第三章 正義
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「こんばんはー!麗華さんはいらっしゃいますか!桔梗 麗華さん!」
十九時四十五分――定時十五分前、いつも通り仕事を進めていると、入口の方から騒がしい声が聞こえてきた。
その騒がしさに思わず目をやると、特徴的な髪色をしたおかっぱ頭のチビが見える。ため息が零れないよう、丁寧に接客をするが、嫌でも視界の端におかっぱ頭が映ってくる。
いつの間に仲良くなったのか、うちの会社の超面倒臭いお局から大量の飴を貰って喜んでいる。はしゃいでピョンピョンと跳ねる仕草は、まるで子供のようだ。
俺は、あいつが嫌いだ。二十歳を過ぎているというのに、表情も動きも騒がしくてガキみたいだから。それに、どんなことにも何に対しても希望があると思っているのか、キラキラと輝かせる瞳も、この「性格が悪い」で評判の俺に「真面目」だとか「頑張ってる」とか「親身になってくれる」とか、眩しすぎるくらいのギラギラの笑顔で笑いかけてくるところも嫌いだ。
兎に角、あいつの全てが馬鹿馬鹿しくて、見ていると腹が立つ。
今日は一日中雨だったからか待ちの客も居らず、最後の接客を終えたので、さっさと帰ろうと荷物を纏めていると嫌な声が聞こえた。
「あっ!碓氷さん!!」
ため息をついて顔を上げると、桔梗さんと話していた笹野が鬱陶しい程の笑顔でこちらへ駆け寄ってくる。
「何だよ…。」
渋々 返事をすると、目の前で笹野が紙袋を勢い良く突き出してきた。何やらシックで洒落たデザインをしている。
「何これ。」
急に突き出されて困惑している俺の質問に、笹野は相変わらずの笑顔で答えた。
「チョコレートです!」
……。
……………。
「…へぇ。」
なんで?と思いながらも一応は反応してやると、今度は申し訳なさそうに俺を見上げた。
「殴ってしまったお詫びをきちんとしていなかったので……。」
「要らん。俺、甘いもの苦手だし。」
「なんと…!リサーチ不足でしたか……!では、どんなものがお好みで?」
「お詫びなんか要らねぇよ。」
「そういう訳にはいきません!貸しを作るのはあまり好きじゃありませんから。」
「別に貸しを作った覚えは無い。」
そう言って出口へ歩き始めるが、ぴょこぴょこと笹野は着いてくる。
「いいえ、あそこで普通、警察に突き出すべきだったのに碓氷さんはそんなことしませんでした。大きな貸しですよ。」
「へぇ、じゃあ今から俺と警察署行くか。」
「相変わらず意地の悪い方ですね。何が好きか教えてくださいよぉ〜!」
「距離が近い。それと、着いてくんな。」
「私と碓氷さんの仲じゃないですか〜!」
「どんな仲だよ。ただの店員と客だろ。」
「そんなこと言わないでくださいよぉ〜!」
一々 騒ぐ笹野を無視して、足早に出口に向かっていると――丁度いいところに桔梗さんと目が合った。
「桔梗さん、このガキどうにかしてください。」
「ちょっと。この子は『ガキ』なんかじゃないわ。いいじゃない、好きなものくらい教えてあげれば。可愛い可愛い明香里ちゃんの頼みよ?♡」
「……。」
失敗した。面倒なのが増えた。
俺は黙って店を出た。
「ちょっと碓氷さん?!!」
店の中から騒がしい声が聞こえてくるが、勿論 振り返る訳が無い。
「…はぁ……。…変な奴……。」
やっぱり嫌いだ…。なんて考えながら、持っていた折りたたみ傘を開いて歩き始めると――
――「あっ…あの……!!!」
直ぐ後ろから声をかけられた。
ギクッとしたが、どうやら笹野の声とは違うようだ。笹野よりは少し歳のいった声。とは言っても、笹野の声が異常な程 子供っぽいので、歳は笹野より二歳程しか変わらないだろう。
振り返ると案の定、パッと見 、二十五くらいの女性が細い傘を差しながら、顔を赤らめて立っていた。
ジメジメとした嫌な雨の匂いが鼻を突く。
雨粒がアスファルトや傘に弾ける音がいっそう強まって、鬱陶しくて仕方がなかった。
「……俺ですか。」
そう尋ねると、女性はコクコクと頷いた。
…………はぁ……またかよ……。
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「お詫び、どうしましょう…。」
「いいんじゃない?碓氷も『要らない』って言ってたし。」
「う〜ん……怪我も負わせてしまったので、そういう訳にはいかないのですが…。」
そんな風に麗華さんと会話をしながら、お店を出ると……少し離れたところで男女の声が聞こえてきた。
「……で、何の用?」
「えっと…待ってたんです…。碓氷さんを…。……あなたと話したくて……。そのっ……良ければ…インスタ……交換してくれませんか…?」
「碓氷さん」?!!もしかして、いい感じの人いるの?!!あの人に?!!
