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第五章 大切な存在《前編》


 笹野が俺の家からいなくなって、一日が過ぎた。


 騒がしいガキが居なくなったことで、一人でゆっくりと食事が出来るし、洗濯問題にも困らないし、今日からまた快適な暮らしの再開だ。


 仕事から帰ったら、今まで通りに簡素な晩飯を食べる。正面には「美味しい美味しい」と騒ぐ奴がいないし、料理に力を入れる必要も無い。気楽だ。そう思っていた。


 だけど…………



 何だか、今日の晩飯は、いつもよりも美味しくない気がした。……分量を間違えただろうか…。なんて、心の中で呟いてみる。だけど、いつもより美味しく感じない理由を、俺は薄々、勘づいていた。……一人でひっそりと食べているからだ…。

 美味しくもない白米を、一口食べて正面を向いても……本当に頬が落ちそうな顔をする笹野は居ないし、「うっま〜!!」と笑う無邪気な声も聴こえない…。笹野がいなくなってから、何となく部屋に色が無くなったような気もする。


 ……何日か一緒に過ごしてしまったがために、俺は…人といる楽しさと、一人でいる寂しさを知ってしまったのだ。……前は何とも感じなかったのに………。

 何だか、負けたような気がして腹が立つ…。


 冷凍していた鮭を殆ど惰性で噛みながら、笹野が返していった本に目をやる。……きちんと、引っ越す前に全ての本を読み終わったようで、一つ一つ楽しそうに感想を言いながら、笹野が朝、家を出る前にテーブルの上に置いていった。


 …………もう一冊、追加で貸しときゃ良かったな…。


 なんて、らしくないことを考えながら俺は独り寂しく、味のしない白米を飲み込んだ。


「………はぁ……つまんねぇ…。」






 数日後の金曜日。

「こんばんはー!桔梗 麗華さんはいらっしゃいますか!」


 いつも通り仕事をしていると、そんな聞き慣れた元気な声が店の入口の方から聞こえてきた。

 懐かしい声に俺はつい、顔を勢い良く上げる。だが、笹野のお目当ては桔梗さんだけらしい。コロコロと変わる表情で楽しそうに桔梗さんと談笑をしている。何だか期待していた自分が馬鹿らしくなってきて、俺は黙って作業に戻った。


 だが……


「こんばんは碓氷さんっ。」


 カウンター奥の俺が作業していた職員スペースへ、いつの間にか入ってきた笹野はそんなワクワクとした声で俺へ笑いかけた。俺も笹野のことを待っていたのか、心臓をドクンと鳴らして顔を上げる。

 すると、笹野はとても嬉しそうに無邪気な笑顔で、俺を見つめていた。そんな、笹野の嬉しそうな顔を見ると、俺もつい笑みを零してしまいそうだ。だが慌てて、その笑顔を引っ込める。


「……ここ、ガキは入っちゃいけないとこだぞ。」

「麗華さんが特別に入れてくださいました。」

 …相変わらず、綺麗に笑うんだな……。

「…で、なんの用?新しい家は怖くないか…?」

「はい!ぜんっぜん怖くありません!とってもいいお家です!快適ですし、家賃もそれ程 痛くありませんし。」

「……それは良かった…。」

 本当に安心して呟くと、笹野はキラキラと笑顔を輝かせて言った。

「碓氷さん、仕事終わりに何か食べに行きましょう!お礼も兼ねて今日はじゃんじゃん奢っちゃいます♪」

 マジか…!!

「…別に……いいけど…。」

 なんて答えると……


「あれ〜?碓氷、嬉しそ〜じゃ〜ん♪」

 鬱陶しい声と共に、グイグイと肘で腕を押された。いつの間にか桔梗さんが来ていたのだ。

「…うわっ、桔梗さん……。」

 ……面倒臭いのが来た…。

「『うわっ』て何よ、『うわっ』て。」

 そう俺を睨んだ桔梗さんは、笹野の腕をぎゅっと抱き締めながらニヤッと笑って言う。笹野も桔梗さんに腕を抱かれて嬉しそうだ。

「実はあたしも今日、明香里ちゃんに奢って貰っちゃうの♪」

「えっ…。」


 …………てことは……桔梗さんも、一緒に食いに行くってこと…?



 ……………………。


 …………うわぁ……なんか…………うわぁ…。


 ただでさえ笹野がうるさいのに、桔梗さんも入るとか………扱い絶対ムズいだろ……。




「せ〜のっ!」

「かんぱ〜い!」「かんぱいっ!」

「………。」


 …………始まってしまった……。

 小さな個室の畳部屋に案内された俺たちは、ドリンクが届くと直ぐさま乾杯をした。


「碓氷さんはカルピスソーダなんですね。」

 笹野の何気無い一言に、俺はギクッとして思わず、動きを一瞬だけ止めた。だが、何もアルコール飲料を飲まないことに不自然なことは無い。そう……バレていない…筈……。俺のダサい秘密は………。


「だって俺、運転手だし。お前らをここまで連れてってやったのは、俺だからな?」

「あ!そうでした!というか…相変わらず言い方悪いですねぇ。」

「後輩に『お前ら』って言われちった☆ てか聞いてよ明香里ちゃぁん!前にもさ、碓氷が失礼なこと言ってきて〜!」

「そんなのいつもの事じゃないですか?」

「それもそうなんだけど〜、もっと!もっっっと酷いこと言ってきたのよ!!!」

「『もっと』…ですか……。」

「そう!もっと!あの日はね〜――」

 こんな感じで、今日の飲み会は俺の悪口で殆ど構成されていた。しかも、桔梗さんが飲み過ぎの所為で、べろんべろんに酔っ払ってしまったので、俺の悪口は止まらない。……まあ、悪口というよりも、「愚痴」という感じだが………。



「なぁんで碓氷ってイケメンなのにさぁ〜、カノジョできないんだろぉ〜ねぇ〜。あー!あかりちゃん、もらってあげなよー!あっはっは!!」

「みんな碓氷さんの良さに気づいてないだけですよ。というか、碓氷さんも何か喋ってください。」

「はあ?だって、二人で勝手に盛り上がってんじゃん。俺要らねーだろ。」

「要りますよ!ほらほら、何か詰まる話してくださいっ!」

「無茶振りやめろ。」

 とか、内心楽しみながらもカルピスソーダを延々と飲んでいたのだが、桔梗さんの容態が悪化してきた。


「うすい〜!!カレシ欲しいよぉおおお〜!!!」


 酔い過ぎて、なんと俺に抱きついてきたのだ。

「邪魔です、触らないで貰えますか。」

 そう言って引き剥がそうとしても、まあ桔梗さんは言うことを聞く筈が無い訳で………

「年上のぉおおおお…!イケおじのカレシが欲しいよぉおおおおおお……!!!」

 怪力で俺は肩をホールドされていた。笹野は何をしているかと言うと……

「んふふw 麗華さん、もう碓氷さんにしたらどうです?♡」

 とかニヤニヤして俺たちを眺めるだけ。

「酒臭っ……。笹野、早く助けろ。」

「可愛いのでまだ眺めてちゃダメですか?♪」

「駄目。マッジで…!」

 力を入れるが、本当にビクともしない。

「うすいぃいい〜♡」

 ただただ暑苦しくて、徐々に腹を立てていると……笹野が何か思いついたような顔をした。そして、全力で悲しそうな顔をして言う。

「麗華さん酷いです〜!私だけじゃなかったんですね…!!!もう麗華さんなんて知りません…!!!」

 ………何してんだ…?とか思いながらも、笹野を眺めていると…………

「ぎゃああああごめんね あかりちゃんんん〜!!あかりちゃんだけだよ…!!!いや、あかりちゃんとほのかだけだよ……!!!!」

 なんと、桔梗さんはそう騒いで俺から離れ、笹野へ抱きついた。目を丸くして見ていると、笹野は桔梗さんをぎゅっと抱きしめながらも、俺にウインクをする。

 ………何故かウインクに動揺して、紛らわす為に俺はカルピスソーダを一口飲んだ――筈だった…。


 だが……


「…んっ…?!!」


 口に流れ込んできたのは、カルピスソーダのスッキリとした味ではなく……薬品のような味だった…。訳が分からなくなって、一度自分の握っているジョッキを見ると……


「あ、それ私の焼酎!不味いですか?」


 …………カルピスソーダじゃなかった…。

 まだ飲み込んでいなかった為、笹野へ「んんん!!」と助けを求めると、笹野は直ぐに察して水が二分目まで減った自分のコップを差し出してくれる。

「もしかして碓氷さん下戸(げこ)でしたか…?!!」


 だけど………


――ゴクッン…


 ……流石に吐き出す訳にいかなかったのか、飲み込んでしまった。

 …ってか…………俺運転手じゃん……何してんだ………。

「…ごめ……車ここに置かせてもらって、タクシーで帰るしかないわ………。」

 そう謝ると、笹野は「あ、そうですね!」と言って、お店の人に交渉しに行った。そして約三分後に帰ってきた。


「交渉成立です!二日酔いしたら明日も停めても大丈夫だそうです!オマケに今日から使える割引券も貰っちゃいました♪」

 なんて、嬉しそうな笑顔でクーポン券を掲げる。

 ……相変わらずコミュ力凄いな…。

「…ありがとな……。」

 柄にも無く感心しながらお礼を言うと、笹野は「いえ!」と笑って、俺の正面に座り、顔を覗き込む。

「体調はどうですか?」

「……まだ大丈夫みたいだ…。」

 と、答えてから気がつく。もう症状が始まっていることに。

 ………やべー……めちゃくちゃドキドキする…。

「…ヤバくなる前にトイレ行っとく……。」

 動悸以外は何も症状はまだ無いので、そう立ち上がると笹野も立ち上がった。


 何だ?……?


 不思議に思って笹野を見下げると、笹野はニコッと笑う。そして一歩、俺に近づいた。


「お供します。」


「いや、いいよ。普通に歩ける。」

「そうですか?」

 首を傾げてから、俺の歩く足元を観察する。俺も、そんな笹野を改めてこっそりと観察してみた。


 ……チビだな…。百五十あんのか……?てか…………顔ちっっっさ…!!!腕細すぎだろ…!なんでめちゃくちゃ食い意地張ってんのにこんな細いんだ…?!ちょっと力入れたら折れそうじゃん…!


