エルゲネコンの細道(生)
短編・中篇・長編によって構成されているファンタジー、欲者シリーズのダレン編。
時系列はモノカミ殺しとほぼ同時期になるが、直接的な繋がりはない。
一応、この話しから読み始めても話が分かる仕様になっています。細かい設定などは意味不なところもあると思いますが、後々、別の話で説明されて行くので、目を瞑ってスルーくれるとありがたいです。話の進行に関わる設定については、細かく書いていくつもりです。
以下、作中の台詞や文章の抜粋。作品のイメージを掴む判断材料にして下さい。
・「ストーキング・ウルフとか、新しいと思わぬ?」
・「それは本気で言っているのか?」
・メーメー、ブフルンブフルン。メーメー、メーメーメー……。ブヒヒヒヒィイン!
・「ワン!」
・おいおいおいおいおいおいおいおい! なんだこれは。なんのオールスターだ?
・兎も角ぅー、その雌狼はぁー、光の速度でぇー、近くの岩陰にまでぇー、男を引き摺って行きましたぁー。行ーきーまーしーたぁー。
・『貴方を食べたい!』
・あれか? 蜂に「邪魔すんでぇ」とか言いながら同居してるのか? 蜂の巣に居候とか、何そのキャッチコピー。
・「ニンゲンのコトバ、ムズカしい」
・「貴方に向くのは、鏃でしょうか? それとも、鉤でしょうか?」
・「問題はそこではない」
・「いや良くないが」
・俺は何も悪いことはしてない。
・知らんがな。
男が道を歩いていると、後ろから強い力で服の裾を引っ張られた。慌てて首を後ろに捻って見ると、なんとそこには一匹の狼がおり、裾を口に銜えているではないか。
赤子を一呑みできそうな口から、鏃よりも鋭く、男の腕よりも太そうな牙が見える。これの恐ろしいことと言ったら他にない。
男は賢明に狼から逃れようと踏ん張ってみるが、狼はそれに労する様子もなく、あっさりと男を岩陰まで連れて行く。狼はそこで、男の体に飛び乗り組み伏せ、低く唸りながら、鼻先を男の顔に近付ける。その形相の、なんと厳しいこと。
男は額にまで汗を掻き、身をガタガタと震わせ、縮こまる。
ここまでか。
そう男が思ったとき、道からドスンドスンと音が聞こえてきた。誰かいるのかと、男は首を動かし、音の方に目をやる。するとそこには、一つ目一本足の化物が。音は、その怪物が一本足で跳び走る音だったのだ。
「人間臭い。人間臭いなぁ」
そう化物は呟いて、道の真ん中で立ち止まると、一つ目をギョロギョロと動かし、腰と首を捻って、不自由そうに辺りを見回している。
しばらくそうしていた化物は、不思議そうな顔をしながらも、気のせいかと納得したのか、元の調子で、そこを通り過ぎていった。
●
まずは藪。次に崖があった。崖の間を高い葦が埋め尽くし、あらゆる行く手を阻んでいる。しかし、その藪にも裂け目があるように見えた。とても微かな裂け目。ここに裂け目があることを知らなければ、感知することすら不可能な――細道だ。
その細道には二人の男がいた。
一人は、大柄で逞しい四肢を持つ者。日に痛んだ黒髪を短くしている男だ。男は使い古された立派な山靴を履いており、慣れた足取りで山間の道を進む。途中、度々後ろや周囲を確認するように、目を光らせていた。
その者を追うのは、若い男だ。歳は十代半ばと云ったところ。緑の襟を持つ、白いコートを纏っている。瞳は吸い込まれるような黒。濃い栗毛を上下に揺らしながら、前の男に付いて行く。
「そろそろです。この道を抜ければ、すぐそこです」
前の男の言葉に、栗毛の若い男は言葉を返さなかった。
●
どれだけ歩いただろう。東アステリア城から、ここ二日、更に東に歩き続けている。