そう思って私は悪戯心で、雨音が傘に当たる音を意識的に排除するように耳を傾ける。
だけど、聞こえてきたのは……
「は?出待ち?怖っ。てか、あんた誰?」
カップルと考えるには、あまりにも冷酷過ぎる声。
あ、違うんだ…。…というか……なんだあの言い方は…。
「え……。あなたに…物件を紹介してもらって……その時に――」
「悪いけど、覚えてないわ。態々仕事終わりに出待ちされるとか、迷惑だから帰ってくんね?」
そんな心無い声は、まるで自分に向けられた言葉のように感じて、胸がぎゅうっと締めつけられているようだった。
突然強くなった雨音は、私を置き去りにして独り善がりにアスファルトを濡らし続けている。
私は、碓氷さんのあまりの言い方に居た堪れなくなって、傘を差してくれている麗華さんの隣を飛び出した。
「ちょっ!ちょっと待ってください!酷くないですか?!」
「またあんたかよ……。あんたには関係ないだろ、一々首を突っ込むな。」
腹が立ったようで碓氷さんは眉に皺を思い切り寄せて、そう言う。だが、そんなことで引き下がれる訳が無い。だって、目の前の女の人…凄く悲しそうだったから…。
「この方は碓氷さんのことが好きなんです!もう少し言い方に気を使ったらどうです?!それに、連絡先くらい交換してあげてもいいと思いますけどね!!」
「そんなん交換して何になるんだよ。」
「何になるって…普通に話したり出かけたりしてみたらいいじゃないですか!」
騒音にも思える雨音に負けないよう、大きな声でそう言った途端――碓氷さんの小さな息遣いが聞こえた。
一瞬だけ、怯えたような表情をした気がしたのだ。だが、それはやはり気の所為だったようで、直ぐに憎しみの表情に変わる。
「……好きになる努力をしろって言うのか?」
「そ…そんなことは言ってませんけど……」
碓氷さんの言う言葉だと何だか違う気がして、でも私の今の言い方だと間違ってはいないような気もして、ハッキリと言い返せずにいると碓氷さんは憎しみの籠った目で私に言い捨てる。
「大して世の中のこと知りもしない癖に、自分が正義みたいな顔してんじゃねぇよ。自分の正義を他人に押し付けんな。」
何も言い返せず、呆然としている間に、碓氷さんは足早に去っていった。
だが、視界の端に私の隣で肩を竦めている女性が映る。俯いているため顔が見えなくて、心配になった。
そっと顔を覗き込んで、恐る恐る声をかけてみる。
「あの……大丈夫ですか…?」
しかし――
「あんたが首突っ込まなければ、こんな恥は掻かずに済んだのに。お節介とか、本当気持ち悪いからやめてよ。」
先程、碓氷さんへ話しかけたときに輝かせていたものと同じ瞳だと思えないくらい、彼女は冷めきった瞳を私へ向けてそう放った。
「え……」
私の小さな声は雨の音に掻き消され、女性はカツカツとヒールの音を響かせて、去ってしまった。
「何よあの人。助けてくれようとした明香里ちゃんに、あんな言い方は無いでしょ。」
駆け寄ってきてくれた麗華さんのハキハキとした声と、強くなっていく雨音が傘に当たる音で、私はぼーっとしていた意識を取り戻した。だけど、なんと言えばいいのかわからなくなって、私は力無く笑顔を作る。
「碓氷も碓氷で、相変わらず酷いわね。ちょっとくらい相手してあげればいいのに。」
「そう……なんでしょうか…。」
碓氷さんに言われた言葉を、私は思い出す。
――「大して世の中のこと知りもしない癖に、自分が正義みたいな顔してんじゃねぇよ。自分の正義を他人に押し付けんな。」
そして、あの女性に今言われた言葉も。
――「お節介とか、本当気持ち悪いからやめてよ。」
……私の「正義」は…私だけのものであって、自己満に過ぎないのでは無いだろうか…。
……私は正しいと思っていたことを行動に移したけれど………それは、碓氷さんやあの女性にとっては「お節介」で「押し付け」にしか過ぎないのではないだろうか…。
「……あれ…」
そもそも……私の「正義」って何だ…?
碓氷さんの「正義」って…?
あの女性の「正義」って……?
そんなことを考えている間に、私はある事に気がついてしまった。
あの時の碓氷さんが……どこか悲しそうな顔をしていたことに…。
やはり気の所為では無かったのだ。どこかの発言で……私は…碓氷さんを傷つけてしまったのかもしれない…。
「気にすることないわ。さ、飲みに行ってパーッと忘れましょ!」
いつものように優しく笑って、麗華さんは私の頭に靱やかな手を載せてくれた。
「『正義』って、何なんでしょうか…。」
ゴクリと一口、日本酒を飲んで、私は呟いた。すると、麗華さんは優しく笑って尋ねる。
「碓氷に言われたこと、気にしてるの?」
「……はい…。でも何だか……碓氷さんが仰った言葉は…これから私が考えなければいけない大きな課題な気がします…。」
言い終わると、今度はグイッと一気に日本酒を飲み干した。いつもは堪らなく身体に染み渡るはずの独特な香りが、今日は全然美味しくない。
そんな私を見て、麗華さんは真面目な顔になって顎に手を当てた。
「うーん……『正義』ねぇ…。あたしでもあんまり考えたこと無いなぁ……。でも……結局は、『正義』って人それぞれよね。」
「確かにそうですね。みんな共通の『正義』って、『人を殺さない』とか『人のものは盗まない』とか、そういうのしか無いですもんね…。」
結局……私の「正義」は何だったんだろう…。なんで、あの場面を見て…碓氷さんだけが悪いというように私は受け取ってしまったのだろうか…。
「……あれは…どうするのが正しかったんでしょうか…。」
曖昧に「あれ」と表現したが、麗華さんは分かってくれているようで、一緒に考えてくれた。
「うーん…『正しい』かは分からないけど……私は面倒事は極力避けたいから、止めにも入らなかったわ…。」
「『面倒事』……」
「でも、明香里ちゃんは『面倒事』なんかよりも、あの女性を庇おうとしたんでしょ?」
「……はい…。でも……そんなの独り善がりで…女性の迷惑になってしまったし………何より、碓氷さんを傷つけてしまったみたいでした…。」
「そう…。」
「人それぞれに『正義』がある事は分かったんですが……私の『正義』って何なんでしょうか…。」
「うーん…。」
「すみません…楽しい飲み会の筈なのに、こんな話ばかりで……。」
やっぱり、麗華さんに申し訳なくなってきた。実は、この「飲み」の約束は昨晩からしていたのだ。この為に、麗華さんは頑張って残業無しで定時に帰ってくれた。流石に今日の飲み会を、こんな暗い話で潰す訳にはいかない。
だけど……謝る私に、麗華さんは優しく笑いかけてくれた。
「いいのよ♡あたしだって明香里ちゃんに頼られて嬉しいんだから♡」
そして、思いついたように「あっ」と呟く。
「明香里ちゃんの『正義』って、『人を傷つけないこと』じゃない?」
「え?」
「明香里ちゃんは、碓氷があの女性の心を傷つけてると思って、止めに入った。だけど、その所為で今度は自分が碓氷の心を傷つけてしまった。…ほら、辻褄が合ってるわ。」
「確かに…!人を傷つけるのは良くないです!」
「そうよね!あたしってば天才だわ!」
「ホントですね!自分では思いつきもしなかった!」
あれ……でも…………
「…碓氷さんも同じ正義は持ってますよね……。」
「ふむ……確かにそうねぇ…。」
意地の悪い碓氷さんだが、そんな「人を傷つけてもいい」と思っている訳では無いだろう。「顔しか取り柄がない」とか根も葉もないことを遠藤さんに言われたときも、どこか悲しそうだったし……。
じゃあ……碓氷さんの「正義」は…?
