第1話:夜が終わらない街
スズマ街に、朝はない。
あるのは、夜が少しだけ薄まった時間だ。
湿った石畳には、昨夜の喧嘩の名残がこびりついている。
血と泥が混じった水溜まり。
崩れかけた家屋の隙間で眠る浮浪者。
どこからともなく吹き抜ける冷たい風が、腐臭と一緒に肺へ流れ込む。
この街では、目を覚ました瞬間から始まる。
――今日を、生き残れるかどうかが。
俺の名前は、レオン・アーヘル。
このスズマ街で生きてきた。
生まれた時から、だ。
母親は、俺を産んでそのまま死んだ。
そう聞かされている。
父親はいない。
逃げたのか、捨てたのか、死んだのか。
誰も知らないし、誰も気にしない。
スズマ街では、親がいないことは珍しくない。
むしろ、親がいる方が異常だ。
ここでは奪わなければ奪われる。
疑わなければ裏切られる。
弱さは罪で、優しさは贅沢品。
昔、この街にも教会があった。
優しい神父がいて、文字や数字の読み方を教えてくれた。
時には、剣の扱い方や、初歩的な魔法も。
だが去年、抗争に巻き込まれて死んだ。
俺が知る「優しさ」は、それだけだ。
財布を抜く。
イカサマ博打で小銭を稼ぐ。
時には殴り、時には殴られる。
生きるためだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――それなのに。
「……チッ」
路地裏で、聞き慣れた音がした。
殴る音。
殴られる音。
壁際に追い詰められていたのは、細いガキだった。
骨ばった肩。破れた服。
その目は、かつての俺と同じ色をしている。
「金出せよ」
「持ってねえなら、代わりに体で払え」
胸の奥が、嫌な具合に軋んだ。
別に、無視すればいい。
それが分かっているのに――
俺は、割り切れなかった。
「やめとけ」
気づいた時には、声が出ていた。
二人が振り向く。
値踏みするような目が、俺を舐める。
「なんだよ、お前」
「死にてえのか」
「そいつは、もう十分だ」
勝負は一瞬で終わった。
こんな連中に、剣なんて要らない。
俺は、この街で覚悟だけを磨いてきた。
逃げていく背中を見送り、ガキに視線を戻す。
「……行け」
ガキは何か言いたそうだったが、俺は目を合わせなかった。
礼なんて要らない。
受け取る資格も、余裕もない。
俺は善人じゃない。
ただ、昔の自分を殴る真似ができないだけだ。
それがこの街では、一番厄介な性格だということも分かっている。
日が高くなる頃、博打場で少し勝った。
今日の飯代は確保できた。
それで十分なはずだった。
だが――。
路地裏を抜けた時、瓦礫の隙間で白い光が瞬いた。
「……?」
スズマ街で光るものは、呪いか血の代償だ。
それでも、なぜか目を逸らせなかった。
瓦礫をどける。
そこにあったのは、ネックレスだった。
銀の鎖。
中央に嵌め込まれた白い石。
汚れきった街の中で、それだけが異質なほど綺麗だった。
(……教会の紋章、こんなのだったか)
いつもなら、すぐに売っていた。
だが、なぜか今日は違った。
教会の象徴だったからだ。
首にかけた瞬間、温かさが指に伝わった。
生きているみたいに。
微かに、脈を打つ感触。
嫌な予感がして、捨てようとした。
だが、体が言うことを聞かない。
まるで、最初から俺のものだったかのように、
ネックレスは首元に馴染んでいった。
その時。
『……めよ……』
頭の奥に、声が響いた。
『……目覚めよ』
俺はまだ知らない。
この声が、
俺の過去と、
この世界そのものに繋がっていることを。




