夜が解ける時間
一夜明けた。昨夜のことは忘れたい。盆地地形のこの地は、やたらと底冷えしたが、建物の中で寝具に包まっていたので、寒さに眠りが妨げられることはなかった。昨夜のことは忘れたい。下手な気温調整術式が働いているよりも、こちらの方がメリハリがあって、健康的かもしれない。昨夜のことは忘れたい。それにしても、とても長閑で気持ちの良い朝だ。忘れたいこと程、サブリミナる。
エピソード記憶ディレクトリから5/18/1887.epsを呼び出し、記憶編集術式――思ひ出エディタを使って昨夜の時間帯を切り取り、その部分を熟睡した記憶に書き換え、切り取った方をゴミ箱に打ち込む。しかし、救道者に配布されている対蟲術式――調和者が、不正な記憶の改竄を挙動で察知し、記憶を元に戻した。
普段は世話になっている調和者に悪態を吐きながら、それをオフろうとすると、今度は『はぁ? 管理者出せやゴラァ』と云うテキストを吐かれる。管理者は俺だ……!! 管理者としてオフると『だから管理者呼べゆーとるやろ? 自分、わてに喧嘩売ってんの?』と云うテキストを吐かれる。
何がいけないんだと、憤りながら調べると、いつの間にか、調和者の管理者がエガリヴになっていた。もはやエガリヴは、蟲と同じだな、などと不敬なことを思いながら管理者の設定変更を行おうとすると、調和者が『自分さっきからなんやねん。出るとこ出たるで?』と、テキストを吐いた。コンポーネント破戒してやろうかな。
直後、メーラーが『手紙が届きました。重要なお知らせっぽいです。多分、かなり急を要します。お偉方が怒です』と云う、長々としたテキストを吐き出した。俺は今それどころではない。だが、メーラーが勝手に起動し、お手紙を表示する。
エガリヴ聖教会ドメインからだ。
『嫌なことを安易に忘れようとしてはなりません。辛いことと向き合わなければ、大成できませんよ。さぁ、この幸福になれる鏡を買いなさい』
神話の一文。確か「金持ちな占術」と云う話に出て来るもので、憲兵から男に間違われたウツダシノスと云う女が、首を吊るために他人の飼い犬から引き綱を奪おうとする場面で、夜中の街を徘徊する老婆な占術師からかけられた言葉が、これだ。占術の危険性を説いた話らしい。この占術師の言葉と語り口が軽妙であるにも関わらず、重みがあると評判で、数々の喜劇や悲劇として、舞台や演劇になっている。
俺は犬の引き綱が欲しくなった。
「ダレンさん、ダレンさん。朝食の準備が整いました。もしかして、まだお休みしてますか? もう、そろそろ起きた方が好いと思いますよ?」
いくら現世に嫌気が差しても、その生が無為なものであったとしても、腹は減る。昨夜のことは、仕方のない、不幸な事件だったのだ。そもそも、俺は何も悪いことは、全くしていない。うん。そうだ。俺は悪くない。だからこのことで、もう悩む必要なんか、ないんだ。
「着替えたら直ぐに行く」
俺は、そう自分を励ましてから、娘に返事をした。
「分かりました。今朝のメニューは、蒸かしたジャガイモと、焼いた鮒に、自家製のレモン・ソースをかけてみました。それでは、お待ちしています」
ここ、レモンもあるんだな。
「ところで、犬の引き綱はないか?」
「……はい?」
娘が変な声を出した。当然の疑問である。
「狼を捕らえるのに使えないかと思ってな」
「えっと、用意しましょうか?」
「いや、冗談だ」
「はぁ……?」
●
朝食の最中。
俺は兼ねてより、気になっていたことを、幾つか訊ねることにした。まずは、どうでも良い世間話で、場を和ませよう。
「この里には眼鏡をかけている人がいないよな。皆、目が良いのか?」
「メガネ……?」
娘は一瞬、何かを思い出そうとする仕草を取った。そしてパッと顔を明るくし、嬉しそうに――
「ああ! あの、目が四つある人のことですね?」
……なんだって?
