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第一章 幽霊が導いた運命

6年前から趣味で小説を書き続けていましたが、この作品を執筆しているとき、ふと「『こんぱくとエッセンス』のキャラクターたちが誰かの心に残って欲しい」と思い、投稿を決めました。

『こんぱくとエッセンス』の「こんぱく(魂魄)」は死者の霊魂、「エッセンス」は本質を表しています。

“視える体質”の主人公、笹野明香里が、様々なキャラクターの発言や表情から垣間見える(コンパクトな)本質を見抜き、様々なキャラクターに本質を見抜かれるといった、もどかしくも優しい「人との関わり」をテーマとした物語です。

どうか、この物語を読んでくれた方が、不器用で人間味のあるキャラクターたちに少しでも共感してくれたら嬉しいです。

第一章 幽霊が導いた運命


「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 午前一時。漆黒とも言える闇の中を私は一人、全力疾走していた。


 何故、私がこんな深夜にがむしゃらに走っているか……。



 それは……


「あっはははははは!!!」


 絶賛、幽霊に追われているからである。

 生気なんかまるで感じさせない真っ白な肌に、何故かぐっしょりと濡れて嫌な光沢を放つ黒い長い髪。そして、新品でないとおかしいほど どこも汚れていない死装束(しにしょうぞく)

 必死に腕や足をばたつかせながら振り返ると、キラキラひらひらと彼女の白木綿(しらゆう)が激しく風に靡いていた。



 職場を出てから十分程歩いたところで、この引くほど典型的な姿をした幽霊は、私の後ろを小さな歩幅で着いてきた。

 全身の毛が逆立つのを感じると同時に、後方から摺り足気味の重い足音が聞こえ始めたため振り返ると、確実に歩いていたであろう彼女は嬉しそうに口を引き裂くように笑い、いきなり全速力で私を追ってきたのだ。


 蹴り上げ続けている足に、ジンジンと痛みが走っている。

 息を吸う度に、湿ったアスファルトの匂いに混じって、今まで何度も嗅いできた酸味の強い腐ったような臭いと青臭いカビの臭いが私の口や鼻に入ってきて、気持ちが悪い。 

 全身に逆立った毛も相変わらず、背伸びをし続けている。街灯なんかひとつもない田舎道の静けさに、鈍い足音と冷たい足音がふたつ。そして、深夜一時の静寂を切り裂くように、背後からは吹き荒れるような高笑いが耳を(つんざ)く。しかし、ここら辺に住んでいる人たちには聞こえていないのだろう。その証拠に、これ程 異常な声にも窓から光が零れる部屋は一棟も見当たらない。

 足が鉛のように重たいのは、絶妙なスピードで追いかけてくる彼女の所為か。それとも、恐怖で足が竦んでいる所為か。私には考える余裕もなかった。

 


 しかし、こんなにビビっているが、実を言うと私は毎日こんな感じで「恐怖」に遭遇している。


 きっかけは、三歳の時に経験した交通事故だった。

 一度死にかけたその日以来、何が理由かはわからないが、私は所謂(いわゆる)、「()()()体質」になってしまった。しかし、「恐怖」というものは中々慣れない。


 その日以来、よく幽霊にこんな感じでからかわれたり襲われてしまうようになった。きっと幽霊も、見える人間に会えて嬉しいのだろう。

 普通に昼間もバリバリ見えるのだが、夜は――特に、深夜は(たち)の悪い幽霊が多い。それなのに何故、私はこんな夜中に外を出歩いているのかと言うと………それは、約八時間前まで遡る。





 定時直後の十七時三分頃。新入社員の私は、絶対に終わる気のしない大量の仕事に追われて猛スピードでキーボードを叩いていた。が……


笹野(ささの)、この仕事お願いできるか。」


 ドサッとデスクに大量の紙を置く音がしたので、手を止めて顔を上げると部長が「出来るよな?」とでも言うような顔で私の瞳をじっと見ていた。

 突如目の前に現れた資料たちを、改めて上から下まで視線で確認してみる。


 ………。


 …流石に多すぎる。仕事の許容量がまだわかっていない私も、それだけはわかった。

 それに、最近は家の中で心霊現象が多発していて、精神もくたくたに疲れていた。もう何日も眠れていない。

 今日は……今日こそは、早く帰りたい。


「できな――」

「じゃ、頼んだよ。」

 いつもなら「任せてください!」と笑っていた私でも、今回ばかりは…。と口を開いたが、そんな努力は無駄だったようで、部長は私の答えも聞かずに荷物を持って逃げるようにオフィスを出ていった。


「…はぁ……。」

 ついため息をつくと、丁度デスクの上を片付けていた隣の御園(みその)さんがニコッと笑って言う。

「大変ねぇ、若い八方()()の独身さんは。」

 「美人」?!