当初はアステリア城を経由して、空間転移炉によって、今回の目的地であるエルゲネコンに行く予定だった。しかし、かつてエルゲネコンに設置していた空間転移炉は、長い間、管理する者がおらず、どうも不安定らしい。何か事故が起きたら大変だと、徒歩で向かうことになった。
本日で、アーヘラ救道院を離れてから、早三日。ああ、なんてことだ。出席日数の心配はないにしても、これでは帰ったときに、何か噂になっているだろう。教会からの密命を受けて、何か強大な化物を退治しに行ったとか、どうとか……。実際、その通りなのだが。
「そろそろです。この道を抜ければ、すぐそこです」
前を進む、エルゲネコンからの案内人がそう言った。俺はそれに返事をせずに、男が踏み締めた跡を追っている。
いくら疲れてはいても、返事すら億劫になるほど、疲労困憊しているわけでもない。意気が上がらないのだ。その理由はなんだろうなどと思い耽りながら、俺は目を周囲に這わしてみた。
険しい。だからと言って足元が切り立っているわけでもない。だが、お世辞にも平らとは言えないぐらいの凹凸が、これから進む先と、これまで進んで来た道のりに存在した。人がここを道として認識するには、あまりにも粗末だ。獣ぐらいしか、ここを通るようなことはしないだろう。いや、獣ですら、通るかどうか……。何より、暗い。単に、光が届かないと云うだけではない。ここには、明るい色彩もないのだ。見渡す限り、緑、緑、緑、緑、土、土、土、土、石、石、石、石。茶、緑、灰。全体に煤を塗したような色相。筆を洗った水のような香り。潰した草から滲む汁。粘りつく泥。それらを踏み締めたときの感触。この空間に嫌気が差して見上げれば、眩暈がしそうな墨色の空が。それだけなら、まだいいかもしれない。ここには、耳を楽しませるような音もないのだ。鳥獣や虫の声も、風も、木々でさえも、周囲に漂う何かを警戒して、鳴くことを躊躇しているようだ。
彼らは、何に戸惑っているのか。神々の助力でさえも遮るほどの、この幽暗な空間そのものに臆しているのか。それとも……普段は見かけることのない、俺が纏う白色に当惑しているのか。
この迎えの男にしても、愛想がない。男に愛想を求めるのもどうかと思うが、それにしたって、もう少し何かあっても構わない筈だ。俺がこの男に頼んで道案内をさせているのではなく、この男の側……エルゲネコンの方から、エガリヴ聖教会に申請があって、俺が遣わされたのだ。「わざわざご足労頂いて」の一言ぐらい、あってもいいじゃないか。
これではまるで立場が逆だ。
俺も、そんなにお喋りな性分ではないが、それにしたって、この態度はないだろう。ここ二日の間で、この男の肉声を聞いたのは、さっきでやっと四回目。さっきのも、ここまでの道程で得た疲労のせいで、返事しなかったのではない。そんな態度を訝しんだのと、呆気に取られたのとで、間を逃してしまっただけだ。
全く、最高のピクニックだ。
●
今、俺がいるのは、エガリヴ連邦を東西に別つ、ロッシュ山脈の中部。それが持つ七つの高い峰の中でも、目立って高いゲキ峰から、南西を見た位置だ。エガリヴ連邦の中心部である、グレート・プレーンズの南東。アステリア領の東部と言ってもいい。人による開発が進みつつある地域ではあるものの、未だ人に知られぬ場所が多いところだ。
この山と山の間。この、渓と呼ぶにも不十分な細道の先に、エルゲネコンと呼ばれる人里がある。
エルゲネコン。そこが、どう云った場所なのか詳しくは知らない。事前に伝えられた情報によると、この辺りの情景からは想像できないほどに、豊かなところであると言う。ほぼ外界から閉ざされた空間には、魚が獲れる湖がいくつかあり、百に満たない人間が暮らすには、十分な収穫を得られるだけの畑や果樹を内包しており、少し居住区から離れ周囲の山に入れば、人が食すことができる木の実などが採れ、獣を狩ることもできるらしい。