「流石に、この里にはそんな人はいませんよ。いやぁ~、外の世界には、凄い人がいるんですねって――」
「ちょっと待て。まさか、眼鏡を知らないのか?」
「いえ、何度かお見かけしたことはありますよ。私がまだ、こんなにちっちゃいときから、偶にエルゲネコンにお見えになる方に、メガネさんがいます」
娘が手を机の下にやって、ひらひらさせた……ようだ。娘の正面に座っている俺には、その様子を目視できない。透視を使えば普通に見れるだろうが、こんなことで態々《わざわざ》、申請を出すのも面倒だ。
「ああ……そうか」
だから俺は、納得したような振りをして、話を合わせる。
そんな俺に反して、黒髪の娘は、嬉々として言葉を続ける。
「農作とか、色んなことを教えて下さる方なんですよ。凄いですよね、メガネさん! 一体どうやって、物を見ているんでしょう」
多分、レンズ越しだと思う。
「ダレンさんは、メガネさんにお会いになったことはありますか?」
「友人にいる」
世話になっている教師にも何人かいるけどな。その内の一人は、貴女も知っている人だと思います。野菜作りが好きな人なんで。
「ええ!? 凄い!!」
凄くないよ。
「どんな方なんですか? 私、興味あります」
「他に類を見ない奇人で、人間とは思えない記憶力を持っている。通称、緑眼鏡の移動図書館だ」
「うわー!! やっぱりメガネさんって、普通の人とは違うんですね!」
無邪気に感嘆の声を挙げる娘を見て、少し罪悪感が湧いた。
あいつが特殊過ぎるだけだがな……。
「凄いなぁ、メガネさん。もう一度見てみたいなぁ……」
この娘に伊達眼鏡を贈ったら、どんなことになるだろうか。少し、興味が湧いた。直ぐに気付くように、手鏡もセットで贈ってやろう。
さて、こんなどうでもいいことは――個人的な価値観からすれば重要なことだが――これくらいにしておいて……
「もう一つ、質問してもいいか?」
「はい。私に答えることができるものなら」
重要な案件についての質問に入ろう。
「君の他に、墓狼を目撃した人がいないのは、本当か?」
「はい。みんなが、嘘を吐いていなければ」
賢明な答えだな。しかし、この娘らしくない答えだ。これは、誰かから吹き込まれているようだ。
「何故だ?」
「え?」
質問の意味が分からなかったらしい。
「何故、君しか見たことがないんだ?」
そして何故、見たこともないものを、墓狼様なんて呼ぶんだ? ……とまでは、言わなかった。
黒髪の娘は、答えに窮していた。解らないなら、素直に解らないと述べれば良い。それで十分、応えたことにはなるのだから。にも関わらず窮するのは、何かを知っているのだろう。質問の答え、そのものを知らずとも、解答に繋がる切欠や手掛りは。
賢明な指南者も、この質問を予期できなかったのか。大方、目撃したときの様子や状況について、訊かれるものだとでも思っていたのだろう。しかし、隠し事をしている人間に、馬鹿正直な質問を向ける程、俺は正直な人間ではない。
「分かりま――」
「何か思い当たることがあるみたいだな」
俺は逃げ道を塞いだ。
「少しでも関係がありそうなことなら、なんでも構わない。俺が真っ当に任を果たすために、必要なことなんだ。今は、君だけが頼りだ」
袋小路に追い詰めてみた。
娘は黙っている。もう一息。ちょっとだけ、彼女の背中を押してあげよう。
「昨夜の話だがな」
「はい?」
俺が唐突に話題を変えたため、娘は要旨を掴みかねている。しかし俺は、考える間も与えず、次の言葉を発した。
「エガリヴ聖教に帰正せずとも、教育を受ける方法はある」
娘の髪が、びくっと揺れた。
「救導院には、異教徒枠と云うものがあってな、実を言うと、俺もそれなんだ。希望者も少ないため、常に定員割れを起こしているから、保証人さえいれば入院は容易い。俺が取り成そう。何かしら条件を提示されるかもしれないが、大したものは必要ないだろう」