「いえいえ!美人だなんてそんな!ふふっ…ありがとうございます!」

 「()()」なんて初めて言われた…!

 そうやって「美人」という言葉に反応して、溜まりに溜まっていたストレスの三分の一が消えていく。そんな私を御園さんはどこか怪訝そうに見つめていた。

 そして……

「笹野さん貴方(あなた)、カレシ出来たことないんでしょう?」

 突然、そんなことを訊いてきた。しかし、いつ訊かれても私の答えは勿論(もちろん) 変わらない。

「はい!無いです!」

 元気よく答えた私に、今度は眉を下げて「あらまぁ……そう、可哀想にねぇ…。」とワントーン上がった声を零す。

「まあ、予想通りね。」

 そう呟いた御園さんは分厚いまつ毛を伏せながら、薄ら笑いを浮かべていた。


 もしかして、私を心配してくれてる…?!優しい御園さん…!私の将来まで…!!


「いえ!私はカレシなんかいなくたって幸せ者です!だって、御園さんみたいな素敵な方と一緒に働けるんですから!」

 嬉しくなって私も本音を零してみた。御園さんは、期待とは少し違ったけれど、それでも厚いファンデを塗った頬を少しばかり赤くしてくれた。

「っ……あ…あらそう…?随分と変わり者ね…。」

 ふふっ、ツンデレ御園さん可愛いな。

 少し頬を緩めた私を見て、ハッとしてから御園さんは「ゔっゔん」とわざとらしく咳をしてみせる。

「…お人好しなのね。アタシみたいにお金持ちの男見つけてさっさと結婚した方がいいんじゃなぁい?まあ、貴方にはそんないい人捕まえられないと思うけど。」

「お金持ちの人と結婚したのに、それでも働くなんて御園さん偉いですね!尊敬します!」

 そう笑うと、御園さんはまたわざとらしくため息をつきながらも「……仕事頑張りなさいね。」と私を励ましてオフィスを出ていった。

「ありがとうございます!お疲れ様です!」

 御園さんのおかげで元気が出た私は、笑顔のまま再びパソコンに向かう。が……部長に任された大量の仕事が再び視界に入ってきた…。


 忘れていた……。


 いっつも部長はこうだ。立場の弱い私に仕事を押し付ける。それなのに、残業代も出ないし……でも、まだ小さな子供がいると言っていたな。それなら仕方ないか。疲れているけどきっと、部長はもっと疲れているんだ。若い私が頑張らなくちゃ!そのおかげで部長が奥さんやお子さんと仲睦まじく出来ているのなら、文句は言えない。


「ふふん、お疲れ様です部長。」


 お昼休みに写真を見せながら、私たち部下へ奥さんとお子さんの自慢をする部長の嬉しそうな顔を思い出して、私は再びキーボードを打ち始めた。





 ……そう、これが原因だ…。

 部長に任せられた仕事は終わったものの、結局、私が定時直前までやっていた「私の仕事」は終わってないし…。

 それに、腹ごしらえにと、つい先程久々に買ったカップラーメンを持ってデスクへ歩いていたら、何も無いところに躓いて盛大にカップラーメンをぶちまけてしまったし…。どれだけ頑張っても床のシミが落ちなかったから、きっと明日は部長にこっぴどく叱られるだろうし…。朝はPASMOの残高が足りなくて恥ずかしい目に遭ったし、信号無視してきた車にまた轢かれそうになったし………。…貞子みたいなめちゃくちゃ典型的な幽霊に追いかけられてるし…………。

 …今日は、ツイてない日なのかもしれない…。


 なんて考えている間にも、幽霊は「あっははははははは!!!」と不気味な高笑いを深夜のこ冷たい道に響かせて、相変わらず絶妙なスピードで私を追いかけてきている。

「なっ……なんっで私なのおぉぉ………はぁっ……はあっ………こないでぇぇ………。近所迷惑でしょぉぉっ……。」

 カラッカラの喉を更に乾燥させながら、必死で走っていると………



「ゔおあああああああああああああ?!!!」

 角を曲がった先で、私の目の前に大きな人影が現れた。



 後ろからは不思議と笑い声も足音も聞こえてこず、霊のいるどんよりとした空気も感じない。


 回り込みされたんだ!!

 そう思った私は、咄嗟に右ストレートを喰らわす。



 しかし――



「ぐほっ…!!」


 …………え…?



