込んで、形になっていく。見る見る間に葦の原型は消え失せ、別の何かへの變化していた。そして、その異業の塊が生物らしい姿を取ったと思うと――
伽亜阿有吁空呼《GYAAAAAAA》!!
唐突に金切り声を上げた。
絶叫は耳を詰り、鳥肌を抉る。あまりにも聞くに耐えず、思わず聴覚を閉じてしまいたくなった。だが、ぼんやりと、この悲痛な声を無視するのは罪なのではとも思ってしまう自分がいた。
その発信源の風体は、声よりかは悲壮ではなかったが、どちらにしても醜いとしか言えないものだ。元が葦だったからなのか、その身体は細っこく、まるで背骨に四肢が生えたような姿。大きな爪は乾燥しており、今にも割れそうだが、引っかかれれば一溜りもないだろう鋭さがある。目玉はギョロ目で、顔面は蛙か魚のようだったが、そのくせ牙は立派で、野薊の葉を思わせる。そして何より、その痩躯には似合わない、大きな羽を持っていた。
「これは……まさか悪魔!?」
通りで調律者が騒ぐ筈だ。なんてものを使わせやがる。
悪魔召喚。残留思念や瘴気に依る公害の最たる一例。
瘴気は残留思念の一種であると考えられているが、一定の空間には留まらず、自己を複製して拡散していく性質を持つ。この極めて能動的な思念は、情報を保有するもの全てに影響を与えるとされているが、具体的にどのような仕組みなのかは不明。影響の大小は、受け手の情報量に比例するとされているが、それだけでは説明が付かないことも多く、別の要因もあるのではと考えられている。だが、何れにしても詳細は不明だ。
その瘴気が与える影響を操作する術式が、さっき使用させられた術式だ。
基本的に、呼び出した悪魔がどのような行動を取るかは、呼び出してみなければ解らない。望んだ通りの悪魔を呼び出すなど、不可能なのである。にも関わらず試行を繰り返し、有用ものを総当りで見付けていく。その過程には、多くの屍が積み上げられていた。それは「なんか、できちゃったみたい」と云う、場当たり的な犯行。薬学や新妻じゃあるまいし、勘弁して欲しい。
なんてもの使わせやがる。
おそらく、不確定要素が少なく、歴史的に安全が裏打ちされたものを送って寄越したのだろうが、それでも事故が起こる可能性はある。瘴気が濃い空間であれば尚更だ。しかも、術式名が化けているものを使わせるなど……。
色々追求したいことは山積みだが、とりあえず命の危険はなさそうなので、それは後日にしよう。危険はないが……喧しくて仕方がない。
この、周囲へ無節操に響き渡り、それを知覚したもの全ての精神を掻き乱して、集中力を乱す喚声。これと似たようなものには覚えがある。
「赤子の泣き声かッ!」
確かに、この不協和音は、孤児が母を呼ぶ声に似ているかもしれない。……それよりも、ずっと邪悪だが。瘴気とは別の意味で厄介だな。
だが、それを厄介そうにしているのは、俺だけではなかった。
一本脚の行動が鈍っている?
先程から、他所事を考える余裕ができたぐらいに、こちらに放たれる黒いテレパスの勢いが減っている。序でに、サイーフの動きも鈍っている気がするが……。
「アレは超常そのもので御座いますから。赤子の泣き声のジャミング効果で、現実への干渉が鈍くなっているのでしょう……で御座る」
「お前は平気なのか?」
「平気な訳ないで御座る。出力上げないと気を失いそうで御座る」
だよな。
しかし、あの驚異的な速度と攻撃を削げるなら、俺にも打つ手はある。考慮すべきは二点。こちらも赤子の泣き声の影響を受けることと、エナジーは枯渇した状態であること。それらを踏まえ、使える術式は――
『潰を実行します』
情報量が少ない極めて簡易な術式なら、瘴気の影響も受けまい!
発力装置には、もうエナジーは残されていない。だが俺の身体は動いている。人間だって、エナジーの塊だ。
数本の葦を一遍に地面から引き千切り、それに潰を走らせる。身体にかかっている熱量の一部を、この葦に乗せて殴る。鈍ったアレになら、一撃を加えることぐらい訳ない。
「ザイーフ! 前は任せるぞ!!」
「普通そこは後ろでは御座らんか?!」
間隙ができたとは云え、元から尋常ならざる速度でテレパスを飛ばしていたのだ。今でも、視界には常に十数の黒が映り込み、それらはギリギリで体を掠めて去って行く。
俺は赤黒い嵐の中をザイーフを盾にして数歩突き進み、その僅かな隙間から葦の束を差し込んだ。
先端から葦が破裂する。直後、髪の毛に何かが掠ったのを感じた。幾らでも生えてくるから構わん。
アレは……少し揺らいだ程度か。流石に葦ではダメージが通らないな。葦の方が耐えられない。鉄材でもあれば……。
一筋の銀色が、眼前の宙空を泳いだ。
「御座る?」
あるじゃないか、金属。
『潰を実行します』
「ゑ? あのちょ何を!?」
この間合なら、盾など必要ない!
