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#31 雨は大嫌いだ

 雨が降っていた。

 視界を遮るほどの豪雨と、鼻をつく鉄錆の臭い。


『撤退だ』


 ヒョウガは、冷徹な瞳で戦場を見下ろし、淡々と告げていた。

 目の前には、逃げ遅れた一般人が数名、瓦礫の下で助けを求めている。そして、彼らを狙う巨大な影──Aランク魔物、キュクロープス。


『負傷したアイツら(ハル達)は足手まといになる。あの一般人ごと囮にして、俺達だけで中央へ抜ける。それが生存率が最も高いルートだ』


 あまりにも非情で、合理的すぎる判断。

 勇士にあるまじき、けれど確実に生き残るための計算式。

 だが、その言葉にメイザーは激昂した。


『ふざけないで! 見捨てるですって!?』

『これ以上の犠牲をいたずらに増やす気か? 感情で動く奴から死ぬぞ。雑草』

『あんたの指図なんて受けない! 全員助ける! 私が前線で魔物を引きつけるわ!』

『おいお前! どこ行くんだ!』


 静止するグレンを無視し、メイザーは突出した。

 彼女のプライドが、ヒョウガの正論を悪魔の戯言として拒絶させたのだ。

 彼女は単身、キュクロープスへと突撃した。たった一人で。一般人を守るために。自分の正しさを証明するために。

 だが──相手が悪すぎた。


「グルァッ!」


 巨人の剛腕がメイザーを襲う。

 水の盾は地面に落ちた雨粒のように溶け、彼女は地面に叩きつけられた。


『しまっ……!』


 死を覚悟したメイザー。

 だが、その巨大な手が彼女を掴むことはなかった。

 代わりに、その影に入り込んだ者たちがいたからだ。


『逃げろメイザー!』


 ハルが、ナツキが、マフユが。

 動けないメイザーを庇って飛び出し──次々とその巨大な手に捕まり、口へと放り込まれていった。

 耳を覆いたくなるような咀嚼音と絶叫。

 飛び散る鮮血が、雨水に混じってメイザーの頬を濡らす。


『あ、あぁ……あぁぁぁぁぁぁッ!!』


 メイザーの絶叫が、戦場に木霊する。


 ────

 ──


 東側の防衛ラインへ向かう道中、俺の足は泥と瓦礫に足を取られそうになりながらも、止まることなく地面を蹴り続けていた。

 雨が体を打ち付ける。降ってきたな……雨は嫌いだ。原作でも、雨は決まって誰かが死ぬ時だ。

 呼吸が荒くなる。心臓が早鐘を打つ。

 隣を走るメイザーの横顔が、視界の端で揺れる。


(メイザー……)


 冷や汗が背中を伝う。

 そうだ。原作で彼らを殺したのは、魔物じゃない。

 ヒョウガの『冷酷さ』と、メイザーの『未熟なプライド』が生んだ不協和音だ。

 だが、今は違う! 俺達は信頼し合っている。メイザーも成長した。ハル達も強くなった。

 だから……変えられるはずだ!


「ヒョウガ様! あそこです!」


 メイザーの声で現実に引き戻される。

 視線の先──東側防衛ラインは、地獄の様相を呈していた。

 大地を揺るがす足音。

 高さ20メートルを超える単眼の巨人、キュクロープスが防壁を粉砕して侵入していた。

 その足元で、豆粒のような影たちが必死に抵抗している──シキ班だ。


「くそっ、キリがない!」


 ハルが炎弾を放つが、巨人の皮膚は鋼のように硬く、煤をつける程度にしかならない。

 ナツキとマフユが左右から撹乱しようとするが、巨人が腕をひと薙ぎするだけで暴風が巻き起こり、彼らは吹き飛ばされる。


「下がってください!」


 先頭に立っているのは、レイジマンだった。

 彼は鋼魔法で生成した大盾を構え、巨人の踏みつけを真正面から受け止めていた。


「ぐ、ぬぅぅぅッ……!」


 膝が地面にめり込む。

 鋼鉄の盾に、ミシミシと亀裂が入っていく。

 特訓で強くなったとはいえ、相手はAランク。本来なら上級勇士が複数人で挑む相手だ。学生レベルで耐えていること自体が奇跡に近い。


「レイジマン君!」


 シキ教官が叫び、援護の風魔法を放つ。

 真空の刃が巨人の膝を切り裂くが、浅い。

 シキ教官自身も満身創痍だった。眼鏡は割れ、服は血で染まっている。彼はずっと最前線で生徒を庇い続けていたのだ。


「グルァァァァッ!」


 キュクロープスが咆哮し、鬱陶しい盾持ちを無視して、後方の柔らかい獲物──逃げ遅れた一般人と、それを守るハル達へ標的を変えた。

 丸太のような腕が振り上げられる。


「しまっ……!」


 ハル達は魔力切れで足が動かない。

 その影が、彼らを覆い尽くす。

 原作と同じ光景。死の運命が、口を開けて待っている。


「させるかよおおぉぉーっ!!」


 俺は地面を蹴り、限界まで脚部に力を叩き込んだ。間に合え。間に合ってくれ!