 私の小さくなった瞳孔の瞳に映ったのは、黒くて艶やかなストレートヘア。

 それは、先程の幽霊のような湿ってぐしゃぐしゃに絡まったロングヘアなんかじゃない。清潔感のある、一般的なマッシュヘアだ。



「ええええええ!!!嘘でしょごめんなさい!!!ごめんなさいっ!!!!!」

 私が殴ったのは…なんと、生きている人間だった。

 殴られた反動で後方へよろめいた男性は、()たれた頬を押さえながら鋭い目で私を睨む。

 男性のその冷たい瞳を捉えた瞬間、ふわっと知性を感じる上品なフローラルの淡い香りが鼻を(くすぐ)った。

「ってーな!何してくれてんだよ!!!」

「ごめんなさいごめんなさい追われてたものでっ…!!!!」

 つい出てしまった言葉に、その若い男性は眉間に皺を寄せた。

「『追われてた』?誰に?」

「あ〜っと〜……」


 「幽霊」なんて言ったら頭おかしいって言われちゃう…。


「……ふ、不審者に…。」

 俯きながら震えた声で答えたが、私は直ぐに勢い良く顔を上げた。


「はあ?!!マジかよ?!!」


 そう怒鳴って、男性は私が来た道とは逆方向になるよう、自分の後ろに私をグイッと引っ張ったのだ。

 突然の怒鳴り声にビクッと肩を跳ね上げさせるが、引き寄せられた薄い胸板に安堵が押し寄せてくる。


 助かったんだ…。


「あ…あの…………もう居なくなっちゃいました…。」


 そういえば、この人を殴る直前から幽霊は既に消えていたな…。……いつもなら…人間が居たとしても構わずに私を追いかけてくるのに……。


「あ?何だよビビらせやがって…。」

 男性は、安堵したように呟き、思い出したかのように、痛そうに顔を歪める。

 そして………


「わっ…?!ああっ…!」

 鼻血をボタボタと垂らした。

 威圧感のある先程の声とは違い、情けない弱々しい声が静かな暗闇へと浮遊する。


「あー!!ごめんなさいごめんなさい!!ほんっとごめんなさい!!!!」

 そう言いながら私は焦って、バッグからハンカチを取り出し、男性の鼻を摘む。が……

「触んな!!」

 怒鳴られてハンカチを奪われた。


 ………。


「あの……本当にすみません…。病院行きますか…?」

「行かねーよ…。」

「あっ…!そうだ手当て!!手当てさせて下さい…!!!それとお詫びになにか奢らせてください…!!!!」

「いや要らな――」

「いえいえ!そんな訳にはいきません!!!手当てさせて頂きます!!!!」


 ということで、私たちは近くのコンビニへ行くことになった。


「チッ……めんどくせ…。」





「いっ……自分でやる触んな…。」

 鼻血を止めるコットンや氷、お詫びのおにぎりとお菓子を買って、駐車場のポールのところで男性の青くなった頬に、たった今買ってきた氷を当てると、男性は顔を歪めて私の手から氷を奪った。

 そして、諦めてコットンを袋から取り出す私へ言う。

「女がこんな夜中にあんな暗い道歩くなよ。危ないってちょっと考えりゃ分かんだろ。」

「いやぁ……今日は残業を任されまして…オマケに私の家はあの道を通らないと辿り着けないとこなんです…。」

 そう答えると、男性は「はぁ……」とため息をつく。そんな男性を、少しだけ私は観察してみることにした。


 先程、見た時に一番印象的だった綺麗な髪の毛。何だか、『ハリー・ポッターシリーズ』のドラコ・マルフォイのような髪型をしている。(ちな)みに三作目の。この人は分け目が真ん中だけど。この髪型は……マッシュ×センターパートというやつだろうか。

 瞳は綺麗なヘーゼル色をしている。髪と同じく艶やかな睫毛(まつげ)は、男性とは思えない程に長く綺麗に生え揃っている。

 百八十は余裕でありそうなこの高身長に、更に威圧感を与えているのは、このビシッと決まったスーツだろう。シワも汚れもひとつ無い白いワイシャツは、第一ボタンまできっちり閉められており、彼が几帳面だということがある程度予想できる。ボタンと同じく一番上までキュッと締められたネクタイは紺色をしていて、まるで彼の冷酷さを表しているようだった。