少し、急かし過ぎたか。相手の調子に合わせて言葉を紡ぐべきだった。今更、功を焦って警戒されるのは馬鹿らしい。落ち着こう。地雷を踏んだ訳もでなし、まだやり直しは効く筈だ。
しかし俺の焦りは、相手にも確り伝播していたらしい。
「私、そんな、自分の身勝手で……」
この反応は、彼女の性格から予測できていた。この黒髪は、自分よりも周囲を尊重することで、自身に価値を見出している。ある種の依存。自分には何もないと云う思い込み。そして周囲の人間も、それに薄々気付きながら、彼女を利用している。昨夜のことも含め、俺の世話役に任ぜられたのは、そう云う都合も無関係ではないだろう。
……別に、それが悪いことだとは思わない。個人の幸せは、その個人にしか分からないから……とまでは言わない。類推することは可能だからだ。しかし価値観は、その個人にしか計れない。現状から脱却する努力は、維持する努力よりも燃費が悪い。誰だって、効率良く生きたいのだ。変化の乏しい退屈な人生も、また人生なのである。激動が価値ある生き方だとは限らない。小さく収まる人間がいるからこそ、社会の安定は築かれる。
「君が望みを叶えることは、エルゲネコンの人々への裏切りにはならない。何故ならエガリヴは、自らと異なるものを受け入れるだけの度量と余裕があるからだ。エルゲネコンは、エルゲネコンのままだ」
それをエルゲネコンが望む限り、な。
……これも、神殺しの片棒を担いていることになるのだろうか? 甘言を駆使するのも、また悪徳か。いや、悪魔の計略なんだろうな。これが悪魔の所業だと、人々が気付き始めた頃には、魂は薄れ、もう手遅れになっている類の……。この悪魔は、エガリヴとタルナドの、どちらに住み着いているものなのか。
「こんな方法で君を説得するのは、卑怯なことだと分かっている。しかし、そうしてでも、俺は事を解決しなければならないんだ」
でなければ、タルナドの利にならないからな。イーゲルストレームと云うエガリヴの関門は、俺に犬真似を求めている。それで狼に敵えば良いけどな……。
俺の期待を持たせる言葉に、娘には明らかに、動揺と迷いが生じていた。また二言三言、言葉が口から出そうになる。堪えよう。彼女は、何かを考えている。喋り出すのは、それを聞いてからでも遅くはない。俺は彼女からの信頼を得ている筈だ。
「……私以外にも、彼女を目撃した人は、います」
●
やはりそうか。いくらなんでも、不自然だと思っていた。
見えないものを崇めるのは、別に珍しいことではない。寧ろ、見えないからこそ崇めるのだ。実態が把握できていないからこそ、神秘性を感じられると云うもの。それが全て勘違いであると証明する手立ては、人類にはないのだから。また、それらが勘違いであると証明するのは、野暮でもある。
だが隠すとなると、また話は別になる。信仰は見えないため、隠す必要はない。しかし、信仰の証は隠す必要があるのだ。
魂は行動に宿るが、どのみち、それは客観視できない。自身のために、自身の信仰を保証する何かが必要になる。他者と共有するためにも、証は重要だ。
墓狼は実体を持っている。
それが人ならざるものなのか、人の皮を被っているのか、人なのか、どうなのかは判らない。しかし、遺体を食む何かがいるのは明白だ。それが遺体の処理方法のことを指しているのか、実際に遺体を食む人外がいるのかは判らない。いや、判らなかったと言うべきか……。
俺は固唾を飲んだ。
●
彼女が生きている人間に近付くことは、殆どありません。けど、いくつか例外があります。
これは聞いた話なんですけど、余所からこの山に、狩りに来ていた人がいたらしいんです。それも、スポーツとしての狩りで、駆除や食肉を求めてのものではありませんでした。