 なんて笹野の小ささと細さに驚愕している間に、笹野は確認を終えていた。

「だい…じょう、ぶそうですね!では、帰る支度をしておきますので!」

 ニコッと俺を見上げて笑うので、観察していたことが何だか後ろめたい気持ちになってきた俺は、慌てて笹野から目を逸らした。

「…わ、悪いな。台無しにして。」

「台無しになんかしてませんよ!私の置き場所も悪かったですし。私の方こそごめんなさい…。危険な目に遭わせてしまいましたね。」

「……いや…。……謝る必要は…………」

 怒られた犬のようにシュン…とした顔を見てから、俺は個室を出た。




 トイレから帰り、少しフラフラしながら個室の扉まで行くと……嫌な予感がした…。そして、扉の向こうで聞こえてくる。

「まだまだ のむわよ〜!!!」

「わー!ダメですダメです麗華さんもう飲まないでください!!!」


 …………。


 今すぐ帰りたい気持ちで扉を開けると、桔梗さんが笹野に絡みついてジョッキを傾けていた。

 そして、困った顔で笹野は俺に言う。

「ごめんなさい碓氷さん……麗華さんを止められません…。」

「…………察した…。」

 一度、桔梗さんと遠藤と三人で飲みに行ったこともあったが……その時もめちゃくちゃ大変だった…。

 俺は桔梗さんの世話は笹野に任せようと個室の隅に座って、代わりに五千円を笹野へ渡した。

「タクシー代。」

「ありがとうございます…!そこに置いておいてください…!!」













✶ --­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­- ✶


「あっかりちゃ〜ん♪だいすきだいすき♪ちょっとほのかと おなじにおいがするね〜♪」

「ほんとですか〜?嬉しいです!」

 穂華ちゃんも麗華さんのことが大好きだと伝えたい…。そう思いながらも、麗華さんの相手をすることで精一杯で、碓氷さんの様子を見れていなかったことを思い出して、私は歌う麗華さんを放って碓氷さんの方へ移動した。


 案の定、碓氷さんは虚ろな瞳で眠たそうにしている。

「碓氷さん、大丈夫ですか?」

「らいろーぶ…だぃろぶ……。」

 ぜんっぜん大丈夫じゃ無さそうだ………。…というか、碓氷さんが下戸なの意外だな……。

 私はテーブルの上からお水をとって、碓氷さんへ渡す。碓氷さんは黙ってゆっくりとコップを傾けた。

「体調はいかがですか?」

「……ん………くらくらする…。」

 ………ヤバいなこれ…。顔も真っ赤だし…呂律も回ってないし……。

「…ごめんなさい……私の所為で…。」

 碓氷さんの赤くなった顔を見ていると、申し訳ない気持ちになり、私は俯いて謝った。だけど、正面から聞こえてきたのは、とても優しい声。


「……そんなかおするな…。」


 思わず顔を上げると、碓氷さんは悲しそうに私の瞳を見つめている。そんな碓氷さんの無防備な顔に、また胸が音を立てた。


「…碓氷さん……――」

 と、一瞬だけ酔ったような感覚に陥って声を漏らしたところで……



「タハー!ww うすい、かおあかくなってやーんのっー!ゲコゲコかえるさーん!わっはっはwww」

 麗華さんが私にタックルをして、目の前の碓氷さんを嘲笑った。碓氷さんはというと……

「………あたまにひびく……。」

 こめかみを左手で押さえて、麗華さんを睨んでいる。

「よし、帰りましょうか!」

 とは言っても……碓氷さんは多分、千鳥足になって真面に歩けないだろう…。そう思い、私は碓氷さんの肩を支えて碓氷さんを立たせようとした。

「らにしやがるぅ…!はらせ…!」

「はいはい、帰りますよ〜。」

 そう力を入れて歩き始めると……


「うぃ〜!プリケツプリケツぅ!おし〜りペンペン!あははwww」

 麗華さんがめちゃくちゃ楽しそうに、碓氷さんのお尻を二回叩いた。すると、碓氷さんはめちゃくちゃ眉に皺を寄せて鋭く麗華さんを睨む。

「……ぜってぇセクハラでうったえてやる…。」

 …………なんかカオス……。

 と思いながら私は、碓氷さんから預かった五千円札を、碓氷さんのポケットにさり気なく突っ込んでおいた。




 呼んでいたタクシーに三人で乗っても、カオスな状態は続いていた。それは多分……

「あっはっ!あかりちゃんほんっとにかわいいわねぇ〜♡ かえったら宅飲みするわよ〜!!」

「……うるせぇ…………。」

「うるさいとか言わないでよ うすい〜!!うすいもかわいいわね〜!!ツンデレってゆーかんじっ?♡」

 麗華さんがずっと大騒ぎをしているから。

「麗華さん、もうすこーし声量を下げていただけると…」

 だけど、そう言うと麗華さんは

「えっへへぇ〜…わかった下げるっ♡」

 素直に声量を下げてくれた。声を潜めて甘ったるく麗華さんはそう言い……


――ちゅっ♡


 私の頬にチュウをしてくれた。

「わぁ〜!ありがとうございます麗華さん!」

 嬉しい気持ちを胸に溢れさせ笑い、碓氷さんへ「スマイリーホームズ看板娘の麗華さんから頬キスを頂いてしまいました!羨ましいですか?!」と報告する。


 碓氷さんはそんな私を暫くじっと見つめてから、眠そうに言った。


「もーひとばん……おれんちに とまってけば…?」


 元々、私の家に泊まって貰う予定だったので、返答に困っているとタクシーの運転手さんは言う。

「お嬢ちゃん〜、両手に花だねぇ。」

 確かに……!!

「はい!私は幸せ者です!!」




「うゎ…まぶ…………」

 べろんべろんだけど一応きちんと歩ける麗華さんを途中で桔梗宅に下ろしてもらい、私は碓氷さんと共に自宅に帰った。


「いやぁ、明日が休みで良かったですね。」

 なんて言って、碓氷さんの肩を支えながらも玄関先の棚に鍵を置く。

「お風呂入りますか?」

 リビングまで歩いて尋ねると、碓氷さんはそのまま私から離れて「ねる……」とネクタイを解きながらソファへダイブした。

 相当酔いが回ってしまっているようだ。

 でも……

「そこで寝たら風邪ひいちゃいます。どうぞ、私のベッドを使っちゃってください。」

 風邪はひいてほしくない。持ち上げようと碓氷さんの腕を掴むが、碓氷さんは眠そうに私のベッドを見つめるだけで動こうとしない。

 なので、もう一度チャレンジしようと碓氷さんから手を離し、布団をペラっと捲って「どうぞっ?」と言ってみる。


 すると……


「……ん…」

 なんと、碓氷さんは立ち上がって、今度はベッドにダイブしてくれた。

 ……なんか、犬みたい…!!いや……猫か…?まあいい……取り敢えず、私はお風呂に入ろう。

「碓氷さん、私、お風呂に入ってくるので困ったことがあれば呼んでください。」

 今日は過ごしやすい気温だったので、布団を肩までかけながら、声をかける。

 …だが…………


――…………すぅ……すぅ……………


 碓氷さんは、既に気持ちよさそうな寝息を立てて、爆睡していた。

 寝るの早っ…。…ずっと眠そうだったもんね……。無理をさせてしまったな…………。碓氷さんの寝顔を眺めながら……赤くなった耳と頬を眺めながら、私は更に後悔した。












❖--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­--­­-❖


 目を覚ますと、バニラのような甘い香りと石鹸のような清潔感のある香りが鼻を擽った。他の人よりかは安心する、嗅ぎ慣れた匂いを不思議に思いながらも寝返りをうつと、ふわっと香りが更に鼻を擽ったことで、匂いの出処(でどころ)は、今 俺を包み込んでいる布団なんだと理解する。

 寝ぼけ眼を擦って、なんとなく視界に入ったベッドの下の枕側に目をやると、ビニール袋と水が置いてあった。

 というか……この部屋めちゃくちゃ眩しい…。笹野の部屋なんだろうが…家具が全て黄色一色で統一されている……。あいつ………顔や動きだけじゃなくて部屋もうるさいのか…。

 なんて考えながら、トイレを借りようとベッドから起き上がると……足だけ毛布をかけた笹野が、ソファの上で幸せそうに眠っていた。

 …部屋の色が騒がしすぎて、気づかなかった…。

 ……俺がベッドを使ってしまったから、ソファで寝る羽目になったのか…。申し訳なくなり、ソファの下に座って笹野の寝顔をなんとなく眺めていたが、その動きで笹野は目を覚ましてしまったようで、ゆっくりと瞼を開ける。まだ半分だけ。

 そして、とろんとした瞳を細めて眠たそうに言う。

「おはようございます。」

「……おはよう。」

 まだ、ぼーっとした頭で返すと、笹野は「ふふっ」と笑った。

 そして……


「きのうの記憶はありますか?」


 そんなことを尋ねてきた。笹野に言われて、俺は昨日のことを思い返してみる。


 …………。



 ……………………。


 ……


「……無い…。笹野の焼酎を一口飲んだとこあたりから………。」

「そこまではあるんですか。よかったです。」

 きっと、たったの焼酎一口で酔い潰れて千鳥足になった俺を、笹野は世話係としてこの家に泊めてくれたのだろう。

「………ありがとう…。」

 零すように小さく言うと、笹野は嬉しそうに「こちらこそ。」と笑ってくれた。




 それからトイレを借りて、朝シャワーを浴びることになった。

 だが……

「…あ、駄目だわ。俺着るもん無い。」

 何も用意せずに泊まったため、替えのパンツも無かった。けれど、笹野が寝癖で爆発した頭で何かを洗面所から持ってきた。

「それならこれを使ってください。」

 ニコッと素直な笑顔を見せた笹野の手には……何故か、男物のパンツが…。


「え……なんで持ってんの…?」


 ……こいつ…彼氏いたのか…?いや……恋愛とかマジで興味無さそうだし………というか、こいつを好きになるような変人…存在するのか…?超絶ガキくさいし………。いや…でも、本当に人間かと疑うくらい優しいしな…………純粋無垢だし……顔だってそんなに悪くは無い………気がする…。目元だってぱっちりしてるし……てかなんでこいつ、瞳がエメラルド色なんだ?主人公補正ってやつか…?……いや、だからといって笹野に彼氏は無いだろ…。

