第3話:王宮の流行、カニ印の子供たち
昨夜、僕は結局、朝方まで机に向かっていた。
リーゼの笑顔でフルチャージされた僕の集中力は、自分でも引くほどに冴え渡っていたんだ。
ガタガタだった徴税書類の数値を一つ一つ正しい場所へ戻し、不自然な空白を埋めていく。
仕事は嫌いだ。できれば一生布団の中で過ごしたい。
でも、あの歪んだ数字の並びが整っていく瞬間だけは、なんとも言えない「心の平穏」が訪れるのも事実だった。
結局、朝日が昇る頃にハンスへ「これ、やっといたから」と書類を投げて、僕は泥のように眠りについた。
◇◇◇
昼過ぎ。
僕が欠伸をしながら執務室の窓から中庭を見下ろすと、そこにはなんとも微笑ましい光景が広がっていた。
中庭の片隅で、リーゼが小さな子供たちに囲まれている。
その子たちは、王宮で働く宮女やメイドさんの連れ子たちだ。
普段は大人たちの邪魔にならないよう、隅っこで静かにしているような子たちが、今は目を輝かせて歓声を上げていた。
「ペタペタ、ですわ! ほら、ここにもカニさんが歩いています!」
リーゼが楽しそうに声を弾ませ、手に持ったあの「芋ハンコ」を、古びた端切れに押し当てている。
無邪気に喜ぶ子供たちの頭を、リーゼはまるでお姉さんのように優しく撫でてあげている。
リーゼ……。なんて、なんていい子なんだ。
自分だけが楽しむんじゃなくて、おもちゃなんて持っていない使用人の子供たちのことまで考えてあげているなんて。
僕は窓を閉め、幸せな余韻に浸りながら椅子に座り直した。
すると、トントンと軽やかな足音が聞こえてきて、リーゼが頬を赤く染めて部屋に飛び込んできた。
「お兄様! お兄様、お願いがありますの!」
リーゼは僕の袖をギュッと掴み、上目遣いで僕を見つめてくる。
「あの子たち、カニさんの印がとっても大好きになってしまいましたの。でも、ハンコは一つしかなくて……。お兄様、あの子たちの分も作ってくださいませんか? 今日のお昼、みんなをここに呼んでもよろしいかしら?」
……断れるはずがない。
僕はすぐさまハンスを呼び、厨房から「形のいいジャガイモ」と、子供たちのための軽食を用意させた。
◇◇◇
というわけで、僕の執務室は急造の「ポテトスタンプ・ワークショップ」会場になった。
テーブルを囲んで座る子供たちは、緊張しながらも期待に満ちた目で僕の手元を見つめている。
そんな子供たちの間を、リーゼが楽しそうに回っていた。
「さあ、あなたは何の形がいいのかしら? 言ってみて。お兄様はとっても器用なんですの。きっと、ううん、絶対に最高に可愛く作ってくださいますわよ!」
リーゼが胸を張って、僕のことを自分のことみたいに自慢している。
ああ……そのキラキラした信頼の目。もう、それだけで僕は救われる。
本当、リーゼは天使だな。
「僕は、お星様がいい!」
「私は、お花がいいです!」
賑やかにリクエストが飛ぶ中、一人のちっちゃな女の子が、もじもじしながらリーゼのスカートの端を掴んだ。
「……あのね、私は……リーゼお姉様と同じカニさんが欲しいの。……だめ?」
その消え入りそうな声に、リーゼはぱっと顔を輝かせて、女の子の目線に合わせて屈み込んだ。
「あらあら、だめなんてことはありませんのよ! そうね、ぜひお揃いにしましょう。一緒のカニさんだったら、私たちはお揃い(ペア)ですわね」
リーゼが優しく微笑みかけると、女の子はパァッと顔を明るくした。
すると、それを見ていた周りの子たちからも一斉に声が上がる。
「えーっ! じゃあ私もリーゼ様と同じカニさんにしたい!」
「私も! お揃いがいいですわ!」
「あ、ずるい! 僕もカニがいい!」
わちゃわちゃと広がる「お揃い希望」の嵐。執務室が一気に賑やかな社交場と化す。
そんな中、一人の男の子が腕を組んで、元気よく声を上げた。
「僕はやっぱり星だな! みんなでいろんな形を押せた方が、もっと楽しいじゃないか。お花や星の周りにカニさんが歩いてる方が、きっと賑やかだぞ!」
「あら、素敵ですわね! そうね、みんなで色んな印を持ち寄れば、ここはもっと楽しい場所になりますわね」
リーゼが鈴を転がすような声で笑うと、子供たちは「そうだね!」「僕はこれにする!」と、また楽しそうに相談し始めた。
その光景を特等席で眺めているだけで、僕の心はぽかぽかと満たされていく。
満たされるなんて言葉じゃ足りない。なんなら心が溶かされる。いや、惚かされていく。
この子の笑顔を守るためなら、僕は一生ジャガイモを削り続けてもいい。むしろ削らせてほしい。
仕事? お小遣い? そんなのどうでもいい。
この聖域のような平和な光景こそが、僕にとっての最高の報酬なんだ。
「はい、お星様。お花。そして、リーゼとお揃いのカニさんだね」
僕が次々と彫り上げるスタンプを、リーゼが「はい、どうぞ!」と子供たちに手渡していく。
子供たちがそれを受け取って、嬉しそうにペタペタと押し始める様子を見て、リーゼは自分のことのように満足そうに微笑んでいる。
そんなリーゼを眺めているだけで、僕の心はもう限界まで「惚かされて」いた。
ああ……もう、今日はこれだけでいい。一生この時間が続けばいいのに。
「お兄様、ありがとうございます。あの子たち、とっても喜んでいますわ。……えへへ、お兄様は、私の自慢のお兄様ですわね」
リーゼが僕の腕にぎゅっと抱きついてくる。
ハンスが隅っこで「殿下……次世代の支持層をこうも容易く……。まさに草の根の懐柔策……!」なんて震えながらメモを取っているけれど、そんなのは聞こえない。
僕はリーゼのふわふわした髪の香りに包まれながら、また次のジャガイモに手を伸ばした。
このポテトスタンプが、王宮中の子供たちの服をカニやお花だらけにし、子供たちの間で僕の評判を爆上がりさせていることなんて、この時の僕は露ほども知らなかったのである。
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