#18 ようやく明けた長い夜
「待たせたな、ヒヨガキ共」
砂煙の向こうに立つ鬼の形相。
その背中を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
「クギョウ教官……!」
ああ、助かった。本物が来た。
安堵のあまり、俺の膝から力が抜ける。
同時に、隣で限界を超えて立ち続けていたグレンが、糸が切れたように前のめりに倒れ込んだ。
「っと……!」
俺は咄嗟に手を伸ばし、グレンの体を受け止める。
重たい……だが、その重さは彼女が命を削って戦った証だ。
ボロボロの体に張り付いた血と汗。意識を失ってなお、その拳は固く握りしめられていた。お前は本当すげーよグレン。
「ヒョウガ君! グレン君!」
背後からシキ教官が駆け寄ってくる。
彼もまた衣服が乱れていたが、生徒の安否を確認するとホッと息を吐いた。
「よかった……君達が無事で本当によかった……」
「シキ教官……すみません、勝手な真似をして」
「いいえ。時間を稼いでくれたおかげで、最悪の事態は免れました」
シキ教官が俺の肩に手を置く。
だが、感傷に浸っている時間はなかった。
ガラガラと音を立てて、瓦礫が崩れる。
クギョウ教官の一撃で壁にめり込んでいたマインが、ゆらりと這い出してきたのだ。
「……痛いですねえ。いきなり殴るとは、教育者としていかがなものかと」
マインは口元の血を拭い、不敵に笑う。
全身血まみれだ……普通なら即死していてもおかしくないダメージのはず。
だがその狂気と闘気は、衰えるどころか一層強く燃え盛っているように見えた。
「ああ、今は教育者として立ってないからな──」
クギョウ教官が瞬時に距離を詰める。
速すぎる……俺の動体視力じゃ残像すら追えない。
バキ、メキ、ゴキッ! 生々しく重い打撃音が連続して響く。クギョウ教官の拳が、蹴りが、マインの肉体を無慈悲に破壊していく。
再び壁に叩きつけられ、マインが血反吐をぶちまける。敵ながら痛々しい様だ。あんなの食らったらひとたまりもないだろう。
「クギョウ教官、それ以上は。マイン! お前を拘束する!」
シキ教官が叫び、マインへ向かう。
教え子を、そして一般市民を危険に晒した元同僚への怒りを露わにしながら。
「シキ、離れろ!」
クギョウ教官の警告は一瞬遅かった。
うなだれていたはずのマインが、面倒くさそうに顔を上げる。
「雑魚に用はありませんよ」
マインの手が蛇のように伸びる。
一瞬でシキ教官の首を片手で鷲掴みにし、そのまま軽々と持ち上げる。
「が、ぁ……ッ!?」
「身の程を知りなさいシキ教官。この学園で警戒すべき人間はたったの2人……あなたとは戦うまでもないんですよ──」
マインはシキ教官を地面に叩きつけた。
一度ではない。二度、三度も。まるでゴミ袋でも扱うかのように無造作に……残酷に。
「やめろぉッ!」
目を覆いたくなるような光景に、原作で見たシキ教官の死亡シーンが重なった。俺は思わず叫ぶ。
「マインンンーッ!!」
クギョウ教官の拳が、雷を纏ってマインの脇腹に突き刺さる。
高密度の雷魔法……! クギョウ教官の魔法だ! その衝撃は物理的な破壊力だけでなく、神経を焼き切るほどの電圧を伴う。
マインはシキ教官を放り出し、全力で防御態勢を取る。黒い炎を纏い、クギョウ教官の攻撃を相殺しようとする。だが──意味がなかった。
「ぬ、ぐぅぅぅッ!?」
防御の上から、マインの骨が砕ける音がした。
黒い炎は紫電にあっさりと霧散させられ、マインの体はサンドバッグのように弾け飛ぶ。
(……すげえ)
俺はグレンを支えたまま、絶句していた。
マインは弱っていない。むしろ殺気は増しているし、さっき俺たちを圧倒した実力は本物だ。
なのに、クギョウ教官には一切届いていない。
技量が、膂力が、魔力密度が……次元が違う。
これがあのクギョウ=トウザか!