その後、日本酒によってベロンベロンに酔ってしまった麗華さんを支え、桔梗家へ帰ってきたが、結局……「正義」というものがどういうものなのかは、わからなかった。
「ごめんなさい…結局、暗い話ばかりになってしまって……。」
ベッドで気持ち良さそうに眠る麗華さんへそう呟いて、私は布団を肩までかけてから、私はお風呂に入った。
寝る支度をして、麗華さんの様子を確認してから、穂華ちゃんの部屋に入る。すると、私を待っていたかのように穂華ちゃんは笑顔で話しかけてきてくれた。
「お疲れ様明香里ちゃん♡ 明日は土曜日だね♡ 明香里ちゃんは何か用事あるの?」
「明日は……朝、早めに麗華さんを起こす以外、用事はありませんねっ。麗華さんは仕事ですし!」
自分の機嫌で周りを巻き込みたくはないので、明るい声色で答えると――穂華ちゃんは、なんと私の頭の上に頼りない手を置いた。そして、きょとんとして尋ねる。
「なんか明香里ちゃん、元気無い?」
「えっ?」
「暗いカオしてるから…。」
嘘……顔に出てただろうか…。
「ごめんなさい…。あまり自分の機嫌で周りの人に迷惑かけたくなかったのですが…。」
これ以上迷惑はかけないようにと気を取り直して笑顔を作るが、穂華ちゃんは安心させるように私へ笑いかけてくれた。
「迷惑なんかじゃないよ。何か悩んでるんなら、話してみてよ。」
なんて優しいんだ……。
「ありがとうございます穂華ちゃん…。実は……」
「――ということがありまして…。『正義』が何なのか……わからなくなってしまったんです…。今までは『正義』と聞けば…みんなが共通のことを思い浮かべると思ってたのですが……そういう訳では無いんですよね…。」
全て今日あったことを話すと、穂華ちゃんは「それ…色々イジワルしてくる幽霊たちがたっくさんいる世界に居て、よく思うことなんだけどね、」と真っ直ぐ前を向いて語り始めた。
「『正義』なんてさ、見えないものなんだし、人それぞれ違うんだから、定めなくてもいいと思うの。多分、ソクラテスやプラトンだって『正義とは何か』なんて訊かれても真面に答えられないよ。『正義』っていうものがあるから、人は争いを起こすし、『正義』ってものが無いと、人の世界はめちゃくちゃになる。正義の定義は人それぞれだけど、そんな、あやふやなものに、きっと毎日多くの人が振り回されてる。何が正しいのかハッキリとは分からなくなってくような世界だけど、そんな中でも自分が正しいと思ったことを行動に移せればいいんだよ。もし明香里ちゃんの、その『正義』で誰かが傷ついてしまったとしたら、謝れればいい。理解出来なくても、理解しようとすればいい。」
長い時間考えた末に出した答えのように、自信を持って穂華ちゃんはそう答えた。
中学生とは思えない答えだと驚いたが、思い返してみれば、穂華ちゃんがこれ程までしっかりとした答えを持っているのはある意味、必然的でもある。
だって、穂華ちゃんは中学生じゃない。
中学生の頃に交通事故で亡くなってから、十五年間、ずっとこの家に栖み続けている。
麗華さんを、見守り続けている。
わかってはいたけれど、穂華ちゃんはもうこの世には存在していないのだということを改めて知って、やるせない思いに苛まれた。
しかし、穂華ちゃんはそんな私へ、とても穏やかに微笑んで続ける。
「だからね、今まで通り、明香里ちゃんは明香里ちゃんが正しいと思ったことを行動に移せばいいと思う。明香里ちゃんは落ち込んでるけど、ホントは正しいと思ったことを行動や言葉に表すって凄いことなんだよ。」
そんな穂華ちゃんの笑顔に、言葉に、私は自然と笑顔を取り戻した。
「私は私のままで大丈夫なんだ」と心から思える。
「そうですかねぇ〜♡私って凄いんですかね!」
「うん!凄いよ!!」
「穂華ちゃんも凄いです!!こんな難しいことまで答えられるなんて!」
「えっへへ〜♡一応中学生だけど、この世に漂ってる歳も入れたら ほのか、明香里ちゃんより歳上だよ♡」
「なっ…!なんと…!!歳上?! では、人生の先輩ですね!」
そう笑うと、穂華ちゃんは得意げな可愛らしい笑顔で腰に手を当てる。
「えっへん!永遠に若さを保てるぜっ♡」
「可愛いです〜!穂華ちゃんは一生可愛いです!!」
「ふっふっふ〜♪こんなことやってるけど、実際生きてたら二十八だぜ♪アラサー真っ只中の ほのかがこんなんやってるなんて、だいぶキツイぜ♪」
「可愛いです♪ 可愛いです穂華さん〜♡」
よし、今度碓氷さんに会ったら、穂華ちゃんの言う通り、私の物差しで測った正義で傷つけてしまったことを謝ろう!