口伝に拠れば、彼らの先祖が大きな戦いに敗れ、山に逃げ込んだときに、空色の獣に導かれて、この場所に行き着いたと云う。
エルゲネコンの民は、民族的系統がハッキリと明らかにはなっていない。しかし、その言語や生活習慣は、ソンジュ的要素を窺わせる要素が多く見られる。このことから、彼らはレタリアと袂を分かった者たちの一つではないかと、考えられている。そんな彼らがエガリヴ連邦に組み込まれたのは、歴史的に見れば割と最近のことだ。
今から約八十年程前。ある冒険家がロッシュ山脈を越えようとした。当時、エガリヴはロッシュ山脈の東側の樹海を切り開き、その開発に着手していた。活発に発展を進めるその時代、冒険家として各地を放浪し、地図を描き、新たな平原や川などを見付けることは、大変な誉れにもなったのだ。その冒険家も、そんな夢と未知への探究心から、ロッシュ山脈に足を踏み入れたのだろう。しかし、ゲキ峰の南部を通りかかったとき、熊に遭遇。それから逃げている内に道を見失なってしまった。どうしたものかと考えていると、今度は狼に追い立てられる。多数の狼に追われ、もう精も根も尽き果てかけたとき、偶然、エルゲネコンを発見した。
エルゲネコンが連邦の保護自治領になる際、大きな混乱や反発はなく、むしろ彼らは友好的であったと、記録に残されている。そしてエルゲネコンは、ロッシュ東側開発計画の拠点の一つになり、以後、発展を続けて……いた。
現在、ロッシュ東側の開発は、ほぼ無期延期状態にあるからだ。その理由は、ロズデルン帝国や魔王国、そして龍属同盟からの反発を受けたこともあるが、最大の理由は、損害の割りに利益が薄いからだった。ロッシュ山脈の東側は、野生魔獣が大量に巣食い、並みの超常者では、足を踏み入れただけでも精神をやられ、死に至る地だ。防備のために兵を駐屯させるのも、只ではない。そして、兵にも家族があり、生活がある。ロッシュ山脈の東部を人の居住地域にし、経済活動を行うには、人も財も足りなかったのだ。その状況で、各国からの非難が出たなら、もう手を引く以外にはない。
俺が今通っている道のりも、そんな開発計画が進行していたときに使われていた道だったとらしい。しかし、このたった数十年の間に自然はここを蹂躙し、元の形に戻してしまった。……これも、魔の影響だと人は囁く。
「ここです」
五回目の肉声だ。
はっと顔を上げる。自然と無意識に、視線が下方を向いてしまっていた。
渓の終わりが、そこにあった。目の前に崖があり、しかし、渓の流れに穿たれたような切れ目が、その崖を断ち割っていた。いや、渓が広がっていると言うべきか。今まで通ってきた道とは呼べない細道などとは明らかに違う、十全な空間が、そこから先に広がっているようだ。
「ここが入り口か。ここに来るまでにも、幻術系の防壁や結界などが張り巡らされていたし……まるで、異教徒の隠れ里のようだな」
エルゲネコンからの案内人は、俺の言葉に反応することもなく、その崖の切れ目に入って行く。今までのように、付いて来いと云うことか。言葉ぐらい、かければいいのに。
……案内人の口数が少ない理由は分かっている。この空間に拡がっていた鳥獣や虫たちのように、俺に疑いを持っているからだ。いや、疑いと呼べるほどのものだろうか。言うなれば、それは勘繰り、不信感、憤りなのかもしれない。だが何故、エルゲネコンからの案内人は、俺にそんなものを抱いているのか、検討が付かない。
人の持つ、勘繰ると云う機能は、生きて行く上で必須ではある。別に、それを咎める気もないが、それにしても、やはり俺としては不満だ。
警戒。疑い。勘繰り。不信感。これらのワードで思い出されるのは、三日前の出来事。あのクソ教師が、俺にいらぬ勘繰りを働かせたときのことだ。