「がはっ……!」
マインが膝をつく。
クギョウ教官はその手首を掴み、宙ぶらりんに吊り上げた。万力のような握力に逃げ場はないだろう。
「終わりだマイン。貴様はここで終わる」
「クク……」
吊るされたマインの口から、笑い声が漏れる。
「ククク……ハハハハハ!」
「何がおかしい?」
「これが笑わずにいられるか! お前ほどの男が、こんな辺境で先生ごっこかァ!?」
マインの様子が変わった。血濡れた顔を歪め、その充血した瞳が狂気的に見開かれる。
「かつての栄光も消え去ったか! 巨星が落ちたものだな! なあ、五紫星──『雷神』クギョウ=トウザァァッ!!」
マインがその名を呼ぶ──五紫星と。5人しかいない世界最強の勇士の名称だ。
叫びと共に、マインの全身から爆発的な魔力が膨れ上がる。クギョウ教官が舌打ちし、トドメを刺そうとした瞬間──ザシュッ。肉を断つ湿った音が響いた。
マインの体が後方へと飛ぶ。
クギョウ教官の手の中に残されていたのは──肘から先を切断されたマインの左腕だった。
「なっ……自分の腕を!?」
自ら腕を切り落とし、拘束から逃れたのだ。
傷口から鮮血を噴き出しながら、マインは距離を取る。うわ、間近で見ると正直キモい。
クギョウ教官が追撃しようと踏み込むが、その進路を巨大な影が塞いだ。
「グルオォォォォォッー!!」
一つ目の巨人──キュクロープスだ。
どこに隠れていたのか、突如として現れた巨体が、クギョウ教官に殴りかかる。
「チッ、邪魔だ!」
クギョウ教官の一撃でキュクロープスの腕が弾け飛ぶが、その一瞬の隙が命取りだった。
マインの姿が、闇に溶けるように薄くなっていく。
「今日は引きましょう。雷神がいるなら流石に分が悪い」
マインは失った腕を押さえもせず、涼しい顔で笑う。
「ですが収穫はありました。素晴らしい『原石』も見つかった。有意義な時間でしたよ」
「逃がすかよ!」
「フフ……雛鳥が巣立つ試練の日。また会いましょう──」
マインの姿が完全に霧散する。
転移魔法。もう気配はどこにもなかった。
「クソッ、また逃がしたか!」
クギョウ教官が悔しげに地面を殴りつける。
ドォンと石畳が陥没し、俺はその衝撃にただ立ち尽くすしかなかった。
「……いてて」
腕の中で、グレンが目を覚ました。
「グレン! 気がついたか」
「おう……あれ、マインは?」
「逃げられたよ。クギョウ教官が追っ払ってくれた」
俺は悔しさを滲ませながら答える。
あと一歩だった。いや、その一歩が果てしなく遠かった。分かってはいたが、俺達だけじゃ何もできなかったな。
「そっか……」
グレンは体を起こし、痛む脇腹を押さえながら、ニカっと笑った。
「でも、生きてるな」
「え? あ、ああ……」
「お前がいなきゃヤバかった……助かったぜ、相棒」
グレンが、とんっと俺の胸を拳で叩く。
相棒。その一言が、敗北感で押しつぶされそうだった俺の心を、どれほど救ってくれただろうか。
「……ああ。俺の方こそ」
涙を堪えながら、俺もまたグレンの胸を軽く叩き返した。
夜が明けた。アルドールの町には、昨晩の狂乱が嘘のように、再びリズミカルな鍛冶の音が響き渡っていた。
朝の光の中、人々は何事もなかったかのように活動を始めている。
全員が魅了されて踊り狂っていたはずだが、誰一人としてその異常事態を覚えていなかった。
「飲みすぎたかな」「体が痛い」と、軽度の筋肉痛や二日酔いを訴える者はいたが、記憶は綺麗さっぱり抜け落ちているらしい。マインの魔法が解けた副作用か、あるいはそういう術式だったのか。
いずれにせよ、町がパニックにならなかったのは不幸中の幸いだった。
だが、俺たちの任務は失敗だ。
