第10話:ルネ回:収穫者たちの聖域
ヴィラールの村を見下ろす、黄金色の丘の茂み。
そこに、周囲の長閑な風景にはおよそ不釣り合いな、極彩色のベレー帽を被った人影があった。
宮廷絵師、ルネである。
彼女は、獲物を狙う猛禽類のような鋭い眼光で、木陰で繰り広げられる「休息」を凝視していた。
その手元では、スケッチブックの上を炭筆が狂ったような速度で走り、紙を削る音を立てている。
「……これざんす。これこそが、わたくしが求めていた『勤労と安息』の極致ざんす……!」
彼女の瞳には、現実とは全く別の、輝かしい光景が映し出されていた。
◇
ルネの視界の中で、まず目に飛び込んできたのは、地平線まで続く黄金の大麦畑だった。
重税の呪縛から解き放たれ、希望の光を浴びながら鎌を振るう農民たち。その姿は、泥にまみれた労働者ではなく、大地の恵みを謳歌し、神への感謝を捧げる「神聖なる収穫者たち」の舞踏へと変換されていた。
そして、その麦畑の遠く向こう――。
陽光を背に受け、まるで祝福を運ぶ使者のように歩み寄る小さな影。愛らしいリーゼと、その傍らで「カニ印のマント」を誇らしげに翻しながら進む事務官ハンス。そのマントのなびきは、もはや世俗の風ではなく、聖なる守護の息吹を表現していた。
だが、画面の右側。大きな梨の木の木陰こそが、この絵の「魂」であった。
そこには、シルヴィア・ヴァレリアス。
実際には、空腹で倒れたリオンに「もう、本当に手がかかるんだから!」とぼやきながら、エプロンで泥を拭って介抱している姿なのだが。
ルネの筆の上で、彼女は「労働者に安らぎの粥を授ける、豊穣の女神」として再構築されていた。
そして、その足元で無防備に足を投げ出し、大の字になって眠りこけるリオン――。
実際には「カニ……カニ食べたい……」と寝言を言っているだけのマヌケな姿なのだが、絵の中では「国家の未来を双肩に背負い、思索の果てに大地と一体化した若き賢者」として、あまりにも堂々と、あまりにも深く描き出されていた。
「完璧ざんす! 黄金のうねり、翻るカニのマント、そして木陰に満ちる慈愛のリフレイン! これこそが真実の構図ざんすー!!」
ルネは恍惚とした表情で、最後の一線を力強く引き抜いた。
◇
数日後、アルカディア王宮の執務室。
「殿下! 見ていただくざんす! わたくしが目撃した、あの日あの時の『真実』の記録ざんす!」
勢いよく部屋に踏み込んできたルネが、一枚の巨大なキャンバスを掲げた。
その瞬間、僕は飲んでいたお茶を豪快に吹き出した。
「ゲホッ、ゴホッ! ……いや、これ、ピーテル・ブリューゲルの『穀物の収穫』かよ!?」
心の中で、前世のメトロポリタン美術館で見た記憶を絶叫する。
黄金の麦畑、梨の木、そして右下の木陰で「一人だけあまりにも無防備に爆睡している男」の配置に至るまで、完全に一致していた。
「……ねえ、ルネ。これ、木の下で口を開けて寝てるの見苦しくない? あと、遠くでハンスがマントを翻してるのは何かの儀式?」
「何を言っているざんす! あれは殿下を信じて付き従う忠義の輝きざんす! そしてこのシルヴィア様! 殿下の魂を子守唄で包み込む、聖域の守護者ざんす!」
僕は横にいるシルヴィアを見た。
彼女は、あまりにも美化された自分の姿と、その膝元で(ルネの筆によって高貴に修正されているが)マヌケに眠る僕の姿を見て、顔をゆでダコのように真っ赤にしていた。
「な、なによこれっ!? 私はこんな……こんな聖女みたいな顔してないわよ! それにリオン、なんで貴方はこんなに気持ちよさそうに寝てるのよ! 実際には『カニ……カニのハンコ……』ってうなされてたじゃない!」
「お兄様、素敵! 二人、とってもお似合いですわ。!」
いつの間にか現れたリーゼが目を輝かせて拍手し、後ろではハンスが眼鏡をキラーンと光らせた。
「完璧です。殿下のこの寝顔こそが、王国の平和そのものを象徴しております。この絵を広報に使い、殿下の慈悲深さをアピールしましょう」
「(……いや、ただのガス欠なんだってば)」
僕の意図しないところで、ヴィラール村での昼寝が「聖域の休息」として国家的な伝説に書き換えられていく。




