#21 乾いたスポンジ
気がついたら、俺は地面に突っ伏していた。
学園の教練場──他の生徒を締め出した貸切状態のフィールドは、異常な熱気と俺達が垂れ流した血と汗の匂いに包まれていた。
「……ぐ、ぁ……」
激しい耳鳴りがする。喉が焼けるように熱い。
指一本動かせないほどの全身筋肉痛。呼吸をするたびに肺が悲鳴を上げている……こんなに疲労を感じたのは生まれて初めてだぞ。
「おい、誰が休んでいいと言った?」
頭上から、地獄の番人のような声が降ってくる。クギョウ教官だ。
もう、休ませてくれという声すら出ない。目で訴えても、教官は鼻を鳴らすだけだ。
「喉が渇いたなら手首を噛み切って血を啜れ。腹が減ったら剥けた皮と血豆でも食ってろ。立て。家に帰れると思うなよ」
本当に優しくない人だ……普段もぶっきらぼうで優しいとは言えないが、ある程度の手心はある。
けど特訓中はそんなものはない。完全なる修羅と化す。
「お、鬼……」
「今何時だと……思ってるんですか……」
「あ? まだ27時だぞ」
27時ってなんだよ! 1日が24時間なの知ってます!?
この1週間、俺たちは文字通り地獄を見ていた。
睡眠時間以外は全て基礎特訓。延々と走り込み、筋トレを繰り返し、ボロボロになったところで教官との組手。一発も入れられなければ、その日のノルマは倍になる。
それが終わると、半ば気絶するようにその場で倒れ込み、数時間の仮眠をとってまた再開。
ぶっちゃけ……正気の沙汰じゃないと思う。だが──
「ヒョウガ様……お体、平気ですか?」
隣で倒れ込んでいたメイザーが、這うようにして俺の顔を覗き込んでくる。
彼女もまた、泥と埃に塗れてボロボロだ。白い肌には無数の擦り傷がある。
本来、高い魔力とセンスを持つ彼女には、こんな基礎特訓は必要ないはずだ。それでも彼女は、一切の文句を言わず、俺と同じメニューをこなし続けている。
紛れもない献身と言える……健気だな。
「俺は……平気だ。メイザーこそ……」
「私は、ヒョウガ様とご一緒できるなら……地獄でも天国です」
その向こうでは、グレンとフランも死体のように転がっている。
確かに死ぬほどキツイ。ブラック企業なんて目じゃないレベルの労働環境だ……だけど、それ以上に──嬉しいんだ。
原作の主人公であるグレンや、ヒロイン達と一緒に泥まみれになって、同じ釜の飯を食って、成長している。ファンとしてこれ以上の体験はない。この時間が、間違いなく俺の心を支えていた。
そんな生活がまた2週間ほど続いたある日。限界は唐突に訪れ、そして壁を壊す。
「あーもうッ! やってらんねえ!」
基礎の特訓中、突然グレンが叫んだ。
「基礎ばっかりで全然魔法の特訓してねえじゃねえか! こんなんで強くなれるわけねーだろ!」
苛立ちに任せて、グレンが地面を思い切り殴りつけた。
その瞬間──ドォン!! という爆発音が響き、グレンの拳を中心に地面がクレーターのようにひび割れた。そして、その拳には紅蓮の炎が渦を巻いて纏わりついていた。
グレンが……魔法を! ていうかなんだこの威力!?