●
ごヴぁん。擬音で云えば、そんな音だ。酷く間抜けな音だった。
「魔神とは云え、神の助力を受けた武器が折れることなんてあるのか?」
俺は現在、岩場の陰に隠れている。
「形あるもの、何れは朽ちる運命で御座る。故に、折れない剣など存在しないので御座る」
「そんな使い古された命題はいい。自己修復しないのか?」
「そんな物理法則を無視するようなこと……」
「お前が言うか」
剣で殴り付けた成果は想像以上だった。ごヴぁんと音を立ててザイーフが真っ二つに折れるぐらいに。そのお陰でアレも吹き飛んで、一時的に消滅したが。
さて、ここで貴重な盾を失った俺は、こうしてはいられんと転がるように走り出す。
「縁切りはまだ完了しないのか?」
「そう簡単にできるものでは御座いませんからねぇ。普通なら、数年はかかる処理ですし。ラプラス様だからこそ、現実的な対処法として視野に入りますが、それでも丸一日はかかるで御座る」
そんなにか……。参ったな。
折れても活動に支障はないらしいが、やはり盾としての有用性は下がる。このままでは発見されるだろうし、別の手段を考えなければ。
懐に入っているものは使えないのか? それも超常の品だろ?
……懐? なんだと思いながら引っ張り出すと、見覚えのある塊が出てきた。既成品に独自のデコレーションを施した小箱。クリスのものだ。
コートの下にも厚着していた上に、普段は内ポケットなんて使わないからな。にしても、気付かなかったのは間抜けかもしれない。そもそも、こんなものいつ入れられたのか?
『救道者に取って、聖水の携帯は義務です。身を守る数少ない手段ですから』
箱を開けると、オートリス教師の言葉が勝手にリピートされた。あいつにしては、粋な仕掛けだと思う、少し嫌味だが。……その中には、掌に収めると簡単に隠れてしまう小瓶が12本。
基本聖水12種セット。
生憎、小瓶は一つを残して他の全て割れていたが、それでも残っていたのが奇跡と言える。流石はノダイ軍が誇るサファイア・ガラス。軍属の救道者が、戦場でも聖水を持ち歩くことを可能にした逸品だ。
エガリヴ教に於ける聖別とは、そのものを浮世から引き離す行為だ。聖別されたものは、俗世のものと交わることはなくなり、認知され難くなる。いや逆か? 俗世が聖別されたものを避けるのか? まぁどっちでも良い。身も蓋もない技術的な話をしてしまえば、これは導具を用いた幻術――意識誘導術式の一種だ。あまり強力なものではなく、戦場で見込める効果は、精々スナイパーに狙われる順番が後ろになるぐらいしかない。他の宗教圏では、これと似たようなものにお清めなどがある。
残っていた聖水は、人外対策として開発されたものだが……まさかアレにも効くとはな。物体を認識するメカニズムは、通り一遍の人外と遜色ないらしい。
普通なら、聖別した岩など目眩ましとしては不十分だろう。あの黒いテレパスを喰らえば一撃で木っ端微塵だ。だが、そこは悪魔が良い感じでデコイになっている。確かに、あれだけ消魂しく叫び続けられれば、かなり鬱陶しいだろう。俺も鬱陶しい。
しかし……それも、やや収まって来ているような?
何事かと思い陰から覗き見ると、悪魔が黒い雨に打たれて弱り始めていた。普通は攻撃されれば、より叫ぶと思うが……そこは人とは常識が異なる存在だからなのか? なんて思案している場合ではない。
「ザイーフ、動けるか?」
「辛うじて」
「あの悪魔を援護してやってくれ。あれが沈黙すると、こっちに火の粉が降りかかる」
「えー、あの悪魔の近くだと、本気が出せないと言いますか、気分が悪く――」
「言ってる場合か?」
「ですよねー」
と言う声のあと、折れた切っ先の方が飛んで行く。……そっちかよ。
「これ、思ったよりも便利ですね。結果的にで御座るけども」
そうかい。それは俺も喜ばしいよ。
が、その動きを見ると、その気持ちも失せた。その金属は、悪魔に降りかかる攻撃を弾こうとはしているものの、あっちへふらふら、こっちへふらふら。悪魔の動きと併せて見ると、まるで酔いどれのタンゴ。偶に紛れ当たりするだけで、お世辞にも援護にはなっていない。
「あー、臭い。人間臭いなぁ」
そろそろ、こっちに気付きそうだな。
何か手段は……。俺は、足元に転がっている拳大の礫に目をやった。
「ダレン殿。あれには物理で攻めても効果は薄いで御座る。呪術とか幻術を使った方が、エコの観点から見ても効率的で御座います。それに、某も痛くないで御座る!」
「そう言われても、俺には呪術の素養がない」
龍術式は、そう言った分野が発達しなかった術式体系だ。対龍術になると、その限りではないのだが、その分野は履修しなかったからな。
「何を言ってるで御座る。呪術って、要は相手に情報を与えて、物理的なところにまで干渉してやろうって術で御座いますよ? その基本原理はテレパシーと同じで御座います。使えない訳がないので御座います!」
理屈は分かるが、それとこれとは話が違う。原理が解っていても、自転車に乗れない人は多いだろ。そう云うことだ。つまり臆病なのだな。余計なお世話だ。
けれど、このままでは手詰まりになる。打てる手立てがあるなら縋りたいが、猫や藁どころか神の助力も届かない渓間で、何に縋れと。
「なら、魔神に縋るのは如何か? 私が手を貸してやろう」
その声と共に、何かが這い寄って来た。精神の外郭を無数の歯朶が這い、覆って行くような……。それは中にまでは入って来ず、ぢっとこちらを窺っている。それに対して、俺は恐怖で手足が強張る半面、心地好さに身を委ねてしまいそうになる。
この感覚……神か!?