 なんて考えを張り巡らせている俺に、笹野はドヤ顔で答えた。

「女の一人暮らしには防犯対策として、洗濯物と一緒に、男性物の下着を干すといいと友達から聞いたので。」

 あぁ…そういうこと……。………って……

「……女って結構、大変なんだな…。」

 防犯とかそういうのを、男よりも多い項目で考えなきゃいけなくなるのか…。不動産仲介営業をしているのに知らなかった…。

「そうなんですよ。だから碓氷さんは、もっと私を崇め讃えてください。」

「お前は神かよ。」

「そのくらいに思って頂いてっ♪」

「アホか。」

 笹野の訳分からん思考にそう返すと、たった今の笑顔が嘘のように笹野は俺を睨む。

「人のことをアホとかどうとか言ってないで、早くお風呂に入ったらどうです?」

 だが……

「そうだなw 行ってくるわ。」

 俺が笑うと、「はい、行ってらっしゃい。」と嬉しそうに笑顔を見せた。




 脱衣所に行き、いつもの癖でポケットを確認すると……

――カサッ…

 尻のポケットに何かが入っていた。引っ張り出してみると、それは見覚えの無い五千円札。

 ………俺入れたっけ…?……もしかしたら、笹野なら知っているかもしれない…。

 ということで、俺は脱衣所を出て、ダメ元で笹野に尋ねてみることにした。

「笹野ー、これポッケん中入ってたんだけど……知らね…?」

 だが……

「人のポッケ事情なんて知りませんよ。」

 やっぱり笹野にも分からないみたいだ。

「宝くじに当たったとでも思って、お財布に仕舞ったらどうです?元々、碓氷さんのものなんでしょうし!」

「……うーん…それもそうだな…。なんか怖いけど………いいか…。」

 特に気にしないことを選択し、俺は財布に五千円札を入れてから、再び脱衣所へと戻っていった。




 シャワー中、シャンプーを使わせて貰おうとシャンプー棚に目をやると、可愛らしいクマのパッケージをしたシャンプーの隣に、新しく買ったであろう俺の家と同じ種類のシャンプーが置いてあった。あのメーカーのリンスも、シャンプーも気に入ったんだなと思わず、頬を緩めながらも、俺はクマのパッケージのシャンプーを使ってみる。


 すると……


「うおっ…めっちゃいい匂い……」


 手で泡立てた瞬間、風呂場はバニラと石鹸の香りで満たされた。布団と同じで心が落ち着くような、そんな香り。笹野から漂う優しくて甘い匂いは、柔軟剤の匂いかと思っていたが、シャンプーだったのか。



 ……うん、落ち着く香りだ。





 風呂から出ると、リビングにはとても美味しそうな香りが漂っていた。因みに、パンツ一丁でリビングに出た訳では無い。笹野から借りた、「防犯対策」のTシャツとスボンをきちんと身につけている。

 髪を拭いたタオルを首に下げながら、テーブルに並ぶ朝食たちに目をやると、キッチンから笹野がてくてくと、こちらへ歩いてきた。

「ちょっとTシャツ小さかったですね。ズボンも丈が短いです。でも、とっても似合ってます!」

 なんて寝癖のついた笹野は、子供のように笑う。

 そして、いきなり背伸びをして俺の首元に顔を近づけてきた。跳ね上がるように思わず一歩下がるが、笹野は何ともないように、きょとんとしたあほ顔をしてから笑う。

「シャンプー使ったんですね!私のシャンプーも負けてないでしょう?」


 ……ビックリした………。


 二日酔いでもしているのか、理解に時間がかかって、漸く返事をしようと思ったときには笹野はキッチンへと踵を返していた。


「さっ!早く髪を乾かしてきてください!朝ごはんにしましょう!」

「……おう…。」




 髪を乾かし終わり、約二週間ぶりに見るキラキラと輝く朝食が並べられた食卓と、正面に座る笹野の寝癖のついた髪に頬が緩まないように意識して、腰をかける。だけど、俺と目が合うとニコッと笑う笹野を見て、俺は笑顔を我慢することを諦めた。

「美味そうだな。」

 なんて笑って、「では、食べましょう!せーのっ!いただきます!」と嬉しそうに言う掛け声と同時に、俺は手を合わせる。そして、緊張気味に俺を見つめる笹野を視界の端に、卵焼きへ箸を伸ばした。

 口の中に入れると、直ぐに優しくて出汁の効いた香りが広がる。塩加減も丁度良くて、甘過ぎたりもしない。素朴な味だが安心感があって、それもまたいい。


「美味いな。」

 そう笑う俺を見て、笹野は何故か目を丸くした。そして、嬉しそうに言う。

「私の手料理はよく『普通すぎる』と言われるのですが……『美味しい』なんて言われたのは初めてです!お味噌汁は例外ですが♪」

 だが、笹野の笑顔を見て俺は段々と恥ずかしくなってきた。この()()()()()卵焼きが美味しい理由を、少し前に知ってしまっていたから。

 ……やっぱり………こいつと食べると、美味しく感じるんだな…。


 ……ん?

「『味噌汁は例外』って?」

 ふと、笹野の発言が気になって尋ねると……笹野はドヤ顔で言う。

「お味噌汁だけは得意なんです。麗華さんにも褒められちゃいました♪ 碓氷さんも、冷めないうちに召し上がっちゃってくださいっ♪」

 「ほらほら」と、目の前に用意されている味噌汁を更に近づけてくる笹野に言われて、俺はお椀を手に取って、ふーふーと少し冷ましてから一口、飲んでみた。


 すると…………


「えっ、なにこれうまっw」


 笹野の言う通り、味噌汁は笑ってしまう程 美味しかった。あまりの美味しさに、まるで高級寿司屋でしか口にできないような味噌汁を二口、三口と流し込む。その度に、魚介の出汁と野菜の出汁が口いっぱいに広がって、鼻に抜けていった。

「味噌汁が得意料理とか聞いたことないわw」

 思わず笑いかけると、笹野は「へへんっ」と肩を上げて自慢げに笑った。そして、嬉しそうな顔で突然、変なことを言い出す。

「碓氷さん、私と過ごした数日間は楽しかったですか?」

「えっ……いや…別に…。今は騒がしいお前が居なくなって、清々してるよ。」

 何となく恥ずかしいので怪しまれないよう、急いで答えるが、笹野はニコッと笑う。


「酔っ払ったときに『もう一晩泊まっていけ』と仰ったので。」


 その瞬間、ギクッと身体全体の動きが止まる。同時に、心臓がヒュンと音を鳴らしたようだった。



「……酔ってるから、適当なことでも言ったんじゃねぇの…?」

「知ってますか?碓氷さん。お酒は人間の本性を暴きます。アルコールの力を借りて、親にいつもの感謝を伝える…といった人も少なくないみたいですよ。」

 ………なんでそんなニッコニコなんだよ…。余裕ぶっこきやがって腹立つ……。

 バレたら引かれるとでも思っているのか、それとも、ただ単に認めるのが嫌なのか、俺の心臓はバクバクと警鐘を鳴らしていた。

 少しだけ震える手で、味噌汁をゴクリと飲む。だけど、そんな俺に笹野はまた優しく笑いかけた。


「碓氷さんはやっぱり分かりやすいですね。」

 その笑顔を見るだけで、何故か少しの震えも治まり、力が抜けた。

 そして、「大丈夫だ」なんて安心して、柄にも無い恥ずかしい言葉が平気で出てくる。

「……まあ…け、結構……楽しかっ、た…かもな…。」

 流石に羞恥心はあったけど。

 確かに恥ずかしかったけれど、自分の「不」ではない「正」の気持ちを初めて人に伝えられた気がして、嬉しくなっていた。

 だけど、それが悟られないよう、和食に合わないピザトーストを齧ると…………


「ホントですか?!!」


 正面から笹野の馬鹿でかい声が聞こえてきた。

 あまりの声量のでかさにビクッと肩を跳ね上げ、顔を上げると、笹野が瞳をキラキラと輝かせて、嬉しそうに俺を見つめている。そんな純粋な笹野の笑顔の所為で、今度は顔が熱くなってくる。

 俺はピザトーストを大きな一口で齧ることで、その赤くなっているであろう頬を隠した。

 そして、「………まあな…。」なんて、笹野とは対称的に小さな声で答える。

 すると……



「やったぁあ〜!!!」

 子供のように笹野は はしゃいで両手を上げた。眩しいくらいの笑顔を俺に向けて。更に、向日葵のような笑顔で本当に嬉しそうに伝える。

「私も凄く!すっっっっごく!楽しかったです!!」

「………………そう…かよ…。」

 いや、なんて返せばいいんだよ…!!!

「はい!!」

 というか、なんだその(キラッキラな)目は…!!!!子供かよ!!!マジでもう………………調子狂う………。…こっちが恥ずかしいからやめてくれ……………。


「碓氷さん。」

「…………なっ…なんだよ……?」

「今日から、ここに住みますか?私と一緒に。」

「………………あほか………。」

 一瞬でもアリだなと思ってしまった自分を恥じて、相変わらず美味しい卵焼きを俺は口へ運んだ。

 だが…………どうしても、笹野の口元についているケチャップが気になって仕方ない。俺は「…口。」とうんざりしたように呟いて、笹野へティッシュを渡してやった。

「はっ…!また…!……ありがとうございます…。」

 笹野は恥ずかしそうに自分の口元を拭く。そんな笹野の赤くなった頬に、俺は少しだけ優越感を覚えた。漸く勝てた気がしたからだ。

「…それと、寝癖もついてるからな。」

 俺がつんつんと自分の前髪の左の方をつつくと、笹野も真似して自分の右の方の前髪にちょんと触れた。そして、更に顔を赤く染める。

「なんと…!お見苦しい姿を……。」

「あとで直してこい。」

「はい…!そうします…!!!」




 朝食を終え、笹野は洗濯、俺は洗い物をしていた。因みに、俺の着ていたものは先に干させて貰ったので、この間スマイリーホームズで話した洗濯事件のようなことは起こらず、平和に俺は洗い物を進めていた。

