第二章 第二印象
数日後、漸く残業も無しに帰れたので私は職場から徒歩十五分の不動産屋へ寄った。
今 住んでいる家を契約した不動産屋とは、また別の不動産屋だ。もうあそこは信用できないから。…まあ、私が家に連れてきてしまっているのかもしれないけど…。
私が足を運んだ「スマイリーホームズ」という不動産屋は、何故かめちゃくちゃ混んでいた。
どの店員も、接客をしたり資料を探したりと忙しなく動いている。しかし、人手が足りなかったり、トラブルが起こっていたりの様子は見受けられない。ただ、「繁盛」の理由でお店が混雑していたのだ。
でも、なんで?
辺りを見回すと、異様に女性客が多いことに気がついた。
ここら辺の女子高や女子大の生徒たちが、一斉に一人暮らしでも始めるのだろうか。いや……でも、今はもう五月…。引越しシーズンは大体、三〜四月だろう…。
そんなことを考えてから暫く経つと……
「先頭にお並びのお客様、どうぞこちらへお座り下さい。」
漸く、正面に座っている担当者へ呼ばれた。
やけに爽やかな声に、三十分以上待たされたという事実をすっかり忘れて期待を胸に抱く。
すくっと立ち上がり、たった今聞こえた声に原因不明の疑問を抱きながら、担当者の正面に腰をかける。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。」
そう放ったどこか聞き覚えのあるような声は、全く嫌味を感じず愛嬌と安心感のある雰囲気を感じさせた。あまりに聞き心地のいい、人の良さそうな声に私は思わずその人をじっと見つめる。
「本日はご来店ありがとうございます。私、お客様のお部屋探しのお手伝いをさせて頂きます碓氷と申します。よろしくお願いします。物件のことなら何でもお訊き下さいね。」
そう誰もが気に入るような愛想の良い笑顔で言った彼は、私の顔を見て停止した。
私も同じように停止して、口をあんぐりと開けながらも彼のヘーゼルの瞳を見続ける。
「「は?」」
「えー!なんで居るんですか?!!やだやだやだやだこれは夢これは夢!これは悪夢!!!」
私は頭を抱え込んでそう叫んだ。……そう、たった今、私に好印象を与えた「彼」は………あの夜、私が右ストレートをお見舞してしまった意地悪な「男性」だったのだ……。
ただ私だけが騒いでいると、「碓氷 律月」と書かれた名札を首にぶら下げている目の前の男性が、嫌悪感剥き出しの呆れたような目で私を睨んでから後ろを通った仲間に言う。
そして、私を無視して荷物を持ち、立ち上がった。
「遠藤、こいつの接客してくれ。」
「こいつってなんですか!!お客さんに対して『こいつ』とか有り得ないです!担当変えてください!!」
私も必死に遠藤さんへ訴えてみる。
が……
「申し訳ありません…ただ今 大変混雑しておりまして……担当者の変更は難しいかと…。」
「……で、ですよね……ごめんなさい無茶言って…。」
さすがに自己中過ぎたか…。と反省していると、眼鏡をかけた頭の良さそうな遠藤さんは申し訳なさそうに謝った。
「碓氷もごめん。オレあそこのお客さん待たせてるからさ。」
とてもいい人そうだ!碓氷さんとは大違い。
「じゃあ他の人当たるk――」
「いや……この混雑だから誰も手空いてないんじゃないかな…。」
遠藤さんの言葉を聞いて、碓氷さんは「…ま、そうか……。悪いな。」とため息をつきながら言い、もう一度私の正面に座った。
「…はぁぁぁ…………それで、希望は?」
そう真面目に尋ねてきた碓氷さんの頬は、青みも赤みも全く無く正常な色をしていた。そういえば、あの後大丈夫だっただろうか…。
「あのう……怪我の方は………。」
心配になってきて、控えめに尋ねると碓氷さんは私の顔を(多分故意的に)全く見ずに資料をパラパラと捲って答えた。
「あぁ、少し痛むよ。お陰様でな。」
「え!!ホントですか?!!ごめんなさい骨まで行っちゃいましたかね…?!!あのっ、慰謝料とか払うんで――」
「嘘だわ阿呆。」
「へ……?」
思わず顔を上げると、碓氷さんがこちらを冷酷に見ている。
「見てわかんだろ、完治してるわ。てかあんな貧弱なパンチ如きで誰が大怪我するんだよ。相変わらず馬鹿なんだな。」
「……。」
…………。
…………………は?
「へぇ〜?鼻血一,二滴垂らしたくらいで『わっ…?!あぁっ……!!』とかめちゃくちゃ焦ってたのは誰ですかねぇ〜?」
「っ……悪いけどなぁ、こっちはガキと喧嘩ごっこしてる暇はねぇんだよ。早く物件の希望を教えろ。どうせ賃貸なんだろ?あんたみたいな馬鹿は一戸建てなんて一生無理だろうし。」
「はあ?!何ですかそれ!!失礼にも程があります!!てか先に喧嘩ふっかけてきたのはそっちですよねぇ?!!」
「大声出すな。クレーマー認定されるぞ。」
「別にいいですよ!!そしたら、あの道化師みたいな笑顔で対応したらどうです?!!」
私がそう怒鳴ると、碓氷さんは気味が悪いくらい爽やかな笑顔で言う。声をツートーン上げて。
「お客様、他のお客様にご迷惑がかかるのでお静かにお願い致します。」
そんな碓氷さんのにこやかな注意に、私は声量を抑え、小声で威勢よく反論を続けた。
確かに声量を抑えたが、それは、お店の迷惑になるから。私の怒りメーターは言うまでもなく、ほぼ頂点に達していた。
それでも店を出て行かない私は、大人げないのだろうか。いや、客に対してこんな態度をとる碓氷さんの方が圧倒的に大人げないだろう。
「大体 何なんですか『うすい』さんって!今は髪の毛生えてるからいいでしょうけど、将来ハゲるから『うすい』さんなんですよ!」
「……。」
「なんでそんなに意地悪なんですか?!まあ!殴った私が悪いんですけど!!」
私の発言に、漸く碓氷さんの眉がピクっと動いた。
そして、漸く腹を立てたように鋭く私を睨みつけ、感情を入れた強い口調で言う。
「俺の性格が悪いのは元からだ。それと、俺はあんたみたいな『馬鹿』が一番嫌いなんだよ。馬鹿と話してると馬鹿が伝染るからさっさと希望条件教えろよ。こっちは仕事で仕方なく対応してやってんだ。これ以上、馬鹿と喧嘩して時間を無駄にするつもりは無い。」
その言葉を聞いた瞬間、嫌悪剥き出しの冷酷な目を見た瞬間、もう一度殴ってやろうかと思った。しかし、それでは完全に私が悪者になってしまう。何せ、もう既に一度殴ってしまっているのだから。
あぁ……あの時ギリギリ殴っていなければ、今 一発お見舞してやれたのに…。
店を変えようとも思ったが、生憎ここは、現在 住んでいる家から二番目に近い不動産屋だった。三番目は電車で二十分。どれだけ田舎なんだここは。一番目は、勿論 現在住んでいる家を紹介してくれたお店。
遠藤さんもいい人だし、このお店には活気がある。前回のお店は活気なんて殆ど無くて、お葬式ホールみたいな店内だった。事故物件を報告無しに紹介された可能性も捨てきれていないし…。それならば、まだこちらのお店の方が良いだろう。
よし、 早く終わらせよう。この人と居るとストレスが溜まる。
「はぁ……碓氷さんの予想通り賃貸ですよ…。事故物件は無しで、駅からは徒歩二十分以内なら大丈夫です。二十分以上かかるとこは、バスが使えると嬉しいです。それと、近くにスーパーがあって…家賃は……出来れば六万以下だと…。」
言い返したいことは山ほどあったが、気を遣わずに普通のスピードで条件を伝えると、碓氷さんはメモ帳へ素早く、スラスラと綺麗な字で私が言った条件を全て書き記した。そして、「その条件なら……」と呟き、パラパラと資料を捲って直ぐにあるページを見つけ、私へ見せた。
