幕間:旭日(きょくじつ)
それは、リオン王子が、農業改革という「奇跡」を成し遂げたという報せがグレモリーの耳にも届いた時とほぼ同時であった。
その日の朝、グレモリー公爵の執務室の扉に、控えめなノックが響いた。
「グレモリー公爵! よかったいらっしゃって!」
飛び込んできたのは、太陽のように弾む声。リーゼだった。
「……リーゼ様。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。カスピからのご無事の帰還、何よりに存じます」
グレモリーは立ち上がり、完璧な礼を執る。
その顔には、いつもの穏やかで非の打ち所がない「忠臣」の笑みが貼り付いていた。
「いいえ、公爵様!わたくし昨日戻ってきたばかりですよ。ふふっ
それよりも聞いてください公爵様!お兄様は、村にシロツメクサをたくさん咲かせてくださったのですわ。 村の人も、みんな幸せそうでした!」
リーゼは、大切そうに抱えていた包みを机の上に広げた。
そこにあったのは、少し萎れかけてはいるが、白く輝くシロツメクサで編まれた花冠だった。
「これ、お土産です! お公爵様にも、このお裾分けを届けたくて」
「……これは」
「昔……わたくしがまだ小さかった頃。エレーナお姉様から教えてもらって作ったことを覚えていますか? その時に公爵様に褒めていただいたので、お姉様に届けたくて……」
リーゼは無邪気に、懐かしむように目を細める。
「それで、お兄様が咲かせたこのお花を見ていたら、どうしても、もう一度作りたくなってしまったのですわ」
グレモリーの視界が、一瞬、白く弾けた。
眩しすぎる。
窓から差し込む朝日の光を反射するシロツメクサが、彼女の無邪気な笑顔が。
今の彼にとっては、どんな刃よりも深く心を切り刻む。
「……ありがとうございます。リーゼ様。実に見事な出来栄えですな。……エレーナも、喜ぶと思います」
声が、わずかに震えた。
それを「感激」と受け取ったのか、リーゼは満足げに笑い、「では、お兄様のところへ戻りますわ!」と風のように去っていった。
***
静寂が戻った執務室。
グレモリーは、机の上に置かれた花冠をじっと見つめた。
――気持ちが悪い。
グレモリーは震える手で花冠を掴みあげた。
握りつぶそうと力がこもる。だが――、
(……お父様、見てくださいませ! リーゼ様が、わたくしに……!)
脳裏に響く、あの日の娘の声。
十年前、この花を受け取って幸せそうに笑っていたエレーナの幻影がまとわりつく。
「…………っ」
結局、彼は花冠を壊せなかった。
彼は荒い呼吸のまま、机の最下段にある、固く鍵の掛けられた引き出しを開けた。
そこには、娘の品がしまってあった。
その中に、彼はリーゼから贈られたばかりの「旭日の光」のような花冠を、逃げるようにして押し込んだ。
暗い、暗い引き出しの底。二度と光の差さぬ場所へ。
「……ふぅ……」
鍵を閉める音が、静かな部屋に冷たく響く。
「私のこの『正義』は……こんなもので曇るものではない。必ず……引き摺り下ろしてやる」
窓の外では、アルカディアを祝福するかのような美しい朝日が昇っていた。
だが、その光が届くほどに、グレモリーの心に落ちる影は、より濃く、深く、鋭くなっていくのだった。