 年齢は……25,6かな。殴ったのが老人じゃなくて良かった…。


「そんな細い腕で人を殴れるとは驚いた。あんた、勇気だけはトップクラスなんだな。」

 何も言わずに観察をし続けている私に突然、男性はそう言った。


「ほんとですか?!ありがとうございます!へへっ、確かに『勇気ある』ってよく言われます♪」


 しかし……


「は…?いや褒めてないけど。皮肉。」


 めちゃくちゃ怪訝そうな顔でそんなことを言ってきた。


「はぁっ?!!皮肉?!!!」


 なんて聞き返す私に、男性は再びイラついたように「はぁ……」とため息をつく。

 何回ため息をつけば気が済むのだろう。この人は。


「そんなんだから舐められて仕事押し付けられんだよ。普段も周りに言われる皮肉に気づいてないんだろ。」

「私の職場の人はそんな皮肉を言うような悪い人たちじゃありません!!いい人ばかりです!!」

 男性の言葉に腹を立てて私は言い返す。だが、男性は驚きもせずにため息をついた。

「馬鹿馬鹿しい。」

「……。」


 殴った私も悪いが、流石に意地悪すぎる。こんなに態度が悪い人と出会うのは初めてだ。基本、私は新鮮な体験は大好きだが、どうもこの人だけは受け入れられない。

 もうこの人の隣には居たくない。

 病院にも行かないみたいだし、私は居る必要無いだろう。そう思い、私はササッと電話番号をメモ帳に書き、雑にちぎって男性の薄い腹に突き出した。

「っあぶねぇな!また殴る気かよ?!」

「後から不調が見つかったりしたら連絡してください。責任は取りますので。」

 思い切り男性を睨んで「じゃあ。」と立ち去ろうとすると……


――ぐぅぅうううう


 …私のお腹が爆音で鳴った。

 ……恐らく、この男性にも聞こえているだろう…。でも、もういい。恥ずかしいし、何よりこの人から一秒でも早く離れたい。そう思って私は、そのまま歩こうとした。

 だが、後ろから人を馬鹿にするような笑い声が聞こえてきたので、私はつい立ち止まってしまった。


「ぶっはは!」

 その笑い声に私は再び腹を立てて勢い良く振り返る。


「なんなんですかさっきから!確かに殴った私が悪いですけど追われてたんだからそんなに恨まないでくださいよ!!ホントにごめんなさい!!」

「恨んでねーよ。何あんた、晩飯食ってないのか?」

「食べてませんよ!!食べようと思ってたカップ麺ぶちまけたんです!!」

「ぷっwマジかよw」

 こんな人に話さなきゃ良かった。

 そう思ってもう一度私は、目が痛くなる程 強く青白い光を放つコンビニから、街灯のない暗闇へと踵を返す。が……



「おい。」



 たった今、完全に嫌いになった声に呼び止められた。仕方なく私は振り返り、男性を睨む。

 だが、直ぐに私はそんな鋭い目を丸くした。


「俺こんなの要らねぇよ。」


 そう言って、男性は私に、先程買ったおにぎりやお菓子の入っている袋を差し出したのだ。


「えっ…でも――」

「それと、こんなのも要らない。別に後から訴えたりしねぇよ。面倒臭い。」

 私は自然と男性のすらりとした大きな手から、先程書いたメモの切れ端を受け取る。

「……そうですか。」

「じゃあな。」

 そう言って、私が羨む程 綺麗な髪をした男性は去っていこうとした。だが、おにぎりとお菓子のお礼を言っていない。


「あの!…………ありがとう…ございます…。これ…。」


「別に。俺の金じゃないし。今日のあんた、まるで映画に出てくる情けない主人公みたいだな。パワハラと?不審者と…あぁ、それとカップ麺もぶちまけたんだったな。もしかして運とかじゃなく、いつもそんな風に惨めなのか? あ、(ちな)みに…分からないと思うから言っておくけど、これ皮肉な?」

 腹の立つニヤッとした顔で、男性はコンビニの駐車場を離れた。


 ………。


 あーもう!!殴られたのそっちじゃん!!

 本当に今日は災難な日だ!!

 とか思っていると………



「ぎゃははははははは!!!!」



 なんと、先程の幽霊が復活して追いかけてきた!!

「うっそでしょおおおおお!!!」




「ゼーッ……ゼーッ……ゼーッ………はぁ…しぬぅ……。」

 漸く(ようやく)家に着き、マジで死にかけの状態で玄関へ倒れ込むと……


――ゴンゴンゴン!!!