「これは?ここならあんたの言った条件に全て当てはまってる。しかも、1DKで家具付き。そんで、家賃三万。」
「さっ…三万…?!」
「相当古いらしいからな。でもあんたが心配してる事故物件とか書く『告知事項』ってスペースには何も書いてない。事故物件じゃないみたいだぞ。一年前にリフォームしたばっかだから、そこまで汚いところじゃないし。」
「そこ住みたいです!!今すぐ!!」
「内見した方がいいと思うけど。」
「じゃあします!!今すぐ!!」
そう私が言うと、碓氷さんは資料を全て持ちながら相変わらず目を合わさずに「了解。」と言う。そして、丁度後ろにいた美人な職員さんへ声をかける。
「桔梗さん、この人、内見に連れてってやってくれませんか。」
碓氷さんの敬語……なんかキモ………。
「『この人』?あら、可愛い子!なぁに〜?碓氷のカノジョ〜?」
目が大きくて、鼻筋のよく通っている、自然な紅色の唇をした女性。
何となく、長澤まさみさんと雰囲気が似ている。胸下まで伸びた艶やかなレッドブラウンの髪はふわっと巻かれているため、ショートヘアのイメージが強い長澤まさみさんよりも、少々キュートな印象を感じさせる。
そんな美しいお方に褒められて私はテンションが上がった。
「えっへ〜!ありがとうございま――」
が……
「馬鹿なこと言ってないでさっさと連れてってください。」
碓氷さんが邪魔をしてきた。
折角、綺麗なお姉さんに褒められてあたたかくなっていた私の心は、碓氷さんの所為で一瞬にして冷めてしまった。
何だか、六年前のある冬の日、高校からの帰り道に、買ったココアが凍てつくような外気温で温くなって萎えたことを思い出す。
一人での下校だったし、大した思い出でも無いのに、何故 今更思い出したのだろう。そもそも、「思い出」と呼べるのかも怪しいし…。冷酷な碓氷さんが、冬の凍てつくような寒さに似ているからだろうか。
どちらにせよ、こんなちっぽけな出来事を思い出させる碓氷さんは、本当にちっぽけな人間なのかもしれない。
「残念。あたしも今から別のお客さんを内見に連れて行かなきゃなのよ。悪いけど碓氷、そのまま内見行っちゃって。」
「エッ……」
声を漏らして、碓氷さんはこちらをジロっと見る。……めちゃくちゃ嫌そうに顔を顰めている…。
私も嫌なんですけど……。
「碓氷居ない方がみんな楽だし。じゃ。」
え?
女性の何気ない一言に、私は疑問を抱いた。
「碓氷さんが居ない方が楽」とはどういう意味なのだろう?
凄い仕事の効率いいのに?
(普通の)お客さんへの愛想もいいだろうから、この職場の戦力になってるだろうに。
ニュアンス的に酷いことを言われたように感じるのにも関わらず、碓氷さんは何も言わずに普通の顔で、立ち去る桔梗さんを見つめている。
それが私はとても不思議な光景のように思えた。
碓氷さんはあんなことを言われて傷つかないのだろうか。
「なんで碓氷さん居ない方が楽なんですか?」
私はどうしても気になって、そう尋ねてみた。すると、桔梗さんが歩く脚を止めて振り返り、優しく笑顔で答えてくれる。
「碓氷目当てで来る客がいるからよ。」
「『碓氷さん目当て』…?」
ストーカーってことか……?
よくわからなくて、既に傾げていた首を更に傾げながら、私は碓氷さんの顔を見る。
「そ。ここには賃貸を契約する気も無いのに、碓氷の女性ファンが何十人か押し寄せてくるの。ほら、腹立つことにこいつ、顔はいいから。」
「かお……。」
そう呟きながらも、碓氷さんの顔をまじまじともう一度見つめてみる。
碓氷さんは面倒臭そうに私を睨んでいた。
「…えぇ……皆さん…見る目無いですね……。」
「そう?あたしは胸を張って碓氷がイケメンだって言えるわ。」
「なんで桔梗さんが俺の顔で胸張るんですか。」
「女の子は真面目なこいつの愛想笑いに、ポロッと落ちるものよ。」
「なるほど……。じゃあ私は『女の子』じゃないんでしょうか…。」
更にもう一度、確認のために碓氷さんの顔を見つめてみる。
うぅん……。確かに髪は綺麗だが………う〜ん…?
「そんな人の顔をジロジロ見てくんな。腹立つ。」
「やっぱり私、『女の子』じゃないみたいです。」
私の言葉に、桔梗さんは上品に「フフっ」と笑って「じゃあね。」と去っていった。
碓氷さんは、先程と全く変わらない表情で、桔梗さんの綺麗な背中を見つめたあと、私の顔を見てため息をついた。
「クマできてるけどまだパワハラ上司に時間外労働させられてんのか?」
移動中の車内にて。碓氷さんが運転しながらニヤッと性格が悪そうな笑顔を浮かべてそう尋ねてきた。
「私の職場にパワハラ上司なんて居ません。クマはただ単に寝れてないだけです。」
「へぇ?パワハラ上司の所為で?」
「だから……。…はぁ…………寝れてないのは騒音問題の所為です。」
「『騒音』?それは災難だなw」
人に腹を立たせることしか言えないのだろうか、この人は。なんて、碓氷さんに再びイライラを募らせる。
暇ではあるが、これ以上この人とは雑談なんかする気にはなれないので、窓の外を何気なく見てみる。
緩やかなスピードで通り過ぎゆく景色たちは、規則正しく通りに植えられた新緑たちが、優しい風に撫でられながらも夕陽に照らされて春を感じさせる。同時に、少しだけ開いた窓から吹く心地よい風が、肩につかない程度の長さで切り揃えられた私のオレンジゴールドの髪を靡かせている。草や花の匂いと排気ガスとの臭いが混ざり合って私の鼻を擽った。
やはり、私は春の匂いが好きだ。安心する。
……いや、この「花の匂い」はどこかで嗅いだことがある気がする。それも普段からではなく、一度だけ。
不思議に思って車内を見回してみると、碓氷さんの姿を見て思い出した。
この上品な香りは碓氷さんの匂いだ。
何だか、意地の悪い人がこんな匂いを漂わせていると考えると少々悔しい気持ちになる。
しかし、この春の陽気にあてられると、嫌な気分も払拭されるような気がする。
「ふふっ」
風が気持ちいい。やはり春は心が穏やかになる。
そう笑みを凝らしていると……
――ウィーン…
車の窓が寂しげな音を立ててひとりでに閉まった。
「……。」
――いや、ひとりでではない。碓氷さんが閉じたのだ。
「排気ガスの臭い、苦手ですか?」
そこまで強くないだろうと思いながらも尋ねてみると、碓氷さんは真っ直ぐ前を見ながらもこう答えた。
「まあ好きではないけど。閉めたのはあんたの顔がうざいからだよ。」
「……ゑ?なんですかそれ?!窓開けるのと私の顔がうざいの、何の関係があるんです?!」
「だから、窓開けてるとあんたが『ほわぁ〜』みたいな顔するからだよ。真顔でじっとしてられないのかよ。運転中気が散るから大人しくしてろ。」
「っ…『うざい』ってなんですか!人がせっかく たそがれてるっていうのに!」
威勢良く言い返す私に、碓氷さんはいつものようにため息をつくだけで何も言わなかった。
「ちょっと!なんとか言ったらどうなんです?!」
「チッ…」
「はっ…!いま舌打ちしましたね?!」
「……。」
「あああもう!」
目当ての物件に着き、中に入ると「古い」と言われていた割には意外と綺麗だった。しかし、直ぐに私は碓氷さんの言葉を思い出す。
「一年前にリフォームされたばっかだから――」
そんな淡白な声が脳内に響いてから、私は改めて部屋を見回してみる。