マインを取り逃がし、生徒たちの負傷者は多数。これ以上の追跡は不可能と判断され、俺たちは学園へ退却することになった。
学園に戻ると、すぐに治療の日々が始まった。
ソニア教官の治療(これもまた激痛を伴う)を受け、俺とグレンは一週間の絶対安静を言い渡された。
その間、シキ班のハル、ナツキ、マフユ、そしてレイジマンが何度もお見舞いに来てくれた。
彼らも無傷ではなかったのに「ありがとう」「助かったよ」と言ってくれた。だが、俺の心は晴れなかった。なぜなら──最も重篤な状態にある者が、まだ目を覚まさないからだ。
メイザー……一週間が経っても、彼女の意識は戻っていなかった。無理やり行使した闇魔法が体内を侵食し、臓器や魔力回路をズタズタにしているらしい。
ソニア教官がつきっきりで治療にあたっているが、予断を許さない状況だ。
『……教官として、私は正しい行動をしたのかしらね』
見舞いに行った時、ソニア教官が自嘲気味に呟いていたのを覚えている。
彼女の決断がなければ、俺たちは全滅していただろう。だがその代償として、一人の少女の未来が閉ざされようとしている。
俺は眠るメイザーを見つめ、ただ祈ることしかできなかった。
「ギョーザ先生が来いってよ」
「ああ、今行くよ」
そんなある日。
ようやく動けるようになった俺、グレン、フランの3人は、クギョウ教官に呼び出された。
場所は教官室。いつもなら煙管の香りが漂う部屋だが、今日はどこかピリついた空気が流れている。
クギョウ教官は窓の外を眺めていたが、俺たちが入るとゆっくりと振り返った。
「体調はどうだ」
「もうなんともねーよ。体がウズウズするぜ!」
グレンが腕を回して見せる。
教官は短く「そうか」とだけ言うと、本題に入った。
「卒業試験の変更が決まった」
「変更、ですか?」
「ああ。本来なら、担当教官が『合格』と言えば即卒業だったが……今回のマインの件があった。協会本部が『より厳密な選別が必要』と判断し、全生徒合同で行う大規模試験に変更された。年に一回の定例行事にするそうだ」
俺はハッとした。合同の卒業試験。それは原作における『卒業試験編』そのものだ。
本来のシナリオでは、曖昧な理由だった気がするが。だが、この世界ではマインの離反というイレギュラーがあり、その結果として合同試験に変更されたという経緯を辿っている。
理由は違えど、結果(運命)は同じ場所へと収束していく。歴史の修正力ってやつか? それが働いているのだと俺は軽く戦慄を覚える。
「俺は反対したんだ」
クギョウ教官が、苦々しい顔で机を叩く。
「生徒を一箇所に集めるなんて、マインの野郎に『どうぞここでパーティを開いてください』って招待状を送るようなもんだ。奴は必ず来る」
「そんな……じゃあ、なんでやるんですか!」
フランが声を上げる。
「協会本部は聞く耳を持たなかった。『あなたがいるなら安全だろう』とよ……フン。責任を現場に押し付けて、自分達は高みの見物ってわけだ」
クギョウ教官の目には、協会への不信感と怒りが渦巻いていた。まあ、確かに色々ぶん投げすぎだとは俺も思う。
「ふーん……なんで協会はそんなにギョーザ先生に頼るんだろうな?」
「それだけ信頼されてるじゃない?」
「……詳細は後日話す。今日は解散だ」
教官が手を振り、話を打ち切る。
俺達が礼をして退室しようとしたその時だった。
「ヒョウガ。お前は残れ」
呼び止められた。
グレンとフランが不思議そうな顔をしたが、俺は「先に行っててくれ」と2人を送り出した。
扉が閉まり、部屋には俺と教官の2人きりになる。
重い沈黙……教官はゆっくりと煙管をふかした。
そして鋭い眼光で俺を睨むと、静かに口を開いた。
「……さて。お前に少し話がある」