 もうそろそろで終わるので、泊めさせて貰った礼にスーパーで材料を買ってスイーツでも作ろうか……なんて考えていると…


――ピーンポーン…ピーンポーン……

 インターホンが鳴った。


「笹野、誰か来たみたいだぞ。」

 洗面所に顔を出して、笹野へ報告するが……

「ちょっと今、過去一 洗濯物に集中してますので、碓氷さん出て頂けますか…!」

 めちゃくちゃ熱心に洗濯物を干しながら、そう言われた。

 …………ま、配達員だろう…。なんて思いながら、ドアスコープで誰が来たのか覗いてみると………………



「は?」


 ………あの、桜庭とかいうチビな男が立っていた。少しだけ出るか出ないか悩んだ末……

「何の用?」

 追い返すことを選択した。桜庭は俺の顔を見た瞬間、ゲッというような焦った顔をする。だが、直ぐに他人の顔色を窺うような、腹の立つ顔で訊いてきた。

「………あの〜……笹野さんってぇ……」

「笹野なら居ない。で?何の用か訊いてるんだけど。」

「…笹野さんに用事が……」

「それなら、帰った時に伝えてやるよ。それとも何、俺には言えないような内容なのか?」

「いやぁ……」

「というか、なんであんたこの家知ってる訳?」

 そう怪訝の目で尋ねると、桜庭はバツが悪そうに俺から目を逸らす。

 …………やっぱり……コイツは怪しい…。

「兎に角、用が無いなら帰れ。あと二度とここに来んな。」

 もう話す必要も無いだろうと、扉を閉じかけると……


「碓氷さーん!誰でしたかー?」

 なんと…笹野がそんな阿呆な声でこちらへ駆け寄ってきてしまった。洗濯物はもう干し終わったようだ…。

 笹野の顔を見た瞬間、桜庭は俺を睨んで「笹野さん笹野さん!僕だよ!」とかアピールしやがった。その所為で、馬鹿な笹野は「おー!桜庭さん!」と俺を押し退けて、桜庭の前に立つ。

「おはようございます!どうしましたか?」

 俺は仕方無いので、笹野に押されたまま外に出て、壁に寄り掛かりながら隣の桜庭を睨みつけることにした。だが、桜庭はそんなこと気にせずに貼り付けたような笑顔で笹野に笑いかける。

「笹野さんに会いたかったから、遊びに来ちゃった。」

 しかも、笹野はそんな危険信号とも言える桜庭の言葉を、全くと言っていい程 理解していない。


「……はあ…。『会いたかった』…ですか……。」


 あほ面で桜庭を見つめるだけだった。

「そうだよ〜!」

「…あれ、でも昨日、お会いしませんでしたか?」

「会ったんだけど、また会いたくなったんだよ。」

 そう気持ちの悪い笑顔で、桜庭は笹野へ笑いかけた。

 そして……

「ふふっ…笹野さん、寝癖ついちゃってる。」

 なんと、そんなことを言って笹野の前髪へ手を伸ばした。が、咄嗟に俺がそいつの腕を掴み、笹野が触れられることを防いだ。

「無闇に他人に触んな。」

 睨みつけて圧をかけ、腕を乱暴に投げるように離すと、桜庭は顔を顰めるも焦ったように笑顔を作る。すると、後ろから「碓氷さん、部屋に戻らないんですか?」と何も気にしていないような笹野の声が聞こえてきた。

「ああ、コイツが帰るまではな。」

 笹野の顔は見ずに、桜庭を睨み続けるが……桜庭は「じゃあ、早く用件を伝えなきゃね…。」とか何とか呟いて、笹野へ笑顔で言う。


「笹野さん、これから一緒に出かけない?」


 コイツ……脈ナシなの絶対気づいてんだろ…。それでも、なお誘うって…………やっぱり…コイツ、笹野のことが本当に好きだとは思えない…。笹野を利用しているような気がしてならない……。チャラい男って大体、直ぐ触ってくるし…。

「悪いけどこいつ、今日はずっと俺と居るから。」

 ただただ、馬鹿な笹野が心配なので、俺は笹野が答える前にそう断ってやった。だが、笹野は本当に阿呆なのか驚いたような顔をしてから、桜庭へ「だそうです。なので、今日はごめんなさい。」と断った。

 ……言い方が少し気になるが………まあ、断ったならいいか…。

「ってことでフラれて用件済んだだろうから、早く帰ってくんね?ずっと居られても迷惑。」

「碓氷さん、そんな言い方は おやめください。桜庭さんは私の大切な先輩なんですから。」

 守ろうとしてやってんのに、笹野はそうやって俺を睨んできた。……なんで俺が怒られなきゃいけないんだよ…。

 桜庭は、「ぷっw」と吹き出してから、笹野だけに笑顔を向けて「じゃあね、笹野さん。」と帰っていった。

 アイツが帰ってから笹野は呑気に家に入るが、俺は急いで鍵を上下二つとも閉め、チェーンロックも掛けておく。

「いいか笹野、これからは絶対こうやって鍵は二つ閉めろ。チェーンロックもな。それと、前も言ったが、アイツはマジで注意しておけ。」

 笹野の安全の為に、少し口調を強めて言うが、笹野は「気にしすぎですよ、碓氷さん。」と笑って、真面目に受け止めなかった。

「大体、桜庭さんが悪い人っていう証拠はあるんですか?」

「証拠っていうか…見れば分かんだろ。やけにお前に触ろうとしてくるし。」

「碓氷さんは触りませんもんね。」

 尊敬する先輩を悪く言われて腹が立ったのか、少し嫌味ったらしく笹野はそう返す。

 だけど、俺のアイツを疑う気持ちは変わらずにいた。何故だか分からないが………俺の勘が言っているのだ。アイツはヤバいと…。

 あの頃の姉さん以外に、初めて出来た「大切な存在」だからこそ……笹野が傷つけられるのは絶対に嫌だった…。

 だが、笹野は俺の忠告を聞こうとはしない。若干、俺は「どうして分からないんだ」と腹を立てていた。

「………俺の服が乾いたら帰る。」

 なのに……


「…そうですか。では、それまではゆっくりと寛いでください。テレビでも見ますか?」

 少しだけ悲しそうな笹野の顔と………いつもの笑顔を見てしまえば……

「……そうだな…。…一緒に見るか…。」

 忠告を聞かないなんて小さなこと、どうでも良くなってしまった。

 確かに危ないかもしれないが、経験を積む良い機会かもしれない。アイツが予想通り何かしてくれば、笹野もこんなホイホイ人間を信じなくなるだろう。信じ過ぎも、あまり良くないからな…。

 それに……笹野の人生なんだから、俺が干渉する必要なんか無い。口うるさく言う奴がいると、選択肢も減るだろうし……あまり口は出さないようにするか…。










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 碓氷さんが一日だけ泊まった一週間後の土曜日。

 私は、いつものようにスマイリーホームズへ遊びに来ていた。だが、今日の目的はいつもの麗華さんではなく、土曜出勤の碓氷さんだ。


「こんにちは、碓氷さん。」

「おー…って、今日は桔梗さん居ないぞ?」

「そんなの知ってます。碓氷さんに会いに来たんですから。」

「……へー…。…何の用だよ?」

「へへん」

 「自分に会いに来た」という状況に、少しだけ嬉しそうな顔を隠そうとする碓氷さんに何をしに来たかというと……

「碓氷さん、明日、映画を観に行きましょう!」

 そう、碓氷さんをお出かけの誘いに来た。今の碓氷さんなら、何だかんだ言って「まあ、仕方ねぇ…。」と来てくれるだろう。なんて思いながら、呑気に碓氷さんの返答を待っていると……


「………行くかよ…。」



 なんと、思いもよらない言葉が返ってきた。


「えー!どうしてそんなこと言うんですか?!!」


 あまりの予想外の答えに、つい大声を出してしまった。そんな私の顔を見て、碓氷さんは目を逸らして言う。

「……大体、何の映画だよ。どこの映画館で何時からとか…条件を提示しろ。」

「なるほど!観る映画はティモシー・シャラメ主演のウォンカとチョコレート工場のはじまりです!明日のチケットを御園さんが丁度、二枚くださいました!なので、映画代は無料ですよ〜!場所は調べたところ、この周辺のショッピングモール全てで上映しているそうです!一番近いところだと……イオンですかね。時間は……」

 そう呟きながら、私は改めて近くのイオンシネマの情報を調べる。

 が、碓氷さんが小さな声で言った。

「…一番近くだとアリオ。」

「ほう!近くだとアリオなんですね。」

 碓氷さんが言った言葉を復唱して、私は検索欄を「イオンシネマ」から「TOHOシネマズ」に変更する。


 ……ん?


「ということはっ…!一緒に映画観に行ってくれr――」

「行かない。」

「………。」


 ……なんだ……………。


「映画なら桔梗さんと行けばいいだろ。」

「…そういう訳にはいかないんです……。」

 あんな暗闇の映画館には絶対と言っていい程、五人以上幽霊が現れる。だから、私は映画好きにも関わらず、怖くてもう十五年以上、映画館で映画を観ていなかった。

 でも、幽霊が(恐らく)近づけない碓氷さんが居れば、恐怖なんか忘れて映画を存分に楽しめるだろう。そんな考えだった。

 それに、何よりも……碓氷さんの隣は安心するし、とても楽しい。だから、碓氷さんとお出かけしてみたかったのだ。

「碓氷さぁ〜ん……お願いしますよォォオ…。」

「嫌だ。行かない。」

「どうしてですかァァァ……私のこと、お嫌いなんですか…?」

「別に嫌いじゃねぇよ。」

「碓氷さああああん……。なら行きましょうよ…。」

 そう頼んでも、碓氷さんは私を無視するだけ。私は悲しくなって、ゆっくりと振り返り、出口へ向かった。

「………私は仲良しだと思っていても…碓氷さんにとっては、何でもないんですね……。」

 涙声で、私は小さく呟いてみる。

 すると…………


「……あぁもう……分かったよ行ってやる…。行けばいいんだろ、行けば…。」

 碓氷さんの弱々しい声が聞こえてきた!つい零した笑顔で「ホントですか?!」と振り返ると、碓氷さんは「()めたな……。」と睨む。今にも泣きそうな声をしていた私が、全く泣いていないからだ。だけど、少しだけ碓氷さんも嬉しそうだった。

「……まあ…俺も観たいやつだったからいいけど…。」

「エッ…じゃあどうして断ったんですか!!!相変わらずイジワルですね!碓氷さんは!!」

「そんなこと言うんなら、映画行ってやらないからな?」

「はぁあ?立場を利用して人を操ろうとするなんて、ズルいですよ碓氷さん!」

「別に操ろうとしてねぇわ。というか、早く帰ったらどうなんだよ。ここはガキが遊びに来ていい場所じゃないぞ。」

「ガキとか言わないでください!私はきちんと成人してます!碓氷さんと違って、お酒も飲めるんですから!」

 碓氷さんの言葉に腹を立てて言い放つと、碓氷さんは焦って立ち上がる。

「バッカ…!お前それ言うな…!」

 だが、私の前に迫るだけで口を押えたりはしなかった。如何にも、押さえそうな勢いだったのに。

 そういえば、碓氷さんは前にも私が近づくと嫌がっていたな。

 不思議に思って、私は碓氷さんの腕を何となく掴んでみた。

 だが……


「は?」


 碓氷さんは眉間に皺を寄せて、グイグイと離そうとするだけで、振り払ったりはしない。


「え、なに急に。」


 ……潔癖症というわけでは無いのかな?