翌朝。一昨日よりも一時間早めに麗華さんを起こして、私は朝食を作った。因みに、一昨日は麗華さんが朝食を作ってくれた。
麗華さんがお風呂から出てきた後、一緒に朝食をワイワイと食べていると……
――トゥルトゥントゥントゥントゥントゥントゥントゥン♪トゥントゥルトゥントゥントゥントゥントゥントゥン♪
麗華さんのスマートフォンの着信音が鳴った。
「ちょっとごめんね。」
そう言って麗華さんはスマートフォンを手に取り、電話に出る。私は麗華さんの言葉に微笑んで頷いた。
「もしもしどした?あぁ、うん居るけど。はぁ?自分で言いなさいよ。…あんたねぇ……そんなことに先輩を使わないでくれる?はいはい、言っておくから。じゃあね。」
麗華さんの電話を聞き流しながら、シャウエッセンのウインナーを齧って白米をかき込むと、麗華さんはスマホをバッグに入れて言った。
「明香里ちゃんの物件、契約完了したって。今日からもう住めるわよ。」
「私の物件」……。ということは…
「…今の、碓氷さんからですか?」
「そ。電話番号知ってるんだから自分で言えって感じよね。」
「はい…。完っ全に嫌われてますね…。」
思ったことを率直に述べるが、麗華さんは「あはは…」と引き攣った顔で笑う。でも…
「明香里ちゃんいい子なのに、あいつ、見る目無いわね。」
そうムスッとした麗華さんの表情は、引き攣ってなんかいなかった。そんな麗華さんの素直さに、私は嬉しくなる。
「ありがとうございます!今日、碓氷さんと仲直りできるように頑張ります!」
「あら、謝ってあげるの?偉いじゃない♡」
「反省しているので…。碓氷さん……許してくれるでしょうか…。」
「きっと許してくれるわよ!♡こんな可愛い明香里ちゃんに『ごめんなさい』されちゃあね♡」
荷物を纏めてから麗華さんと一緒に、スマイリーホームズへ向かい、私は前回の碓氷さんの正面に座った。
「じゃあ、桔梗さんから聞いたと思うけど手続き完了したから。」
案の定、私の目を意識的に見ずに、碓氷さんはそう言って私の物件の鍵を差し出してくる。
「ほら、早く受け取れよ。電気・ガス・水道・インターネットの手続きはもう済んでるよな?引越し業者も。」
机の上に視線を落としたまま、尋ねてきた碓氷さんへ、私は緊張気味に「あの……」と声を出した。
「何、なんか質問?」
「いえ…その……………」
バクバクと音を鳴らす心臓を抑え込むように、私は深呼吸をしてから頭を下げた。
「昨日は……すみませんでした…。」
そんな私に、碓氷さんは「は?」と声を漏らして漸く私と目を合わせる。……いや、「合わせた」のでは無い。「合わせてしまった」のだろう。
そんな動揺する碓氷さんの表情に更に緊張してしまい、私は着てきたオーバーオールをぎゅうっと握り締めた。
「私には関係無いのに…出しゃばった真似をしてしまって……その上…碓氷さんを傷つけてしまって……。」
私の謝罪にか言葉にかはわからないが、碓氷さんは驚いているようだった。そして、瞳を震わせてから、狼狽えるように視線を逸らす。
「いや…別に俺、傷ついてねぇし。」
「……嘘です…。悲しい顔してましたもん…。」
「…してねぇよ。てかあんたの言葉で俺が傷つくとでも思ってんのか。大体、どこに傷つく要素があったんだよ。」
「それは……わかりませんけど…。」
結局、全て曖昧な自分が恥ずかしくなってきて、碓氷さんの顔が見れなくなる。そんな私に碓氷さんは呆れたようにため息をついた。
「じゃ、その『ぴえん』みたいな顔やめろ。腹立つ。」
「すみません…。」
そして……
「……そもそも…あんたが……ゴニョゴニョ…」
恥ずかしそうに、何かモゴモゴと口籠った。
「はい?なんですか?」
「……うるせぇ、何でもねーよ。」
「いや何でもない訳ないじゃないですか!なんか言いかけてました!!」
「はっ…?何も言ってねーよ…!」
「碓氷さんの嘘つき!!」
控えめの台パンをして立ち上がると……視界の先に、こちらを見て微笑んでいる麗華さんと目が合った。何だか嬉しくなって、私もニコッと返すと、下の方で小さな声が聞こえてくる。
「……あんたは悪いことしてないって言ったんだよ…。」
「……はい?」
…………「私が、謝ることじゃない」……?
…………???
「じゃあなんで碓氷さん怒ったんですか?!!」
「それはっ…!……あんたの言い方に腹が立ったって言うか………その…………………わるかった…な…。」
「声が小さくて聞こえません!!」
「悪かったって言ってんだよ…!!聞こえてんだろ……二回も言わせんな…。」
恥ずかしそうに碓氷さんは大きな骨感のある手の甲で、口元を隠している。
徐々に小さくなる声は、微かに震えていた。
あぁ、そうか。
そうか、この人は…………
――この人は、謝ることが苦手なんだ。
そう気づいた瞬間、何だか目の前の碓氷さんが可愛く思えてきた。
謝るのが苦手なのに、頑張って謝ってくれているのだ。
「ふふん、まあいいでしょう。許してあげますよ♡」
面白くなってきた私は、可愛らしい碓氷さんの腕をつんつんと突く。
「触んな。セクハラで訴えるぞ。」
「ですが、私に非があったのは事実です。碓氷さんの言う通り、碓氷さんにも、あの女性にも、自分の正義を押し付けてしまいました。ごめんなさい。」
私が素直に謝ると、碓氷さんはもう一度恥ずかしそうに目を泳がせて、うなじを撫でる。
結構可愛いなこの人。
「なので、碓氷さんの『正義』を教えてください。」
「は?」
「碓氷さんの『正義』は何ですか?」
「いや、さっきの話からの『なので』が分からないんだけど。」
「きっと、私が自分の正義を押し付けた時に、碓氷さんの正義を傷つけてしまったんだと思います。ですが、私は碓氷さんの『正義』を知りません。傷つけた原因の『正義』を知らなければ、また私は碓氷さんのことを傷つけてしまうかもしれません。ですので、碓氷さんの『正義』はなんなのか、教えてください。」
これも素直に頼んでみるが、碓氷さんは真顔で言った。
「俺に『正義』なんかがあると思うのか?」
「………。」
「ほら鍵。早くこの店から出てけよ。」
「………………。」
「ほら。」
「……色々とありがとうございました。」
そう言って、私は渋々 鍵を受け取った。
「物件のことに関しては、担当が碓氷さんで良かったと思ってます。後日、日を改めてあの時のお詫びをしますので!」