床は新築かと思うくらい傷もシミもひとつ無く、まだフローリングの艶やかさが残っている。家具にも目立った汚れや傷は窺えない。
しかし……壁はどうだろう。何だか、茶色いシミがそこら中に浮かび上がっている。
「……タバコのヤニ…?」
ボソッと呟くと、碓氷さんは私の声に振り向いてから壁の方へと歩いていった。
「…そうだな。壁だけリフォームしてないのかもしれない。家賃が安めなのはこれが理由かもな。」
なるほど……。しかし逆に、家賃が安い理由が壁だとわかっていたほうが、事故物件では無いことが証明できて安心できる。
ほっ…と胸を撫で下ろしていると、碓氷さんは壁のシミを眺めながら小さく呟いた。
「よく『タバコのヤニ』ってわかったな。」
そんな、どこか怪しむような碓氷さんの低い声色が怖かった。
私が壁のシミの種類を知っているのは、少しでも事故物件に当たる確率を低くするために事故物件の特徴を勉強したからだった。その理由をもし知られてしまったら……と考えただけでも、胸がヒュンと縮んで、怖くなった。
「わっ、私がこういったことに詳しいのは映画好きだからですっ…!」
咄嗟に考えた言い訳を伝えると、碓氷さんは私の大声に驚いたのか結構な勢いでこちらを向いた。
「お、おう…そうか。家が好きなのかと思ったから気になっただけだ。別に、他意は無い。あんたのことなんて専ら興味無いしな。」
碓氷さんの言葉にイラッとしつつも、少しだけ安堵して、もう一度壁を見つめる。
けれど、なぜ床や家具は綺麗なのに、壁だけリフォームされていないのだろう…。
「…孤独死、とかじゃありませんよね……。」
怖くなって震えた私の声に、碓氷さんは眉間に皺を寄せる。
「事故物件じゃないって言ってんだろ。」
しかし、直ぐにそんなイラついたような顔は引っ込んだ。何故か私の顔を見た瞬間、一瞬だけ目を丸くしたのだ。そして、面倒くさそうにしながらも、聞いたこともないようなぎこちなく やわらかい声でこう言った。
「大丈夫だよ。入居者の履歴はみんな若いサラリーマンとか、大学生ばっかだから。それに、このシミを消す方法もある。あとで教えてやるから。」
「そう、ですか…。ありがとうございます。」
私を心配して諭してくれた……?って…碓氷さんに限ってそんな訳ないか。そうだ、碓氷さんは仲介事業者だ。自分のノルマのために私を安心させただけだろう。
いや……けど…何だか声色が恥ずかしそうに思えたな…。
と、碓氷さんの本心がわからずに首を傾げるが、今は内見の時間だ。
碓氷さんの時間を無駄にしない為にも、もう一度改めて辺りを見回してみる。
確かに、壁が少々汚いだけで嫌な「雰囲気」も全く感じられない。そして、何よりも……幽霊が居ない!うん!大丈夫だ!
「ここにします!」
碓氷さんの言葉と、部屋の空気に安堵して笑顔で伝えると――
「待て、ちゃんと考えてから決めろ。」
碓氷さんはイラッとしたかのように、眉をピクっと動かした。
「いや、ここでいいんで――」
一日でも早くあの家から出たい私は、慌てて言いかけた。けれど碓氷さんは私の声に、若干威圧感のある 声を被せてきた。
「俺たち不動産会社はあんたら利用者が、きちんと満足出来るような最適の物件を提供することが仕事なんだよ。こっちだって態々あんたの為にしっかり考えて、資料の中であんたが一番望む条件の物件を勧めたんだ。だから適当に決定するな。きちんと細かいところまで見て回れ。不満な点があれば、また他の物件紹介してやるから。」
不機嫌そうに私を睨んでいたが、そう言い放った碓氷さんの瞳は真っ直ぐで真剣さがとても伝わってきた。
「本当に真面目なんですね。」
私は、そんな真剣な碓氷さんの顔を覗き込んで笑う。
「馬鹿にしてるんなら、上司に頼んで あんたの担当外してもらうけど。」
「いえ、馬鹿になんかしてないです。真面目に頑張ってる人を見ると、応援したくなりますから。」
なんだ、碓氷さんにだって良いところあるじゃないか。さっきだって、私を少し心配してくれたみたいだし。
この物件を勧めてくれた時も、直ぐに条件に適したページを見つけていたから資料は全て頭に入っているのだろう。
嬉しくなって「ふふふっ」と思わず私は笑顔を零す。そんな私を碓氷さんは睨んでため息をつく。だけど、今回は睨まれても腹は立たなかった。
「それで?どんなところを見ればいいんです?」
「部屋の広さや日当たり・風通し、水回りの清潔さと臭い、水道の水圧、電波環境、収納スペース、ベランダ・バルコニーの外からの侵入経路。それと照明、インターホン、エアコン、コンセントの数や――」
「ちょちょちょ!早いです!多いです!そんな覚えられません!!」
「ふぅ…!OKです全部!大満足です!」
碓氷さんが教えてくれた、内見する時に確認しておくべき合計十八項目を全て確認して、私はそう碓氷さんへ笑顔を見せた。
「よし。じゃあ、このまま戻って入居申込書に記入するか?それとも帰って後日書くか?」
「今すぐ戻って入居申込させて頂きます!」
「随分とせっかちだな。呑気そうなのに。」
「今の家の騒音から早く逃げ出したくて……。」
「あんまり酷いんなら管理会社や警察に相談して、騒音起訴すれば?手続き方法を教えるくらいならできるけど。」
「いえ、大丈夫です!」
「遠慮すんなよ。慰謝料請求だってできるんだぞ。あんた精神的に疲れてるみたいだし。」
「いやぁ…だって、色々と面倒じゃないですか…。」
幽霊だから起訴とかできないし。
「それに、こんなにいい家も見つかったし!次の住む場所が見つかれば万事解決なんですから!」
ここまで意外と親身になって物件を一緒に探してくれた碓氷さんへの感謝で、勝手に出てきた笑顔を零すと……
「ま、そうかもな。」
なんと……碓氷さんは少しだけだが、微笑んだ。
あの「お客さん用」の笑顔よりも愛想は良くないが、爽やかでは無いが……それでも、初めて見る碓氷さんの本当の笑顔は「お客さん用」の笑顔よりも素敵なのは確かだった。
そんな碓氷さんの少しだけ優しい笑顔に驚いているうちに、碓氷さんは呟く。
「でもその『騒音』で迷惑かけてる奴じゃなくて、あんたが出てかなきゃいけないのは変な話だよな。」
「あぁ!それもそうですね!」
碓氷さんの言葉に「確かに!」と心から共感するが、相手が幽霊ということを思い出す。
だけど、「相手は幽霊なんで、そもそも起訴出来ませんよ。」なんて言えなかった。
そんなこと言ったら………あの頃みたいに…また、気味悪がられてしまうから…。
また「化け物」と呼ばれてしまうから……。
そもそも、こんな意地悪の碓氷さんに言っても信じて貰えないだろう。笑われて「皮肉」のネタにされてしまうだけだ。
「ここまで進めといて訊くのもあれだけど、ホントに起訴しないのかよ?あんた被害者なんだぞ。」
「しません。」
ハッキリと答えると、碓氷さんは少し不服そうに「ふ〜ん?」と返した。
「チキンだな。あんたそういうのもビビらずに突っ込みそうだけど。馬鹿で臆病とか可哀想に。」
やっぱりこの人腹立つ。
「……ま、どうでもいいけど。」
「いい加減、『馬鹿』呼ばわり辞めてください。」
流石に腹を立ててそう言い放つが、碓氷さんはきょとんとした顔で私の目を見つめた。
「なんで?馬鹿じゃん。」
「はあ?!馬鹿じゃありません!知ってますか?『馬鹿』って言った方が馬鹿なんですよ!」
絶ッ対、あのきょとん顔わざとだ!!!