 なんて考えながらも碓氷さんの腕を眺めていると、私の腕よりもガッシリとしていることに気がつく。

 腕だけでも全然、構造が違うんだな…。

 ……そういえば………


「男の人の腕、初めて触りました…。」


 初めて触る自分とは違う感触に、興味津々になってきて呟くが、碓氷さんはただただ「?」の浮かぶ顔で「おお…そうか…?取り敢えず離せ…?」と言うだけだ。

「ちょっと待ってください、もう少し観察したいです。」

 本当に比べたくなる程の構造の違いに、興味が尽きない。だから、私は碓氷さんの大きく直線的な手のひらを広げてみた。そして、私より弾力の無い、硬い肌を無心で触っていた。が……


――バッ…!!


 突然、手を振り払われた。碓氷さんは変に赤くなった顔で私を見つめて、三歩ほど私から離れている。

「……擽ったかったですか?」

 突然どうしたんだと思いながら尋ねるが、碓氷さんは口元を大きな手の甲で隠して、私から目を逸らすだけだった。そして、目を合わせないまま小さな声で言う。

「…きょ……今日はもう帰れ…。仕事する……。」

 顔は何故だか耳まで真っ赤で、目を合わせようとしても意地でもこちらを向いてくれなかった。

「……あ、はい!お邪魔してすみません。お仕事頑張ってください!」

 碓氷さんの赤くなった頬に、覇気の無い弱々しい声に、私の手に残る大きな手の感触に……何故だか物凄くドキドキしてきて、私は急いで出口へ向かった。

 そして、

「頑張りすぎちゃダメですよ!」

 吐き捨てるように言って、お店を出た。











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 映画を観に行く当日。俺は態々、車で笹野の家まで迎えに来ていた。


 約束をしたあの日は、笹野のあまりの手の小ささと柔らかさに……笹野のじっと俺の手を見つめる可愛らしさに、柄にも無くドキドキなんかして動揺してしまった。

 だが、いつも通りで接さなくてはいけない。飽くまで俺たちは「友達」だから。

 それに、ドキドキしたからと言って、あんなガキに恋愛感情を抱いている訳でも無い。というか、六歳下にドキドキするとか普通にロリコンだろ……。俺はロリコンなんかになりたくないからな……。


『着いた』

 そうLINEを送ると、家から半ズボンのオーバーオールを着た笹野が飛び出してくる。そして、嬉しそうに駆け寄り、扉を開けて助手席に乗った。

「おはようございます、碓氷さん!」

「おう。」

 ……………。

「……お前、オーバーオール以外の服無いのかよ…?」

 休日に会うと、毎回子供っぽいオーバーオールを着ているので、俺は不思議に思って尋ねた。だが、笹野は自分の服を改めて見てから答える。

「ありはしますが……このスタイルが気に入ってるんです。何か変でしょうか?」

「『変』というか……」

 …………うーん……こんな子供っぽい服装してる奴なんて中々いないぞ…。

 ……けど…………似合ってるな……。何だか、笹野らしいと言われれば笹野らしい。こんなにオーバーオールが似合う大人はいないかもしれない。

「ま、いいんじゃね?子供っぽくて。」

 そう笑いながらギアチェンジをして車を発進させると、笹野は思った通りムスッとする。

「『子供っぽい』とか言わないでください。」

「子供好きそうだからいいだろ。」

「好きですが……言われるのは違います。」

 キッと睨むように目を鋭くした笹野は、そう言うと、直ぐにその鋭い目を優しい視線に変える。そして、ワクワクとした様子で尋ねてきた。

「碓氷さんは、子供はお好きですか?」

 そんな何も考えていなさそうな笹野の質問に、俺はドキッとする。そして、考えたくないことを改めて考えてみた。…答えが変わっているかもしれないなんて、有り得ないことを願いながら。


 でも……


「子供は………嫌いだ…。」


 やっぱり、昔から答えは変わらなかった。

 …子供は嫌いだ……出来ることならば、視界にも入れたくない…。あの純粋な笑顔を見ていると……穢れていない綺麗な目を見ていると………自分の子供の頃を思い出すから…。

 あの頃は、ただ優しく話してくれる姉さんに縋りついて、捨てられないようにと頑張っていた。成果を残せば褒めてくれる母親や父親よりも、成果なんて気にせずに接してくれる姉さんの方が好きだったから…。

 でも………そんな姉さんにも、小学二年生の秋、俺は見放されてしまった…。

 昔のことを思い出して、解決も出来ない意味の無いことを考えている俺に、笹野が楽しそうに笑いかけた。

「確かに、碓氷さんは子供苦手そうです。でも、文句言いながらも、結局は優しく接してくれそうですね!」

 そんな、笹野の綺麗な笑顔を見て、俺は思い出した。出会って直ぐの頃には、俺は酷く笹野を嫌っていたことを。

 こいつを嫌っていた理由も、俺が子供を嫌う理由と同じだ。直ぐに人を信じて、疑うことを知らないようなこいつの笑顔にイライラしていた。

 ……でも、今はこの笑顔が…………。


 笹野の子供のような眩しい笑顔を見ていると、子供のことも、いつか好きになれるような……そんな気がした。

「碓氷さんっ。」

「ん?」

「車、出してくださってありがとうございます。」

 ……やっぱり、俺はいつか子供も好きになれるだろう。

「………ん、どういたしまして。」




 映画館に着くと、まずポップコーンを注文しようという話になった。

 そして、並んでいる間に「ポップコーンは二つ頼むよりも、デカいのを一つ頼んだ方がお得になるので、二人で一つにしよう」と、決めていたのだが、俺はポップコーンといえば塩味、笹野はキャラメル味、というような認識をお互い勝手に抱いていたので……

「ポップコーンはキャラメル味でお願いします!」

「かしこま――」

「は?なんでキャラメルなんだよ。塩だろ、塩。」

「はあ?塩なんて有り得ませんから!映画を観てたら、甘〜い味が欲しくなるんです!」

 揉め事になった。

「いやいや、キャラメルなんて邪道過ぎだから。映画のポップコーンには塩しか有り得ない。てか、俺が甘いの嫌いなの知ってんだろ。」

「でもよく考えてみてください、碓氷さん。今日観るのは、『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』ですよ。()()()()()()です!絶ッ対、上映中に甘いものが食べたくなりますから!!」

「あのなあ、さっきから言ってるけど俺は甘いの無理なんだよ。笹野と違って、そんな不健康なもの自分から食いたいとは思わねぇんだわ。」

「はあああ?!!塩の方が不健康だと思いますけどね?!それに、塩のポップコーンの上には確かバターをかける筈です!あんっな油分と塩分が多いものがかかったものを食べたら、ガンになりますよ!ガン!!」

「キャラメルの方がガンになんだろ!焦げた砂糖だぞ!あんなん、誰が好んで食いたがるって言うんだよ!大体、バターかけるのは『お好み』で選べるから!!まあ?バキュームみたいに食いしん坊なお前はバター増し増しにすると思うけどな!」

「全国のキャラメル好きに謝ってください!好き嫌いは人それぞれなんですから、キャラメルを侮辱するようなこと言うの、やめて貰えますか!!それに私!食いしん坊なんかじゃ、ありませんから!!」

「侮辱してんのはどう考えてもそっちだろ!いいか、キャラメルはマジで無いからな!ベタベタするし甘いし匂いも強いし最悪だ!それと!お前は絶対に食いしん坊だ!!」

 店員が目の前に居ることも忘れ、俺たちはひたすら、沸々と怒りを沸き立たせながら喧嘩をしていた。だが……

「あの〜………」

 店員が気まずそうに、小さく声を出した。そこで漸く俺たちは、注文中だということを思い出す。

「はっ!!!ごめんなさい凄く時間取っちゃってますね…!!」

「……先に決めておくべきだったな…。すみません。おい笹野、一旦 ()けるぞ。」

 これ以上、周りに迷惑をかけてはいけないと思い、そう言って俺は注文カウンターから離れようとした。だが、店員は「いえ…そうでは無く………」と答え、離れようとする俺たちを引き止める。そして、とても言いづらそうに伝えた。

「……Lサイズなら、二種類の味をお選び頂けます…。」


「「・・・。」」


「ハッ…!なんてこった!そんな便利なことが出来るんですか…?!!ではっ!それでお願いします!!味は塩とキャラメルで…!!!」





 映画が始まり、ふと隣を見てみると……笹野は瞳を宝石のようにキラキラと輝かせながら、とても楽しそうに映画に集中していた。今は、ウォンカが歌いながら楽しそうに踊っているシーン。

 本当……こいつ、見てて飽きない奴だな…。映画と同時にこいつの表情を見ていたい。

 なんて一人、笑いを堪えて笹野のことを見つめていると……


 笹野が気づいてこちらを見た。

 その瞬間、やべっ…と一瞬だけ胸を鳴らすが、笹野は音楽に合わせてにっこにこで俺に笑いかけながら、頭を揺らす。それを見ていると、気がつけば俺も何となく笹野に合わせて小さく首を動かしていた。

 二人で音楽に合わせて、小さく頭を揺らし、同時に正面を向く。そんな、俺と笹野の揃った動きに少しだけ頬を緩ませて、俺は漸く映画に集中し始めた。





 物語の中盤頃、ポップコーン塩味を食べ進めていると……


――ちょん…


 笹野のあたたかい手が俺の手に触れた。ビクッと瞬時に手を引っ込めてから、疑問に思う。

 ………厚紙の仕切りで分けられているキャラメル味は笹野側にずっとあるのに、なんでこっちに手が伸びてるんだ…???