「…要らねえって。」
碓氷さんは暫くの間、何か言いたげに口篭ったが、結局投げ捨てるようにそう返した。
十七時頃、契約が完了した私の新居へ足を運んだ。
駅から徒歩十五分のところにあるアパートは、改めて見ると、廊下には蜘蛛の巣が張っていたり、角には拳サイズのホコリが溜まっていたりと、かなり古いように思えた。
けど私の部屋は綺麗だからよかった。
……ん?なんで私の部屋だけなんだろう………。
そんな小さな疑問を抱きながらも碓氷さんから貰った鍵で、新しい私の家の扉を開けてみる……。
すると――
「っ…?」
碓氷さんと内見に来た時には感じなかった、酷い寒気と気持ち悪い空気を感じた。だが、それは気の所為だったようで、中に入っても幽霊は一人として居なかった。御札や盛り塩も見当たらないので、大丈夫だろう。
その日は引越し業者さんと引越しの支度をした後、荷解きはせずに二十時過ぎ、お礼をしにハーゲンダッツ二箱を持って、桔梗家に伺った。まずは「忘れ物をした」と言って、穂華ちゃんの部屋に入る。
「穂華ちゃん。新しいお家の準備が出来たので、今日からそちらに住むことになりました。」
笑って伝えると、穂華ちゃんは「え〜!そうなの〜?!」と悲しそうに残念がってくれた。
「はい!三日間ありがとうございました!」
「明香里ちゃん…居なくなっちゃうのかぁ……。そうだ!また遊びに来てよ!」
「はい!!絶対にまた来ます!!」
私の答えを聞いて、穂華ちゃんは私に勢い良く抱きついた。やはり、冷気を感じるが、胸の奥があたたかくなる。そして、ぎゅううっと私を抱きしめた。
「絶対だよ…。」
「はい!絶対です!」
それから暫く抱き合って、麗華さんに呼ばれてしまった。「では…」と言いかけたが、私はあるお礼をしていなかったことを思い出して立ち止まる。
「あ、それと……碓氷さんと仲直り出来ました!穂華ちゃんのおかげです!ありがとうございました!」
「はげちゃびんと仲直り出来たんだね!良かったー!」
「はい!」
別れるのが惜しくなって、もう一度ぎゅうっと抱きしめると、穂華ちゃんは小さな声で言う。
「…明香里ちゃん…お姉ちゃんに、私と話してたって…言わないでね……。きっと知ったら…私と話せないから悲しんじゃう…。」
穂華ちゃんの悲しそうな声に、私も胸が苦しくなる。だから私は、穂華ちゃんの頭を撫でた。
「大丈夫です。これは二人だけの秘密ですから。」
「うん、秘密!」
そう嬉しそうに笑う穂華ちゃんをぎゅううっともう一度、力強く抱きしめて、私は穂華ちゃんからゆっくりと離れた。
「では、また!」
「またね、明香里ちゃん!」
潤む瞳でニコッと穂華ちゃんへ笑いかけて、私は穂華ちゃんの部屋を出た。
「本当に三日間、お世話になりました!凄く楽しかったですし、ご飯も美味しくて最高でした!ありがとうございました!」
「いえいえ♡また泊まりに来てね!」
「はい!」
「それと、あたしの職場にも遊びにおいで!飲みに行こ!!」
「行きます行きます!!今度は日本酒は控えめにしなきゃですね♡」
「そうね♡」
麗華さんはふふっと上品に笑って、見つめ合う。すると、思い出したように麗華さんが「あっ」と言った。
「そういえばこれ、碓氷から。」
そう言って差し出してきたのは、小さなメモ紙を切り取ったもの。「スマイリーホームズ 碓氷」と書かれた達筆な字の下に、電話番号と「悪用すんなよ」と記されている。
「……私が悪用するとでも思っているんでしょうか…。」
「照れ隠しよ♡ 仕事用の携帯だから、あの物件で不具合があった時に連絡してね。」
「なるほど…住んだあともサポートしてくれるんですね!」
そう笑うと……
「わっ…?!」
麗華さんが、穂華ちゃんのように勢い良く抱きついた。
穂華ちゃんとは対照的なあたたかい身体だけど、胸は先程と同じようにじわぁっと熱くなる。
そんな事実に気がつき微笑みを零す私の身体を、麗華さんは穂華ちゃんと同じようにぎゅうっと力強く抱きしめ、悲しそうに零す。
「何かあったら あたしのとこ、来ていいからね。」
やっぱり麗華さん……穂華ちゃんがいなくなって、寂しいんだろうな…。
そう思うと苦しくなって、私は麗華さんの背中に腕を回した。そして、同じようにぎゅううっと抱きしめる。
「はい!麗華さんも、私を頼ってください。」
「ふふふっ…ありがと明香里ちゃん♡」
麗華さんの嬉しそうな声で、私の身体も胸も更にあたたまる。
暫く抱き合ってから、私は麗華さんからゆっくりと離れた。
「では、本当にありがとうございました。」
そう笑って扉のドアに手をかける。
だが、一つ思い出した。言わなくてはいけないことを――。
私は手を止めて振り返り、微笑んだ。
「とっても、いいお家でした。」
ここに悪い幽霊が居ないのは、穂華ちゃんが麗華さんを守ってくれているからだろう。
とても嬉しそうに微笑み返してくれた麗華さんの、綺麗な笑顔を見てから、私は桔梗家を出た。
その夜。
夢を見た。
今眠っている、新しい私の家で……女性が殺される夢を。
泣き叫ぶ女性は、この家のキッチンで大柄な男性に何度も何度も包丁を胸に刺されていた。
「いだいっ……いだぁい…ゔぐっ……」
まるで本当に目の前で殺されているんじゃないかと思う程、リアルだった。
女性の呻き声も、男性の息切れも、女性の真っ赤な胸から飛び散る血も、ギラギラと光る、まだ赤い血のついた料理用の包丁も……全てがリアルで、夢だと認識出来なかった。
「やめ…て…………やめっ……ぐっ………………」
何も抵抗出来ずに、キッチンで呻き声や叫び声を上げていた女性は、それきり…ぐったりとして動かなくなった。
だが……
「やめて!!!!」
いきなりグリンと顔を上げ、ベッドで寝ている私を睨みつけて訴えるようにそう叫んだ。
――「はっ…!!!」
ガバッと起き上がって、額や首筋に冷たい汗が垂れる。
そこで漸く、私は夢だと認識することが出来た。
キッチンに目をやっても、先程 居た血だらけの女性も、返り血を全身に浴びている男性も勿論居ない。
だけど…………
「はぁっ…はぁっ…はぁっ………」
あまりにも夢がリアル過ぎて、私は混乱していた。