「うっわ、未成年とはいえそんなガキ臭いこと言う奴いたんだ。」
「成人してます!!」
「うっそ、マジで? 成人してんの?!これが?!」
「また殴りますよ?!!」
「殴れば?傷害罪で逮捕されたいならな。」
うっざ!!!
「ああもう!!早く戻らせてください!!一秒でも早く碓氷さんと離れたいので!!」
「奇遇だな、俺も今同じことを考えてた。」
ほんっと性格悪いなこの人!!
不動産屋に戻ると、碓氷さんは直ぐに入居申込書を持ってきた。
「はい、ここ書いて。」
言われた通り一つ一つ丁寧に書いていると……
「へぇ?『笹野』っていうのか。あんたにピッタリじゃん。笹食ってるパンダみたいに何も考えてない馬鹿だし。」
私の書いた名前を見て、碓氷さんはボソッとそう煽ってきた。
……「碓氷=将来ハゲる」の仕返しか…?
「パンダを馬鹿にしないでください。」
「自分が馬鹿にされてることは怒らないんだな。それって漸く認めたってこと?」
腹立つ……。
「いいえ!何言っても碓氷さんには無駄って気づいたからです!」
「すげぇ、馬鹿でも学べる脳はあるんだな。」
「馬鹿じゃありません!」
あぁもう本当に腹立つ!この人本当に成人してんの?!!絶対、精神年齢小学生だよ!!いや!小学生と比較しちゃいけない!!この人と比較される小学生が可哀想だ!
腹を立てて、碓氷さんから借りているペンを勢い良く机に叩きつけると、先程の遠藤さんが碓氷さんの後ろから机に手を置いて困ったように優しく笑いかけた。
「すみません、うちの碓氷が失礼な態度をとってしまって…。」
「いえいえ!遠藤さんが謝る必要ありません!!謝るべきなのは碓氷さんなんですから!!」
攻撃するように手に持ったペンを碓氷さんの目の前で振るが、碓氷さんはうんざりしたように言う。
「なんで俺があんたなんかに謝らなきゃなんねぇんだよ。」
「はあ?!散々私を馬鹿呼ばわりしてるじゃないですか!!」
「いや、だって馬鹿じゃん。早く書けy――」
と、碓氷さんが言いかけたところで、遠藤さんが碓氷さんの言葉を遮るようにしてもう一度私へ笑顔を向けた。
「碓氷がお客さんに対してこんな態度を取るなんて初めてだ。知り合いなんですか?」
「はい――」
「道歩いてたらこいつに殴られたんだよ。」
私が答えようとしたのに、というか遠藤さんは私に尋ねたのに先を越された。
「その節はすみませんでした!でもっ!あれは追われてたから…!!」
「『追われてた』?!誰に?!大丈夫でしたか…?!」
私の言葉に、遠藤さんは身体を乗り出して尋ねてくる。遠藤さんは碓氷さんと違って、本気で心配してくれているようだった。それが嬉しくも、恥ずかしくもあった。だって……
「…ふ、不審者です……。」
どれだけ心配してもらっていても、本当のことを言うことはできないから。
……嘘ついてごめんなさい…。
二人の顔が見れなくて、俯いていると碓氷さんが冷酷に放つ。
「『不審者』って言うけど、あんたの勘違いなんじゃねぇの?こんなガキを狙う奴がどこにいるかよ。センス疑うわ。」
碓氷さんの酷い言葉に思わず私は顔を上げる。
「なっ…。」
「おい碓氷…!」
遠藤さんも流石に叱ってくれようとしたが……
「だって不審者の立場に立って考えてみろよ。こんなガキみたいなちんちくりんを襲いたいと思うか?」
「……それは…………」
遠藤さんはチラッと私を見て、気まずそうに目を逸らした。
「えっ、ちょ遠藤さん?」
「ほらな?」
「二人とも訴えますよ?」
「すみませんねお客様…うちの碓氷が…。」
「責任転嫁しないでください?!私、遠藤さんにも怒ってますからね?!」
「ほら早く書けよ。」
仲間だと思っていた遠藤さんがそっち側に行ったことに戸惑いを隠せないが、仕方なく碓氷さんに言われて私はペンを持つ。
「書いたらすぐ帰れよ?」
「……。言われなくても帰りますよ。碓氷さんとこれ以上居るのはごめんですから。」
「へぇ、そうか。それはありがたいな。」
「ちょっ、碓氷…。」
あまりに攻撃的な碓氷さんに、先程 私を間接的に侮辱した遠藤さんも戸惑っている。
しかし、私はもう相手にするのは無駄だと思って、静かに必要項目を書き続けていた。なのに、碓氷さんはまるで自分の方が立場が上とでも思っているかのように「だってそうだろ?」と続ける。
「俺だって、こんな奴と一緒には居たくない。」
「そ――……。」
「それはこっちのセリフです!」と言いかけた口を私は咄嗟に閉じた。
いかんいかん。早く終わらせなきゃこの人から離れられないんだ。もう少しの辛抱だ。
頑張れ、私…。
えーと…えーと……次は…「緊急連絡先」…。
と、書類に全集中しようと姿勢を正した瞬間――
「もー。ホント、碓氷ってさー」――
「顔しか取り柄無いよね。」
「え?」
聞こえてきた明るい声に、そう小さく声を零したのは、私だった。
だって、遠藤さんがまるでごく普通の世間話のようなトーンで言うから。
「なんですか、それ。」
「えっ?」
私の低い声に、遠藤さんは本当に驚いたようにこちらを見つめた。遠藤さんは碓氷さんの仕事仲間の筈なのに、長所に気づいていないなんてこちらが驚いてしまう。
そして、何故か、碓氷さんも驚いたように私を見ていた。
私を捉えたヘーゼルの瞳が、震えている。
「何ですか、『顔しか取り柄が無い』って。碓氷さんが『顔しか取り柄が無い』なんてことありません。凄く真面目にこの仕事に取り組んでるじゃないですか。ひたむきに頑張ってる人に、そんな酷いこと言わないでください。」
見ていれば一瞬でわかることなのに、ハッとしたように遠藤さんは気の抜けた声で「たし…かに…そうだ……。」と零した。
「ごめん碓氷…。オレ酷いこと言っちゃった…。」
「別に慣れてるし、自分でもわかってるからいいよ。」
そうやって身につけている腕時計を触った碓氷さんは、いつものようにうんざりしたような顔をしながら、目線を落とす。
長いまつ毛が淡い影をつくった先の口元は、少し堅いような気がした。そんな碓氷さんのなんとも言えない表情は、どこか心の奥で悲しんでいるように思えた。しかしそれは、気の所為かと納得してしまう程、わかりにくいものだった。
……隠して、いるのだろうか…。
「ごめんな。」
そんな遠藤さんの気まずそうな声で、私の意識は引き戻される。
気がつけば、遠藤さんは優しくポンポンっと碓氷さんの肩を叩いて、自分のデスクへ戻っていた。
その姿を目で追った直後、私はある事に気がつく。
「――あ。」
「何だよ…?」
「もう一つ、碓氷さんの『取り柄』見つけました。」
また気がつけたことが嬉しくて、私はつい笑顔を零す。
「『愛想』です。最初来た時、碓氷さんだって気づきませんでしたから。凄く優しく親身になってくれる人だって、安心しましたもん。」
碓氷さんの表情は、先程のように驚いているようだった。全ての動きが止まっている。
「優しいってのはアレですけど、親身になってくれるのは、素の碓氷さんでも同じですね。」
