君の横15センチ
月明かりが照らすいつもの散歩道。
何気ない顔でいつも通りの会話をする2人。
高校3年生で天文部の水谷つかさと、その後輩である2年生、高坂乃々香。
部活の関係上、毎日帰るのは他の部活動に比べて遅かった。
帰り道はいつもふたりぼっち。周りには誰もいない。静かな空間に虫の音が聞こえるだけ。
私は先輩の横15センチのところを歩いている。きっと手を伸ばせば届くのだろう。でも、それはできない。なぜなら――これが私の限界ラインだから……。
私たちは毎日帰るときに学校の近くの公園を散歩する。ここの公園には街灯がないため、この場所では星たちがよく見ることができるのだ。そして今日も、宙にはいくつもの星が輝いていた。
「高坂、見えるか? あそこにある四角い星座」
「見えますよ。秋の星座の代名詞、ぺガスス座ですよね。ねえ先輩、なんでぺガススなんですか? フツウーはペガサスじゃありませんか?」
先輩は小さく唸りながら、鞄から紙とペンを取り出した。
「たしかな、ギリシャ語かラテン語でpegasusって書くんだ。読み方はpegasus。だからな、本当はペガサスは違うのかもしれない」
「へぇー。じゃあもうひとついいですか?」
「難しい質問じゃないだろうな?」
「ダイジョーブですよ。あの星座って半身しか絵がかれてないですよね? あれは何でなんですか?」
「やっぱり難しい質問じゃないか! えっと、あれはだな、色々な説があるんだ。天馬と呼ばれるだけあって雲に隠れて見えないとか、あまりにも早すぎて後ろが見えないだとか、人の目では見失ってしまうんだ。実際、正解はないと思う」
「あいまいな答えですねー。天文部の部員として、部長としてそれでいいんですか?」
天文部は全メンバーで6人。3年生が5人と2年生の私ひとり。1年生がひとりもいない部活はここだけだろう。部費もわずかな小さい部活だ。
先輩は私の頭を叩いて言った。
「うるさい。それに、高坂も同じ部員だろ。それくらい調べて勉強しろ」
「イタイ……。でも私はまだ2年生ですよ? 後輩が知識不足なのは仕方がないでしょ? それに、私にはあと1年以上もあります。きっと私は先輩より知識がついていますよー」
それを言うと、先輩はもう一度私の頭を叩いた。さっきよりも痛かったが、私は先輩と過ごす時間がたまらなく幸せだった。
公園を抜けるといつもの交差点にたどり着いた。赤く光る信号機の前で立ち止まる。先輩との距離は15センチ。互いに何も話さないまま時間は過ぎて、信号機の色が変わった。
先輩は私に手を振って歩いていった。私も歩き出すと、なんだか振り返ってみたくなった。いつもはそんなこと思わないのに。私はゆっくりと振り返った。すると、先輩がこっちを見ていて、笑い顔で「また明日」って叫んで行ってしまった。
もしかして、毎日私の姿が見えなくなるまで見ていたの?
毎日振り返って、私が振り返るのを待っていたの?
私はずっとそれに気付かずにいたの?
その日私は、先輩の姿がぺガスス座のように見失ってしまう夢を見た。
私は朝起きてから嫌な予感がしていた。昨日見た夢の中の先輩が、妙に寂しそうな顔をしていたからだ。私は浮かない気分のまま朝食をとり、学校へ向かった。
学校はいつも通り何事もなく終わり、放課後になった。私は部室に入ると、そこには水谷先輩だけがいた。もともと人数が多い部活ではないから珍しい光景ではないのだが、いつもと違う空気が漂っていた。
「今日はまだ先輩だけですか?」
「あぁ。きっと今日の部活はふたりだけだ……」
「何かあったんですか……?」
沈みきった先輩は静かに話し出した。
――――
「――ってことだ」
「……廃部……ですか……」
先輩が部長として大変なのは知っていた。いつも何かに押し潰されそうなのも知っていた。でも、先輩は何も言わなかった。悩みなんてないみたいに振舞っていた。だから私も知らない顔で振る舞い、何も言わなかった。
明日もまたいつも通り、みんな集まって星を眺められる。そう思っていた。先輩はなんでもないように振舞って、きっと笑いかける。そう思っていた。
でも、そんな余裕がないことに私は気付いていたんだ。知っていたのに、先輩の力になれなかった。
「わたしじゃ……役不足でしたか……?」
「高坂……」
「結局……わたしじゃ誰の力にもなれないんですか……」
「高坂がいつか言っていた言葉、「わたし、誰かの力になりたいんです!」って今でも覚えてる。お前はよく勉強もしていたし、星をいつも見ていた。なぁ、高坂? なんで天文部に入部したんだ?」
「私は星が好きだからです。だから入部しました。それに、先輩がいたからです。先輩と星を見たくて……。それで、それで……先輩の力になりたくて!」
「――そうか、すっげーうれしいな。なぁ、天文部はいったい何のためにあると思う?」
「えっ?」
「天文部はな、ただ星を見るための部活なんかじゃないんだ。星を見て幸せになってもらうための部活なんだ。自分じゃなく、みんなをだ。星を探して見つけて、喜んだり感動したり、また星を見て幸せな気持ちになりたいと思わせる部活だ。もちろん自分も楽しんでいい。ただな、俺がこの部活に入った時の正式名は、〝誰かの力になる部〟だったんだ。そう、高坂が言ったとおりだ。俺も誰かの力になりたくてこの部に入った。次の年から天文部になったけどな。
高坂、お前がいなかったらもっと前に廃部になっていたんだ。毎年1人入部しないと存続できないんだ。だから、役不足じゃないし、俺らの力にもなった。本当に感謝してる。でも、今年は1年生がいないだろう? だから、もう維持できないんだ。よく先生たちも待ってくれたよ。普通なら5月で廃部になってたのに」
先輩は少し間を空けて、
「俺は誰の役にも、力にもなれなかった……」
「そんなことないです! 先輩は私の力になってくれました! 先輩! 私とずっと、ずっと一緒にいてください!」
私は、自ら決めていた15センチの限界ラインを越えて、先輩に抱きついた。
「先輩が悩んでいるなら私が力になります! 先輩が泣きたいなら傍にずっといます! 私は、先輩の居場所になりたいんです! 先輩を必要とする人はここにいるんです。だから――」
先輩は崩れ落ちる私の身体を強く抱き寄せた。小さな声で「ありがとう」と何度も何度も言っていた。
月明かりが照らすいつもの散歩道。
私の左手は先輩の右手を強く握っていた。
このまま手を離したくない。
公園を抜けた先の交差点。信号機は赤く光っている。
色が変わり、手を離して互いの家の方へ歩いていく。
そして、同じタイミングで振り返り、
「また明日、乃々香!」
「また明日です! つかさ先輩!」
手を振って歩き出した。
15センチの限界ラインは今日、ぺガスス座のように見失った。