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第2話:悲しみの芋、あるいはカニの印

僕は最後の一口のジャガイモを飲み込み、力なく顔を上げた。


「お、お兄様……? どうかなさったのですか?」


 そこへ、ふわふわとした蜂蜜色の髪を揺らしながら、妹のリーゼが執務室へと入ってきた。

 エメラルドグリーンの瞳を不安げに揺らし、彼女は僕の前に並ぶ、質素極まりないジャガイモをそっと見つめる。


「お兄様。今日のおやつ……いかがいたしましょうか? 何か、私にできることはございますか?」


 リーゼの言葉は、どこまでも温かかった。

 おやつがないことを責めるどころか、僕と一緒に何か工夫して楽しもうと微笑んでくれている。

 でも、その健気な心遣いを受ければ受けるほど、僕の胸には申し訳なさが込み上げてきた。


(……リーゼ。なんていい子なんだ。僕が不甲斐ないばかりに、君に約束していたキラキラしたお菓子も、新しい髪飾りも用意できていない。なのに君は、僕と一緒に考えてくれようとするなんて……!)


 予算の保留。お小遣いの支給なし。

 今の僕には、贅沢をさせる力はない。けれど、この目の前にある立派なジャガイモを使えば、僕にだってできることはあるはずだ。


「リーゼ。……少しだけ待っておくれ。今、この頼もしいジャガイモを、とびきり楽しいものに変えてみせるからね」


 僕は、ジャガイモを一つ手に取り、小刀を当てた。

 流れるような刃の運び。迷いのない指先の動き。それは、手元にあるものを工夫して価値あるものに変えるという、僕の性分に刻まれた技術だ。


「お兄様、何をなさっているの……?」


「魔法、とまではいかないけれど……。うん、よし。できたよ。ほらご覧リーゼ」


 僕がリーゼに差し出したのは、断面に精巧な「カニ」の文様が彫り込まれたジャガイモだった。


「まあ! お兄様、これは……可愛らしいカニさんですわ!」


「そう。名付けて『カニのポテトスタンプ』だよ。これにインクをつけて、紙や布に押してごらん。ほら、リーゼだけの特別な印になるんだ」


 僕が手近な紙にペタリと押してみせると、そこには愛らしいカニの姿がくっきりと浮かび上がった。

 リーゼの顔に、パッと花が咲いたような笑顔が戻る。彼女はその「芋」を宝物のように受け取ると、瞳をキラキラと輝かせた。


「素敵ですわ、お兄様! これ、王宮のみんなにも見せてきますわ。メイドさんの子供たちにも、一緒に遊ぼうって誘ってみますの!」


 ぴょんぴょんと跳ねるように去っていくリーゼの後ろ姿。

 廊下からは、「ペタペタ、カニさんですわ!」という楽しげな声が聞こえてくる。

 その響きが完全に消えるまで、僕は扉の方をじっと見つめたまま、ふにゃふにゃになった顔を戻せずにいた。


「……ハンス。見た? 見たよね、今の。天使。天使がいたよね?」


「はっ。リーゼ殿下は、まさにアルカディアの至宝にございます」


 ハンスの返事なんて半分も聞いていない。

 僕は椅子に深く沈み込み、天井を見上げて、今の「最高に可愛いリーゼの笑顔」を何度も何度も反芻していた。


(ああ……リーゼ。なんて、なんていい子なんだ……。あんなジャガイモで作ったハンコ一つで、あんなに喜んでくれるなんて。お兄様はもう、それだけで胸がいっぱいだよ。むしろ、あんなに喜んでくれるなら、毎日ジャガイモを削ってもいい。いや、削らせてほしい。むしろ僕がジャガイモになってペタペタされたい……)


 予算が削られたとか、お小遣いが凍結されたとか、正直もうどうでもよくなってきた。

 さっきまでのイライラなんて、リーゼの笑顔一発で、春の雪みたいに綺麗さっぱり消えてしまった。


「……幸せだなぁ。リーゼが笑ってくれるなら、世界がジャガイモに埋もれても僕は構わないよ……」


 僕はうっとりと目を閉じ、リーゼの笑顔の余韻に浸り続けた。

 仕事? なにそれ。美味しいの? グレモリー公爵の嫌がらせなんて、リーゼの可愛さに比べれば、道端の小石よりも価値がない。

 このまま、この多幸感に包まれて眠ってしまいたい。今日の僕の義務は、リーゼを笑顔にした瞬間にすべて完了したんだ。


「……殿下。大変申し上げにくいのですが、こちら、本日中に確認が必要な徴税書類でございます」


 ハンスが空気を読まずに、机の上にどさりと書類の山を置いた。見れば、数値の並びがガタガタで、不自然に歪んだ計算結果がこちらを睨んでいる。


「……ああ。いいよ、置いといて。どうせ暇だし。……リーゼに美味しいケーキを買ってあげるための足しにでもなるなら、このくらいの数字の整理、鼻歌まじりに終わらせてあげるから」


 僕はリーゼの余韻でふわふわしている頭で、ぼんやりと書類に目を向けた。

 やる気があるわけじゃない。ただ、リーゼの笑顔を見た後の僕は、いつもより少しだけ、この「帳簿の汚れ」を片付けるのが苦じゃなくなっているだけだ。


「さあ、サッサと終わらせて、またリーゼと遊ぼうかな。……ハンス、明かり。適当に準備しといて」


 こうして、一人の事務員の「妹への底なしの愛」が、本人も気づかないうちに王国の歴史を動かし始める。

 それは壮大な改革への野心などではなく、ただただ「天使のような妹」に囲まれた平穏な時間を守りたいという、一人の兄の極めて個人的な現実逃避の結果であった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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