「うわっ、出た!? アルドール以来、全然出なかったのに!」
驚くグレンに、クギョウ教官がニヤリと笑う。
「ようやく体が飢えてきたようだな」
「飢えてる?」
「魔法とは、空気中に漂う魔竜の力を捉え、世界と調和することだ」
教官は木の枝を拾い、地面に図を描き始めた。
「何度も心身ともに負荷を与え、限界まで追い込むことで、お前らの枯渇した肉体は生存本能に従い、空気中の魔力を酸素のように貪欲に取り込もうとする状態になった」
教官は俺たちを指差す。
「お前らの体は今は乾いたスポンジだ。魔力の通り道が、生存本能によって強制的にこじ開けられたんだよ」
なるほど……スパルタには意味があったのか。
肉体を極限まで追い詰めることで、魔力回路を無理やり拡張させる荒療治。
クギョウ教官らしいな……この感じ。
「いいか、魔法の発動には3つの工程がある」
1.『集魔』大気中の魔力を自身の魔力回路に取り込む。
2.『構築』取り込んだ魔力に属性と形態の定義を与える。
3.『放出』定義された魔力を現実に具現化する。
「グレン、お前は感覚で1と2をすっ飛ばして3をやった。天才特有の回路だ。だがヒョウガ、お前は違う」
教官の視線が俺を射抜く。
「お前は理屈で納得しなきゃ動けないタイプだ。頭でっかちの理論派。だからお前は『2』を極めろ。誰よりも緻密にな」
図星だ……俺にはグレンのような野生の勘はない。なら、俺の武器はなんだ?
原作知識? いや、それだけじゃない。前世で培った知識だ。
「……やってみます」
特訓再開。俺は目を閉じ、意識を集中させる。
今までは「氷よ出ろ!」「凍れ!」と念じるだけだった。
だが違う。もっとミクロな視点を持て。
氷魔法の本質は『氷を生成すること』ではない。『熱運動を奪うこと』だ。
(イメージしろ……)
小難しい物理式はいらない。俺に必要なのは、明確なイメージだ。
空気中を飛び回る、目に見えない小さな粒。そいつらが元気に暴れ回っているのが熱だ。
そいつらを黙らせる──動くな。止まれ。整列しろ。暴れる粒を、魔力という名の鎖で縛り付けるイメージ。
騒がしい教室を一瞬で静まり返らせるように。
暴れる川の流れを、一瞬でせき止めるように。
絶対的な停止命令を書き込む……漠然としたイメージだが、とにかく想像するしかない。
「すぅ……はぁ……」
呼吸が深くなる。周囲の音が消える。
指先に、世界中の冷気が集約していく感覚。
汗が引いていく。指先の温度が消失し、そこだけ時間が止まったような静寂が生まれる。
イメージしろ──マインの放った炎すら凍てつかせる、絶対零度の切っ先を。不純物の一切ない完全な『停止』を!
パキ──ッ
微かな……しかし硬質な音が響いた。
俺が恐る恐る目を開けると──人差し指の先に、親指ほどの大きさの『氷の結晶』が浮かんでいた。
それは以前のような、白く濁った脆い氷塊ではない。
透明で美しく、カミソリのように鋭利な──完全な六角形だった。
「で、できた……!」
「綺麗ですよ。ヒョウガ様♡」
隣で見ていたメイザーが感嘆の声を漏らす。
クギョウ教官が近づき、その小さな結晶をじっと見つめる。
そして、無造作にデコピンで弾いた。ベキッと鋭い音がして結晶は砕け散った。
だが──クギョウ教官の人差し指には、薄らと霜が降り、わずかに赤い線が走っていた。
「……『構築』の密度は合格だ」
クギョウ教官は血の滲む指を見て、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「だが、出力がゴミだな。豆粒作って満足か?」
「うっ……」
「理論は掴んだようだな。あとはその針を、山を穿つ槍に変えるだけだ」
教官の体から、ビリビリと肌を刺すような魔力が溢れ出す。
「さあ、休憩終わりだ。これから本格的な魔法の特訓に入る。今までのは準備運動だぞ……死ぬ気でついてこい」
「──はいッ!!」
俺は力強く答えた。
小さい一歩だが、確かな一歩だ。
マインにはまだ届かない。教官の足元にも及ばない。
だけど、進むべき道は見えたぞ。
俺はこの感覚を忘れないよう、再び地獄の特訓へと身を投じる。