墓狼様は、狩りを否定する気はありません。そう云った遊びもまた、生物としての当たり前で純粋な行為だからだと言っていました。けど、それは相手の……それも全体に影響を与えない規模だからこそ言える話であって、完全に滅ぼすことは好しとはしていません。知恵あるものは、そのことを考えることができるのだから、考えることができる側が、配慮すべきなのだと。
その人は、配慮できる知恵を持ちながら、利ではない欲のために獣を狩っていました。それも、弱い獣を。知恵は道具と同じで、使わなければ持っていないのと同じです。だから、墓狼様は出て来たんだと思います。
もう一つ、別の人の話です。
一匹の大きな蟹が現れたんです。どんな蟹だったかは聞かないで下さい。私も、それについて話すことはできないんです。その蟹は、言葉を喋る蟹で、私たちにある要求をして来ました。娘を寄越せと言うんです。あと、ここで採れたものから得た利益も渡せと言いました。流石に、全て寄越せとは言いませんでしたが、それでも、かなりの要求でした。
困り果てたお祖母ちゃんたちは、とある人に相談したんです。短い白髪のお爺様で、謙虚な人です。けれど、とても色々なことを知っている方で、よくお世話になっていたんですよ。そうしたら、その方が、そう云う問題に詳しい人がいるから、今度こちらに寄越すと言いました。
よくる日、鷲鼻の人が来ました。鷲鼻の人は大きな蟹のことを、よく知っている様子でした。その人は、私たちに難しいことを散々喋ったあと、一人で黙って山の中に入って行きました。このときは全く意味が……今でも、全く意味が分からないんですけど、その日の内に山から降りて来た鷲鼻の人は、蟹の言われた通りに、黙って娘を差し出せと言うのです。勿論、承服できる訳がありません。娘も財産も差し出したくないから、相談したと云うのに、これを黙って差し出せとは、全く本末転倒だと。けれど、鷲鼻の人は、そう云う私たちの言葉は予測済みだったようで、その直ぐ後に、こう続けたのです。私たちのことは、この大空が見守っている。喩え、空から青みが失せたとしても、その向こう側には、必ず青い空が広がっていると。
このとき、きっとこの方は、墓狼様にお会いになられたのだと、お祖母ちゃんたちは確信したみたいです。私には、意味が分かりませんけど。
その次に、この里に大きな蟹が訪れたとき、言われた通りに、娘が蟹に差し出されました。けど蟹は、何かに怯えた顔をして、夜も遅い内に、慌てて谷を下って帰ってしまいました。
……私が墓狼様を間近で見たのは、山で迷ったときのことでした。うっかりしていたんだと思います。誰がうっかりしていたのかは、今でも分かりません。でも多分、みんなうっかりしていたんだと思います。妙な……鉄が焦げるような臭いが、鼻の奥をツンと突いたんです。それで、ぼーっとしてしまって。春先とか、そう云うことありませんか? 鼻の奥で、血が滲んでいるような感じです。
それで、ふと気が付くと、道が分からなくなっていたんです。と云うか、道に立っていなくて、足元には、よく分からない雑草が植わっていました。けど、そのときは、まだあまり怖くはなかったんです。実感がなかったんでしょうね。何も知らない子供でしたから。普通、親の姿が見えなくなったら、それだけで不安になりそうなものですけど……。
怖かったのは、それからです。
変な声が聞こえて来たんですよ。風音なのかテレパスなのか、今となっては、あんまり覚えていないんですけど、それが声と似通っていたのは覚えています。意味は分からなかったんですけど、それを聞いたら無性に怖くなっちゃって。涙がポロポロ出て、泣き声も出さず、ただじっと突っ立っていることしかできませんでした。人って、あんな風に泣くことがあるもんなんですね。今でも信じられません。
で、引っ張られました。何に引っ張られたのかは、分かりません。覚えていないのではなくて、その当時から、何に引っ張られたのか分かりませんでした。抵抗とか、そう云うことをしている暇なんてなくて、そもそも踏ん張ろうと考える間もありませんでしたね。