 訳が分からなくて、俺は思わず笹野の方へ視線を移す。


「………。」


 笹野は楽しそうに映画を眺めながら、当たり前のように俺の塩味ポップコーンを食べていた。何か言おうかとも思ったが、小声でも結構、周りの気は紛れてしまう。俺は仕方無く我慢して、甘ったるいキャラメル味を少し手に取って、口へ運んだ。

 それだけなら、まだ良かったのだが……


 ポップコーンを奪われてから十分程経った頃、笹野の座っている左隣から二回程、肩を叩かれた。何の用だと思いながら振り向くと、笹野が人差し指一本を立てて、俺の方のドリンクホルダーに置いてあるジンジャーエールを遠慮がちに持っている。

「………。」

 俺が黙っていると、笹野は口パクで言った。

『ひとくち、いいですか?』

「…………いやなんでだよ…。」

 流石にこれは、小声で意義を訴えるほかならなかった。だって、笹野だってきちんとMサイズのオレンジジュースを持っている。それなのに、何故 俺の分まで飲む必要があるのだ。

 俺の意義に、笹野も小声で答える。

「炭酸が欲しいんです。」


 ………。


「お願いします碓氷さん…!」

 映画を気にするように、チラチラと大スクリーンを見ながら、笹野はそう頼んだ。


 ……………………はぁ…………


「……勝手にしろ…。」

「ありがとうございますっ♪」

 嬉しそうにいつもの笑顔を見せながら……笹野は何も気にしない様子でストローに口をつけ、三口も俺のジンジャーエールを飲みやがった。そして、ニコッと笑いかけてからドリンクホルダーに戻す。


 ………………飲みづら………。というか、少しは気にしろよ……。……くそ…………。





 映画が終わると……

「っ……グスンッ…………うぅっ……」

 このスクリーン内で一人だけ、笹野がボロボロと涙を流していた。

「さいごのぉっ……ママのチョコレートの使い方がもうぅぅうっ………」

 どうやら、このミュージカル映画にめちゃくちゃ感動したらしい。確かに感動する内容ではあったが……ここまで泣く程か…?

「面白かったな。」

「はいぃぃ……とてもっ…いい作品でしだああぁぁああああっ…!」

「そうだなw」

 涙を流す笹野が段々と面白くなってきて、俺はその笑顔を隠すこと無く、笹野へハンカチを渡す。笹野は「ありがとうございますぅっ……」と泣きながら、ボロボロと溢れてくる涙を拭った。

「そろそろ昼飯か。何食いたい?」

「うぐふぅっ……ラーメン食べたいですぅぅうっ…。」

「ラーメンか、いいな。ここの中のラーメン屋、結構美味いらしいぞ。そこにするか?」

「はいっ……。」

 笹野は未だに「っ……ふっ…」としゃくり上げている。そんな笹野が可笑しくて、俺は「ぶっww」と吹き出してしまった。

「おまっwいつまで泣いてんだよww」

「だってぇぇっ…ヌードルちゃんが最後幸せそうでぇぇぇっ……!!」

 そう言ってわんわんと泣く笹野の涙は、透き通り、綺麗だった。そんな笹野の純粋さに、またひとつ笑顔が零れる。

「そうだなw幸せになれて良かったなぁw」

 



「ふぅ、ラーメン美味しかったですねぇ〜。それに、映画もすっっっごく面白かったです!あの映画は楽しい気持ちになれますね!」

「そうだな。」

 ラーメン屋を出て腹を(さす)る笹野に、柄にも無くニッコリと返すと笹野は本当に嬉しそうに呟く。

「いや〜、あんなに映画を楽しめたの、本当に久しぶりです!」

「そうなのか?映画好きなのに?」

 俺は友達なんか居ないので、映画館はあまり来たことが無かったが……笹野なら誰とでも行けそうだけどな…。ポップコーンの仕様もあまり知らなかったみたいだし……。

 少し不思議に思いながらも聞き返すと、笹野は何だか聞かれたくなかったかのように「あっ……」と声を零した。そして、慌てて変な笑顔を見せる。

「…えと……ここ最近忙しくて、そのっ……ず、ずっと行けてなかったんです…。」


 ………。


 …………嘘か…。


 笹野のいつもより曇った瞳を見て、俺はそう気がついた。でも、笹野からは話したくないような気持ちが窺える。もしかしたら、笹野でもあまり人に知られたくないような内容なのかもしれない。そう思って、俺は気にしないことにした。

「そうか。……それなら、も…もし…また観たい映画が見つかれば………俺を誘えばいい…。」

 笹野と映画を観るのは、一人で観るよりも何倍も楽しい。だから、そう…恥ずかしい気持ちを抑えて言ってみると、笹野は「え…」と小さく呟いて顔を上げた。目を丸くして、俺を見つめている。

 …………誘い方、変だったか…?

 なんて、普通が分からず、徐々に不安になっていくが……

「いいんですか?!!」

 そんな、不安も忘れるくらいの、キラキラとした眩しい笑顔を、笹野は俺に向けた。

「やった〜!!では、また一緒に映画に行きましょう!帰ったら速攻、観たい映画を調べます!」

「い、いや……そこまで無理矢理、見つけなくても…――」

「碓氷さんも何か見つけたら教えてくださいね!他の人と行っちゃダメですよ!」

 …………なんでそんなに嬉しそうなんだよ……。

「……分かったよ…。」

 笹野の意味不明な言動にまた混乱していると……暫くしてから、笹野は「あっ。」と声を漏らした。「なんだ?」と、俺は隣を歩く笹野を見下げる。すると、笹野はとても嬉しそうな笑顔を俺に見せた。

「観たい映画思い出しました!」

「早っ。……それで…?なに観たいんだ…?」

「『ハリー・ポッターシリーズ』です!『ハリー・ポッター』は全シリーズ観たことありますが、もう一度、碓氷さんと観たいです!あのシリーズは大好きなので!」

 『ハリー・ポッター』か…!!!それなら俺も大好きだ!!というか……

「…俺ん家、全巻DVDある。今から行くか?お菓子でも買って。」

 って……つい誘ってしまった…。しかし…「家で映画観よう」なんて誘いは、幾ら何でも怪しすぎる……。勘違いされたらどうしよう……。

 なんて、俺は誘い方とタイミングに後悔していたが……

「いいですね!早速、お菓子を買いにスーパーに行きましょう!」

 なんと、笹野は一切の疑いもかけずに、二つ返事でOKした。

 …………こいつ、危な……。




 モール内のスーパーにて。

「悪いけど、俺は晩御飯の材料を買うから先にお菓子選んどいて。」

 買いたいものがあったので、俺たちは二手に分かれることになった。笹野は残念そうに「…分かりました……。」なんて嘆いて、お菓子コーナーへ一人で歩いていった。


 ……夕飯は何にしようか………。というか、あいつ…晩飯……うちで食うのかな……。…………そうだと、いいな………なんて…………また、柄にも無いことを考えてしまっている…。

 ……あいつと出会ってから、俺、まるで別人みたいだ……。前は何よりも一人が好きだったのに…。今は………好きだった筈の「一人」よりも…笹野と居たいなんて…考えてしまっている……。

 ………「依存」……なのだろうか………。依存なんかしたくないのに…。……取り敢えず、笹野には迷惑をかけないようにしよう………。もうすぐで三十のおっさんが自分に依存してるとか怖すぎだし…………。

 そう心に決めながらも、俺は晩飯の材料をショッピングカートに入れ、お菓子コーナーへと向かった。

 が……お菓子コーナーには、笹野は居なかった。

「………酒か…。」


 あいつの好みから居場所を突き止め、酒コーナーへ足を運ぶと……やはり笹野は居た。だが、笹野はなんか若い男二人に絡まれている。

「あ〜、やっぱ嬢ちゃんカワイイわ。後ろ姿からカワイイ匂いしたんだよね〜。目ぇ、くりっくりじゃん。」

「ねぇ嬢ちゃんさ、オレらと今から飲まない?」

「『可愛い』だなんてそんな!えへへっ…ありがとうございますぅ♪」

「………。」

 一丁前にナンパされてやがる…!!!

 というか、ショッピングモールでナンパする奴いんのか?!!もっと洒落た場所選べよ!!てかもしかして笹野、自分がナンパされてることに気づいてない…?!!飛んだ阿呆だな…!!どこまで馬鹿なんだ…?!!

 笹野のあまりの阿呆さに驚愕していると、三メートル程離れたところに居る笹野は、勢い良く頭を下げた。

「お褒めの言葉とお誘いは嬉しいのですが…私は今から、友達のお家で映画を観るんです♪ なので、お断りさせて頂きます。」

 よしよし、きちんと断りはするんだな…。良かった……。なんて安心しているのも束の間、ナンパ男は二人で顔を見合わせ、ニタァと気色の悪い笑みを浮かべた。そして、「えぇ〜、断っちゃうの〜?」とか言いながら、一回りも二回りも……それよりも、もっと小さい笹野に詰め寄ってきた。


 やばいなこれ…。


 そう悟った瞬間、俺は変な汗が出てきた。「手に汗握る」というのはこういうことか、と頭の片隅で変に納得する。俺は考える前に身体が動いていた。


「妹に何の用?」


 無理矢理、男と笹野の間に入り込み、笹野を隠すように後ろへと下がらせたのだ。そんな俺に、男二人はギョッとして後退りをした。


 そして……


「…チッ……家族と来てんのかよ…。」

「タイプだったのに……!」

 俺の真っ赤な嘘を信じ込み、口々にそう言って、スーパーの外へ逃げていった。

「ふぅ………」

 良かった…暴力振るうような奴らじゃなくて…。

「…大丈夫か?どこも触られてない?」

 どっと疲れが押し寄せてきながらも、兎に角早く確かめようと尋ねるが……

「……? はい。」

 きょとんとした あほ面で、笹野はそう答えた。

「っというか!私、碓氷さんの妹じゃありません!」

「…………。」


 ……………。


「………ま、怪我なくて良かったわ。言っておくけど、あれが俗に言う『ナンパ』だから気をつけろよ?」

 若干、笹野のあまりの能天気さに腹が立ったが、何事も無かったならそれでいい。酷く安心した所為か怒る気力も無く、俺は忠告だけしておいた。すると案の定、笹野は「ハッ…!」と目を丸くする。