やっぱり人の長所を見つけると嬉しい。笑顔を溢している私の顔を、丸くなったヘーゼルの瞳がじっと見つめていた。
――信じられないとでも言うように、じっと。
その瞳は碓氷さんの瞳だとは思えない程、とても澄んでいた。
五秒以上も見つめてくるもんだから充電でも切れたかと、「ん?」と首を傾げてみる。すると、私を捉えていたヘーゼルの瞳を一瞬、更に見開いて、目を泳がせた。
「あ…あー、いや…別に。」
そして、眉に皺を寄せ、首の後ろを撫でてから数秒目を瞑り……大きく息を吸って、ゆっくりため息をつく。
そして――
「あんたやっぱ変人だな。」
目を開けたかと思えば、また眉を顰めてそんなことを言った。
「はあ?!なんでですか?!」
「…はぁ……馬鹿みてぇ…。早く書けよ。」
「言われなくても書きます!!」
私は、腕時計を触る碓氷さんをギロりと思い切り睨んで、さっきよりも雑な字で必要事項を埋めた。
――先程、碓氷さんのついたため息が震えていたのは、気の所為だろうか……。
書き終わった申込書を碓氷さんへ差し出した後、入居審査や重要事項説明書を確認して、賃貸借契約書を書くことになった。
よし……「入居日」は…
「…今日って何日でしたっけ。」
「二十八。」
「えっ、もう五月も終わりですか。早いですね。」
「二十八日」っと……
「は?阿呆か。入居日は最短でも二,三日はかかるぞ。」
「え?!じゃああの家にあと二,三日も住まなきゃいけないってことですか?!」
「残念ながらな。」
「マジですか……。碓氷さん…ここら辺で安くていいホテル知りません…?」
「知らないな。」
「旅館でもいいんです…!」
「知らねーよ。てか、そんな騒音問題やばいのか?」
「やばいかやばくないかで答えるとしたら、かなりやばいですね……。」
「ちゃんとやめるように言ったのかよ?」
「言〜……いましたね…。」
毎日きちんと「やめて」って言ってる…。この間だって……。
「ちゃんと言ってないだろ。」
「いや…言ってはいるんですけど……」
聞いてくれないというか……聞く気が無いというか…。
「そういうのは『ハッキリ言った』っていう事実が必要になるんだから、きちんと強めに言っておけよ。」
「いや、私 裁判開く気無いんですけど…。」
幽霊裁判とか少し面白そうだけど…。いや……怖いな…。
「それよりどこ泊まろう……。」
もうあんな家には戻りたくない…。いつか殺されそうだ…。
「あんたには野宿がお似合いなんじゃないのか?」
「野宿」……。
「それいいですね!!」
家の攻撃的な幽霊より、ただからかってくるだけの外の幽霊の方が余っ程良い!!
「は?」
「ありがとうございます!今日は野宿します!!」
そう言って「6月28日」を「7月1日」に書き直すが――
「それはやめておけ!!」
「うぃっ?!!」
突然の碓氷さんの大声に驚いた拍子に、「7」の字が飛び跳ねて「2」のようになってしまった。
「あーちょっと!…あぁ〜……もう…。びっくりさせないでくださいよー…。はぁ……。もう、いきなり大声出して。なんです?」
顔を上げると、何故か大声を出した本人の碓氷さんも驚いている様子だった。
「…ぁ……野宿はやめておけ…。」
「なんでですか。碓氷さんには関係ありません。」
「『なんで』…?……大人として恥ずかしいからに決まってるだろ。」
「碓氷さんには関係ありません。」
「いや、ある。野宿なんかしてるあんたがうちに来たら、うちの評判が下がる。」
「酷いですね。全世界の家が無い人に謝ってください。」
「兎に角、野宿は絶対にやめておけよ。」
じゃあどうしたらいいんですか……。
なんて言っても、碓氷さんに助けを求めているみたいなものなので「はーい…。」と返しておく。
すると……
「どうしたの?何かお困り?」
優しくて大人っぽい声が聞こえてきた。と同時に、視界の端に影が映った。――桔梗さんだ。
……いや、会ったばかりの人を頼るのは流石に申し訳ないだろう…。桔梗さん、きっと優しいから話しただけで助けてくれそうだし……。
「いえ、何でもな――」
「こいつ、今 住んでる家の騒音問題が酷くて帰りたくないらしいです。」
私の努力は無神経な碓氷さんの発言によって、全て無駄になってしまった。
「あら、それなら碓氷が泊めてあげたら?」
「は?なんでですか、嫌です。」
「私もこの人とは長時間居たくないです…。でも!今日どうにかして泊まるとこ見つけます!」
キリッとしてそう言うと、桔梗さんは笑顔で提案した。
「なら、今日うち泊まっていけば?」
「エッ…!」
や……やばい…気、遣わせてる…?!
「いえいえそんな!大丈夫ですy――」
そう言いかけたところで、桔梗さんはとても綺麗な笑顔を輝かせた。
「ううん!遠慮しないでおいでよ!部屋も一部屋空いてるし!貴方が来てくれると嬉しいわ♡」
あれ………桔梗さん喜んでる…??しかも……こんなに可愛いことを言ってくれて…………
「では……お言葉に甘えて♡お願いします!」
私も嬉しくなって頼むと、桔梗さんは本当に嬉しそうに「うん!」と微笑んだ。
「じゃあ、二日間だけになると思うけど、貴方のお部屋はここね。」
二十時二十分。
桔梗さんのお家に着き、部屋の紹介を受けたあと、そう優しく笑った桔梗さんが案内してくれた部屋は、殆どが薄桃色で統一された可愛いお部屋だった。
カーペットも、ベッドも、勉強机も、目につくものは殆どが薄桃色を基調としていて、この部屋の主は本当に愛されていることがひと目でわかった。
「凄く可愛いお部屋ですね!」
正直にそう伝えると、桔梗さんはぎこちなく笑う。
「ありがとう。妹の部屋なの。」
「妹さんの?」
じゃあ、その妹さんは今どこにいるのだろう。と考えていると、急に桔梗さんの表情が曇る。
「二人暮らしだったのだけど、中学生のときにね…交通事故で……。」
「そういうことでしたか……。」
どんな言葉をかければいいかわからず、少し俯いていると桔梗さんが再び優しく笑った。
でも……やはり無理に笑ってくれているみたいだ。空元気のようだった。
「でも安心して、布団は毎週取り替えてあるから。これも昨日干したばかりだわ。」
「妹さんのこと、今も大切にされてるんですね。」
悲しいけれど、桔梗さんから「姉の愛」をとても強く感じられて笑顔で言うと、桔梗さんは空元気ではなく、本心から笑ってくれた。
「仲が良かったからね。女の子らしいキラキラしたものが大好きだった。あまり人を頼れない私と違って、甘えん坊で愛嬌のあるあの子が少し羨ましかったわ。本当に……本当にいい子だった…。私の妹と思えないくらい。」
妹さんのことを語るときの桔梗さんは、全てが優しかった。目も、声も、笑顔も。
本当に妹さんのことが今でも大好きなのだろう。
そんなふうに少し嬉しく思いながら、桔梗さんを見つめていると……
「さ、そろそろ遅めの晩御飯にしましょうか。」
空気を変えるように明るい声色で、桔梗さんはそう笑った。