「やめて」と叫んだ女性の嗄れて頭を貫くような甲高い叫び声も…充血して飛び出すんじゃないかと思う程 見開いた目も……まるで犯人を睨みつけるかのように、私に向けて吊り上げられた眉も…痛さと苦痛で口から垂れていた唾液も……痩せこけた頬に伝う幾つもの涙も…………全て、頭から離れなかった…。
「……はぁっ…はぁっ…………ただの夢……ただの夢なんだからっ………落ち着け…………おちつけわたし…。」
そう自分を落ち着かせるように必死に呟いて、汗でびしょびしょになってしまった手を、汗だくの頭へ持っていく。
だけど、その手がガクガクと大きく震えて、落ち着ける訳が無かった。
死にそうなくらい暑いのに、死にそうなくらい寒い…。全身の震えが止まらない……。
時計の針の音や、煩わしく思うほどの異様な部屋の静寂、バクバクと大きく脈打つ自分の心臓の音でさえ、怖かった。
恐怖を紛らわすように枕元のスマートフォンを手に取ると、時刻は「2:49」を示していた。
「だいじょうぶ………引越し直後で混乱してるだけっ……ここには幽霊なんていないんだから…………。」
震えた声で、自分に言い聞かせる。
ここは事故物件なんかじゃない……。碓氷さんが丁寧に教えてくれただろ…。大丈夫…大丈夫……!!…ただの夢なんだから…!
何度もそう言い聞かせても、言葉だけでは安心出来る筈がなく……結局、朝まで一睡も出来なかった…。
その夜も、夢を見た。昨晩、夢で見た女性とは、また違う女性が、こちらへ背を向けてキッチンに座り込んでいる夢。その女性の背中は丸まっていて、何かを持っているようだった。
だが、特に何かが起こる訳でも無く、私はただ呆然とその女性を眺めていた。
なのに………
――グサッ…!グサッ…グサッ……!!…ボタッ……グサッグサッグサッグサッ……!!!
なんと……女性は…持っていた包丁で自分の胸を何度も…何度も……刺し始めた…。
夢の中の私は、目を塞がず、耳も塞がずに……ただ、真顔で…自分を刺し続ける女性を眺めているだけだった。
見たくないのに…聞きたくないのに……目が覚められず、私はただ恐怖を感じながら、胸から滝のように血を流す、その女性を眺めることしか出来なかった。
だが……
「っはぁっ…!はぁっ…はぁっ…はぁっ…………」
突然、目が覚めた。
まさかと思い、慌ててスマートフォンの電源をつけると……
時刻は やはり、昨日と同じ、「二時四十九分」だった。
「…う……うそ…………なん…で……。」
小さく震えた声で呟いて、私はスマートフォンを手元から落とす。キッチンに目をやっても、そこには穴が空いたように闇が佇むだけで、勿論 誰も居ない。
…………偶々だ……。そう……偶々…。だって、ここは事故物件なんかじゃない…。内見に来た時も何も無かったじゃないか…。明日は会社なんだから……早く…早く寝ないと……。
「――…の………――さの………笹野!!!」
「はっ…はいっ!!!」
部長の怒鳴り声と、バンッと力強く机を叩く音で、私は職場に居るということを漸く思い出した。
「どうしたんだ今日!いつもの覇気もやる気も全く無いじゃないか!!!働く気が無いなら帰れ!!!」
「いっ…いえ!!やる気はあります…!!働く気も…!」
慌ててそう答えると、部長は怒りを抑えるように「はぁぁぁ」とため息をついた。そして、暫く私をじっと見てから、いつの間にか私のデスクの上に置いていた仕事の山を持つ。
「…はぁ……元気が無いならいいよ。今日は今やってる仕事を終わらせたら帰れ。」
「えっ…でも!――」
「これは命令だ。体調管理も仕事のうちなんだぞ。ったく、体調管理は土日でしっかりしておくべきだろう。」
そう吐き捨てて、部長は大量の仕事を持ったまま、自分のデスクに戻って行った。
「すみません…。」
小さく呟くように謝ると、
「笹野さん、笹野さん。」
隣から名前を呼ばれた。隣のデスクの御園さんだ。ゆっくりと振り返ると、御園さんは「手を出しなさい」と言う。言われた通りに両手のひらを見せると……
「わぁ〜…!」
御園さんが、高級そうなパッケージに包まれたチョコレートを三粒くれた。
「昨日買った高○屋の限定品よ。アタシにとっちゃ、どぉってことないけど貴方みたいな若い新入社員にとったら超高級品なんだから、心して食べなさい。」
「え〜!いいんですか〜!」
糖分♪糖分♪
「ありがとうございます御園さん!!」
「んふふっ♡……ゔっゔん…!まあ偶には?貴方みたいな庶民にも、高級なスイーツを味わせてあげてもいいわ。」
そうやって優しい言葉をかけてくれる御園さんを横目に、私は高級チョコレートの包装を開けた。そして、百円玉サイズのチョコレートをぱくりと口に放り込む。
「それにしても、あのゴリラ部長、酷いわねぇ。子持ちなのに、若い新入社員に対してあんな怒鳴ることないでしょぉ。」
「ほーですかね?」
口の中である程度、チョコレートを溶かして濃厚さを味わってから、パリッと噛むと……
――ぐちょっ…
何か……嫌な食感がした。
直後、私は昨晩の音を思い出してしまう。
「グサッ」という音と同時に、血がボタボタと垂れる胸から包丁を抜く「ぐちょり」という音…。
その音を――光景を思い出してしまった私は……
「うっ……」
突然、吐き気と酸味のある胃液が迫り上がってきて、慌ててトイレへ駆け込んだ。
「はぁっ…はぁっ……はぁっ………」
嘔吐物を流してから、私はトイレの個室の角に座り込む。そして、若干 目眩のする視界でチョコレートを包装していた紙を開いて「ぐちょっ」という音の正体を確かめた。
「……『オレンジソース』…。」
…………やばい……折角、御園さんが高いお菓子をくれたのに……。
それから、少しだけ泣いて、私は自分のデスクへ戻った。御園さんに申し訳なくて………
「大丈夫…?最近、貴方…働きすぎなんじゃない?」
そう優しく声をかけてくる御園さんの顔も真面に見れなかった…。
ただの夢なのに………落ち着かないと……。
その夜は、怖くて布団にも入れなかった。だから、隣町にある二十四時間営業のドン・キホーテにずっと入り浸っていた。夜だから幽霊も多いが、家で怖い夢を見るよりはマシだ。
そう思っていたのに……
いつの間にか眠ってしまっていたみたいで、今度は私がキッチンに座り込んでいた。
そして…手にはギラギラと光る包丁が…。
……刃先は…………私の胸元に向いていた。
目覚めなきゃ…目覚めなきゃ…!!