「あの方たち、ナンパだったんですか…!!!」

 ……やっぱり気づいてなかったか…………。

「初めてされました…!!」

 …いや……その感じだと気づいてないだけで、前にもされてるんじゃ………。

「……兎に角、お前は色々と警戒心に欠けてるから気をつけろよ。もっと人間を疑え。」

「それは難しいことではありますが……『ナンパ』には気がつけるように頑張ります!」

「………うん、まずはそこからだな…。」

「はい!」

  そんな、笹野のいつもの笑顔を見た瞬間――俺は、何故だか全身の力が抜けてその場に座り込んだ。

 「はぁぁぁ……」と弱々しいため息が零れる。

 そんなに怖い奴らでもなかったのに、手が小さく震えている。

 そんな俺を見て、笹野は相変わらず きょとんとしている。

 「ナンパ」と知ってもなお、自分の身がどれくらい危険だったのかは、充分に理解していないようだ…。


「碓氷さん?」


 ………。


 ……………あぁ……………………


「………もう……………」



 …………………心配させんなよ……………。



「…………今度から、出かける時は俺から離れるなよ……。」

「『二手に分かれよう』と仰ったのは碓氷さんです。」

 ……………。

「……そうだな……。悪かった…。」





「碓氷さんは、どのキャラが好きですか?」

 『賢者の石』の途中で、机の上に広げたお菓子を頬張りながら、笹野はスーパーで買ったワインを飲みながら尋ねた。

 よくぞ訊いてくれた…と、ハリポタオタクの俺は嬉しくなる。だが、ハリポタオタクだからといって、他の奴らが知らないようなキャラクターの良さを知っている訳では無い。ただ、語りたいのだ。

「圧倒的ハーマイオニー。」

 ドヤ顔で答えると、笹野は俺が話に乗ってくれたのが嬉しかったのか笑顔で「どんなところが好きなんですか?」と俺の方を向く。

「『マグル生まれ』っていう、結構なハンデを乗り越えられる程の勉強熱心で、真面目で、その知識とアイデアでハリーやロンの手助けをほぼ毎シリーズしてるところ。それと、スネイプ先生のローブを燃やしたり、ドラコにグーパンをかましたり、めちゃくちゃ勇敢だから。ただ、真面目なだけじゃなく、シリーズを追うごとにハリーやロンと居ることで、行動が大胆になってく人間性も好きだな。」

 少し語り過ぎたかと思ったが、そんな心配する必要は無かったみたいだ。笹野は「ふふん」と何だか嬉しそうに笑った。

「碓氷さんにも好きなものがあったんですね。」

 そんな笹野の優しい笑顔に、俺はまたドキンと胸を鳴らす。多分……俺のことを、見ようとしてくれていることが嬉しかったのだろう。今まで、本当の意味で俺に興味を持ってくれる人なんて居なかったから。

「……笹野は…誰が好きなんだ?」

「よくぞ訊いてくださいました!実は私も、結構なハリポタオタクなんです!」

 マジか…!!

「十一歳の誕生日には入学許可書がいつ来るかと待ち望んでいたのですが……」

「来なかったんだな…。」

「はい……。」

「その気持ち…よく分かる……。」

 十一歳になる頃は、既に姉さんに失望されていたし何も楽しいことなんか無くて、小説と映画のハリー・ポッターが唯一の救いであった。でも……誕生日、次の日の零時が回るまで頑張って起きて、ハグリッドが迎えに来るのを……ハグリッドじゃなくても、せめて入学許可書だけでも………なんて、叶いもしないと分かっていることをいつまでも望んでいたのを覚えている…。

 ハリポタ好きの子供が、絶対に通る道について思い出していたが、笹野の声によって俺の意識は引き戻された。

「それで、私の好きな『キャラ』ですね♪ 私は、ネビルとルーナが好きです!心優しくて少し内気なネビルが、最後にナギニを倒したシーンはとてもカッコよかったですし、ルーナはみんなと違う、言わば『変人』ですが、ヘンテコなことを言ったかと思えば、それは的を得ているような発言だったり、何気無い一言でハリーたちの心を解きほぐす不思議な力があるので、私は昔からルーナに憧れていました!それと、ネビルとルーナの恋を匂わすシーン…あれ、原作ではありませんでしたが、あの二人はピッタリだなと思いました!両親をベラトリックスの手で殺されてしまったネビルの悲しさを、幼い頃に母を亡くしてしまったルーナが埋めてくれるような気がします!」

 あぁ…………

「分かる……。めちゃくちゃ…。」

 こいつ………デキる…!!!ネビルとルーナという案外マイナーなキャラを選ぶところも、原作と比較した上に映画のいいところを挙げていくところも…………!

 やばい…!今日、こいつと全シリーズ観尽くしたい…!!!

 そんなことを考えてワクワクしていると、笹野が突然言った。


「それと…ドラコも好きです。ドラコと碓氷さんって、どこか似通った点がありますよね。」


「はっ?」


 …………ドラコは……確かにいいキャラをしている…。ずっと嫌な奴だったが、お辞儀おじさんの手下である父親を持ちながらも、完全には悪になりきれない、恐怖と正義との葛藤が作中に何度も描かれていて……憎めないキャラだ…。それに……ドラコがいなかったら、あの『ハリー・ポッターシリーズ』は成り立たなかっただろう…。あんな良い作品にはならなかった筈…。

 でも…………

「……そんなこと言われると…ドラコが嫌いになるから、やめてくれ…。」

 何も誇れるものが無い俺とは、重ねて欲しくなかった。だけど、笹野はいつもの優しい笑顔で微笑んだ。

「碓氷さんは、自分のことがお嫌いですか?」

 そして…………


「私は好きですけどね。真面目で誠実なところも、何だかんだ言って優しいところも。真っ直ぐなところも。」


 疑いなんか全く無い、自信満々な顔で笑った。

 視界の端では、ハリーがみぞの鏡の前でダンブルドア先生と話していた。

 また言われたことの無いようなことを言ってくるから、俺は混乱する。顔が熱くて、この場から逃げ出してしまいたかった。

「それと……案外、照れ屋さんで可愛らしいところも。」

「…………。」

 ………まじ恥ずかしい…………。


「……よくそんなことを、恥ずかしげも無く言えるよな…。」

 恥ずかしくて堪らないので、俺はわざと嫌味ったらしく返す。だけど、笹野はまるで俺の心の内を分かっているかのように、そのまま笑顔を見せた。

「恥ずかしくなんかありませんよ。だって、()()ですから。」

 …………「事実」……。

「相手に『好き』を伝えるのは大切なことですよ、碓氷さん。ただ自分の思っていることを伝えるだけで、どん底にいる人を、少しだけですが結構 簡単に、元気にさせちゃいます。碓氷さんは、私のどんなところがお好きですか?」

「はっ?お前 今、どん底でも何でもないだろ。」

「練習ですよ♪ほらほら♪」

 そうウキウキとした様子で、笹野は俺の腕を人差し指でつつく。

「…暑苦しい近い触んな。」

 こいつ……自分が褒められたいだけじゃねぇの…?

 俺が離れても、笹野は尻尾を振る犬のようにキラキラとした瞳で俺を見つめ、離れた分だけ近寄ってくる。


 ……………ああもう………そんな顔で見るなよ…………。



 あぁ……くそっ…………。




「…………………っ……えがお…が好き……。」




 笹野の熱い視線に負けて………俺は……仕方無く、伝えた。

 すると、笹野は…………


「えぇ〜!ホントですかホントですか〜?!私も碓氷さんの笑顔、大っ好きです!!そんなこと言われたらもっと笑顔になっちゃいます〜!♪♪♪」


 めちゃくちゃ喜んだ。そして、本当に嬉しそうに可愛らしく笑う。……こんなガキが可愛いとか、認めたくないが、これに関しては「可愛い」以外の何でもない…。

「……もう黙れ…。映画に集中したい……。」

「はい!黙ります!どうぞ集中しちゃってくださいっ!♪」

 笹野に言われて漸く正面を向くが…………

 …………集中出来る筈が無い……。




 結局、二作目の『秘密の部屋』まで観て、笹野は俺の家で晩飯を済ませることになった。

「ん〜!やっぱり、碓氷さんの作るお料理は絶品ですね!」

 顔を上げると、お手本のように美味しそうな顔をする笹野が居る。

 …………うん…やっぱりこっちの方がいい……。

 こいつの笑顔は元気が出るな。なんて、思わず俺も笑顔を零していると、笹野が突然言う。

「碓氷さん、もし魔法ワールドのアイテムを一つだけ使えるとしたら、どれを使いたいですか?」

 そんな、笹野の「もしもの話」を俺は真面目に考えてみた。

 ……うーん…………不老不死にはならなくていいから、賢者の石は要らないな……透明マントも、特に使い道が無い…。ポリジュース薬も特には………。

 ……あ、

「…みぞの鏡。」

 思いついた言葉をそのまま声に出すと、笹野は興味津々で瞳を輝かせる。

「それはどうしてですか?」

「……自分が本当に欲しいものを…知りたい…。」

 よく考えたら………俺は、あまり物欲が無かった……。あれが欲しい、これが欲しいとか……もう少しあってもいい筈なのに、自分が何を求めているのか、全く分からない…。幸せになりたいとは思うが……そもそも、俺にとっての「幸せ」って何なんだ…?………幾ら考えても分からない…。かと言って、現状に満足している訳でも無いし……。

 浮かんできた疑問の答えが一生分からなくて、一人、首を傾げていると……

「確かに…!私も自分が何を欲しているのか全く分かりません!」

 楽しそうな笹野の声が聞こえた。顔を上げると、笹野も首を傾げて呟く。

「あ、でも……私の場合、鏡の中には今の私がそのまま映っているのかもしれません…。」

 …笹野は……現状に満足しているということか………。

 そう勝手に解釈をして安心すると共に、俺の立場に戻って焦りを覚えていたが……

「ですが、自分の本当に欲しているものが分かったら面白いですね。自分でも知らないような心の奥深くにあるものが知れるなんて、何だか占いみたいでワクワクしちゃいます。」

 笹野の、無邪気な笑顔を見て、一瞬だけ思った。


――今、俺が「みぞの鏡」を覗けば……隣には、いつものように笑う笹野が映るのかもしれない…。


 つまり、笹野とずっと一緒にいられたら幸せだろうな……なんて、俺では有り得ないようなことを考えていたのだ。でも………まだ完全に信じれる訳でもないのに、そんなことを考えるだなんて自己中にも程があると思った。それに、裏切られるかもしれないなんて、不安を抱えながらも隣にいたいだなんて……矛盾している。

 俺は、もう「みぞの鏡」のことは考えないようにして「笹野は?」と尋ねた。俺の言葉に、美味しそうにハンバーグを頬張っていた笹野は顔を上げる。

「はい?」

「笹野なら、何を使いたい?相手に訊いたら自分も答えるのが礼儀だ。」

「そうですねぇ…。…私は…………」

 自分の答えは考えていなかったのか、笹野は今更首を捻った。そして……「あっ!」と思いついたように言う。

「タイムターナーが欲しいです!」

 「タイムターナー」…。……中の砂時計を回せば、過去に戻れるやつだよな………?