――ピーンポーン…ピンポンピンポーン、ピンポンピンポピンポンピンポンピンポーン


 玄関のドアが大きな音でノックされ、インターホンが何度も何度も押された。家に入ったらもう諦めてくれると思ったのに…。


「はぁ……もうやめて〜…。」

 疲れきった身体で私はそう呟く。

 すると……




――コンコンっ



 今度は先程の重いノック音とは打って変わって、軽やかなノック音が玄関に響いた。


 その音を合図とするかのように、経った今まで騒がしかった玄関が突然、シン…と静まり返る。


 空気が一気に凍てつくように冷たくなり、何か嫌な寒気が背筋を撫でる。


 既に異様な程に逆立っていた全身の毛が、ゾワァッ…と物凄い勢いで引っ張られる。



 ごくんっ、と息を呑むと、まるで生気のない声がアパートの廊下に響いた。






「開けてくださーい。」



 陰湿で抑揚の無い男の声に、私の心臓はバクバクと物凄い勢いで警鐘を鳴らし始める。

 これは、確実に生きた人間の声では無い。直ぐに確信した。その瞬間、もう一度籠った声が私の耳を、身体を震わせた。


「あのう、カレー、作りすぎちゃったんで、中で一緒に食べませんか?」


 こんな夜中に、霊が生きた人間に成りすまして訪ねてくることが怖くて、「中で」という単語が、全く今まで考えていなかった「こちらまで入ってくるかもしれない」といった可能性を訴えかけている気がして、私はその場に蹲って耳を塞ぎ、目をぎゅうっと痛くなる程強い力で瞑った。

 けれども、扉の向こう側の霊はコン、コン、コン、と奇妙な程、規則的なリズムで扉をノックしている。ノックされる度、頭に軽い音が突き刺さって頭がどうにかなりそうだ。

 もう何も見えないように、何も聞こえないように、必死になって蹲っていると、あちらの霊も痺れを切らしたのか今度はドンドンドンドン!!と激しく扉を叩き始めた。

 そして……




――ガチャ!ガチャガチャガチャ!ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ!!


 必死になってドアノブを捻り、扉を開けようとしてきた。

 その瞬間、溜め込んできた何かがプツンと切れる音がした。

 そして、どうしようも無い程溜まっていた恐怖や先程の男性へのストレスが怒りへと変換され、突然 爆発した。


「うっるさいもういい加減にしてよ!!!こっちは仕事でクタクタなの!!!カレーなんか食べる気になれないよ!!!」

 嗄れた声で怒鳴った瞬間、私の大声に圧倒されたのか、扉のノック音も声も、ピタリと止んだ。


 束の間の安心に、全身の力が抜けて私はその場に倒れ込む。


「はぁ…………。」


 そんな短いため息でも、私の声は確かに震えていた。確かめるように手のひらを握ってみると、微かに指が痙攣を起こしていた。



 この家、引っ越さなきゃ……。


 この家を借りるときは、事故物件とかそういった類のことは一言も伝えられなかったのに、住み始めて一週間経った頃からポルターガイストやラップ音などの心霊現象が絶えない。

 寝ているときは男の幽霊が私を見下ろすし、金縛りに遭うし、ずっと風呂の後ろに長い髪の女の人が立ち(すく)んでいるし、時々 耳元で声が聞こえてくるし………。

 私が連れてきている可能性も拭い切れないが、どの道、引っ越すべきなことは変わらないだろう。


 そう考えた瞬間……








――カタッ…








 ドアの方から、小さな音が、狭い部屋に落ちた。


「う…そ……。」


 ……入ってきた…?


 うなじに冷たい汗がツーっと垂れて、ゆっくりと振り返る。







 しかし、そこには何もいない。

 ただ立てかけられていた傘が倒れただけだった。


「よかった……。」


 音の出処(でどころ)を確認して安堵すると同時に、乱雑に散らかった靴やゴミ袋が目につく。

 最近は、これらを気にする余裕も無かった。



「はぁぁぁぁ……」

 大きく息を吸い込んで、未だ震えた息を(こぼ)す。


 もう疲れた…。

 ……この視えてしまう体質に………。

 もし、視える体質じゃなかったなら……私、「普通」でいられたのかな…。


 

 涙で滲む視界を覆うように、脱いだジャケットを頭に被せ、そのまま目を閉じた。だが……明日も会社だ。ここで寝てしまえば絶対に寝坊してしまう。

 私は鉛のように重たい体を無理矢理起き上がらせ、『千と千尋の神隠し』の千尋のようにボロボロと涙を流しながら、おにぎりを急いで口に詰め込んだ。



 いつも食べているものと何ら変わらない筈のツナマヨおにぎりが、身体に、心に、沁みてきて急に安堵が押し寄せてくる。


「…おいひい……。」


 震えた声でそう零しながらも、顎先に渋滞した涙をスーツパンツの上に数滴、滴らせた。





第一章は随分とベタな出会いですが、テーマは正義や家族、愛などと深くしていく予定なので、引き続き第二章以降も読んでいただけると幸いです!

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