「ん〜!美味しい!!」
何度目かわからない「美味しい」を嘆きながら、手際良く桔梗さんが作ってくれた唐揚げを頬張ると、桔梗さんは嬉しそうに笑う。
「笹野ちゃんの作った、お味噌汁も凄く美味しいわよ。」
「本当ですか?!味噌汁くらいしか得意料理が無いので、褒めて貰えて嬉しいです!」
そう思わず笑顔を零す私に、桔梗さんは今度はやわらかい笑顔で尋ねた。
「そういえば笹野ちゃん、下のお名前はなんて言うの?」
「あかりです!『明るい』に『香る里』で明香里といいます!」
「『明香里』…いい名前ね。 明るくて周りを笑顔にさせられる貴方にピッタリだわ♡」
「本当ですか?!」
「ええ。『明香里ちゃん』って呼んでいい?」
「喜んで!!桔梗さんは、なんて名前なんですか?」
「綺『麗』に『華』やかって書いて、麗華よ。」
「『麗華』…!麗華さんにピッタリな美しい名前ですね!『麗華さん』って呼んでもいいですか?!」
「勿論!喜んで♡」
麗華さんは華やかに笑って、私の作ったお味噌汁を上品に啜る。そんな麗華さんの綺麗な笑顔を見て、私は本当にこの方に助けて貰って良かったと思った。
出会ったばかりの私を家に泊めてくれる上に、こんなに優しく笑いかけれくれる…。これ程までに、いい人が他にいるだろうか。
「あの…麗華さん…。」
改めてお礼を言おうと箸を置いて名前を呼ぶと、麗華さんは「ん?」と優しく眉を上げて、私と同じように箸を置き、背筋を伸ばしてくれた。
「出会ったばかりの私を…お家に泊めて頂き、本当にありがとうございます。しかもこんなに美味しい唐揚げを食べさせて頂いてしまって……どうお礼を言えばいいか…。」
感謝と申し訳ない気持ちが溢れそうになって、深々とお辞儀をすると、正面から麗華さんの「ふふっ」と優しい笑い声が聞こえる。
思わず顔を上げると、麗華さんは想像していた通りに優しく微笑んでいた。
「いいのよ♡ 実はね、あたしも妹を亡くして一人暮らしだから寂しかったの。こちらこそ、うちに泊まってくれて、こんなに美味しいお味噌汁を作ってくれて、ありがとね明香里ちゃん。」
本当に、麗華さんは優しい人だ…。
胸の中に何かとてもあたたかく優しいものが込み上がってくる。それはゆっくりと私の身体の中を通って、目頭へと移っていく。
「いえいえいえいえ!本当……助けてくれたのが、麗華さんで良かったです…。」
思っていることを素直に伝えると、麗華さんは今度は無邪気に笑って「あらぁ〜!可愛いこと言ってくれるんだから〜!♡」と私の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。
「それで?明香里ちゃんと碓氷は、どこで出会ったの?」
夕食後、麗華さんが剥いてくれたりんごを頬張っていると、麗華さんが何だか嬉しそうにテーブルに頬杖をついて尋ねてきた。
何故、麗華さんは嬉しそうに笑っているのだろう。なんて思いながらも、口の中いっぱいに詰め込んだりんごを咀嚼して、飲み込んでから答える。
「碓氷さんとは、近所の曲がり角で出会いました。」
「あら♡曲がり角でドーンとぶつかっちゃって…みたいな?♡」
「いえ、曲がり角でバコーンと殴ってしまって……。」
「へぇ♡ そう♡ 曲がり角でバコーンとね……ん?殴っ……え…?」
私の言葉を聞いて麗華さんは、目を丸くして聞き返した。
そして……
「えっ?殴られたの?wあいつが?www」
眉をくいっと軽く上げて、子供みたいに赤くした頬を持ち上げた。可愛らしい。可愛らしすぎる。
しかし、今の私は罪悪感でそれどころではない。
「待っwてww それ詳しく聞かせて?wwww」
「えっと……私…その夜、不審者に追われてまして…………」
「えっ、大丈夫だった…?!…ん?その不審者って碓氷…?!」
「いえいえいえいえ!!そうじゃないんです…!全然私は大丈夫でした!…殴った理由が…不審者から逃げていて……角を曲がったところに、碓氷さんが居たんです…。それで私……ふ…不審者…に先回りされたのかと思って……」
「あぁ、それでバコーンと?」
「はい…バコーンと……。」
やっぱり碓氷さんに申し訳なくなってきて、私は俯くが……
「あっはははは!ww ははは!www」
なんと麗華さんは豪快に口を開けて笑った。
「あははwwww だっw だからあいつちょっと前まで顔に湿布貼ってたんだwwww」
今日一嬉しそうだ…。でも……麗華さんの笑顔、凄く綺麗だな。…笑っている理由はちょっとあれだが…。
「『顔に湿布』?!相当痛かったんですね…。」
「そうみたいねwww 碓氷…w あいつよっわ!wwww」
「何だか話してるうちに、申し訳なさが復活してきました…。」
「大丈夫よw あたしも一遍、あいつを殴ってみたかったし。それより、明香里ちゃんは碓氷に恋しちゃったりしてないの?」
ん?「恋」? 突然過ぎないか?
そういえば、学生時代も少し男子と話しただけで「好きなの?」なんて言われていたな。
何故、そうやって直ぐに「恋」と結び付けられるのだろうか。ただ、分け隔てなく接しているだけなのに。
「してないですね。」
「あら、でも遠藤が言ってたわよ。明香里ちゃんと碓氷がいい感じだって。碓氷のこと、遠藤が貶したら明香里ちゃん怒ったんだってねぇ?」
麗華さんはお味噌汁を片手に、楽しそうにニヤニヤと笑っている。
しかし、そんな麗華さんの笑顔に、合わせることはどうしてもできなかった。
「あれは誰でも怒ります!だって遠藤さん、碓氷さんのこと『顔だけが取り柄』とか言うんですよ?…碓氷さんは確かに酷い人ですが、そこまで悪い人じゃないと思うんです。真面目な方ですし、私たち利用者のことをきちんと考えて物件を選んでくれてますし。」
あぁもう…。話したら思い出してしまった…。
腹の中で虫がうじうじ蠢いてるみたいで気持ちが悪い…。
雑に白米を噛んでいると……麗華さんは当たり前のような顔をして言った。
「でもあいつ、会社でも『顔しか取り柄が無い』って評判だからね。」
「え?」
麗華さんの言葉に、箸から白米が落ちた。
慌てて拾って口に入れるが、先程まで感じていた甘みは消えていた。
…なんで……?…碓氷さん、仕事の効率だっていいだろうし、あんなに頑張り屋だから成果も出せている筈なのに……。
私は、無性に腹立たしくなってきた。
きちんと評価をしてくれない、碓氷さんの周りの人が。
……碓氷さんが女性客に人気なのだって………碓氷さんが丁寧に対応しているおかげなのに…。
「…理解出来ません。」
そう零すと、麗華さんはニコッと笑って私の口元に着いていた米粒を人差し指で取ってくれた。
「明香里ちゃんは真っ直ぐで純粋だね。」
「……麗華さんは、碓氷さんがお嫌いなんですか…?」
「嫌いじゃないわよ?寧ろ面白いし、仕事仲間としてはまあまあ好きなくらい。あたしも碓氷がそこまで悪い人には見えないわ。」
「そうですよね!!」
よかった!麗華さんはやっぱり酷い人なんかじゃない!