「へぇ、意外だな。過去に戻りたい理由でもあるのか?」

 ただ単に、思いもしなかった答えが気になって俺は尋ねてみた。だが、そんな俺に、笹野は「あっ、いや……」と気まずそうに目を逸らす。………映画が好きなのに、映画館にはあまり行かないのか尋ねたときのように、笹野からは話したくないような雰囲気を感じ取れる…。

 そして、またあの時のように笹野は下手くそな作り笑いをした。

「かっ…過去に戻れるって、何だか面白くありません?」

 そんな無理して笑う笹野の笑顔を見ると、胸が痛んだ。純粋無垢そうなこいつでも、やはり心の傷は持っているのだと……。それでも…こんなに明るく振る舞えるなんて…………もしかしたら、笹野はガキそうに見えて、誰よりも大人なのかもしれない…。

 でも……そんな顔、しないで欲しい…。

「……そう…か…。」

「…あっ、そうだ!お菓子なら何が食べたいですか?魔法ワールドには、面白いお菓子が沢山ありますからね!私は……――」




 その日は、晩飯を終えたあと、笹野は直ぐに帰ってしまった。……というか、俺が帰らせた。明日は二人とも仕事だし、今日は疲れただろうから。三作目の「アズカバンの囚人」をいつ観るか……の約束は忘れ、車で笹野の家まで送ってしまった。



「…じゃあな、戸締りきちんとしておけよ。」

「はい!今日はありがとうございました!とっっっても楽しかったです!」

 先程の下手くそな笑顔が嘘みたいに、笹野は向日葵のように笑顔を咲かせ、深く、勢いのついたお辞儀をして、マンションの中へと入っていった。

 ………俺も…今日は楽しかったな……。…ただ……あの作り笑顔が…………いや…俺も、話したくない姉さんのことは話していないんだ…。笹野の話したくない気持ちも分かる……。だから…………気にしないようにしなくては…。






 その数日後。仕事中、店に遊びに来ていた笹野と「馬鹿」だとか「馬鹿じゃない」だとか、「ガキ」だとか「ガキじゃない」だとか、そんな些細な喧嘩をした。

「どうしていつも碓氷さんは私のことを『馬鹿』だと、『ガキ』だと仰るんですか?!」

「そんなん、お前が馬鹿だからだろ。なんでお前は、いつもいつもよく知りもしない人間を信じるんだ。そんなんだから、舐められて騙されるんだぞ。」

「舐められても騙されてもいません!私は正しいと思ったことをしただけです!」

 今回の喧嘩は、ただの何気無い話の途中で、笹野が「泊まる場所が無いから」と助けを求めてきた見知らぬ人間に一万円を渡してしまったことが発覚して勃発した。「助けられて良かったです」なんて、お人好しに笑った笹野に腹が立ってしまったのだ。だって、「泊まる場所が無いから金を恵んでくれ」なんて、絶対に詐欺だろうから。

「それが正しいと思ってるんなら、相当頭がすっからかんなんだな。」

「っ…!友達にそんなこと言っていいんですか…?!」

「お前の為に言ってるんだ!お前が世間知らずだから…!」

 どうして心配してるってことが伝わらないんだよ…!!

「もういいです!碓氷さんなんか知りませんっ!!」

 そう怒鳴って、笹野は桔梗さんのことを探したいのか、店の奥へと入っていってしまった。「おい!待てよ!」なんて言っても、笹野はスタスタと動かす脚を止めない。

「…あぁクソっ……!」

 そんな笹野に更にイラついて、俺はオフィスに戻った。だが……笹野へのイライラと心配が中々、治まらない。いつもなら書類を見ていれば少しは治まる筈なのに…。

 腹を立てながらも俺は、作業することを諦めて、休憩しようとスタッフルームへと向かった。だが……そのスタッフルームから聞こえる会話で、俺は思わず、ドアに伸ばした手を止めた。


「そういえば碓氷くんって、今までの彼女全員に暴行を加えてたらしいわよぉ?殴ったり蹴ったり、怒鳴ったり!」

「えぇ、本当?酷いわねぇ、最低。じゃあこの間来てた『元カノさん』もDVされてたってことかしら…。」

「そうよ、きっとそうよぉ。怖いわねぇ…。そんな人と一緒に働きたくないわぁ。」

 またいつものかと思いながらも、俺はチクチクと針が刺さるように痛む胸を押さえる。


 大丈夫……。こんなの慣れっこだ………。気にするな…。昔からよくあることじゃないか……。こんな馬鹿みたいなことで、傷ついていたらキリが無い…。

 壁に寄りかかって、いつ入ろうか、それとも休憩は諦めようか、なんて俺は、気を紛らわすように考える。

 だが……直ぐに、ドアの向こうのスタッフルームで、何故か周りより何倍も子供っぽい声が聞こえてきた。


「碓氷さんは絶対にそんなことするような方じゃありません!根も葉もない噂話を広げないでください!」


 そんな、いつもより――先程よりも鋭く、ハキハキとした声は不安など全く無い様子で、二人のお局を怒鳴った。とても、真っ直ぐな声だった。

 前にも「頑張ってる」だとか、「真面目」だとか、「何だかんだ優しい」だとか言われたときも……「碓氷さんは笑顔が素敵ですね」だとか、「碓氷さんのこと尊敬しているので」だとか、「信じてますから」だとか言われたときも、俺は混乱した。

 「笹野は大丈夫なんだ」と思ってはいても、やはり、慣れないままで、不安ばかり募らせていた。信じ切れる訳が無いとも思っていた。今まで誰にも言われてこなかったから。

 そんなふうに、俺を認めてくれるような奴には出会ったこともなかったし、あんな笑顔で俺に笑いかけてくる変わり者もいなかったから。

 だから、信じたくなかった。どうせ口だけなんだと、そう自分に言い聞かせていた。その方が楽だったのだ。あの笑顔も言葉も、一度信じてしまえば、裏切られたときに苦しい思いをすると知っていたから。


 けれど……笹野のあの、俺を信じて疑わないような真っ直ぐな声を聞いて………初めて…本当に初めて、誰かを「信じたい」と思った…。

 笹野なら信じられると。今度は確信した。

 そして、あの俺に向ける真っ直ぐな澄み切った瞳も、向日葵のような笑顔も、優しく素直な言葉も、全て嘘じゃないんだと、そう思ってしまった。

 だけど……確信はしても………やはり、どうしても混乱してしまう。何せ、今まで誰も信頼してこなかったので初めての経験だし、俺の感覚が間違っていた場合のことを考えると怖かったから。

 そんな恐怖を感じて扉の横に立っていると、丁度スタッフルームに入ろうとしていた桔梗さんが俺に気づいた。そして、自慢げにウインクをする。

「ね?明香里ちゃん、いい子でしょ?もうとっくに、知ってたと思うけどね。」


――桔梗さんも、笹野を信じているんだ。


 何故か桔梗さんの目を見るだけでそんなことに気がついて、俺は思わず目を逸らす。だが、桔梗さんはそんな動揺している俺へもう一度笑いかけた。今度は安心させるように。


「明香里ちゃんは碓氷のこと、完全に信じ切っちゃってるみたいよ。明香里ちゃんは、適当に言ってる訳じゃないからさ。」


 そんなことを言われると、もっと頭がごちゃごちゃと混乱してくる。

 俺は焦って足早に持ち場へ戻った。その後ろで、スタッフルームから出てきた不機嫌な笹野と嬉しそうな桔梗さんの会話が聞こえる。

「麗華さん…今日、嫌なことがあったので飲みに行きましょう。」

「え〜、嫌なこと〜?何があったの?♡」

「それは言いませんが、一緒に飲んでくれますよね?」

「はいはい、飲んであげるわよ♡」




 その夜…。俺は、笹野に電話をした。

「もしもし?碓氷さんからかけてくるなんて珍しいですね。」

 そんなケロッとした笹野の声の近くで、酔っ払った桔梗さんの騒がしい声が聞こえる。だが………今日、言い過ぎてしまったことを謝らなくてはいけない…。……桔梗さんが邪魔ではあるが…。

「どうしましたか?」

 俺は………喧嘩したことなんか忘れているような声に……思い切って…………――思い切るのに十秒はかかったが……頭を下げた。



「…………さっきは……悪かった…。流石に…言い過ぎた…。」



 そんな俺の言葉に、笹野の声は何故だか嬉しそうだった。

「そういえば喧嘩したんでしたね。私もごめんなさい。」


 …………これ…俺の言いたかったこと伝わってんのか…?


 ……ま、いいか…………。仲直り出来たなら…。

 ………………でも……これだけは、伝えたい…………。


「……その……あんなこと言ったけど……………俺は………ただ………………――」




「ささのぉ、おまえがすきなんだぁ〜!」



「…………。」


 俺が勇気を出して言おうとしたところで、害悪過ぎる邪魔が入った。

 …………いや……言わなくて良かったのかもしれない…。だって………普通に考えて…………アラサーのおっさんに「お前が心配だ」なんて言われたらクソ気持ち悪いだろうから。お前誰だよってなるし……。

 というか………………そんな恥ずかしいこと、言える訳が無い……。そもそも、一歩間違えたらセクハラなのでは…?!危ねぇ…………思いとどまって良かった……。

「………切るわ。」

「えっ、ちょっ――」

「じゃあな。」

 そう言って、俺は通話終了ボタンを押した。










ここまで読んでいただきありがとうございます!

ブックマークや評価、とっても嬉しいです!


改めて、明香里と律月って一周まわって相性良いと思います(自分で言うか)。

なんにも気にしない純粋すぎる明香里に、律月が振り回されるの可愛いですよね(*ˊ˘ˋ*)


ふと見せる明香里の曇った顔……

彼女の過去には結構でかい爆弾を用意してるので、ぜひ期待してください!


次回の《後編》も、よろしくお願いします!




※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。

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