そう何度も思っているのに、夢の中の私はぎゅうっと力強く両手で包丁の柄を握り締めるだけ。
やはり、夢の中では思い通りにいかない。
そして、瞬きもせずに、私は自分の胸元に包丁を刺そうと勢い良く両手を動かした。
その瞬間――
――「明香里ちゃんっ!!!!」
どこからともなく飛んできた聞き覚えのある声で、私はパチッと目を覚ました。
だが、その直後、私は驚愕する。
「いやっ…!!!…っ……はぁっ、はあっ、はあっ、はぁっ…!」
――ゴトンッ…!
なんと……私はどういう訳か、現実世界でも夢の中と同じようにキッチンに座り込んでいたのだ。しかも手にはしっかりと包丁が握られていて、あと一秒でも目が覚めるのが遅かったら、自分の胸を刺してしまっていた位置に包丁はあった。
私は過呼吸になりながらも、慌てて後退りをして電気をつける。壁に掛けてある時計を見ると、時刻は昨日より一分早い「二時四十八分」を指していた。
毎回、二時四十九分に目が覚める……。
でも…今日は二時四十八分…。
ということは…………この後…何かが起こる……ってこと…?
そう考えついた途端、突然電気が消えてしまった。
「ひっ…?!!…やだ……やだやだやだやだやだやだ……!!!」
咄嗟に私はベッドに飛び込み、布団を被る。直後にドアから誰かが入ってくる音がした。そして、何か争うような「ガシャン」「ドンッ」「ドカンッ」といったような音と、女性の悲鳴が聞こえる。
耳を塞いでも…どれだけ塞いでも……まるで耳元で鳴っているかのように聞こえる…。
何も出来ず、ただ耳を塞いで布団に蹲っていると、今までのものとは比べ物にならない「ドスンッ!!」と何かを突き飛ばしたような大きな音が響き、その直後、身体に包丁を突き刺す惨い音が、苦しそうな呻き声と共に聞こえてきた。
生きた人間じゃないのに、まるで本当に生きた人間が殺されているかのような音を聞いていると、怖くて怖くて仕方が無かった。布団をぎゅうっと掴んで、私は声を漏らさないよう、涙を流していた。
どうしよう…どうしよう誰か……誰か助けて…。
これはきっと、あの女性の怨念や憎悪によって過去の事件がこの部屋で繰り返し起こされているのだろう。
だけど……だけど…………このまま一人でいるなんて…無理だ……。
急いでスマートフォンを布団の中から手に取って、私は電話帳のアプリを開いた。
麗華さん麗華さん…!!心の中で何度も唱えて、麗華さんへ電話をかけるボタンを見つけるが…………
駄目だ…………こんな夜中にかけたら…迷惑をかけてしまう……。今まで散々迷惑をかけてお世話になってきたのに………。
そんな考えが頭を過って、私は電話をかけれなかった。
誰にも電話をかけられず、私は女性が殺される瞬間の音が耳にこびりついたまま、蹲って泣いていた。
翌朝…。私は直ぐに家を出て、近くの公園で碓氷さんに電話をかけた。
「もっ…もしもし……。」
震えたままの声で、私はゴソゴソと音を立てた電話の奥の碓氷さんへ語りかける。
『ん……あさ早くから…なんだよ…?…店ならまだ……開いてないけど…。』
どうやら寝起きのようだ。碓氷さんの声は少しだけ掠れていた。けれど、そんな碓氷さんの無防備な声に……私は酷く安心した。
あの嫌な音も、碓氷さんの声を聴いていると忘れられる気がした。
だから、私は先程よりも少し落ち着いて、尋ねてみる。碓氷さんの欠伸を聞き流しながら。
「あの……碓氷さんが紹介してくれた お家………事故物件なんてことはないですよね…?」
だけど……今度はハキハキとした声で返ってきた。
『……は?何?あんた、俺の会社が平気で不正を働くような汚い会社とでも言いたいのか?』
「いっ、いえそういう訳でなくてですね……」
『クレームがあんなら、電話じゃなく直接言いに来いよ。』
焦って否定したが、そんな意味は無く、碓氷さんはそう怒ったようにそう言い放って電話を切ってしまった。
……まあ…それもそうか………。誰よりも丁寧に大切にしてきた仕事に…イチャモンつけられたら誰でもそうなるよね…。
そう思いながら、私はスマートフォンを持っている右手を、ぶらんとベンチの端に落とす。
………はぁ…………会社…行けるかな……。目もめちゃくちゃ腫れてるし………御園さんの顔見たら、安心で泣いちゃいそう……。
なんて考えてはいたが…………
やはり、日本人の血を引いているので、遺伝子的に明確な理由も無いのに仕事を休むことは出来ず、私は脳裏と耳にこびりついたものの所為で、進まない仕事を必死にこなそうと頑張っていた。
だが、十時三十分頃……一本の電話があった。
着信主は碓氷さんで、内容は「謝らなければいけないことがあるから来て欲しい。本当はそっちに向かいたいけど、職場を知らないから…」とのこと。碓氷さんの声のトーンは、いつもに増して低くて、何か悲しんでいるように思えた。それと同時に、とても急いでいるようだった。「兎に角 早く来て欲しい」と言っていたし…。
ということで、部長へ早退させて頂けないか交渉すると、意外にもあっさりと了承をしてくれたので、私は足早でスマイリーホームズに向かった。
「どうしたんですか?急に。」
駆け足で店に入り、碓氷さんの正面に座ると……
「申し訳なかった…!!」
なんと……碓氷さんは、勢い良く私へ頭を下げた。