「メイザー! 水を!」

「はいッ!」


 俺の意図を察したメイザーが、即座に大量の水を巨人の足元へ放つ。

 俺は空中で構え、イメージを固定する。

 熱運動の停止。絶対零度の檻!


「くらいやがれ!!」


 巨人の振り下ろされた腕とその半身が、一瞬にして分厚い氷塊に包まれた。よし、うまくいった!

 動きが止まる。氷の重みでバランスを崩した巨人は、ハル達の目前で転倒した。


「ヒョウガ君!?」

「助かった……!」


 ハルとナツキがへたり込む。

 俺は彼らの前に着地し、肩で息をする。

 間に合った……! 原作の死亡フラグをへし折ったぞ!


「下がるんだ! こいつはまだ生きてる!」


 俺は叫びながら、再び剣を構える。

 だが──その焦りが、俺の視野を狭めていた。

 俺の意識は「ハル達を守ること」に全振りされていた。

 原作キャラを死なせない。その強迫観念が、自分自身の安全確保を疎かにさせたのだ。

 パキパキっと嫌な音がした。

 見ると、巨人を封じていた氷に亀裂が入っている。

 Aランク魔物の膂力は、俺の魔法では完全には封じ込めないのか!?


「グルルルルッ……!」


 キュクロープスが、氷漬けにされた右腕を無理やり引き剥がした。

 皮膚ごと氷が剥がれ、鮮血が舞う。

 激痛に狂った一つ目が、憎悪を込めて俺を睨んだ。

 邪魔をした小蝿。殺すべき敵。


(速い……ッ!)


 巨人の左手が、裏拳のように振るわれた。

 俺はハル達を背にしている。避ければ彼らが死ぬ。

 防ぐしかない。だが、氷の盾の展開が間に合わない!

 あれ、死ぬ。その予感が脳裏をよぎった、その時だった。


「ヒョウガ君ッ!」


 ドンッ! っと、横から誰かに突き飛ばされた。

 視界が回転する。俺が弾き飛ばされた場所に、白い影が割り込んでいた──シキ教官。

 彼は俺を突き飛ばすと同時に、杖で風の障壁を展開しようとした。

 だが、巨人の暴力的な質量は、そんな即席の盾など無意味だった。

 鈍く、重い音が響いた。それは人体が発していい音ではなかった。

 シキ教官の体が、枯れ木のように宙を舞い、瓦礫の山へと叩きつけられる。


「あ……」


 俺は地面を転がりながら、その光景をスローモーションのように見ていた。

 嘘だろ? 俺は……俺は全員助けるつもりで……ハル達は助かった。メイザーも無事だ。

 でも、代わりに──?


「教官んんんんッ!」


 ハルの悲鳴が、戦場に響き渡った。

 俺は震える足で立ち上がり、吹き飛ばされたシキ教官の元へ駆け寄る。

 服は赤く染まり、腹部は無惨にひしゃげていた。

 即死でもおかしくない一撃。


「し、シキ教官! しっかりしてください!」


 俺は抱き起こそうとして、その手の震えが止まらないことに気づく。

 シキ教官が薄く目を開けた。

 口からゴボリと血が溢れる。


「……よかった……」


 彼は血に染まった唇で、微かに微笑んだ。


「君たちが……無事で……」

「喋らないでください! 今、治療を……!」

「ヒョウガ君……」


 シキ教官の冷たくなり始めた手が、俺の頬に触れた。


「……後は、頼みましたよ……」

「教官……? 教官ッ!!」


 手が、力なく滑り落ちる。

 原作では彼は生徒を守って死んだ。明確にこそ描写されなかったが、その死に顔は何度も見た光景だった。

 そして今、歴史が変わったはずの世界でも──彼は俺を、生徒を守って、その命を散らした。

 運命の修正力。そんな言葉じゃ片付けられない絶望が、俺の心を塗り潰していく。


「グルァァァァァァァッ!!」


 キュクロープスが勝利の咆哮を上げる。

 その影が、再び俺達を覆い尽くそうとしていた。

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