「ラプラス様……?」
蜘蛛が慄くように呟いた。
「これが世にも珍しいカトプトの仔か? 造りは……あまりその他のヒトと変わりないな。面白味に欠ける。妙な不純物が紛れているようだが、気にする程のものではないだろう」
魔神ラプラス。噂程度には聞いたことがある。本来は魔族だけに与する神ではないものの、エガリヴと激しく対立したことから、敵の敵は味方の理屈で、魔族に強く肩入れしている神の一体。また、元来から人を魔に導く術に通じ、魔族の技術革新にも大きく寄与したことから、魔神との誹りを受けることになった。鏡龍とは大きく離れた性質を持っているため親しくはないが、互いに立場が似ていることもあってか、対立はしていない。
昨今、俺がエガリヴとの道を模索していることから、鏡龍とエガリヴの関係が近くなったこともあって、ラプラス陣営に属する神らは、気が気でなかったらしいが……。
ラプラスからは、そんな印象は全く感じなかった。実直で堂々と、しかし何処か強かで大胆。とても計算高く、地道な声をしていた。神らしい神。とてもではないが、奇策や間道に精通しているようには思えない。そう思わせることも、策略の一環なのかもしれないが……。
「手を貸すとは、どう云う意味だい?」
「不純物と愉快に話す気はないが、答えてやろう。本体は我が威光を前にして口が利けんようだしな。――言葉の通りの意味だ。此奴に呪術の手解きをしてやる」
「あの、できるだけ早くして下しあ。もう身が持たんで御座る! てか悪魔も持たんみたいで御座る!!」
歯朶が、膜の隙間を縫って染み込んで来る。
器から自分の意識を外してみろ。認識できる全ての物体や事象は己の手足であると、錯誤すればいい。そして、我が物とした手足を槍で突き刺してしまえ。
己の心が、己のものではない気がしてきた。元より、自分の心を自由に操れたことは一度もないが……考えてもいないことが脳裏を過ぎるのは、流石にどうかしている。
「少し手を伸ばしただけだ。乗っ取る気など、更々ない」
……これ、誰が何処から喋っているんだ?
「ほら、あんよが上手は床上手。引っ張ってやるからやってみろ」
やめんか! 色んな意味でやめろ!
「騒ぐな、不純物」
「瘴気が濃い場所で呪術を使うと、ダレン殿が危ないのでは? 並みの魔族でも――」
「呑まれて楽になるか、苦しいが死なんかもしれない。選ぶとすれば、お前はどちらを選ぶ?」
普通は後者だな。そう思うのなら、私の導きを受け入れろ。
激痛と共に我執が満たされたのを理解した。そしてアレが視える。
それが実像と呼べるかは判らないし、もしかすれば程遠いものかもしれない。けれど、あのとき出遭った冷たさや熱気を帯びた眼光ではない。淀んだ渦の中に、何か希望のような痼りがある。これが、アレの原動力で、働く意味なのか?
これ以上は目を凝らしても視えない。瞳が圧迫されて痛い。瘴気が意識を蝕んでいく。少し、あと少しで何かを把握できると云うのに、思考が渦に巻き込まれる。まるで呑まれる寸前。だが、確かに己を自覚できている。しかし、このままでは器の方が保たない。
「言わんこっちゃないで御座る!」
「黙っていろ! もう少しだ。もう少しで奴の闇が手に入る……!!」
心識が鈍色で染まっていくのが解る。
なるほど、魔に導くと言う訳だ。自身の我どころか、他の我を知って、それに手を加えてしまおうなんて、平穏な世界で許される通りがない。言葉には他を動かす力があるが、その悪用もいいところ。
そう云う意味では、赤子の泣き声も広義の呪術か。確かに、親は子供に取って一種の呪いなのかもしれない。それは子に取っての親も同様だが……。要は程度問題なんだろうな。そこへ来て、この呪術と呼ばれる叫びは、節操がないにも程がある。今まで「なんとなく」で避けてきた技術だったが、この激甚さを無意識に恐れていたのだろう。まるで悪魔めいてるな。
「余計な考えで気を散らすな。術が鈍る」
こうやって自己観察でもしないと、瘴気に呑まれる。無我は結構だが、物理的に無に還りたくはない。
「厳しいのは、ダレン殿だけではないようで御座います! 某と、呼び出したジャバウォック型がピンチで御座る!!」
そして悪魔は、段々と無口になった。到頭、デコイが沈黙したのだ。