「う、うわぁ……碓氷さんが私に頭を下げるだなんて……これは夢ですか?」
冗談交じりにそう顰めっ面をしてみるが、碓氷さんが言い返すことは無かった。代わりに、落胆したように悲しそうに話し始める。
「あのあと…──あんたからの電話があったあと、ずっと気がかりだったんだ…。俺を真面目だとか頑張り屋だとか言って、笑ってたあんたが、訳もなく俺が紹介した物件を『事故物件』だなんて言う筈がないって…。それで……さっき、気になって…同じ物件の十年前の資料を見たら……女性が胸を何箇所も刺されて殺されてた…。」
「えっ……」
本当に事故物件だったんだ……。
「家族絡みで問題があったらしい……。それから…そこに住んだ人が……みんな自分で胸に包丁を刺して亡くなってるんだ…。なんでそんな家にみんな住むんだって思って、資料を見たら……うちの会社が不正をして、空白の三年を作ってた…。事故物件は時効の三年が過ぎたら、事故物件だと報告する必要が無くなるんだ…。借りるだけ借りて、そこには住まずに三年間契約してから期間を満了したら契約を切ってた…。その所為で…あそこに住んだ人は同じ方法で亡くなってる…。」
「あぁ…だから……」
何度も夢を見ていたんだ…。
でも…まずは……
「教えてくれてありがとうございます。」
態々調べてくれたんだ。
そう思い、頭を下げると碓氷さんは「は…?」と目を丸くして顔を上げた。
そして、とても怪訝そうに眉を顰める。
「怒らないのか…?」
「へ?」
「『最初の条件提示の時に事故物件は無しって言ったのに』って…『危険な目に遭わせやがって』って、『あんたのやってる事は詐欺だぞ』って!怒らないのかよ…?なんで怒らないんだよ…。」
碓氷さんは、私を貫くような真っ直ぐな透き通った瞳で……苦しそうに、悲しそうに…そう訴えた。
そんな碓氷さんの目を見ていると、不正を許せないような本当に真っ直ぐな人なんだと気づくと同時に、苦しくなった。
「怒りませんよ…。だって、碓氷さんは……知らなかったじゃないですか――」
「知らなかったとしても売ってはいけないものを売ったのも、あんたに迷惑をかけたのも、あんたに怖い思いさせたのも、利用者を騙して利益を得ようとしてたのも事実だ。」
まるで自分自身に怒っているかのような強い口調で、碓氷さんは私の言葉を遮った。
でも、私は碓氷さんの言っていることが理解できなかった。だって、碓氷さんはまるで自分が一番悪いみたいに話すから。
「事故物件だって知らなかったんだから、碓氷さんは悪くないです。私は碓氷さんに騙されてなんかいません。碓氷さんは私を騙してなんかいません。もし、上からの命令で事故物件ってことを黙っていたんだとしても、悪いのは碓氷さんじゃないです。」
碓氷さんは、そう当然のことを言った私をまるで、「信じられない」とでも言うかのように目を丸くして見つめていた。
「逆に訊きますが、どうして碓氷さんはそこまで責任を感じてるんですか?」
「え?」
「必死に頑張ってる人に、誰も怒ったりしませんよ。碓氷さんが責任を感じる必要は無いです。」
安心させるように笑いかけてみると、少しだけ碓氷さんの表情が緩んだ気がした。
そんな碓氷さんのやわらかくなった表情に安堵して、私は話を変える。
「それよりもどうしましょう…!私……また泊まるとこ無いです…!!」
すると………
「…じゃあ、俺ん家泊まれば…?」
とても言いづらそうに、なんと碓氷さんはそんなことを言った。
もしかして、気を遣わせてしまっただろうかと思い、私はすぐさま否定をする。
「いえいえいえ!!!そういう事ではなくてですね…!!!」
しまった〜…!失言をしてしまった…!
と、焦った後、図々しく見えてしまったと自分を恥じて俯きながら、太腿の辺りを撫でていると目の前から「いや、そういう事でもなくて…」と声が聞こえる。
「はい?」
「別に…気を遣ってる訳じゃない。ただ、あんな家を勧めた俺にも責任は少なからずあると思ってる。だから、俺があの家に泊まるから、あんたは俺の家に泊まれ。」
「え……」
私が真面な返答をする前に、碓氷さんは荷物を纏めて立ち上がった。
「まっ…待って下さい…!!!」
突然の私の大きな声に、驚いたように碓氷さんは振り返る。だけど、私は落ち着くことなんて出来なかった。
「あそこには行っちゃ駄目です!」
「いや、でも…あんたが耐えられたんだか──」
「死んじゃいます…!碓氷さんが死ぬのは嫌です…。信じられないとは思いますが、それでも……お願いですから、あんなところには行かないで下さい…。」
恐怖が蘇ってきて、私はズボンをぎゅうっと握り締めた。
そんな私のいつもとは違う雰囲気に圧倒されたのか、私の気持ちが伝わったのかは分からないが、取り敢えず、碓氷さんは首の後ろを掻いて「……分かったよ…。」と言ってくれた。
「じゃあ俺は、どっか宿見つけるから。」
「そんな!駄目ですよ…!流石に申し訳ないです!!」
「申し訳なくなんかない。申し訳ないのはこっちだ。ほら、一応使い勝手とか、部屋の配置とか説明するから行くぞ。」
※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。
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