麗華さんと同意見だったことに嬉しくなって、つい前のめりになって肯定する。そんな私に、麗華さんは再び悪戯げに笑って顔を覗き込んできた。
「随分と嬉しそうねぇ?」
「はい!嬉しいです!」
「そっかそっか〜♡ 本当はもう、『好き』になっちゃってるんじゃない?♡」
「いえ?好きじゃありません。そう言う麗華さんはどうなんですか?随分と私と碓氷さんの関係について追及してきてますが、好きだったりするんですか?」
「ないないないない。そもそもあたし、枯れ専だから。歳下ムリ。」
「『枯れ専』…?とは……?」
「『枯れた男性専門』の略よ♡ オジサンって呼べるくらいの年齢の人が好きなの♡」
「なるほど!そうなんですね!」
というか、麗華さんの方が碓氷さんより歳上なんだ…。てっきり、年齢的には同じくらいかと思っていた。麗華さんが若く見えるのか……碓氷さんが老けて見えるのか…。
碓氷さんは肌ツヤが男子高校生並みに良いので、恐らく二人が同い年に見える理由は前者だろう。
「明香里ちゃん、お酒は飲めるー?」
お風呂上がりの私に、キッチンから麗華さんが声をかけた。「お酒」という言葉に、私は火照った頬を思い切り緩ませる。
「飲めます!大好物です!!」
「やった〜!今日は飲み尽くすぞ〜!」
ビールを手に、二人でテーブルに向かう。ローズ系のシャンプーの香りがふわりと漂って、なんだかほっこりする。
「「かんぱ〜い!」」
缶を打ち合わせ、一気に私はビール缶を傾けた。
「っぷは〜!やっぱ、お酒はサイコーですね!」
「ちょっ…大丈夫なの?!」
「底なしって言われてるので!」
「え〜!見た目とのギャップすごっ!」
「よく言われますw」
「麗華さんは強いですか?」
「ある程度は強いわよ。お酒大好き♡」
「それなら今度奢りますね!」
「あらいいの?楽しみにしてるわねっ♡」
「そういえば明香里ちゃん、カレシは?」
二人の宅飲みが盛り上がってきた頃、麗華さんはそう私へ尋ねる。
「いませんよ〜」
「やっぱり?いたら碓氷の話の時点で言ってたものね♡ 実はあたしもいないのよ〜。欲しいけどさ〜。」
「そうですか?」
「え、欲しくないの?」
「別にいなくても楽しいですし!」
「なにそれカッコイイ!」
麗華さんの「カッコイイ」発言に、調子こいて「うへへっ」と笑い声を零す。すると、麗華さんは突然 思いついたかのように、身を乗り出して笑った。
「でも、『この人と一緒にいたい!』って思える人が現れたら素敵じゃない?」
「わー!素敵です!ゼクシィのCMみたいですね!」
「でしょ?♡ たとえば、そうねぇ…碓氷とか?」
「……うわ…最高なプランが壊滅しました…。」
「あっははw そんなに?ww」
「何か不便があったら言って、おやすみなさい明香里ちゃん♡」
「おやすみなさい麗華さん!」
深夜零時、私はまだワクワクと躍ったままの心で妹さんの部屋に入った。
その瞬間、この部屋を紹介されたにときは何も感じなかったのに、優しい花の香りがふわっと私の頬を撫でた。
そして、その先で……
「え……?」
私は思わず、息を呑んだ。
部屋の隅っこに、血だらけの女の子が私を見つめて座っている。
夜に見る幽霊は、大体私を睨んだり、私を面白がったりする者が多い。だけど、中学生くらいに見えるその女の子は、私を悲しそうに見つめているだけだった。
しかし、その目は、とても優しい色をしている。
しかも、一番印象的なのは勿論血だらけという点だが、その女の子に対して二番目に感じたことは「可愛らしい」という印象だった。
大きくてきゅるきゅるとした瞳に、穏やかな印象の眉。主張の弱い鼻とよく潤った唇。そして、ハイツインテールにした細くて黒い柔らかそうな髪。
女の子なら誰もが羨むような甘い雰囲気を漂わせるその子は、瞳を震わせて小さく口を開いた。
「…おねえさん、だあれ…?このお家に住むの…?」
期待通りのやわらかくて綿菓子のような声に、私は驚いて声が出なくなった。だって、幽霊に話しかけられるのは初めてだから。
今まで出会ってきた幽霊は真面に話が出来ない者ばかりだった。笑ったり、泣いたり、唸ったりするだけ。
だけど、この女の子は真っ白で血だらけの青みがかった肌を持っているのに、私へ質問を投げかけたのだ。
私が答えられずにいると、女の子は悲しそうに涙を流して訴えた。
「お願いだからここに住まないでっ……。ほのかの………ほのかの――お姉ちゃんを取らないで…。」
私はそんなポロポロと金平糖のような涙を流す女の子を見つめていた。
だが、考えずとも、私は身体が勝手に動いていて、気がつけば女の子を抱きしめていた。
ひんやりとした感覚が、女の子に触れている私の肌に伝わる。甘い匂いのする彼女の肩は、小さくて、ふわふわと頼りなくて、今にも消えてしまいそうで……苦しくなった。
「お姉ちゃんを取ったりしません…。大丈夫……。だから…安心して…。」
冷たくて曖昧な頭を撫でながら、私は不思議と冷静に答える。
「ここに居させて貰うのは、引越し先の契約が決まるまでの…二日、三日間だけですから……。お姉ちゃんを奪ったりなんかしません…。」
寂しそうな瞳をした彼女の震える肩が、本当に頼りなくて、伝わってくる彼女の思いが悲しくて、私も一緒にポロポロと涙を流した。
「麗華さんの妹さんですね。『ほのか』というお名前はどういう字ですか?」
二人が漸く泣き止んだところで、私は妹さんに尋ねてみた。すると、妹さんは麗華さんによく似た優しい笑顔で答える。
「稲穂の『穂』に『華やか』だよ。おねえさんは?」
「笹野 明香里です!穂華ちゃんは麗華さんと名前がお揃いなんですね。」
そう笑うと、穂華ちゃんはとても嬉しそうに無邪気に笑った。まだ涙が浮かぶ目尻を細めて。
「そうなの!」
そして、思い出したかのようにハッとしてから、哀愁色の声で……話してくれた。
「うちね……小さい頃にお母さんとお父さんが交通事故で死んじゃったんだ…。でも、四歳しか違わないお姉ちゃんがほのかを一生懸命育ててくれたの…。お姉ちゃんは凄いの。頭もいいし、凄く優しいし…。ずっと、一緒に居てくれたんだ……。だけどね…ほのか……お母さんたちと同じ死に方で死んじゃった…。お姉ちゃんはずっと、ほのかのそばに居てくれたのに……ほのかは、そばに居れなかった…。悪いことしちゃったな……。」
再び大きな瞳に涙を浮かべた穂華ちゃんは、私を見てから無理に口角を上げた。
幽霊なのに……凄くいい子だな…。
私は、穂華ちゃんを見てそう思った。穂華ちゃんが真剣に話しているのに、そんなことを考えていた。
でも、本当にいい子だと感じたのだ。今まで見てきた幽霊は話も通じないし、受け答えすらしてくれない。こんなに自分の思いを打ち明けてくれて、生きた人間である私の気持ちも考えてくれている幽霊なんて初めてだった。
いや……そもそも、こんなにいい子は初めてだった。普通の中学生は、出会ったばかりの私にこんな話をしてくれないだろうし、こんなに礼儀正しくない。
「麗華さん言ってました。『あまり人を頼れない私と違って、甘えん坊で愛嬌のある穂華ちゃんが羨ましかった』って、『本当にいい子だった』って。麗華さんの言葉を聞くと――顔を見るとわかります。穂華ちゃんが麗華さんにあげたのは、悲しいことよりも嬉しいことや幸せの方が多いんだって。」
穂華ちゃんは、私の言葉に顔を上げた。