それからは、もう走りました。いつの間にか起き上がっていて……その前に、いつの間にか倒れていたんですよね、私。いつ倒れたのかすら、分からなかったんですけど。それで起き上がって、反射的に駆け出していました。無我夢中に、ただ走れーって感じで。多分、叫び声も上げていたと思います。そうなんですよね。そのときには、声も出せるようになっていました。
それで、真っ暗な木々の間を、こう命懸けで走っていると、チラチラ見えるんですよ。青白いの何かが。この辺には、そうした妖精の類はいないことを知っていたので、もう焦りまくりましたね。これは物怪か何かだろうって。
その青白いの、無数の陰が私を取り囲みましてね、どんどん急かしてくるんですよ。走れ、走れって。いや、実際に、その陰がそう喋っていた訳ではないんですけど、そんな風に感じたんですよね。幼い時分の私は。
そこで、彼女を見ました。
走り疲れて来たところだったんですよ、丁度。そもそも子供の足ですから、そんなに走れる訳ないんですけど、必死だったのと怖さで、山を越えて東側にまで行っちゃったんじゃないかと思っていましたしね。きっと、顔もぐちゃぐちゃで、見れたもんじゃなかったと思います。
星みたいに、綺麗な瞳でした。いえ、星よりも綺麗だったと思います。空色の毛を靡かせてて……。今思うと、おかしいんですよね。なんで彼女なのか。凄く大きくて暖かかったのは覚えているんですけど、凄く綺麗な細身の女性に見えたんですよ、そのときは。
場所ですか?
ほら、ダレンさんが昨夜に仰っていた、古道の近くです。あそこまで行けば、里の明かりが見えるので、それで帰って来られました。
昨夜、あの古道のことがダレンさんの口から出たときは、焦りましたね。
「そんな様子は、微塵にも感じなかったが……」
いやぁ、あのときのダレンさん、顰めっ面でトンチンカンなご様子だったので、これは大丈夫かなと……。あ、ごめんなさい。
「なんで謝るんだ? 俺は気など悪くしていない」
いや……とても、そうには。
●
朝食を終えると、ダレンさんは「美味しかったよ」と表情を固くしたまま告げ、玄関へと向かいました。この人は感情を表に出さないように心がける人だけど、不機嫌が顔に出やすい。困ったものである。言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってくれた方が、こちらとしても余計な気を回さなくて済むし、互いのためだと思う。
彼を見送るため、その後をてこてこと付いて行く。さて、どうしようか。
ふと、玄関の戸棚に、あれがあったことを思い出す。
二種類の鉱物。鉄に燧石を打ち付け火花を飛ばし、火口に着火させる際に用いるものです。
これで機嫌が直るかどうかは分からないけど、やってみよう。昨日の話し振りから考えると、怒ったりはしないと思う。……多分。
「ダレンさん、ダレンさん」
何かに怯えたように、ダレンさんの背中がビクついた。何か悪いことをしたでしょうか。心当たりがありません。
「……なんだ? これ以上の持て成しは不要だぞ」
不機嫌ではなさそうですが、その代わり、何故か警戒されている気がする。何故だろう? まぁ、いいや。深く考えても、きっと分からないだろう。この人、よく分からない人だし。救道者って、変な人が多いと思う。高位の術者は、みんな変人だって言うし。私の気のせいなのかもしれないし。
声を掛けたのは私なのだから、ここで考えに耽って会話を途切れさせるのは、もっと変だ。
『今でこそ、エガリヴの教義や儀式は、画一的なものになっているが、それらは様々な文化や風習、その民族独自の教えを取り入れながら、発展して来たものだ』
昨晩のダレンさんの発言をログから探して、リピートさせた。
