第9話:フリルの中の『厄災』と、カニ印の鉄壁
翌朝。僕の「穏やかな視察」は、かつてない賑やかさに包まれていた。
隣を歩くのは、朝からフル装備のシルヴィア・ヴァレリアスだ。
プラチナブロンドのポニーテールを揺らし、鋭い眼光で僕の挙動を一つ一つチェックしている。
「……リオン。さっきから貴方、ただ手を振っているようにしか見えないのだけれど。それが本当に『視察』なの?」
「そうだよ。こうして腕を振ることで、適切な地点に……その、種を配置しているんだ」
実際には、ポケットから手掴みした種を、最小限の動きで広範囲にバラ撒いているだけだ。
僕が平然と事務的な嘘を重ねていると、横からリーゼがふわりと割って入った。
「シルヴィアお姉様も、一緒にやってみませんか? とっても楽しいですわよ」
「えっ、私が……? でも、これは領主の仕事で……」
「いいえ、これから一緒に過ごす家族なんですもの。ね、お兄様?」
「ああ。人手は多いに越したことはないからね。助かるよ」
僕が適当に種を分けると、シルヴィアは「……仕方ないわね」と頬を染めながらも、甲斐甲斐しく種まきを手伝い始めた。
彼女の性格上、やるとなったら全力だ。
僕が「一括処理」で済ませている横で、彼女は一歩一歩、確実な足取りで種を広げていく。
◇◇◇
事件は、村の外れにある少し風の強い丘で起きた。
僕が「効率化」の精神で、多めの種を風に乗せて放り投げた時だ。
突発的な突風が吹き抜け、放った種が不規則な軌道を描いて舞い上がった。
「わわっ!? 風が強いですわ!」
リーゼが声を上げた瞬間、風に舞った数粒の種が、あろうことかシルヴィアの方へと飛んでいく。
そしてそのうちのいくつかが、彼女の胸元――シャツのわずかな隙間へと、滑り込むように吸い込まれた。
「――っ!? ちょ、ちょっと! 何よ、今の……ひゃっ!?」
シルヴィアが突然、奇妙な声を上げて身悶え始めた。
「く、くすぐったいわっ! ああ、もう、どこに入ったのよ!?」
顔を真っ赤にした彼女は、たまらずシャツの裾を外に出し、パタパタと激しく振り始めた。
プレートアーマーがガチャガチャと音を立て、足もバタバタと地団駄を踏むように動かしている。
騎士公女としての威厳はどこへやら、必死に中に入った「異物」を追い出そうと躍起になっている姿は、あまりに無防備だった。
僕は、直視をするのが何かいけない気がして、とっさに目を逸らした。
すると、背後から事務官のハンスが音もなく現れた。
「失礼します」
一言だけ告げると、ハンスはアルカディア王家の紋章――巨大な「カニ」が描かれたマントをバサリと広げた。
それを、暴れるシルヴィアの前に壁のように掲げ、周囲の視線を遮断する。
「ちょっと、何よこれ!」
シルヴィアの抗議の声が上がったが、ハンスは無言のまま、マントの両端をしっかりと掴んで離さない。
マントの陰で、布が擦れる音や、鎧がぶつかる音が聞こえてくる。
しばらくの間、シルヴィアはマントの下でジタバタ、モゾモゾと必死に動き回っていた。
◇◇◇
やがて、マントの下の動きが止まった。
ハンスがゆっくりとマントを降ろすと、そこからシルヴィアが姿を現した。
激しく動いたせいか、プラチナブロンドのポニーテールは少し崩れ、数筋の髪が顔にかかっている。
彼女は、まだ耳の先まで真っ赤にしたまま、震える手で外れてしまった一番上のボタンだけを、ぎこちなく留め直していた。
ようやく身なりを整えると、彼女は気まずそうに僕の方を見ようともせず、ツンと横を向いた。
「……何よ。終わったわよ。文句ある?」
言い方は相変わらずキッツイけれど、その声はどこか落ち着きがない。
「まさか。……災難だったね、シルヴィア」
「……貴方のせいなんだからね。次は、絶対に風下には立たないわ」
シルヴィアは憤慨しているふうを装っているが、その足元には、彼女が必死に追い出した白詰草の種がいくつも落ちていた。
「まあまあ、シルヴィアお姉様。おかげでこの丘も、きっと春にはお花でいっぱいになりますわ」
リーゼがふわりと間に入り、シルヴィアの手を優しく握って微笑みかける。
その春の陽だまりのような温かな笑顔を向けられたシルヴィアは、毒気を抜かれたように大きなため息をついた。
「……リーゼ様がそうおっしゃるなら。ほら、リオン! ぼーっとしてないで、残りの種をさっさと撒きなさいよ!」
「……了解。善処するよ」
僕は逸らしていた視線を戻し、再び種を撒き始めた。
一粒の種が引き起こした騒動。
僕にとっては、平穏な隠居生活を脅かすハプニングでしかなかったけれど。
顔を赤くして怒るシルヴィアと、それを宥めるリーゼ。
そんな賑やかな光景も、この生活の風景の一部としては、案外悪くないのかもしれない……と、ほんの少しだけ思ったのである。
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