目を丸くしている。そんな、目尻を可愛らしく拭った人差し指には、小さな光の揺れる金平糖がついていた。
「それも、少しの違いじゃありません。きっと、十割を最大に考えたら、悲しみなんて二割も満たないと思います。穂華ちゃんが亡くなってしまったことは、勿論……物凄く悲しいことだと思いますが、それでも穂華ちゃんとの思い出は幸せの方が断然多いですよ。だから穂華ちゃんも、そんな顔しないでください。麗華さんみたいに、もっと笑ってください。穂華ちゃんも麗華さんに貰ったものは、嬉しいことの方が多い筈です。」
笑いかけた私に、穂華ちゃんは今度は可愛らしく無邪気な笑顔を見せてくれた。
ポロリと右目から涙を落とす。今度は、無理に笑った訳ではないようだ。何故かわからないが、何となくわかった。
「そうだね!」
そう言って穂華ちゃんは勢い良く私へ抱きついた。
「明香里ちゃん大好き!!」
ひんやりとした穂華ちゃんの冷気に包み込まれるが、もう恐怖なんて全く感じない。逆に、凄く嬉しくて、とても幸せな気持ちに包まれ、胸の奥があたたかくなった。
「私も穂華ちゃん大好きです!」
穂華ちゃんの小さな背中に腕を回すと、耳元で落ち着いたような声が聞こえてくる。
「ところで明香里ちゃんは、お姉ちゃんとどんな関係なの?」
「お友達ですが、詳しく話すと不動産屋さんとお客さんみたいな感じです。」
「え!お姉ちゃん、明香里ちゃんの担当してるの?!」
私の答えを聞いて、穂華ちゃんは相当嬉しかったのか、私から勢いよく離れ、両肩を掴んでキラキラな笑顔を見せた。
「いえ、担当は碓氷さんという人です。意地悪ですが、真面目でいい人です。」
「『うすい』?ハゲてるの?」
「いえ、ハゲではありません。髪の毛サラサラですよ。」
「そうなの?羨ましいな〜、でも『意地悪なのにいい人』って存在するの?」
「う〜ん……多分存在します…。」
実際、碓氷さんは意地悪だけどいい人だし…。
「へぇ〜…?」
「麗華さんは、帰る家の無い私を助けてくれたんです。」
「えっ、明香里ちゃんホームレスなの?」
「いえ、そういう訳では無いのですが……。」
……幽霊の穂華ちゃんになら、言っても大丈夫だよね…。
「今住んでる家に、大変 質の悪い幽霊たちが棲み憑いてまして……。」
「あぁ……そういうことか…。ほのか、明香里ちゃんのこと守れたらいいのに…。あの世にいく時に『私は人様に害はもたらしませんことを誓います』って契約書にサインしちゃったからな…。」
「んっ?えっ?あの世にそんなサインがあるんですか?」
「あるよ。一生、害をもたらさなきゃいけない幽霊になるか、一生害をもたらさない幽霊になるか、全て消して成仏するかって三パターンの道があるの。でも、害をもたらさなきゃいけないのも、もたらさないのも、後から成仏は出来るけどね。」
自慢げに穂華ちゃんは話す。
だけど、直ぐに申し訳なさそうにとても可愛い上目遣いで私を見つめた。
「でもごめんね……契約書にサインしちゃったら、最初に選んだ人間以外を守れなくなっちゃうの…。」
「いえいえ!穂華ちゃんが謝ることはありません!それより、穂華ちゃんみたいな優しい幽霊が存在するなんて驚きです。今までは、話せる幽霊でさえもいませんでしたから…。」
「あぁ……みんな話通じないんだね…。わかるよ…ほのかも友達作ろうとあの世いったときに、色々な人に話しかけてたんだけど……みんな喋らないんだもん……。」
「そうですか…。穂華さんタイプは珍しいんですね。」
そう呟くと、穂華さんは「へへっ」と笑ってから、黙り込んだ。
何か考え事でもしているのかと思いながら、綺麗に整った優しい穂華ちゃんのカールのかかった長いまつ毛を黙って見つめていると……
「あの…さ……明香里ちゃん…。」
何だか恥ずかしそうに穂華ちゃんは、私のパジャマの裾を掴んだ。
「なんですか?穂華ちゃん。」
顔を赤らめる穂華ちゃんのあまりの可愛さに、思わず笑顔を零して尋ねると、穂華ちゃんは小さな声で言った。
「今日さ……ほのかも一緒に寝ちゃダメ…?」
控えめな穂華ちゃんの声は、目は……寂しいという色で染まっていた。
「勿論いいですよ!一緒に寝ましょう!」
私の答えを聞いて、穂華ちゃんは本当に嬉しそうに瞳を輝かせる。
「ほんと?!」
「はい!ほんとです!」
そんな穂華ちゃんの笑顔に、私も再び笑顔を零してベッドに寝転び、布団を捲る。すると布団から、ふわぁっと麗華さんとはまた違う、甘い花の香りが香った。先程の香りは穂華ちゃんの匂いだったのか。
そんな優しい香りに、胸がきゅうっと締め付けられるような感覚に陥っている間に、穂華ちゃんはキラキラとした無邪気な笑顔で私の隣へ寝転ぶ。
その瞬間、ひんやりと冬の外の空気に触れたように身震いをする。けれど、それが反対に私の縮んだ胸をあたためた。
「すみません、布団使っちゃって。」
そう笑うと、同じように穂華ちゃんは笑って答えてくれる。
「ううん、明香里ちゃんに使って貰えて嬉しい。」
布団と同じ香りがする。その香りに包まれていると、自然と眠たくなってきた。けれど、もっと穂華ちゃんと話していたい。
「幽霊でも、やっぱり睡眠は必要ですか?」
既にふわふわと夢見心地で私はそう尋ねる。穂華ちゃんの甘い香りとやわらかい声も相まって、綿菓子の上に寝転んでいるみたいだ。
「ううん、ほんとは寝なくてもいいの。でも、今日は明香里ちゃんと寝たくなっちゃった。」
やっぱり、穂華ちゃんの笑顔は落ち着くな。
「ふふっ…私も穂華ちゃんと眠れて嬉しいです。私も穂華ちゃんの隣に居たいです。」
私の言葉に、穂華ちゃんは笑顔を再び見せてくれたが……少しして、また寂しそうな顔をした。
「…お姉ちゃんとこうやって一緒に寝たのが懐かしいな……。今じゃお姉ちゃんの隣に居ても、気づいて貰えない…。」
穂華ちゃんの身体が震えている。声もだ。
今までずっと我慢してきたのだろう…。耐えてきたのだろう…。この、埋めることの出来ない、どうしよもない寂しさを。
「……つらかったですよね…。――今も…つらいですよね…。穂華ちゃんは凄いです。」
何も気の利いた言葉をかけたり出来ずに、ただ穂華ちゃんの震える肩を抱く。それでも、少しすれば穂華ちゃんの肩の震えは治まっていた。
そして、穂華ちゃんは先程のような無邪気な笑顔で私を見つめて言う。
「明香里ちゃんが幽霊見えるのって、明香里ちゃんの隣の居心地がいいからじゃない?」
「え?」
「優しくてあったかいから、ずっと隣にいたくなっちゃうんだよ。」
…………マジか…。
「それは困りますね…。穂華ちゃんみたいに優しい幽霊なら喜んで受け入れますが……。」
私の言葉に、穂華ちゃんは「ふふっ」と微笑んだ。
「明日も明香里ちゃんはお仕事だから、そろそろ寝なきゃだね。」
「そうですね。明日も頑張らなくては。」
「うん、頑張ってね。おやすみ、明香里ちゃん。」
綿菓子のようなふわふわとした声で、私はゆっくりと目を閉じる。
「おやすみなさい、穂華ちゃん。いい夢見ましょう。」
いつもより幸せな気持ちに満たされ、安心感に包み込まれながら私は眠りについた。
※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。
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