依然、ダレンさんは身構えたままです。それに加え、顔に疑問符を浮かべています。どうやら私の考えが、あまりよく伝わっていないようです。とても残念な鈍チンです。
「そうやってエガリヴが発展した来たのなら、こう云うのも、ありですかね? 呪いの一種なんですけど」
私は構わず、カチカチとやって火花を飛ばしてみます。言葉よりもやってみた方が、意図は伝わりやすいでしょう。
「厄除けの意味があるんですけど……。形式にないことでも、それが誰かのために……誰かを想ってのことなら、マナーやルールに抵触はしないってことですよね?」
合点がいったのか、ダレンさんの緊張が顔から消えたのが見えた。
●
「迷惑にならなければな。善意でも、全てが許容されるとは限らない」
「……迷惑でしたか?」
「いや、寧ろ良いんじゃないか? 意味や由来は分からないが、だからこそ、とても興味深い」
エガリヴに於いて、火は叡智と文明の象徴であると共に、魔族などの敵対種や宿敵ラド人が多用する術式を連想させることもあり、文化的な意味合いの中では、あまり良い印象はない。しかし、文化が異なれば解釈も変わる。カノの文化圏に於ける火は、龍の息を連想させ、外敵を退けるものとしての印象が強く、神聖で不可侵なものとして扱われる。ラドに於いてもこれと同様で、火は力そのものを表し、軍事力で版図を広めて来た彼らに取っては、剛直なものの代名詞となっている。ハイト人の文化では、炎で罪人を処す心証から、不浄を排する必要悪として認知されている。
これは、エルゲネコンの文化が、エガリヴとは異なるところに根差している証左でもある。彼らに取っての火が、どのようなものであるかは知る故もないが、それがエガリヴのものでないことだけは確かだ。
……そう云えば、中央大陸の東沿岸部を中心として文化圏に、これと似たような風習があると、クリスが言ってたな。
『あんたと同じ、カノ系民族にある風習だった筈だけど……知らないの? えー、知らないのぉ?? ふーん……。知らないんだぁ』
思い出して、ちょっと腹が立った。帰ったら虐めてやろう。
●
まずは、モニュメントの様子を確認しに行こう。と云うその道すがらに、あのお婆さんと出合った。
「昨晩は、孫がえれぇ迷惑かけたぁみてぇで」
開口一番、彼女は陽気に、そう言った。
最初は、貴女の差し金ではありませんでしたか。男までは貴女の判断ですよね?
「あの娘は、むかっしから、あんまり気立ての良い子じゃ、なかったもんでな。ほんに、すまんかった」
いやいや、物凄く、色々と気の回る娘でしたよ。本当に。俺の予想を遥かに超えていましたね。
昨晩の話題からは、できるだけ離れたい。なので、話題を別の方に持って行きながら、重要なことを確認する作業に取り掛かることにした。
「昨晩、頂いた牛肉のソテーは、胡椒が利いていて、とても美味しかったですよ。彼女の得意料理らしいですね。貴女が、貴女の祖母から教わった料理だとか」
「そうそう。そして、わしがあの娘に教えた料理さ。そうやって、ずっと受け継いでるんだ」
「なるほど。あの料理が美味しい理由が分かりましたよ。そうやって、長い間、多くの人たちに親しまれた味なのだから、美味しいのは当然です」
やっぱりおかしい。これでは、重大な矛盾が生じる。俺はその矛盾を、より確実なものに昇華させるため、証拠固めのような質問を重ねることにした。
「一つ伺いたいのですが、貴女は、ここの里の出身で、間違いありませんよね?」
俺の質問の意味が理解できないのか、お婆さんは、変なものを見るような目をした。何も、そこまで顔にハテナを書かなくとも……。俺が馬鹿みたいじゃないか。
「なぁに、妙なことを訊きやがるんだぁ? そなの、当たり前だろうが。わしらの一族はね、もう何百年も前から、この谷間に住んでるんだ。外からの人間なんて、わしが若い頃に始めて来たばかりさ」
矛盾が確実なものになった。そしてそれは、善からぬことの証拠でもある。それは、あまり考えたくはなかった可能性だった。
「そうか……。ありがとうございます。疑問が解決しました。では、俺は調査に移ることにします」
「そうかい、そりゃ好かったな。気ぃ付けてな」
そう言って、お婆さんと別れる。お婆さんは、薬草を摘みにでも行くのだろうか。ひょこひょこと、俺とは正反対の方角へ歩き出した。
俺は、ふと、余計なことを思い出しす。
「ああ、そうだ。お婆さん」
振り返って、少し陰が遠くなったお婆さんの背中に、声をかけた。
「なんだい? まだ訊きたいことがあるさね?」
あくまで確認のために訊いておこう。万が一、と云うこともある。
「眼鏡って、知ってます?」
「はぁ? そりゃ知っとるよ。この里には、かけてる者は一人もおらんが」
●
どうやって、この地に牛や馬を引き入れたのか……。ここに到る陸路は、あの細道ぐらいだと言っていた。しかし、あの道は地面が泥濘んでおり、とても馬や牛などが通れる道ではない。ロッシュ山脈の東側開発時に、ここに連れて来られたと考えるのが無難なところだと思う。しかし、それだと辻褄が合わないことがある。
黒髪の娘は、牛を使ったソテーが得意だ。彼女が、その祖母から教わった料理で、その祖母も、そのまた祖母から教わった料理なのだと。
祖母の祖母は、何処から牛肉を調達していたんだ?
更にもう一つ、家畜に関して妙なことと云えば、羊のことが挙げられる。この狭い土地で羊を飼うのは、厳しいのではないだろうか。牛などもそうだが、特に羊は始終、柵や小屋の内に入れておく訳にはいかない。いくらこの土地が豊かな谷間だとしても限度がある。それに推定しただけだが、三百人と少ししかいないエルゲネコンで、あれだけの数の羊を飼う必要もないのではと思う。年がら年中、羊を食うのならいざ知らず……。
エルゲネコンに入ってから抱いた疑問は、これだけではない。もっと根本的で、目立つことだが、自然に隠れている疑問があるのだ。
何故、この地の者と会話が可能なのか?
エルゲネコンが連邦に加わってから、まだ百年も経っていない。にも関わらず、ここの人々のリオルド語習得率は異常だ。
エルゲネコンの民は、この地に逃げ込んでからの数百年、外界との接触を拒み、ここに隠れ住んできたと云う。だから、用いる言語がリオルド語であったにせよ、現代のリオルド語とは、別の発達の仕方をしているのが普通だ。テレパス言語ならば、言葉の壁はない。だが、テレパスを使えない人と会話するとき、彼らは俺と同じく、エガリヴ連邦の公用語である、リオルド語を使っている。ところどころに訛があったり、他言語の言葉から流用された単語を使用している向きも見られるが、首都圏で使われている言葉と、エルゲネコンの民が用いる言葉に、大きな差異は見られない。それに訛も、外国人の話すそれとは違う訛――アステリア系のものに近い。
当初、案内人がリオルド語を使えることには、大した疑問を抱かなかった。案内人として寄越すからには、言葉が理解できる者を送って寄越すのは当然だからだ。それに、リオルド語を習得しているのが、一部の若者だけなら、まだ理解できるし、理屈が通る。しかし、エルゲネコンに入ってみると、老人や幼子も、完璧にリオルド語を繰っているではないか。言語習得用の術式や導具を使ったしても、ここまで流暢に喋ることは不可能だ。
エルゲネコンの民は、かつて大きな戦いに敗れたときに、身を隠すようにこの土地を訪れたと云う。そして、エルゲネコンがエガリヴに組み入る際、大きな混乱はなかったらしい。
その理由が、なんとなくだが、明らかになってきたような気がした。それと同時に、この地の者が、エガリヴに何を隠しているのかも。
誤字修正
けれど、鷲羽の人は、そう云う私たちの言葉は予測済みだったようで
↓
けれど、鷲鼻の人は、そう云う私たちの言葉は予測済みだったようで




